Category: 素朴な疑問 不思議なジョーシキ

心身の使い方は重度の認知症でも改善できる

人は生き物ですから
どうしても老化は起こります。

老化の一環として量的低下も起こります。
若い頃は記憶力が良かったのに
年をとるとめっきり落ちてしまったとか。
かく言う私も高校生の頃は部活の先輩も後輩も含めて
みんなのお誕生日と電話番号を覚えていたものですが
今は、とっても無理!
覚えることは選択肢にもあがりません。
まず、スマホを取り出しています。

老化は生き物としての宿命です。

アンチエイジングも一つの考え方ですが
それにしたって不老不死というわけにはいかないので
限界があるものです。

であるならば
なるべく心身の機能を維持できるように考えるだけでなく
衰えていく心身と上手に付き合う方策を考えても良いのではないでしょうか。

流動性知能が衰えても、結晶性知能は維持されやすい
とはよく言われていることです。

流動性知能をトレーニングするのではなく
結晶性知能を活用できるようにする

今や覚えていなくても
PCやスマホを開けば情報を得ることは容易です。
人に要請されるのは、情報の真偽や適否を見定めることです。

結晶性知能を活用する
まさしく、智慧や叡智が求められている。
その点において(背景は真逆であったとしても)
認知機能が低下しても暮らしていくことと
情報の海に溺れずに仕事をする、生きていくことに
大きな変わりはないように感じています。

鶴見俊輔は
「耄碌を濾過器として考える。
 大事なことだけ残してあとは忘れていく。」(要旨)
と言っていましたっけ。

それと同じことが身体にだって言えると思うのです。

筋力という量的低下はあっても
身体協調性を高めて対応力を維持していく

食べることに関しての協調性を維持できるような食事介助を意識する

喉頭挙上能は、介助によって相当変わります。
もちろん、対象者固有の病態による場合もありますが
生活期にある方の場合には多くは不適切な介助による誤学習が原因です。
だからこそ、介助を変えると食べ方が変わる
喉頭挙上できなかった方でも完全挙上できるようになります。

立ち上がりに関しても
なかなか立ち上がれずに生活が不便になってきたら
腰背部の同時収縮を使わない立ち上がり方に変えていく

もちろん、重力に負けない+体重を支えられるだけの筋力は必要ですが。
ボディビルダーにならないと暮らせないわけではありません。
MMTで5ないから立ち上がれないわけではありません。
どこまで筋力を鍛えなければいけないのか
その根拠もなしに、立ち上がり100回なんてやっていると
「漫然としたリハ」と言われちゃうんじゃないでしょうか?

結果として起こっていることだけを見て
老化、筋力低下と判断するのではなくて
年老いたとしたら、その年老いた状態なりに、その時々に応じて
リ・ハビリス(再び適する)の援助となるように

高齢期において
筋力低下・廃用論が吹聴され流布していますが
本当にそうなんでしょうか?

立ち上がりにおいても
食事介助においても
筋力強化をしなくても
立ち上がれるようになる
喉頭挙上が改善するということに当たり前のように遭遇しています。

impairmentは治せないが、disabilityは改善できる。

身体はつながっている
解剖学的にも生理学的にも連続性があります。

連続性があるという身体の働きのメリットを活用できるような
リハビリテーションの実践が求められていると考えています。

 

 

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違いを体験する→認識できる

わかる ということには、果てがない。

逆に
わからないからできないし
わからないからやってしまう

昔、老健で勤務している時に
「なんでよっしーさんが食事介助すると点数(介護報酬)が取れて
 私が介助すると点数が取れないの?」
とあるスタッフが陰で言っているのを聞いたことがあります。

あぁ、この人は
自分と私の介助に違いがあるのがわからないんだなぁと思いました。

わかる、ということは
白と黒の間のグレーの色調の解像度がよりきめ細やかに認識できる
ということでもあります。

ムセさせずに食塊を口の中に入れることができる
という意味では、その人と私の介助に違いがないように
まさしく見えたのでしょう。

でも、私にはその人と私の介助の違いがわかります。
私が実践していること、意識しながら介助していることを
その人がしていないことがわかります。
その介助の違いによって、対象者の食べ方も違ってきていることを
摂食・嚥下5相のどこがどう違うのかと具体的に説明することもできます。
  
熱心な人であれば、直接私に聞いてきます。
「どうしたらよっしーさんみたいに介助できるんでしょうか?」
そう聞かれたらちゃんと答えます。

でも聞いてこない人に対して
いくら言葉で説明しても
自身の介助を修正してくれることにはつながりません。

その人の中では ちゃんと介助してるつもり だからです。

このような場合には
ちゃんと介助しましょうと言うのではなく
「ちゃんと介助する」体験と「ちゃんと介助していない」体験とを
対比させて体験させることが重要です。

説明より体験
違いがわかっていないのだから
まずは、違うということを実感してもらわないと。

技術職の強みは
違いを実感させられる体験学習を提供できる ことにもあります。

学ぶということは変わるということです。
卒後養成においては
各々の職場で対象者の方への対応が改善されることが目的です。

  ここでも往々にして
  卒後養成プログラムがあるから実施する
  というように、目的達成のための手段の適否の検討ではなく
  手段の目的化が起こりがちです。

  目的と手段を混同している人が卒後養成の担当になると尚更です。。。

職場のスタッフの傾向が把握できていれば
提供すべき体験が自ずからわかります。
より効果的な体験の提供の仕方も自ずから浮かび上がってきます。
必要な準備も芋づる式に浮かび上がってきます。

職場でポジショニングの勉強会を開催した時には
担当者やポジショニングをきちんとできているスタッフに
「何が足りないか?」「何を言って欲しいか?」も確認しました。
私だけでは見落としていることもあるかもですし
私と同じ見解であれば、ふだん相当実践できていないことの確認ができます。

知識編では
現場あるあるの誤解と本当に起こっていることを明確に言語化し
実践編では
私の介入前後で対象者の身体の変化を実際に触って感じてもらいました。
その上で
どうしたら再現できるのか
手順とポイントについて明確に言語化し
再現しようとして、し損ねているポイントについても言語化しました。

あるスタッフは
「よっしーさんに言われた時には正直なところ「?」って思ったの。
 でも、やってみたら本当にその通りだった。
 ごめんなさい。」
と吐露してくれました。

まさしく、
「聞いたことは忘れる
 見たことは思い出す
 体験したことは理解する

今まで、適切でない方法論を教えられてきて
長い間そのやり方を行なってきたという体験が誤認を蓄積させているのです。

多くの人は
教えてもらった通りに実践しても
効果がないという体験をしているはずなのですが
疑問を抱く人は少ないものです。

教わってきたことをやってるし
周囲の人がみんな同じことをしているから
目の前で起こっていることを「見れども観えず」にしている自覚が
生まれにくいのかもしれません。

だから
体験学習が有効です。
ピンポイントでの体験学習。

こちらの関与によって対象者に変化が生じる
という事実を現前させることです。

ポジショニングは比較的、体験が容易ですが
食事介助は体験と説明を切り離した方が体験学習がスムーズに進みます。
食事介助は
観察のポイントが多数あり、そのポイントが流動的だから
今まで食べ方を観察していない人が実際の食事の場面で観察することは
とてもハードルが高い、難しいことだからです。

まずは、知識の提供
:知る
次に、職員同士の食べさせっこ
:違いを感じる
最後に、対象者の介助の違いによる変化を動画に撮って説明する
:観察する

これらが的確にできるためには
まず、自分自身が適切な介助ができることが前提要件です。
自分が実践できていないことを他者に教えることはできません。

そして
実践の深みに応じて言語化できるようになる。
ここにも果てはない。。。

 

 

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ムセの起こるパターン 舌の硬さ

ムセの起こるパターンは2つあります。
1つは、咽頭期そのものの働きの低下で
もう1つは、口腔期の働きの低下によって二次的に咽頭期の低下が起こる
ことの2つです。

生活期にある方の場合に
圧倒的に多いのが、2つ目の口腔期の働きの低下によって
二次的に咽頭期の低下が引き起こされているというケースです。

前の記事で書いたように
舌が板のように硬くなったり、後方へ引っ込んだりしていれば
(ひどい時には舌が硬く丸まった状態で
 上後方へ引っ込んでいるケースに遭遇したこともあります)
舌のしなやかな動きができなために
食塊の再形成や送り込みが困難になってしまいます。

ここで誤解が多いのが
重度の認知症のある方でも常に自身でなんとかしようとしている
ということを私たちが忘れてしまいがちなことです。
口腔期の低下があっても何とか食べようとすれば
協調性の低下をパワーで補う、力任せに過剰に頑張って飲み込もうとするしかありません。
最初はそうやって飲み込めていても
舌が硬いということは、内舌筋(固有舌筋群)だけでなく外舌筋群も硬くなっています。
その状態に加えて、さらに過剰な努力を要請されることで
頚部の筋も硬くなってしまいます。
その結果、喉頭が円滑に動けなくなってしまう。
そして、喉頭挙上に遅延が生じたりタイミングがズレたりしてしまう。
こんなに食べにくい状態でもムセがないから見落とされています。

ムセるようになって初めて食べ方に着目され
ようやく喉頭の不完全挙上を目にしても
口腔期や経過について見落とされているので言及されない。
その結果、老化による筋力低下によって喉頭挙上困難と判断されてしまいます。

  生活期にある方の立ち上がり困難という事象に対して
      筋力低下論が提唱されています。

  ですが、私は筋力低下は結果として起こる。
  身体協調性低下のために立ち上がり困難が生じる
  立ち上がり困難な方に対しては立ち上がりや筋力強化をするのではなくて
  身体協調性を高めるために座る練習をすることを提唱しています。
  「座る練習」をすることでたくさんの方が立ち上がれるようになりました。
  詳細は検索してみてください。
  カタチは違えど全く同じコトが食べることに関しても起こっているのです。

舌の硬さが主問題であって咽頭期の問題は二次的に起こる。
多くの人が見落としている、食事介助の現場で起こっていることです。
咽頭期そのものに問題があるというケースは実は少ないのです。
「認知症だから食べ方を忘れる」と言う人もいますが
認知症のある方は「今食べている」ことを忘れることはあっても
食べ方はちゃんと身体が覚えています。

  大雑把な言い方をする人は
  ちゃんと観察していないから
  その方固有の困難が見出せずに
  じゅっぱ一絡げの言い方をするし
  じゅっぱ一絡げの介助をして
  じゅっぱ一絡げのレッテルを貼ることができるのです。

じゃあ、なぜ、舌そのものに病変があるわけでもないのに
舌が硬くなってしまうのか?

それは誤介助誤学習が起こっているのです。

誤介助、つまり、そうとは知らずにおこなってしまっている
不適切なスプーン操作のせいであり
不適切なスプーン操作という誤介助に対して、適切に対応しようとした結果
生活期にある方が自らの能力を落としてしまう誤学習が生じているのです。

適切なスプーン操作ができていれば
上記のような状態を予防することができますし
板のように硬くなっていても適切なスプーン操作によって
(特別のリハをしなくても)
もう一度柔らかい舌を取り戻すことができ、
結果として本来の咽頭期の働きも発揮できるようになります。

  もしも、本当に老化による筋力低下や
  認知症の重篤度のせいだとしたら

  改善されないですよね?

不適切なスプーン操作?

スプーンテクニックという言葉が定着するようになりましたが
ちょっとしたスプーンの扱い方によって
食べやすさ、食べにくさは大きく変わります。
次の記事でご説明します。

 

 

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ムセって何?

認知症施策

食事介助の現場の多くで
ムセは、指標のひとつになっています。

食べる能力の指標だったり
食べることを中止すべきかどうかの指標だったり

現場あるあるなのが
食事中に強く激しくムセこんだら
「あー!ダメダメ!その人、もう食べさせないで!」
という声が飛ぶこともよくありますよね?

食事介助中も
ムセの有無を気にしている人は多くいますが
さて、「ムセって何?」って尋ねられて
きちんと答えられる人は圧倒的に少ないのが現実です。

  構成障害重度とか遂行機能障害があるとか
  言う人は多いけれど
  構成障害とはなんぞや?遂行機能障害とは何?
  って尋ねられて明確に答えられる人は案外少ないものです。
  専門用語として言葉は知っていても概念の本質を理解していない
  だから観察できないし、何が起こっているのかの洞察もできないから
  BPSDや生活障害に対して適切な対応ができないのと
  まったく同じコトが違うカタチで
  食事介助の場面でも起こっているのです。
  だからどうしたら良いのかわからない。。。
  でも、これらは私たちの側の問題なので
  私たちが変われば違う現実が現前する可能性があるのです。

ムセは誤嚥のサインですと言うかもですが
身体のどこがどう機能してるから誤嚥のサインだと説明できますか?

もう一度、お尋ねします。

ムセって何?

 

 

 

 

 

 

答えです。

ムセとは、
気管に食塊などの異物が侵入した時に
声帯を激しく内外転させ
呼気のパワーで喀出させようという働きです。

誤嚥のサインであると同時に異物喀出作用でもあるのです。

現場あるあるの誤解が
「強く激しいムセ=誤嚥の酷さ」という誤解です。
これはもうホントに根深い誤解です。

強く激しいムセ=異物喀出能力の高さ なので
強く激しくムセる方がいたら、ムセを手助けして
しっかりとムセ切っていただくことが大切です。
ムセ切った後に声の清明さを確認できれば食事を再開できます。

ムセにおいて
最も怖いのが、サイレントアスピレーション ムセのない誤嚥です。
運動もしくは感覚の障害でムセることができない状態です。
ムセないのと、ムセることができないのとは、まったく違うのです。

ムセの激しさと誤嚥のひどさが比例しているわけではないのです。

ムセの激しい方よりも、気をつけなくてはいけないのは
弱々しくしかムセられない方のほうなんです。
弱々しいムセとは、異物喀出作用の弱さを示しています。
 
「弱々しいムセ=大したことのない誤嚥」という誤った認識で
食事介助を続けてしまう人は大勢いますが
異物をきちんと喀出しきれていない状態のまま食べさせている 
というとても危険な状態を作ってしまっていますし
そのことに自覚がないという二重の意味でとてもリスキーなんです。。。

言い換えれば
食事介助において
あまりにもムセの有無が過大視させられていて
もっと観察しなければならないことが見逃されてしまっているのです。

ムセは結果として起こっているので
どのような食べ方をしている結果としてムセたのか
というところをこそ、観察する必要があります。
(ところが、そうしていない人の方が圧倒的に多いのです)

  観察し損ねているから
  何が起こっているのか、わからない。
  だから、「ムセないようにゆっくり介助しましょう」
  と言うことしかできず、安全に食べてほしいと願いながら
  ムセをなくす介助ができなかったりします。
  私は「ゆっくり」ではなくて、
  たとえば
  「2回の喉頭完全挙上で完全嚥下しているから
  必ず2回目の挙上を目で見て確認してください」
  のように伝えています。

  ゆっくり介助すると言われても
  どこをどう介助するのがゆっくりなのかわかりませんよね?
  副詞を使った言語化では気持ちを込めることはできても
  状態や行動の明確化がされにくいので
  再現性の担保をすることは難しいのです。
  私は基本、副詞を使わずに
  名詞と動詞を使って言語化するようにしています。
  名詞と動詞で言語化できない時には
  観察できていないのです。

ムセは、
喉頭挙上の能力低下で起こることも確かにありますが
生活期の臨床現場で最も多いのは
咽頭期の本来の能力は保たれているのに
口腔期の能力低下によって二次的に咽頭期の能力低下が起こる場合であり
しかも、この場合の口腔期の能力低下が
誤介助誤学習によって引き起こされるケースが圧倒的に多い
ということはほとんど知られていません。

CVA後遺症急性期などのケースでは摂食・嚥下リハは必須ですが
高齢者や生活期にいる方にとっては
摂食・嚥下リハよりも食事介助と介助中の観察の方が重要です。
そして、食事介助に気をつけるだけで食べ方が改善されるケースは
日常茶飯事、枚挙にいとまがありません。
もっと言うと、摂食・嚥下リハをいくら頑張っても
漫然とした食事介助が為されれば、
効果が出ないどころか逆効果になってしまうことすら起こり得ます。

古くて新しい食事介助の問題について
問題は多数あって、しかも錯綜している現実を
これからの記事で解きほぐしていきます。

 

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忘れられがちな1手間:視覚障害

目が見えない認知症のある方に対して
声をかける時には、毎回必ず名乗るようにしています。

「〇〇さん、こんにちは。
 リハビリのよっしーです。
 ラジオ体操の時間です。」
「〇〇さん、こんにちは。
 リハビリのよっしーです。
 そろそろお食事の時間です。」

トイレや着替えや食事など
何を介助されるにしても
誰だかわからない人にされるのは不安だと思います。

視覚障害がなければ
名乗らなくても「こんにちは」だけでも
相手は私を見て「私→どんな人」を察知します。
認知症が重度だと私の名前を覚えられなくても
「私→どんな人」というのは覚えられることが多いようです。
曰く、体操の先生、歌の先生、(毛糸)モップの先生etc.。。。

でも、視覚障害があると、その手がかりがない。。。
だから、名乗ります。
名前を伝えるだけではなくて、
伝える過程を通して「声」と「話し方」を伝えます。

大声を出したり介護抵抗のある方でも
「俺は顔がわかんないからさ、わかるのは声だけだから」
とおっしゃっていたことがあります。

BPSDが激しいと
「認知機能が相当低下している」と誤認されやすいようですが
これらに相関はありません。
むしろ、認知機能障害が軽度の時ほど不安感が強いのでBPSDが激しくなる
ということはよくあります。

BPSDや生活障害が重度だと
職員の側がつい、「大声がひどい〇〇さん」のように
BPSDや生活障害を形容詞化してしまいがちですが
そうすると〇〇さんの能力やBPSDや生活障害を起こしていない状態を
見落としてしまいがちです。

  言葉には無自覚の意識も反映されます。
  例えば食事介助で
 「Aさんは100%入りました」という言葉を聞いたことがあります。
  入った。。。なるほど、口の中にどう入れるかという観点で介助していれば
 「100%入った」「食事が入りません」という言葉が口をついて出てくるのも
  うなづけます。。。
  「大声がひどい〇〇さん」という言葉を使ってしまうことで
  〇〇さんが大声を出さずに過ごせている場面を見落としたり
  大声は出すけれど
  発揮している能力に目が向きにくくなってしまう恐れがあります。

言葉と概念は密接に結びついています。

視覚障害を持つ認知症のある方に
毎回その都度、名乗ることは確かに1手間かもしれませんが
たった3秒でこちらの配慮を伝えることができ
その方の安心感につながるとしたら
その3秒を惜しむ理由が他にあるとは思えません。

ちなみに
「声しかわからない」とおっしゃった方は
大声や介護拒否もある方ですが
ラジオ体操や個別リハ、食事介助など何かすると
必ず「どうもありがとう」「お疲れさま」
私が名乗ると「はい、よっしーさん」と必ず復唱。

声かけの工夫、対応の工夫は大切です。
大切さを否定する人はいないと思う。
でも、それらの根幹にある視点が
認知症のある方がどのように受け取るか ではなくて
こちらのモットーやスローガンの実践になっていたり
表面的に生活障害やBPSDをいかになくすかという考えだったり
してるんじゃないかと思います。
だから、うまくいかない。。。
あるいは、短期的にうまくいったように見えても
長期的には、逆効果になっている。。。
本当にもったいないと思います。

 

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忘れられがちな1手間:帰宅要求

「対応に困った時にすべきこと」
ポイントほど見落としたり見間違える
と書きましたが
実際の対応についても
ポイントほど忘れられがち、実践され損なうものです。

認知症のある方が
「家に帰りたいんです。帰してください。」
と言った時に
私は基本的には復唱しています。
「家に帰りたいんですね」
復唱することで、あなたの気持ちを確かに受け止めました
と伝えることができます。

復唱するための所要時間は3秒ほどですが
復唱しないですぐに話を逸らそうとして
話題を切り替える人の方が圧倒的に多いと思います。

「家に帰りたいんです。帰してください。」
(でも外は雨が降りそうだし)
(もう遅いから明日にしませんか?)
(ちょっと待ってて。今お茶を入れますから。)
(タオルを畳んでいただけますか?)

文字にされたものを見ると
話を逸らされた、誤魔化された
訴えたことを聞いてもらえない。。。
という印象を持ちませんか?

認知症のある方は
ただでさえ、不安になって困惑して必死になって帰宅要求をしています。
そこで話題を切り替えられたら
もっとちゃんと聞いてもらおうと思って
言語能力が高ければ、
あの手この手で帰らなければならない理由を訴えるでしょうし
言語能力が低下していれば、
もっと大きな声で繰り返し訴えるようになるでしょう。

つまり
帰宅要求のある方に対して
すぐに話題を切り替える対応は
火に油を注ぐようなものなのです。
そして
無自覚にしているから自身の対応が油を注いでいるとは考えられず
もっと上手に話をそらせようと必死になって油を注ぎ続けるのです。。。

その上
自身の対応の結果として起こっていることがわからない職員は
「帰宅要求がひどい」「執拗な帰宅要求」とレッテルを貼るのです。。。

悪循環になっています。。。

認知症のある方も職員も
どちらにとってもストレスにしかならず辛いだけで良いことがありません。

「家に帰りたいんです。帰してください。」と言われたら、
(家に帰りたいんですね?)
まず、復唱してみてください。

この一言で
「あ、自分の話を聞こうとしてくれてる」
ということが伝わります。

その方にとっての
「帰りたいと思った」必然を聴く入り口に立つことができます。

その方の障害や困難、能力と特性を踏まえて
その時のその方の感情を観察・洞察しながら
「何を」「どんな風に」尋ねようかその都度判断していきます。

  ハンス・オフトの言う「状況把握・判断・行動」の実践です。

気をそらせる対応というのは
帰りたい必然を聴く入り口から遠ざけているのです。
認知症のある方だけでなく、自分自身をも。

帰りたいと思った必然を聴く
中がどうなっているのかわからない入り口のドアを開けるのは
勇気がいることです。
心身のエネルギーも使います。
そして何よりも難しい。。。
だから、回避したり否定したりして
その代替としての気をそらせる対応が
ケアの常識のように継承されてしまったのでしょう。
以前の記事 で書いたように、気をそらせる対応が必要な場面はあるでしょう。
でも、本質的な対応ではあり得ません。

本質的な対応ができるようになるためには
時間がかかります。
技術ですから。
でも、技術であれば習得可能です。

まずは、復唱してみませんか?
そこから観察の道が始まります。

 

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グループワークの功罪

グループワークには、グループワークの良さがあるし
「三人寄れば文殊の知恵」もあるとは思います。

他者の視点や考え方を知り
自身の思考を再構築することにもなりますし
協働作業を通して課題を達成するという体験も貴重です。

でも、それはベースに
参加メンバーに知識が教授・共有されているという前提があってこそ
成り立つ話だと思います。

以前にあるところで
認知症に関する一般の入門者向けの研修で
徘徊している方への対応をグループワークで検討させるように
みたいなほんわかとした依頼があって
その時は、依頼先におかしなことだと意見提出したことがあります。

一般の入門者向けの研修なんだから
きちんとした知識を提供することが最優先だということ
「徘徊している方」といっても、その方なりの徘徊する必然は千差万別で
話しかけ方とかも千差万別でひとくくりにはできないこと
適切な対応は自然と浮かび上がってくるもの
どうしたら良いのかは本来考えるものではない。
どうしたら良いのかわからない時は観察に立ち戻る
こちらが勝手に「あぁなのかな?」「こうなのかな?」と
勝手に推測するのは一番やってはいけないことだと。

グループワークって、偽の達成感を味あわせることもできてしまうんですよね。

達成すべき課題が明確で
ファシリテーターが優秀であれば
有意義なグループワークも可能
ですが
やってみたらわかるけど、案外難しいものです。
そうでないことも多々あります。。。

ましてや入門者同士が何を話し合えるというのでしょう?
知らない人同士が楽しく会話できてなんとなく達成感があって。とか
日頃の愚痴や不安を共有できた。とか
というパターンもあるのか、グループワークは楽しい!なんて人もいますが
達成すべき課題の達成度はどうだったのでしょう?
成果物は抽象論にとどまり明確には出せなかったけど
いろんな人と話せて楽しかったなんて本末転倒です。

たぶん、根本的な問題は
教えるべきことを教えられないという現状があるのだと思う。

そこには、二つの問題があって
認知症は脳の病気なんだから、
本来は、まず知識と技術で解決すべきことを解決しなければ
その人に寄り添うなんて大それたことはできないということが理解できていない。
だから、心意気、真心、優しさなんて
よくわからない、曖昧な、でも耳障りの良いことで対応できると思われている。
 
もう一つは
普段、現場でハウツー的対応しかしていないから
抽象化・言語化できないので他者に的確に伝達できないし
その自覚もできていないこと

徘徊している見知らぬ人に遭遇したら
警察通報の一択です。
警察官が来るまでの間、安全なところで待っていただけるように
余計な不安感を抱かせないように
してはいけないことは明確にあります。
望ましい対応は、その方その方によって異なりますから
それは会話をしながら探らなくちゃいけない。
その探り方は、基本の実践ができた次の段階で学ぶものです。
よく知りもしない人同士が話し合うようなことではないんです。。。
例えて言うならば、
道路で倒れている人がいました。
どうしたら良いのかを教えるのではなくて
どうしたら良いのかを考えましょうというグループワークを
救命救急の初心者コースを受講しにきた人にやらせるようなものです。
怖い、怖い。。。

対人援助職を養成する立場にいる人が監修していた部分でしたが
こういう人に教えてもらうんじゃ、学生も本質を理解することができなくて当然
現場に出てから困るだろうな。。。と思いました。

ずいぶん昔ですが
老健に実習に来た介護学生に
学校で認知症のことをどんな風に教わったのか尋ねたところ
「否定しちゃいけないって教わりました」と言われました。
そのほかは?って尋ねたけど
「それだけです」って。 
  
(まぁ、学生の言うことですから教えてもらっても
 咄嗟には答えられなかったということもあるかも知れませんので
 いくつか確認しました。)
近時記憶障害とは?
4大認知症とは?
ということも教えてもらっていなかったということがありました。
それじゃあ、現場に出てから困るよね。
どうして良いかわからなくて当然だと思いました。

OTだけじゃなくて、
ポジショニングも、食事介助もそうですけど
対人援助職の養成・教育・伝達の問題って本当に大きいと思います。

このことに関連して最近見つけたサイト
ふくしま国語塾の「指導」には
はっきりと書かれています。

  昨今の教育界では、「教えない教育」なるものが流行っています。
  知識・技術を与えない。しかし個性は求める。
  その結果、たとえば感想文を書かせれば、
  面白かったです、悲しかったです、など
  没個性の文章ばかりになる。
 
  知識・常識。型・技術・方法。
  これがあればこそ、
  自己表現と他者理解が可能になります。
  表現力や読解力を身につけさせたければ、
  まず、知識・技術を与えること。
  与えることをためらわない。
  その先でこそ、個性は輝きだすのです。

分野は違えど
知識・技術を教えることの必要性は共通しています。
知識と技術がないのに、どうやってちゃんと対応しろと言えるのか
本当に理解できません。。。

「認知症のある方に少しでも力になりたい」と
願うならば、その願いを支えるに足る知識と技術がなければ
役に立てるどころか、逆効果や迷惑になることすら起こり得ます。

  昔だったら
  実習の時に、
  「気持ちだけじゃダメなんだ」「知識と技術がなければダメなんだ」
  と自分の未熟さを痛切に体験・実感させられたものです。
  今は学生に成功体験を求められ求めさせるから
  学生はかりそめの成功体験を学んでしまう。。。
  就職して社会人として、一人の職業人として
  初めて自身の未熟さに向き合うことになり
  それはその人にとっても、周囲にとっても大変なことだと思います。

脳卒中後遺症のある方に少しでも力になりたいと
願う人がいくら願ったとしても、知識と技術がなければ逆効果になります。
かつては、過剰に安静をとらせて寝たきりになってしまった。
その反動もあって、過剰にがんばらせすぎて今度は痛みや拘縮を起こしてしまった。
寝たきりがいけないからと離床が推奨され、今度は座らせきりという問題が起きた。
それらを踏まえて、適切なリハが提供できるように
専門家としてのリハ職が要請されるようになった。

同じ脳の病気である認知症にも同様のことが起こっています。
昔は「恍惚の人」が代表するような時代もあった。
その反省も踏まえて、反動のように、優しく否定しないような対応が推奨された。
それだけでは対応しきれないということがわかってきていて
適切な対応とは何か?ということが問われるようになってきている。
 
今はまだ水面下での動きに留まっていて表面化してはいないけれど
「優しい対応をしてもそれだけでは認知症の問題は解決できない」
ことが誰の目にも明らかになってきているのではないでしょうか?
本当の専門家としての対応が要請されるようになってきている。

歴史から学ぶことって、とても大切なのではないでしょうか?

 

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ポジショニングの本質@褥瘡予防

認知症のある方や生活期にある方の褥瘡予防において
ポジショニングはとても重要な意味があります。

ただし、その意図を的確に実現できているか
見直すべき時期にいるとも考えています。

現場あるあるなのが
良い姿勢を作ろうとして
無理矢理最大可動域を設定しようとして
クッションをぎゅうぎゅうに詰め込んでしまう方法論です。
そのようなやり方では、一見見た目拘縮予防のために
最大可動域を保持しているように見えても
クッションを外した途端にキューッと身体が縮こまってしまっていませんか?
筋がリラックスした結果として、最大可動域を実現できているわけではなく
外力として無理矢理最大可動域を設定しているのですから
外力がなくなれば元の木阿弥も当然です。

良い姿勢を作るのではなくて
結果として良い姿勢になるように
そのココロは過剰な筋緊張からの解放です。
過剰な筋緊張から解放されれば筋組織の中を通っている毛細血管を拡張させ
血流を改善することが叶います。

褥瘡というと
その見た目から筋の挫滅や壊死などを思い浮かべるかと思いますが
褥瘡学会の定義を確認します。
「身体に加わった外力は骨と皮膚表層の間の軟部組織の血流を低下、あるいは停止させる。
 この状況が一定時間持続されると組織は 不可逆的な阻血性障害に陥り褥瘡となる。」

この定義を図示・簡略化すると
褥瘡とは外力によって血流阻害が生じた結果として起こる
外力とは圧迫と剪断力である
となります。

ところが
現実には軟部組織の毛細血管の血流阻害を引き起こすものには
もう一つあって
それが「拘縮」です。
拘縮の状態とは、ある筋もしくは筋群が
一定の方向に長時間収縮し続ける状態ですから
当該筋の中を通る毛細血管が潰されてしまって血流阻害が起こります。
図示すると下記のようになります。

つまり
褥瘡予防のためには
血流阻害を改善することが肝要で
そのために、1)圧迫 2)剪断力 3)拘縮 への対応がポイントとなります。
栄養補給も重要ではありますが、
血流阻害された状態では、いくら栄養付加しても効果がない
血流阻害が改善されて初めて意味をもたらすものとなります。
対象の方は高齢者が多いので、その方にとっての適量を見極めないと
高タンパクによる腎機能障害を引き起こしかねません。

 

褥瘡を予防し改善していくためには、前述した通り
1)圧迫 2)剪断力 3)拘縮 に対する対応がポイントです。
  
1)圧迫に対しては除圧
2)剪断力に対する商品としては、現段階では ジェルトロン が最善だと思います。
  商品特性については_こちら_をご参照ください。

   以前に他社の新品の褥瘡予防クッションを使っていたのに
   褥瘡ができてしまった方がいて
   ジェルトロンを10日間使用しただけで
   褥瘡が完治した方がいました。
 
3)拘縮予防については 筋緊張緩和が必要です。
これらいずれにも、姿勢は関わってきます。

褥瘡予防・改善の合言葉は「血流確保」!
そのための除圧、体位交換であり、座り直しであり、使用クッションの見直しであり
ポジショニングなのです。

ポジショニングというのは、とても重要ですが
何のためのポジショニングなのということが、現場では確認されないままに
「良い姿勢を作らなければ」という思い込みで為されていることが多々あります。
そして、その結果、効果がないどころか逆効果になっている。
ところが、善意のもとに為されていることだから
為されたことの適否についての検討が行われにくい。。。
現場あるあるです。
そして、どんどん拘縮がひどくなっていくけれど
すべてが対象者の状態のせいになってしまう。。。
「褥瘡予防のために良い姿勢を作ろう!
 クッションで最大可動域を保とう!」
という誤った実践が拡大再生産されてしまう。。。

リハやケアの分野での
誤解、手段と目的の混同やすり替えは本当にいろいろなところで散見されています。

知らないが為に
というよりも、中途半端な知識によって
善意が逆効果になっている現状をとても悲しく思います。

現状改善の方策は2つ

ひとつには
知識を学ぶ過程において
概念の本質を理解する という体験を担保することです。

中途半端な知識、聞きかじりの知識と概念の本質を理解する
ことはまったく異なります。

もうひとつは
目の前にいる対象者の方の言動を虚心に観察することです。
先入観や思い込みによって
見たいように事実を脚色して見るのではなく
事実を事実として観ることのトレーニングです。

現場あるあるなのが
まず観察するよりも先に
過去の似たような事例に対して有効だった方法論を思い浮かべながら
観察してしまう在り方です。

つまり、観察よりも判断が先にあるのです。
状態像の明確な把握よりも
ハウツーを当てはめる方法論が蔓延っています。

概念の本質を理解する
事実を事実として観察する
すると、本来はどうすべきだったのか、ということが浮かび上がり
適切に対応することができるようになり
従来の方法論との違いやその意味を明晰に認識できるようになります。

 

 

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