Category: 教科書的基礎知識篇

ムセに関する大きな誤解

ムセについて
大きな誤解が蔓延しています。

「ムセ → 食事中止」
「ムセ → 水分にとろみをつける」

このようにパターン化した対応が現場あるあるです。

そもそも
ムセとは何か?
身体の中で何が起こっているのか?
について明確に言語化できる人がどれだけいるでしょうか?

認知症のある方への対応について
なんとなく従来通り行われてきたことを漫然と行っていることは
ヤマほどあります。
「言動を否定しない」
「褒めてあげる」
「なじみの関係を作る」etc.etc.。。。

よくよく考えるとおかしなことでも
意味や適否について考えることなく
「そう言われたからやってる」「みんながやってるからやってる」
というパターンが蔓延しています。
(それらに関して過去に複数の記事を記載してきましたので検索してみてください)

食事介助も同様なんです。
「ムセ → 食事中止」
「ムセ → 水分にとろみをつける」
いずれもおかしなことです。

まず「ムセ → 食事中止」の問題についてご説明します。

 

ムセとは
確かに誤嚥のサインです。
同時に、異物喀出という生体の防御反応でもあります。

「強く激しいムセ=ひどい誤嚥」という誤認をしている人が多いのですが
「強く激しいムセ=異物喀出機能の高さ」を示しています。

最も怖いのは
サイレントアスピレーション(ムセのない誤嚥)という状態です。
そこまでいかずとも、弱々しくしかムセられない方は要注意です。
異物喀出機能が低いことを示しているからです。

ムセたら、
異物喀出しようとしているのだということを踏まえて
しっかりムセきってもらえるように呼気の介助をします。

言うまでもないことですが
異物を喀出しようとしているのですから
この時に水を飲ませたりしてはいけません。

ムセが落ち着いたところで声を確認して
晴明な声であれば食事を再開できます。

痰絡みの声だったり、ガラガラ声であれば
再度咳払いを促したり、呼気の介助をします。
痰絡みがひどければ吸引することも必要です。
それでもムセが続くようであれば食事休止も必要です。

安易に食事中止しないように。
食事を中止する前にやるべきこと、できることはたくさんあります。

 

次に
「ムセ → 水分にとろみをつける」の問題について説明します。

ムセの有無だけを気にしながら食事介助している人は多くても
摂食・嚥下5相にそって食べ方の観察をしながら食事介助する人は
非常に少ないのです。

現実には
介助者の不適切なスプーン操作によって
準備期の能力低下により口腔期の能力低下を来してしまう方が大勢います。

ムセは咽頭期の問題ですが
実は、上記のような方の場合には、咽頭期の低下は二次的な問題で
本質的な問題は口腔期の能力低下にある
それは準備期の困難つまり不適切な介助に起因する
というパターンが本当に本当に非常に多く見られています。
そして、このことに気がついておらず
「認知症のせい」「老化のせい」にされているのが現状です。。。

口腔期の能力低下つまり舌の働きの低下が起これば
送り込みに支障が生じます。
「ムセたらトロミ」というパターン化した対応をしていると
口腔期の能力低下している方に高すぎる形態で提供してしまうことになるのです。
そうするとうまく送りこめず、ムセも改善されず
食べ方をきちんと観察・洞察できずに
パターン化した対応しかできない介助者は
「ムセたらトロミ、それでもムセるともっとトロミ」という
さらに高すぎる形態で提供してしまうので
「送りこめないからためこむしかできない」
「ためこんでいるから口を開けようとしない」
という至極当然の状態になりますが
目の前で起こっている現実をまったく見ようとしない介助者は
ここだけを切りとって
「ためこんで飲み込んでくれない」
「口を開けてくれない」
「どうしたら良いの?」
という問題として把握しがちです。

もちろん、中には咽頭期の機能そのものが低下しているケースもあります。
その時にはしっかりトロミをつけるべきです。

漫然とトロミをつけるのではなくて
きちんと食べ方を観察・洞察した上でトロミの適否を判断することです。

食事介助の大きな誤解
ムセに関する大きな誤解

大切なことは
ケアの常識に流されずに
一般的に流布していることの「意味」を考える
ということです。

その時に根拠となるのは
基礎的知識です。
単に知っている、聞いたことがある、ということではなくて
基礎的知識の概念の本質を理解することです。

 

 

 

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スプーン操作を見直すべき兆候

対象者の方に下記のような兆候が見られたら
それは介助者がスプーン操作を見直すべき兆候でもあります。

<開口した時>
・舌が奥に引っ込んでいる
・舌が硬くなっている

<食塊をとりこむ時>
・顎が上がっている
・上唇を丸めずに閉じている
・口角から食塊がこぼれ落ちる
・引き抜いたスプーンに食塊が残っている
・正面ではなく介助者の側に頭部を回旋している

<食塊が口腔内にある時>
・咀嚼・送り込みに時間がかかる

<食塊を嚥下する時>
・喉頭が完全挙上しない
・喉頭が複数回挙上する

これらは、見ようと思えば今すぐに誰にでも観察できることですが
たいていの場合に、上記兆候は観察されず
「見れども観えず」
視界に入っているはずなのに意識化されていません。

上記兆候は
介助する側の人の不適切なスプーン操作が原因となって
引き起こされたり、増悪されたりしている兆候です。

つまり、改善可能な状態像なのに
見落とされていて対処されていないのが現状です。
 
食事介助の時には
ムセの有無しか確認していない人がとても多いのが現状です。

しかも、
強く激しくムセるとすぐに食事中止を指示する職員がとても多いという問題もあります。

ですが、このような対処は合理的ではありません。
ムセとは何か?
身体の働きについて本質を知ることなく思い込みで対処しているだけです。

この問題については次の記事で。

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食具の工夫:介助

通常は普通のスプーンで介助しますが
場合によっては、全介助でも異なる食具を使うこともあります。

写真上の赤いスプーンのように
幅が狭くて浅いスプーンを使ったり
箸やシリンジで1ccずつ介助したこともあります。

認知症のある方や生活期にある方は
口腔内にちょっとした困難を抱えていることが多く
ちょっとした困難をちょっとした困難のまま
食べられるように維持していくことが大事だと考えています。

ところが、現実には、ちょっとした困難を観察・洞察できず
低栄養・脱水を回避するために結果として
「食べることの援助」ではなく「食べさせる」ことになりがちです。
そこから誤介助誤学習の悪循環に陥ってしまいがちです。

開口しない、ためこむ、抵抗するなど食べようとしなくなった場合に
単にスプーンでなんとか食べさせようと介助をすることは
ネガティブな体験の再認の強化になってしまい
食べることの再学習を阻害してしまいます。

誤介助誤学習の悪循環から抜け出すためには
まず、介助を変えることです。
その一つとして、スプーン、食具を変えます。


シリンジで液体の栄養補助食品を介助したり


液体の栄養補助食品をストローで摂取してもらったり


箸で栄養補助食品のゼリーやソフト食を介助します。

「ラクに食べられた」体験ができるということは
ポジティブな体験の再認の強化にもつながります。

重度の認知症のある方でも再認できる方は非常に多くいます。
ADLは体験を通して再認を促しやすい場面でもあり
特に「食べる」ことは究極の手続記憶ですから
毎回の食事介助が再認の促しの場面になっているとも言えます。

ここで気をつけていただきたいことは
再認はポジティブにもネガティブにもどちらにも働く
ということです。

現状では
善かれと思って
でも知識と技術が伴わない、観察と洞察が不十分な場合に
結果として毎回の食事介助でネガティブな再認の強化をしている
とも言えます。

この悪循環から抜け出すために
「ラクに食べられた」というポジティブな再認を促すために
食環境としての食具を変えます。

対応が適切であれば
そのうちに開口がスムーズになってきますから
その段階で通常のスプーンに切り替えていきます。

介入直後から食べ方の改善を実感できますが
どんな人にでも目に見えてわかるくらいに
食べ方が改善するには1〜2週間かかります。
その後通常の介助に移行できるまでに
もう2週間ほどかかることが多いです。

その間、ご本人が余分な苦労をすることになってしまうので
「予防にまさるものなし」
問題が表面化する前の段階で
(食事介助に困難も負担も感じていない段階から)
適切なスプーン操作
喉頭の完全挙上を必ず視覚的に確認しながら
食事介助してほしいと切に願っています。

「口を開けてくれない」
「ためこんで飲み込んでくれない」
「食べるのを嫌がる」
というのは、結果として表面的に起こっている事象に過ぎません。
ここだけ切り取って「さて、どうしたら?」と考えても答えは出ません。
まずは、それらに反映されている食べ方をきちんと観察することです。

摂食・嚥下5相にそって
食べ方を観察・洞察すれば
目の前にいる方に何が起こっていたのかがわかる。

だから、どうしたら良いのか
どのような食形態・食具・介助方法・場面設定をしたら良いのか
がわかる。

それらは自然と浮かび上がってくるものです。

考えることではないのです。

観察・洞察の結果
必然として導き出されるものなので
明確に浮かび上がってきます。

明確化できない時には考えてはいけません。

何が起こっていたのか、という観察・洞察が曖昧だから
明確化できないのですから
どうしたら良いのか考えるのではなくて
目の前に起こっていることをもう一度観察し直すことに
立ち戻れば良いのです。

 

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「あそこへ行く!」対応とそのココロ

前の記事「あそこへ行く!」の答え、
どう対応するのか、そして、その解説です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「あそこの向こうにある郵便局に行くんだ!」

 郵便局に行こうとしていたんですね?
 郵便局に行って何をしたいんですか?

「郵便局には〇〇さんがいてね。
 前に〇〇さんのことをいろいろお世話したんだよ。

 〇〇さんに言えばちゃんとやってくれる。
 洋服がたくさんあるんだ。」

 〇〇さんにちゃんとやって欲しいことがあるんですね。
 (両手を太ももの下に入れているのを見て)
 ところで、今、寒いですか?

「いや、寒くはないんだけどね、
 朝方寒くなったら嫌だから服を取りに行こうと思って」

 服を取りに行きたかったんですね。
 それでは、洋服のあるところにご案内します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 上着は、その方のお部屋のベッドの上にちゃんと畳んで置いてありました。
 その後上着を車椅子の後ろにかけて食堂に戻りましたが
 立ち上がることはありませんでした。

 

いかがでしたか?

それでは、私が何を意図して何をしていたのか
解説をしていきます。

この方は、最初から「手段(方法)の言葉」を使っています。

 「あそこに行く!」

あそこに行って、何をしたいか ということは言っていません。
そこで、まず最初に目的を尋ね返しました。

  あそこに行って何をしたいんですか?

それに対する答えが
「あそこの向こうにある郵便局に行くんだ!」と
もう一度、「手段(方法)の言葉」で答えられました。

そこで、再度、目的を尋ね返しました。

  郵便局に行きたいたんですね?
  郵便局に行って何をするんですか?

  ここは、口調に気をつけないと。
  詰問しているような口調にならないように気をつけながら
  語尾は小首をかしげるようにして尋ねました。

そこで、ようやく、この方がしたいことを答えてくれました。

  〇〇さんに言えばちゃんとやってくれる。
  洋服がたくさんあるんだ。

ちゃんとやってほしい。
その気持ちを受け止めたことを言葉にして伝えます。

  〇〇さんにちゃんとしてほしいことがあるんですね。

何をちゃんとして欲しいのか、尋ねてみないとわかりません。
洋服に関係あることだと言っています。

ここでその方の様子を確認すると、両手を太ももの下に入れています。
この方は寒がりだし、両手を太ももの下に入れてるのは寒いからかな?
と思って具体的に尋ねてみました。
イマ、ココでのその方の感覚を確認する言葉です。

  ところで、今、寒いですか?

ここで、ようやく 目的の言葉 が出てきました。

「いや、寒くはないんだけどね、
 朝方寒くなったら嫌だから服を取りに行こうと思って」

この方が
あそこに行きたかった
郵便局に行きたかった
本当の理由は、上着を手元に置いておきたかった
ということがわかりました。

このように
認知症のある方が
何かしたいと思った時に
直接的にしたいこと(目的)を言葉にせずに
したいことを達成するための手段(方法)の言葉で表現することは
よくよくあります。

そのことを職員が認識せずに
表現された言葉だけを切り取って
「あそこへ行きたい」
「郵便局へ行きたい」と言われた時に
「郵便局なんてここにはない」
「今は寒いから郵便局には出かけないほうがいい」
「あそこはパントリーでその向こうは廊下。よく見て」
「そんなことより、お茶でもいかが?」と言ったり
あるいは
「じゃあ、あそこへ行ってみましょう」と車椅子を押して行って
「郵便局はありませんよね?」などと言っても
かえって大声で怒鳴られまくって立ち上がり続けて
ほとほと困り果ててしまう。。。ということも現場あるあるです。

でも、よくよく考えてみて下さい。

上記のような職員の対応は
「立っちゃダメ」「立たないで」と言われても、
それでも、なおかつ

どうしても郵便局へ行きたいと思う、あなたにとっての必然を教えて下さい。
ではなくて
  あなたが何をしたいのかは感知しない
  あなたの言っていることはおかしなことだ
  おかしなことを言っているとわかってね
と言っているのと同じなんです。

だから
「やっぱりあんたは私の話を聞いてくれないじゃないか」
「だから〇〇さんじゃなきゃダメなんだ」
「郵便局に行くって言ってるのに違うところに連れてきただろう」
「なんでこんなところに連れてきたんだ!」
「そうやって私を言いくるめようとして!」
「私のことをバカだと思っているんでしょう!」
と怒り出してしまう。。。

それに対して
この方は最近怒りっぽいから認知症が進行したのかな?と
認知症のせいにして、自身の関与を吟味検討することなく終わってしまう。。。

でも
この方の怒りはもっともなこと、正当な怒りではないでしょうか?

この方が本当は何をしたいと思っているのか
困っていることは何なのか
答えることができるのは、その方だけ
対象者の方だけです。

対象者の方は答えている
答えを聴くためには工夫が必要
です。
私たちは聴けている?

 

答えを聴くために必要なのは
知識の明確な認識であり、
その知識をもとにした観察・洞察であり、
自身の意図を的確に実現できる技術です。

 

詳細は
「声かけの工夫の考え方」
に説明してありますので、ぜひご参照ください。

この記事で説明している
「手段(方法)の言葉と目的の言葉」を理解しておくと
認知症のある方とのコミュニケーションの質が上がり
ケアの質、対応の工夫の質が格段に上がると思います。
(ただし、適切に実践できるためには反復練習が必須です)

もうひとつ
大切なことは「声」です。
「何」を言うか考えても
口調に無頓着だったりすると
認知症のある方は口調のキツさに反応して怒ってしまうことがあります。

認知症のある方への声かけ、コミュニケーションにおいて
What、言葉だけでなく
How、声もcontrol して選択しながら関与できることが大切です。

認知症のある方の答えを聞いているようで本当には聴かずに
表面的な困りごとをどうやって収めるのか考える風潮もあります。
もちろん、私たちの手は2本しかないから
気持ちがあっても収める、しのぐしかない時だってあります。
そのような時には、しのぐ自覚のもとに正々堂々としのげば良いと思います。
ただし、決して「しのいでいることと適切な対応の混同をしない」ことが重要です。
だって、違うんですから。

今はどの職種も忙しい。
時間も人手も限りがあります。
だからと言って
事実と内心の要請とを混同するから話がややこしくなってしまいます。
課題解決において、この混同も現場あるあるではないですか?

本当に適切な対応は時間もかかりません。
適切な食事介助をすれば15~20分程度の通常時間内で食べられるようになるのに
適切なスプーン操作ができないから
対象者の食べるチカラが混乱・低下し、
結果として食事に要する時間が40分もかかってしまう。。。

同じコトが違うカタチで
認知症のある方への対応全般に関しても起こっているだけです。

まず、考えるべきは適切な対応、食事介助ができることであって
それは可能なのだということを実践し伝えることが
このサイトでの役目のひとつだと考えています。

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「あそこに行く!」

転倒リスクの高い方が
食堂からパントリーを指さして
「あそこに行く!」と言って立ち上がろうとしています。

(あそこに行って何をしたいんですか?)と尋ねたら
「あそこの向こうにある郵便局に行くんだ!」と答えました。

パントリーには食べおわった食器が並んでいます。
パントリーの向こうは廊下です。

さて
あなただったら、どう対応しますか?

答えは
今週の土曜日、2月19日に掲載します。

 

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概念の明確な理解

認知症のある方の
生活障害やBPSDといった困りごとの改善や
能力と特性の発揮のためには
評価、アセスメント、状態把握ができることが重要です。

評価、アセスメント、状態把握とは
決して、検査やバッテリーをとることではありません。
その時その状況を事実に即して、観察・洞察できることを意味しています。

観察・洞察というと
客観的ではない、科学的ではない、根拠に乏しい
といった批判もあるようですが
批判されるべきは、未熟な観察・洞察であって
観察・洞察そのものではありません。

観察の解像度を上げるためには
知識の習得が必要です。

知識の習得とは
単に知っている。ということではありません。

概念を明確に理解することです。

曖昧な理解しかできないから観察し損ねている人がたくさんいます。
その代表例が、「短期記憶」です。
この言葉、概念の誤認と誤用については
「現場で役立つ認知症研修会ー観察力を磨く」において説明します。

他にも、遂行機能障害、構成障害という
認知症のある方の生活障害に大きく関わっている障害について
言葉は学校で聞いたことはあっても
意味を明確に説明できない人はたくさんいます。

「わかっちゃいるけど言葉にできない」
と言う人もたくさんいますが
本当にわかっていれば明確に言語化できます。

  明確な言語化を突き詰めた先に
  どうしても言葉にできない領域がありますが
  突き詰めてもいない人にはそこまで到達できません。

遂行機能障害や構成障害とは何ぞや
という言葉の意味を言語化できないから観察できないのです。
観察できないから、当然、障害も能力も洞察できない。
結果、検査やバッテリーを活用するのではなく
検査やバッテリーにすがるしかなくなってしまう。。。
そのような人には観察・洞察とはどういうことか見当もつかないことだから、
観察・洞察を批判する。。。
最も大きな瑕疵は、自身が観察し損なっていることの自覚がないことです。

  本当は無自覚に意識下では、気がついていると思う。
  でも自覚してしまうと困るのは自身だから
  困らないように自覚することを回避しているんじゃないかな。。。?

けれど
観察し損なっているという自覚さえ芽生えれば
観察できるようになるチャンスがある
ということでもあります。

答えは常に目の前にあります。

そのためには
概念を明確に理解することが最初の一歩です。

ピンチはチャンス

 

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「現場で本当に役立つ認知症研修会」

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
この1年が皆様にとってますます良い年でありますように。。。

「事実の子たれよ。理論の奴隷たるなかれ。」(内村鑑三)

「書かれた医学は過去の医学である。
 目前に悩む患者の中に明日の医学の教科書の中身がある」(沖中重雄)

この二つの言葉は
私が臨床実践において大切にしている言葉でもあります。

臨床での蓄積をカタチにするために参考書的な立ち位置を目指して
2020年度に立ち上げたサイト
「OT佐藤良枝のDCゼミナール」
2021年度はコツコツと構築してきました。
2022年度はよりわかりやすく伝達するために
オンラインでの勉強会を計画しています。

その一端として
2021年3月9日(水)20:00〜20:40に
「現場で役立つ認知症研修会」をZoomにて開催します。

参加費無料
どなたでも参加できます。

「〇〇という時には△△する」
という表面的にハウツーを当てはめるような臨床思考は
「その人に寄り添ったケア」という理念と相反する在りようです。

理念は唱えているだけでは実現することはできません。

では
「その人に寄り添ったケア」という理念に沿った実践が
できるようになるためにはどうしたら良いのか

「関与しながらの観察」( Harry Stack Sullivan )
の実践によって可能となります。

まずは
認知症のある方に、その時何が起こっているのか
洞察できるようになることから始めます。

洞察できるためには
生活障害やBPSDを含めた表面的な事象に
反映されている能力と障害を観察できるようになることです。

観察できるようになるためには
知識が必要です。

第1回目の今回は
40分という限られた時間の中でも
知っていると役立つけれど、教えてもらえる機会が少ない知識について
 概念を明確化することによって観察することが可能となる
 ということをきちんとお伝えしたいと思います。
実際の現場ではどんな風に現れるのか
観察と洞察の具体例について
お伝えします。

残席わずかとなりました。
お申込をお考えの方はお早めに。

詳細・お申込・お問合せは
https://yoshiemon.info/2021/12/26/study/3565/
からどうぞ。

 

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帰宅要求への対応

リハ中に帰宅要求のある方へ対して
どのように考え対処すると良いのか。という提案です。

まず、多くの人が
どうやって帰宅要求から気を逸らして
リハに集中してもらえるか考えるようですが
そうすると逆効果になってしまって
認知症のある方にも悪いし
自分自身も辛くなったりしませんか?

私は
まず、再認可否について確認しています。
その確認は、困った場面に遭遇してから行うのではなくて
普段のいろいろな関わりの中で自然に行えますから
近時記憶の連続性とか再認可否については
意図的な質問やポイントを見逃さずに
あらかじめ確認しておくと対応の幅が広がります。

さて
実際の対応ですが、下記のように
状態像によって対応を変えています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   ・
・                           ・
・ 1)    再認可能な方              ・
・ 2−1)再認困難だが、私との疎通を自覚できる方 ・
・ 2−2)再認困難で、私との疎通を自覚できない方 ・
・                           ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1)    再認可能な方
HDS-Rが1桁の方でも再認可能な方は少なくありません。
再認可能な方には、きちんと事実を説明するようにしています。
再認可能なので説明された事実を受け入れてもらえます。
「帰宅要求のある方に対して(1)」

注意点としては、受け入れやすい説明を心がける
ということでしょうか。
特に声の大きさや口調といったノンバーバルな表現に
こちらの感情が反映されやすく
また認知症のある方も反応しやすいので
少なくとも自覚的であるべきであり
できれば意識的にコントロールできると良いと思います。

 

2−1)再認困難だが、私との疎通を自覚できる方
再認困難でもきちんと私との疎通を自覚できている方には
その方にとっての切実な裏付けとなっている感情表出を
妨げないように話を聴きます。
始めは表出することに精一杯です。
表出に精一杯な時にはまず表出してもらうことを優先します。
そのうち、変化が生じます。
ちゃんと聴けていれば必ず変化を感じるものです。
表情や口調や身体の動きなどノンバーバルなところに現れます。
その変化を逃さずに「介入」をします。
どんな介入をどんな風にというところは、
その時その方の変化に応じて異なります。
関与しながら観察していれば、
その時その状況のその関係性において
どうしたら良いのかという答えを感受することができます。

 その方から「お話しちゃってごめんなさいね」と言われれば
 すぐにリハの場面を伝え何をどんな風にするのか伝えますし
 (それで済んでしまうことも多々あります)
 幾多の人生の困難を乗り越えてきたその方法を尋ねて
 答えてもらうこともあります。
 (あなたは困りごとを乗り越えてきたと暗に伝える意味がある)

 これらのやりとりを通して
 信頼「感」が醸成されることはよくあります。
 私が誰でどういう仕事かは忘れられてしまっても
 なんとなくでも頼りになる人だと思っていただける。
 いい加減なことを言ったりしたりする人ではないと思っていただける。
 それは本当に困った時に、頼るよすがとなるものでもあります。
 お互いに。

 もっと言うと
 いつか病状が進行して別の困難に遭遇した時に
 その方が別の場所で別の誰かを信頼しようとするかどうかにも
 関わってくることなのだと感じています。

 

2−2)再認困難で、私との疎通を自覚できない方
あまりにも訴えが切迫していて
こちらの声かけが耳に入らないような状態も起こり得ます。
そのような時には言動を否定すると火に油を注ぐようなことになって
逆効果となってしまいます。
認知症のある方の言動を否定せず、安全確保を最優先にして見守ります。
関与しながら観察していると必ず変化を感受することができます。
その変化を見逃さず「介入」します。
その方が感じているだろう感覚を言語化することによって
私との疎通を図ります。
こちらに注目を向けることができれば
その感覚に対応する行動に繋げます。
「イマ、ココ」という現実に戻っていただくために
感覚の表現と表現された感覚に基づく行動をきっかけにします。
ここで応じていただければ、焦らなければ
リハの場面へ誘導することが可能となります。

  ただし、ここでリハの場面設定「 何をどうするか 」が曖昧だと
  また混乱に戻ってしまうことも起こり得ます。

混乱しないで場面の切り替えに応じてもらえるためには
認知症のある方にとって明確な場面であることが必須で
ここに状態像把握が必須
能力の活用が必須という意味があります。
「帰宅要求のある方に対して(2)」

 

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