Category: 素朴な疑問 不思議なジョーシキ

誤学習できる=正学習できる

中核症状とBPSD

誤学習できるということは
正の学習もできるということを意味します。

学習はできる
その方向がプラスの方向か、マイナスの方向かの違いで
その違いは、食形態・食具・介助方法含めた食環境の適否にあります。

食事介助を拒否する方
食事中の大声が止まらない方
口を開けてくれない方
ためこんで飲み込んでくれない方
たくさんの方が食べられるようになりました。

私は食べ方の観察ができるようになりました。
食べ方に反映されている困難も能力も特性も洞察することができるようになりました。
だから、重度の認知症のある方でも正の再学習を援助することが叶います。

逆に言えば
「〇〇という状態の人にどうしたらよいでしょうか?」
というカタチの質問には答えられません。
〇〇という状態を直接見てみないとわかりません。
食事介助を拒否するといっても、拒否する必然は人によってまったく違うからです。

食事中の大声が止まらないといっても、大声が出てしまう必然はまったく違うからです。
Aさんは、オーラルジスキネジアがあることを介助者側がまったく気がついておらず
適切な介助ができていなかったからであり
Bさんは、ポジショニングの不適合によって顎がズレてしまっていたからでした。

かきこみ食べをするからと、小さなスプーンを提供されても結局、かきこみ食べをしています。
Cさんは、上肢操作能力を十分に発揮できずにいてその代償としてかきこみ食べをしていたし
(手の問題)
Dさんは、とりこみ方を誤学習していたために代償としてかきこみ食べをしていました。
(口の問題)

口を開けてくれないと言われていた方の中には
Eさんは、原始反射様の動きが出ていることを介助者側が気づかず、口の中に食塊を入れられ続けてきたので口を開けるタイミングを図ることができなくなっていたし
Fさんは、パウチ状の栄養補助食品を押されることで水分と栄養を摂取していたので開口すると舌がパウチの口の形状に合わせてUの字型になってしまっていましたし
Gさんは、口輪筋が硬くなっていたので自身では食べる意思はあっても、おちょぼ口のようになってしまい開口できませんでした。

ためこんで飲み込んでくれないと言われた方は
Hさんは、口腔期が長い方で食塊が口の中に残っているから口を開けないだけでしたし
Iさんは、誤介助誤学習のために舌が板のように硬くなり送り込みができなくなっていましたし
Jさんは、オーラルジスキネジアのために送り込みに時間がかかっていました。

Aさん〜Jさん皆さん20分程度で完食できるようになりました。
皆さん状態像はまったく違いますし
私の対応も人それぞれ、変化に応じた対応をしていきました。

「大声 → 声を出さなくなる対応」
「かきこみ食べ → 小さなスプーン」
「口を開けてくれない → 開けてもらえる声かけ」
「溜め込んで口を開けてくれない → 口を開けてもらうスプーン操作」
などの「〇〇という時には△△すれば良い」というようなハウツーは、あるわけがないのです。

かつて、養老孟司が人に対して「あぁすればこうなる」なんてものはない
と喝破しましたが、なぜか、認知症のある方に対してみんなが求めているのが「ああすればこうなる」です。
そして、あまたある本や研修で伝えられているのも「〇〇という時には△△する」です。
だから、結果が出せないし
仮に、結果が出せたように見えても、いつの間にか別の問題が出てくるのです。
そのようなケースを繰り返し繰り返し見聞きしているはずなのに、
自身の思考回路や対応に疑問を持てずにいるのです。

HDS-Rが0/30点だったり
検査すらできなかったり
その場の会話が成り立たなかったり
介護拒否や介護抵抗の強い方や
大声や暴言暴力のある方などの重度の認知症のある方でも能力を発揮しながら暮らしています。

ただ、その能力発揮が不合理なだけなので合理的に発揮できるように援助すれば良いだけです。
だから、食べることの困難を協働して克服し、もう一度食べられるようになるのです。

認知症のある方や生活期にある方の場合に
食べる困難の多くは、実際には不適切な食事介助に適応した結果つまり誤介助誤学習が原因です。
誤学習ができるということは、正の学習もできるのです。
たくさんの方がもう一度食べられるようになる過程を協働してきましたが
そのたびに思うことは、
どんなに重度の認知症のある方でも能力を発揮しながら暮らしているということです。

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発展可能性がある「どのように」食事介助

栄養補助食品は近年めざましく開発されてきています。
誤嚥性肺炎からのリカバリーや、食べ方の再学習をするにあたって
最初から、ミキサー食や刻み食で練習することが適切なケースもありますが
いったん、食形態を落としてゼリー食から練習した方が適切なケースもあります。

私がよく使う栄養補助食品は
当院の栄養科で導入されている商品の中では下記の3点です。

1)「アイソカル100」ネスレ日本株式会社 さんから発売されています。
栄養と水分の両方を摂取することが可能です。
詳細は 前の記事 をご覧ください。

生活期にある方は認知症があってもなくても
咽頭期ではなく口腔期に困難があることが多いので
実は、こちらの商品は生活期にある方の食べることの困難
とりわけ表面化していないだけで現場あるあるの「誤介助誤学習」を改善するために
最適の栄養補助食品だと思っています。

ストローでご自身で吸っていただいたり
こちらが適量をプッシュすることから始めます。
必要であれば、リフラノンという専用の凝固剤でムース状にすることもできますし
温度やリフラノンを入れてから放置する時間を調整することで硬さの調整もできるので
これ一つでかなり幅広い状態の方に適応可能な商品です。

2)「ブイ・クレスCP10」ニュートリー株式会社さんから発売されています。

開封すると、こんな風に離水していることが多いので取り扱いには注意しています。

スライス法を使いやすい形状をしていますが
離水した水気を切ってからスプーンで細かくクラッシュして提供することもよくあります。

取り込みの練習をする時に
こんな風にスプーンの先にちょこっと盛ってから提供することもありますが

アイソカルゼリーに比べて、ツルンとしているので対象者の状態像によっては危ないこともあります。

商品の詳細は、 https://www.nutri.co.jp/products/vcresc_j/ からご確認いただけます。
CP10は、水分は含まれていませんが
小さなこれ1個で、エネルギー110kcal・たんぱく12gと高栄養を摂取することができます。
スライス法を使うこともあれば
むしろ、スライス法では危険なこともあるので前述したように
水分を切ってからクラッシュすることで粘性を少し上げて提供することもあります。

3)「アイソカルゼリー」

写真は、新しく発売された「たんぱくプラス」という商品ですが
もともと、あずき味・スイートポテト味・とうふ味などのベースとなる商品がありました。
詳細は、「 アイソカルブランドサイト 」をご参照ください。
また、実際の介助方法の展開の概略を
「アイソカルゼリーたんぱくプラスが発売されました」の記事にて記載しましたので
こちらもご参照ください。
 
このように
近年の栄養補助食品「何を」の部分では目覚ましい開発がなされていて
他にもたくさんの栄養補助食品が発売されるようになりました。
(同じことは 靴 についても言えます。
 昔はリハシューズというと、茶色の商品1点だけでしたが
 近年は介護シューズという名前で優れた商品が多数開発・販売されるようになりました)

食事介助とは
「何を」「どのように」 食べていただくか
ということでもあります。
「何を」の部分がこれだけ発展してきたのに
残念なことに「どのように」という部分ではまだまだ旧態依然とした介助にとどまっているのが現状です。
曰く、ムセの有無しか確認しない介助、ムセを食べ方の判断基準にしている、食べ方の観察をしていない、介助者の気になるところを表面的に修正しようとして本質を見誤った判断をしている。。。などなど書き出せばキリがありません。。。

すべて、介助者側の問題です。
だからこそ私たちが変われば、認知症があってもなくても生活期にある方の食べ方は改善されます。
誤嚥性肺炎に罹患する人ももっと少なくなり
介助がラクになり
介助に要する時間も短縮されます。

「ちゃんとした介助をしたいけれど時間がないからできない」
「認知症なんだから誤嚥性肺炎は仕方ない」
過去幾多も面と向かって言われてきた言葉です。。。
事実はむしろ逆で
ちゃんとした介助ができないから時間がかかるし、誤嚥性肺炎になってしまうのです。
表面化していないだけで(表面化していないというとことにも本質的な問題があると考えています)
全国あちこちの施設で現実に起こっていることです。
たぶん、言葉にしないだけで思いを飲み込んでいるご家族も少なくないだろうと思っています。
(事実、複数の場でそのような声を聞いたことがあります)

「食べる」ということはADLの最後の砦
認知症のある方や生活期にある方が唯一自身でできる行為であり
生命に直結している行為であり
ご家族との絆を紡ぐ機会でもあります。

「ためこんで飲み込んでくれない」
「口を開けてくれない」
とは、講演後の質疑応答でよく聞く質問ですが
多くの場合に改善可能です。
高齢者は口腔内にちょっとしたウイークポイントを抱えています。
ですが、それを拡大再生産してしまっているのは私たちの側です。
ちょっとしたウイークポイントはウイークポイントのままで食べる能力を発揮し続けていただけるか
ちょっとしたウイークポイントを重大な食べ方の問題にして食べる能力を発揮困難にしてしまうか
私たちが選択できます。

 

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かきこみ食べ→小さいスプーン?根底にある問題

かきこみ食べをする方ってよくいると思いますが
対応としてどうするかというと
たいていの場合に
かきこみ食べをしないようにと、箸や小さいスプーンが提供されるかと思います。
でも、それでかきこみ食べが解消されたかというと
小さいスプーンでもかきこみ食べをしてるんですよね。。。
当初の問題設定に対して実効的な対策となっていないのに
そこはスルーされるという。。。
そして、かきこみ食べも解消されないし
当初、なかった別の問題、例えば、吸い込み食べや誤嚥といった問題が
新たに出現してしまいます。
実際に、「かきこまずにすくって食べるトレー」で紹介した方は
かきこみ食べ→小さいスプーン→もっとかきこみ食べ→誤嚥性肺炎に至っていました。。。
現場あるあるです。。。

こういった、パターン化した対応ができるということは
〇〇という時には△△する、というパターン化した思考回路がベースにあるわけで
パターン化した方法論を単に当てはめているだけで
目の前にいる方の状態像を的確に把握できているわけではないのです。
根本的な問題はここにあります。

逆に言えば
先の記事で紹介したトレーだって万人に通用する方法論ではありません。
当然のことですが。
ただし、紹介した事例にはドンピシャ!的を射た対応だった、
つまり、事例の状態像を的確に把握できていたことの証左だったわけです。

蛇足ですけど
別のかきこみ食べをしていた方には
全介助で食塊のとりこみの練習をしたこともあります。
かきこみ食べをせざるを得ない必然が
上肢の操作能力にあるのか、口腔機能にあるのか、私はきちんと判断しています。
私は必ず、最初にその方の食べ方の総体を観察していますが
多くの人は、かきこみ食べをしているという判断が先にあって
その方の食べ方の総体を観察しないという現実があります。

多くの人は
自身の気になるところしか、見ていません。
観察が不十分なんです。
やることばかり考えるけれど、やる前に観なければ。
でも、観るに足る知識がないから観ることができない。
だから、やることで補償(防衛機制)してるんです。
これは、食事介助に限らず、
認知症のある方への声掛けやリハやポジショニング、Activityの提供などなど
対応全般に言えることです。

 
だからこそ、私たちが変われば対象者の方も変わるんです。

ここに、未来への希望があります。
私が情報発信する意義もここにあります。

つまり、養成の問題なんです。
 
私の話は具体的です。
聞いた人が汎化できるように思考過程を明確化しています。
自己努力を惜しまない人に必要な情報提供ができるレアな話です。
講演あるあるの
単なるハウツーではありませんし、
理想論・抽象論だけを語る(騙る)こともありません。
理想を具現化してきた事実をお伝えしています。

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認知症のある方へのActivity 現場あるあるの誤解その2

 

Activityって何のために認知症のある方に提供するのでしょう?

提供者側の考えによって
ずいぶん実態が異なるように感じています。

問題は
提供されたActivityについて
認知症のある方が
どのように感じ
どのように為していたのかを
どれだけ観察しているか
どれだけ確認しているか
どれだけ本音を語ってくれる関係性を構築しているのか
ということだと考えています。

知識があって
状態把握ができれば
適切なActivityを選択・提供できるだけでなく
提供した後の様子や発言から
何が起こっているのか
どうしたら良いのかもわかって適切に修正することができます。

選択・提供に悩む人は多いけど
事後確認・修正も大切だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

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認知症のある方へのActivity 現場あるあるの誤解その1

「認知症だから何かさせないと進行してしまう」
「徘徊しないように何かできることない?」
「やりたいことを尋ねたら何もないって言われた」
「やりたいことを提供したのにできなくなっていた」
「できないところは一緒にやるから大丈夫」

これらの言葉を
聞いたことのないOTも
言ってしまったことのないOTも
少ないのではないでしょうか?

私は未熟な時に、最後の言葉を言ってしまったことがあります。。。

認知症のある方で構成障害があると
隣で善意のOTが「ここをこうしてこうやって」と見本を見せても
再現できないケースが多々あります。
構成障害のある方に対して
「ここをこうしてこうやって」と見比べさせるのは
できないことを要請しているという非情な在り方です。
見本を見せてもできない認知症のある方に
動作介助をして何か作品が完成したとしても
認知症のある方に本当に達成感を感じていただけたことになるのでしょうか?
OTの脳みそが認知症のある方の手を動かしているに過ぎないのではないでしょうか?

大切なことは
構成障害を含めた障害像を把握し
代償という不合理な発揮も含めた能力を洞察し
「ここをこうしてこうやって」と言わなくても
認知症のある方が遂行できるActivityを選択・提供・環境調整できることであり
そして、目の前にいる認知症のある方自身にとっての意義を
傍にいるOTが感受し理解できることだと考えています。

認知症のある方へのActivity提供に関して
現場あるあるの誤解・課題について記載していきます。

 

 

 

 

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短期的なプラスを追うと長期的なマイナスを負う

認知症のある方への対応全般
生活障害やBPSDでも食事介助でも身体面のリハでもActivityでも
何についても言えることですが
短期的なメリットを追い求めて長期的なデメリットを作っている
つまり、自分で自分の首を絞めている
というのは現場あるあるです。

本当に適切な方策というのは
短期的にも長期的にも認知症のある方のメリットになるものです。

 

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対人援助職の業(ごう)

認知症のある方の生活障害やBPSDに対して
多くの人が誤解していると思います。
   
生活障害やBPSDというのは、実は、表面的な表れです。
何の表れかというと、
症状や障害・能力・特性・環境(介助者の言動を含めて)が錯綜して現れているのです。
ですが、多くの場合に、錯綜している現実を観察せずに
見た目の表れにすぎない、生活障害やBPSDだけを切り取って見て
「帰宅要求・徘徊・暴言・暴力」などとレッテルを貼って
「どうしたら(それらが)無くなるのか」と悩んでいるのです。

残念なことに
このような思考過程は現場あるあるです。

帰宅要求のある方に対しては
「タオルを畳ませる」「飲食を提供する」「気持ちをそらせる」
などの対応が効果的とされています。
必死になって帰宅要求している認知症のある方に向き合うことなく
その場をしのぐ対応をすることで
帰宅要求がなくなったという経験が蓄積
されてきたからだと考えています。

認知症のある方の生活障害やBPSDというカタチには
症状や障害・能力・特性・環境(介助者の言動も含めて)が錯綜して反映されています。
生活障害やBPSDは単に能力が低下したから起こっているわけではありません。

ところが
まず、最初の生活障害やBPSDが起こっている場面そのものを観察しようとする人は
とても少ないのが現実です。

観察しようとしても
「認知症のある方の困りごとを援助しよう」という意図ではなく
「表面的に職員にとっての困りごとをなくそう」という意図を持って
観察してしまう人はとても多いものです。
意図のベクトルが真逆です。
 
私たちは意図に基づいた観察をしているので、
職員中心の意図であれば得られる洞察結果は職員中心のものにしかなりません。

援助(認知症のある方中心)と強制・支配(職員中心)は
コインの裏表のようなもので、
援助であれば強制・支配にはなり得ず
強制・支配であれば援助にはなり得ない。
そして、裏表は容易に入れ替わってしまいがち
なものです。

よく言われる言葉のひとつに
「時間があればそうしたいけど時間がないから仕方ないのよ」
という言葉があります。
確かに私たちの手は2本しかありません。
今はどの施設のどの職種の人もみんな忙しい。
時間に余裕をもって働けている人の方が圧倒的に少ないのではないでしょうか。
確かに忙しくて気持ちがあっても実際にはできないことも多々あるでしょう。
ですが、本当に時間さえあれば適切にできるのでしょうか?
私が過去幾多の人たちと働いてきましたが
時間を言い訳にする人で時間があった時に適切に関与しようとしている人に
あったことがありません。
忙しくてもちゃんとしようとする人はするし、しない人はしないのです。
忙しい以外にもっと根本的なところでできない理由があるのです。
そして、多くの人は実は無意識には自分ができないことをわかっている。
わかっているからこそ、多忙を言い訳に、防衛機制として否認し合理化しています。

仮に
援助の視点を明確にしながら観察しようとしても
知識がなければ(概念の本質を理解していなければ)
的確に洞察することは難しいものです。
的確に洞察できなければ的確な判断ができようはずもありません。
的確な判断ができたとしても
その判断をカタチにして見せられる技術が伴わなければ机上の空論となってしまいます。

援助の視点をぶらさないようにすればするほど
いくつもの段階で自分自身のできなさに直面させられることになるのです。
これは本当に辛いことです。
その辛さを経てようやく行動変容を促すことができる段階に達することができます。
本当に認知症のある方の行動変容を促すことができる人は
そこに至る過程での辛さを嫌というほど体験しています。

耳障りの良いスローガンを唱えるだけでは
行動変容を促すことなどできようはずがないことを身に染みてわかっています。

抽象論や総論を語りたがったり
スローガンを連呼する人を私が信用できない理由がそこにあります。

そして、その段階に達してもなお、いえ、その段階に達したからこそ
常に援助と強制・支配がどんなに入れ替わりやすいのか
日々の場面場面で自戒し自制することの厳しさを思い知らされるものです。

一部では
認知症のある方への対応はかなり蓄積されてきたと言われているようですが
私はとんでもないことだと強く感じています。
もう一度、援助の視点・原点に立ち返って組み立て直さないと
本当に真摯な人が辛くなるだけで現状は一向に改善されず
理念と実践の乖離や言行不一致なことに疑問を抱けない人の声だけが大きくなり
結果として、認知症のある方とご家族の余分な困難がいつまで経っても改善されないようなことになりはしないかと心配しています。

そして
私だって、まだまだではありますが
今、本当に必要とされている理念と実践を結びつける思考過程を
ある程度は言語化することができるようになったので、
このサイトや講演や執筆活動を通して公開・伝達しています。

私には地位も名声もありませんが
本質を追求しようとする姿勢は持っています。
この広い世界のどこかに必ずいるはずの受け止めてくれる人に向かって声をあげています。
どうぞこの声が届きますように。
そして届けるに値する実践を私が為し続け言葉を紡ぎ続けることができますように。

 

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潜在する課題「口を開けてくれない」

タイトルを見て気がつきましたか?

「口腔ケアの時に口を開けてくれない」
「食事介助の時に口を開けてくれない」
といって質問されることは多々あります。

私は常々
問いの中に答えがある
答えが出ない時には問いを問い直す
ことが大切だと考えています。

「開けてくれない」という相談事の根底には
無自覚ではあっても、前提として
「開けてくれて当然なのに」
という相談者の気持ちが反映されています。
相談するくらいですから
真摯に業務に向き合っていることは伝わります。
相談者の善意を疑うものではありませんが
相談者の心のどこかに主客転倒が生じているから
「くれない」という言葉が発せられるのです。
言葉には発する人の意思が反映されてしまうものです。

「開けてくれない」という言葉は
前提として相手が自分の介助に「合わせる」ことを要請しているから
出てきてしまう言葉です。
本来であれば
自分の方が対人援助のプロとして
相手に合わせられるはずなのに。

  ヨーロッパの諺に
  「地獄には善意が満ちているが、天国には善行が満ちている」
  という言葉があるそうです。
 
自分の方が相手に合わせようと思えば
「口を開けようとしない」のか
「口を開けられないのか」を観察・洞察しようとします。
そして
「開けようとしない」のであれば、
開けようとしない相手にとっての必然がありますから
その必然を観察・洞察します。
「開けられない」のであれば、
開けられない必然を観察・洞察します。
どうしたら良いのかは、その次の話です。

口を開けてくれない
口を開こうとしない
口を開けることができない

文章で書かれたものを読めば違いがあることがわかると思います。
でも、現場では多くの場合に、これらを一緒くたにして、ひっくるめて
「口を開けてくれない」と問題設定しているのです。

「(口を開けてくれて当然なのに)口を開けてくれない」
と問題設定した段階で
自身の介助の正当性について
疑問や不安を抱いていない
ことを表明しているも同然です。
自身の介助の正当性に疑問や不安を抱いていないということは
認知症のある方の「口を開けてくれなさ」そのものを観察していないとも言えます。

これは本当に現場あるあるの主客転倒です。
二重の意味での主客転倒です。
介助に協力させることを心のどこかで考えている
観察せずに対応を考える
これでは効果が出る方法論を提供できるはずがありません。

多様な対象者の状態にあわせて、介助の多様性を提供するのではなく
対象者の方が、多様な介助者の多様な介助方法に適応してくれている。。。
対象者の状態の多様性を観察することで何が起こっているのかを洞察するのではなくて
介助者の推測に対象者を当てはめようとする。。。

多様性を失っているのはいったいどちらなのでしょう?

でも
このような現状が生じてしまうことにも理由があって
対人援助職という職業そのものが抱える業(ごう)の様なものがあるのです。

この問題については次の記事で。
  

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