Category: 教科書的基礎知識篇

「食べる」再学習:基本

中核症状とBPSD

認知症がある方で「食べる」困難のある方でも
多くの場合、もう一度食べられるようになります。

なぜならば
「口を開けてくれない」
「ためこんで飲み込んでくれない」
「吹き出すほどムセる」
などの「食べる」困難は
多くの場合に、認知症という状態のせいではなくて
不適切な介助にすら的確に適応しようとして誤学習を起こした結果だからです。

クリスティーン・ブライデン氏は
「異常な環境には異常な反応が正常だ」
と言いましたが、まさに!

誤介助によって引き起こされた誤学習なので
正の介助ができれば正の学習が起こります。

 正の介助ができるためには
 摂食・嚥下5相の知識があり
 認知症の知識があり
 それらの知識に基づいた「食べ方」の観察ができ
 「食べ方」に反映されている能力と困難を洞察することができる
 ことが前提要件その1です。

 前提要件その2は
 スプーン操作をはじめとする
 的確な食事介助を行える技術を持っていることです。

 現実には
 (残念なことですが)
 2つの前提要件をクリアできている人って
 そんなにいるものではありません。

 つまり、
 今、私たちが見ている

 認知症のある方の食べる困難は
 前提要件を満たしてない人が介助した結果の姿です。
 
 そして、
 前提要件を満たしていない人は

 前提要件を満たすこととの違いを
 説明されてもわからないということは往々にしてあることです。

 でも、この現実は裏を返せば
 2つの前提要件をクリアしさえすれば
 認知症のある方や生活期にある方の「食べる」困難を激減させることは
 可能だということを意味しています。
 (この問題については、別の記事で詳述します)

話を元に戻すと
正の介助、正の学習のために
イマ、ラクに、食べられるように食環境を調整します。

多くの場合に
いったんは、食形態を下げる必要があります。
再学習が起こりやすいように
今の能力でラクに食べられるように
「食べる」失敗体験をしないように。

このようなお話をすると
難色を示す人が大勢います。

たぶん
食形態を落とすともう二度と今までの形態が食べられなくなる
と心配するのではないかと推測します。

でも
そのような心配が起こるのは
「食べられなくなったのは認知症のせい」という考えが潜んでいるからです。
現実は違います。
「食事介助を受けている方が食べる」とは
認知症のある方と介助者との協働作業に他なりません。

「食べる」再学習が進みやすいように
いったんは食形態を落とし
適切な食事介助が行えれば
その方の能力に応じて
もう一度以前の食形態で食べられるようになる方の方が
圧倒的に多いのです。
 
「食べられなくなったのは誤介助誤学習のせい」と知れば
食形態を落とすことへの心配よりも
自身の介助の適切さへの心配の方が先立つはずです。
そのような方は
「認知症のある方も食べられるようになるスプーンテクニック」
をぜひ読んでみてください。
具体的に明確に介助において気をつけるべきポイントを説明してあります。

それでは
食形態と介助する食具を工夫することで
より適切な食環境を段階づけしながら提供できる
ということについて次からの記事でご説明していきます。

 

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対人援助の困難

関係性の中で能力が見出されていく

目の前にいる方の困りごとをなんとか手助けしたい。
その意志を支え、具現化するためには知識と技術が必要です。
 
そして手にした知識と技術は
「相手を変える、コントロールする」ためではなく
「相手を助ける」ために適用
するのだという認識こそが重要です。
ここが入れ替わってしまっている人に遭遇することも多々ありますが
対人援助職として、
いくら自戒しても自戒し過ぎることのない難しい側面なのだと感じています。

能力が見出される体験を重ねるたびに
援助という在り方を磨かされるように感じています。

認知症のある方も関係性を感受しています。
相手を変える、コントロールしようとする人に対する反応と
相手を助けようとしている人に対する反応と異なっていて当たり前です。

関係性の中で能力は発揮され、見出すことができる
その逆もあり得ます。

イチ臨床家として思うことは
普段の臨床にこんなにも直結することだから
学生や若手OTに対して
リスク対策として
臨床家として援助が的確に行えるように
対人援助職の厳しさと困難を伝えるべきなんじゃないかと考えています。

そうでないと
かつてある医師が
「作業療法は作業療法士によって潰される」
と言っていた未来が実現してしまいかねないと思っています。

その医師は、
作業療法のチカラを本当にわかっていたからこそ
作業療法士に期待していたからこそ
そう言っていたのだと思います。

その意味をわからない人たちが表面的に批判するという
なんとも言えない皮肉な様相が見られていました。。。

援助を具現化するためには
知識と技術が必要で
それらを適用する際には
援助の視点をぶらさない強さが求められるということの厳しさ
対人援助職の落とし穴、罠、表裏一体の困難
として
思いを深めるとともに
学生や若手OTにあらかじめ伝えておくことの必要性を強く感じています。

接遇とか理論とか客観性とかEBMとか
それらもいいけど
それらは、本質でも根本でもなくて
土台として、このことが分かった上での
接遇であり、理論であり、客観性であり。。。

何のための接遇か、理論か、客観性なのか、EBMなのか
ということをよく考えてみれば
あくまでも的確な援助をするための手段にしか過ぎない
ということがわかると思う。

何が本質で
何が手段なのか

混同していたら、的確な援助は難しくなります。

重要なことは
対人援助というのは
援助の名のもとに使役やコントロールに容易にすり替わり得る

ということを自分ごととして
きちんと自覚していることだと考えています。
 
ところが、現実には経験を重ねるごとに鈍感になっていく人も少なくないんですよね。。。
本来は経験を重ねるごとに、わかりかたが深まっていくはずなのに。。。

 

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なんちゃって目標からの脱却を

真贋を見分ける眼について考えていて
岩崎清隆先生の文章を思い出しました。

「骨董屋の丁稚には真贋を見分けられるように偽物は見せない」
といった内容だったと記憶しています。
「本物には本物だけが持つ品の良さがある。
 本物にしか触れていなければ偽物に出会った時に違和感を抱くことができる。」

ネットで検索してみたら
「くらしのくら」というサイトに
「職人の弟子には本物だけを見せる」という記事がありました。

私は作業療法は実践の科学、
いわば作業療法士は職人だと思っていますから
知識と技術の伝承という問題はずっと考え続けていることの一つです。

そんな時に、なんちゃって目標が記載されているサマリーを受け取りました。
明らかに目的やリハ内容であって目標じゃないのに目標として記載されています。

そうなんです。
なんちゃって目標によく遭遇するんです。。。
養成校の教授がなんちゃって目標を発表しているケースに遭遇したことも一度ならずあります。

これはもう明らかに養成の問題です。

OTもカリキュラムが変わって教えるべき内容が深く広くなってきていることや
臨床実習においてもハラスメント防止の観点から
時間内に学生を帰らせないといけないので指導時間が限られていることや
実習形態も変更しなくてはならないから
教員の先生方も実習指導者も今までにも増してご苦労があるのだとは思います。

でも、最初に「目標とはなんぞや」ということを
はっきりと教えれば良いだけですし
目的や方法との違い、その見分け方もちゃんと教えれば良いだけです。
つまり、概念をきちんと教えれば良いだけです。 
 
実習地では、実際のケースをもとに
教えられた概念を個別に具現化していく作業なので
「うん、良い目標だね」
「これはね、目標じゃなくて目的だよ」「こう考えたら目標になるよ」
具体的に現実的に教えれば良いだけです。

目標の概念を学び、具現化した体験があれば
なんちゃって目標に遭遇した時にすぐにわかります。
なんちゃって目標を本物の目標に修正するための方策も
概念として学び、具現化した体験があれば実践できるようになります。

なんちゃって目標から脱却できないと
漫然としたリハの提供から脱却することが難しくなります。
対象者に対して適切なリハを提供するための自己修正ができないからです。
自分の方針や目的、治療内容を目標として設定していれば
手段の目的化となり、自己正当化するだけとなってしまいます。

理論だ、OT科学だ、といろいろなことが言われていて
OTの発展のために必要なことかもしれませんが
現場最前線で働いているイチOTとしては
もっと足元を見直すことが必要な気がしてなりません。

よくわかっていない指導者が発する言葉に
「頭の中ではわかってるんだよね。
 ただ言葉にできないだけだから気にしなくていいよ。」
「今は学生だから難しいけど、働けばそのうちわかるようになるよ。」
といったものがあります。

そんなことはあり得ません。
臨床に出て働き出せば、実習生の時にように
目標設定の適否について指摘する人がいなくなるだけです。
困ることに直面させられる機会が減るだけで
目標設定の能力が向上したわけではありません。

だから
初めて新人を教育する立場や実習指導者の立場になった時に
目標設定の難しさや指導することの困難に遭遇するのではないでしょうか?

先輩や上司に相談しても
的確な答えを教えてもらえず
悶々とした気持ちを抱えつつも
どうしたら良いのかわからずになんとなく流され
そのうちに悶々とした気持ちも忘れて
「それでいいんだよ」と言うしかなくなってしまった。
そんな自分に心の奥底でチクッと胸が痛みつつ。。。
違うかな?

目標とは何ぞや
なんちゃって目標からの脱却方法についての
「 ご提案 」をしています。
興味のある方はぜひご参照ください。

 

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食べられるようになると疎通も改善

意思疎通困難な方が食べられるようになると
意思疎通も改善するということは多々あります。

食事介助を単に
「食べさせる」「口の中に入れる」こととして実施している人には
決して遭遇できないことですが
食事介助を本当に
「食べることの援助」として実践している人は
何回も遭遇しているはずなんです。

食事摂取困難、食事介助困難な方の場合に
「食べることの援助」をするということは
認知症のある方が
食塊や食具やスプーン操作、声かけといった
「環境」をどのように感受し、認識し、適応しようとしているのか
ということを介助者が的確に感受・認識・対応することを意味します。

つまり、環境適応の援助を食事場面で行なっているわけで
食べられるようになった
=環境適応力の再学習ができた
=意思疎通の能力発揮も改善した
ということを意味しています。

「ご自分の世界に閉じこもっている」
と言われた方が
食べられるようになった時に
退室の挨拶をしたら
「どうもありがとう。気をつけて帰るんだよ。」
と言われたことがあります。

このようなことは枚挙にいとまがありません。

誤解を恐れずにはっきりと言えば
食事介助する人の知識と技術と観察・洞察の深度に応じて
認知症のある方の環境適応のチカラを
その表れとしての意思疎通のチカラや食べるチカラを
引き出すことができる
のです。

 

 

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ムセに関する大きな誤解

ムセについて
大きな誤解が蔓延しています。

「ムセ → 食事中止」
「ムセ → 水分にとろみをつける」

このようにパターン化した対応が現場あるあるです。

そもそも
ムセとは何か?
身体の中で何が起こっているのか?
について明確に言語化できる人がどれだけいるでしょうか?

認知症のある方への対応について
なんとなく従来通り行われてきたことを漫然と行っていることは
ヤマほどあります。
「言動を否定しない」
「褒めてあげる」
「なじみの関係を作る」etc.etc.。。。

よくよく考えるとおかしなことでも
意味や適否について考えることなく
「そう言われたからやってる」「みんながやってるからやってる」
というパターンが蔓延しています。
(それらに関して過去に複数の記事を記載してきましたので検索してみてください)

食事介助も同様なんです。
「ムセ → 食事中止」
「ムセ → 水分にとろみをつける」
いずれもおかしなことです。

まず「ムセ → 食事中止」の問題についてご説明します。

 

ムセとは
確かに誤嚥のサインです。
同時に、異物喀出という生体の防御反応でもあります。

「強く激しいムセ=ひどい誤嚥」という誤認をしている人が多いのですが
「強く激しいムセ=異物喀出機能の高さ」を示しています。

最も怖いのは
サイレントアスピレーション(ムセのない誤嚥)という状態です。
そこまでいかずとも、弱々しくしかムセられない方は要注意です。
異物喀出機能が低いことを示しているからです。

ムセたら、
異物喀出しようとしているのだということを踏まえて
しっかりムセきってもらえるように呼気の介助をします。

言うまでもないことですが
異物を喀出しようとしているのですから
この時に水を飲ませたりしてはいけません。

ムセが落ち着いたところで声を確認して
晴明な声であれば食事を再開できます。

痰絡みの声だったり、ガラガラ声であれば
再度咳払いを促したり、呼気の介助をします。
痰絡みがひどければ吸引することも必要です。
それでもムセが続くようであれば食事休止も必要です。

安易に食事中止しないように。
食事を中止する前にやるべきこと、できることはたくさんあります。

 

次に
「ムセ → 水分にとろみをつける」の問題について説明します。

ムセの有無だけを気にしながら食事介助している人は多くても
摂食・嚥下5相にそって食べ方の観察をしながら食事介助する人は
非常に少ないのです。

現実には
介助者の不適切なスプーン操作によって
準備期の能力低下により口腔期の能力低下を来してしまう方が大勢います。

ムセは咽頭期の問題ですが
実は、上記のような方の場合には、咽頭期の低下は二次的な問題で
本質的な問題は口腔期の能力低下にある
それは準備期の困難つまり不適切な介助に起因する
というパターンが本当に本当に非常に多く見られています。
そして、このことに気がついておらず
「認知症のせい」「老化のせい」にされているのが現状です。。。

口腔期の能力低下つまり舌の働きの低下が起これば
送り込みに支障が生じます。
「ムセたらトロミ」というパターン化した対応をしていると
口腔期の能力低下している方に高すぎる形態で提供してしまうことになるのです。
そうするとうまく送りこめず、ムセも改善されず
食べ方をきちんと観察・洞察できずに
パターン化した対応しかできない介助者は
「ムセたらトロミ、それでもムセるともっとトロミ」という
さらに高すぎる形態で提供してしまうので
「送りこめないからためこむしかできない」
「ためこんでいるから口を開けようとしない」
という至極当然の状態になりますが
目の前で起こっている現実をまったく見ようとしない介助者は
ここだけを切りとって
「ためこんで飲み込んでくれない」
「口を開けてくれない」
「どうしたら良いの?」
という問題として把握しがちです。

もちろん、中には咽頭期の機能そのものが低下しているケースもあります。
その時にはしっかりトロミをつけるべきです。

漫然とトロミをつけるのではなくて
きちんと食べ方を観察・洞察した上でトロミの適否を判断することです。

食事介助の大きな誤解
ムセに関する大きな誤解

大切なことは
ケアの常識に流されずに
一般的に流布していることの「意味」を考える
ということです。

その時に根拠となるのは
基礎的知識です。
単に知っている、聞いたことがある、ということではなくて
基礎的知識の概念の本質を理解することです。

 

 

 

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スプーン操作を見直すべき兆候

対象者の方に下記のような兆候が見られたら
それは介助者がスプーン操作を見直すべき兆候でもあります。

<開口した時>
・舌が奥に引っ込んでいる
・舌が硬くなっている

<食塊をとりこむ時>
・顎が上がっている
・上唇を丸めずに閉じている
・口角から食塊がこぼれ落ちる
・引き抜いたスプーンに食塊が残っている
・正面ではなく介助者の側に頭部を回旋している

<食塊が口腔内にある時>
・咀嚼・送り込みに時間がかかる

<食塊を嚥下する時>
・喉頭が完全挙上しない
・喉頭が複数回挙上する

これらは、見ようと思えば今すぐに誰にでも観察できることですが
たいていの場合に、上記兆候は観察されず
「見れども観えず」
視界に入っているはずなのに意識化されていません。

上記兆候は
介助する側の人の不適切なスプーン操作が原因となって
引き起こされたり、増悪されたりしている兆候です。

つまり、改善可能な状態像なのに
見落とされていて対処されていないのが現状です。
 
食事介助の時には
ムセの有無しか確認していない人がとても多いのが現状です。

しかも、
強く激しくムセるとすぐに食事中止を指示する職員がとても多いという問題もあります。

ですが、このような対処は合理的ではありません。
ムセとは何か?
身体の働きについて本質を知ることなく思い込みで対処しているだけです。

この問題については次の記事で。

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食具の工夫:介助

通常は普通のスプーンで介助しますが
場合によっては、全介助でも異なる食具を使うこともあります。

写真上の赤いスプーンのように
幅が狭くて浅いスプーンを使ったり
箸やシリンジで1ccずつ介助したこともあります。

認知症のある方や生活期にある方は
口腔内にちょっとした困難を抱えていることが多く
ちょっとした困難をちょっとした困難のまま
食べられるように維持していくことが大事だと考えています。

ところが、現実には、ちょっとした困難を観察・洞察できず
低栄養・脱水を回避するために結果として
「食べることの援助」ではなく「食べさせる」ことになりがちです。
そこから誤介助誤学習の悪循環に陥ってしまいがちです。

開口しない、ためこむ、抵抗するなど食べようとしなくなった場合に
単にスプーンでなんとか食べさせようと介助をすることは
ネガティブな体験の再認の強化になってしまい
食べることの再学習を阻害してしまいます。

誤介助誤学習の悪循環から抜け出すためには
まず、介助を変えることです。
その一つとして、スプーン、食具を変えます。


シリンジで液体の栄養補助食品を介助したり


液体の栄養補助食品をストローで摂取してもらったり


箸で栄養補助食品のゼリーやソフト食を介助します。

「ラクに食べられた」体験ができるということは
ポジティブな体験の再認の強化にもつながります。

重度の認知症のある方でも再認できる方は非常に多くいます。
ADLは体験を通して再認を促しやすい場面でもあり
特に「食べる」ことは究極の手続記憶ですから
毎回の食事介助が再認の促しの場面になっているとも言えます。

ここで気をつけていただきたいことは
再認はポジティブにもネガティブにもどちらにも働く
ということです。

現状では
善かれと思って
でも知識と技術が伴わない、観察と洞察が不十分な場合に
結果として毎回の食事介助でネガティブな再認の強化をしている
とも言えます。

この悪循環から抜け出すために
「ラクに食べられた」というポジティブな再認を促すために
食環境としての食具を変えます。

対応が適切であれば
そのうちに開口がスムーズになってきますから
その段階で通常のスプーンに切り替えていきます。

介入直後から食べ方の改善を実感できますが
どんな人にでも目に見えてわかるくらいに
食べ方が改善するには1〜2週間かかります。
その後通常の介助に移行できるまでに
もう2週間ほどかかることが多いです。

その間、ご本人が余分な苦労をすることになってしまうので
「予防にまさるものなし」
問題が表面化する前の段階で
(食事介助に困難も負担も感じていない段階から)
適切なスプーン操作
喉頭の完全挙上を必ず視覚的に確認しながら
食事介助してほしいと切に願っています。

「口を開けてくれない」
「ためこんで飲み込んでくれない」
「食べるのを嫌がる」
というのは、結果として表面的に起こっている事象に過ぎません。
ここだけ切り取って「さて、どうしたら?」と考えても答えは出ません。
まずは、それらに反映されている食べ方をきちんと観察することです。

摂食・嚥下5相にそって
食べ方を観察・洞察すれば
目の前にいる方に何が起こっていたのかがわかる。

だから、どうしたら良いのか
どのような食形態・食具・介助方法・場面設定をしたら良いのか
がわかる。

それらは自然と浮かび上がってくるものです。

考えることではないのです。

観察・洞察の結果
必然として導き出されるものなので
明確に浮かび上がってきます。

明確化できない時には考えてはいけません。

何が起こっていたのか、という観察・洞察が曖昧だから
明確化できないのですから
どうしたら良いのか考えるのではなくて
目の前に起こっていることをもう一度観察し直すことに
立ち戻れば良いのです。

 

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「あそこへ行く!」対応とそのココロ

前の記事「あそこへ行く!」の答え、
どう対応するのか、そして、その解説です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「あそこの向こうにある郵便局に行くんだ!」

 郵便局に行こうとしていたんですね?
 郵便局に行って何をしたいんですか?

「郵便局には〇〇さんがいてね。
 前に〇〇さんのことをいろいろお世話したんだよ。

 〇〇さんに言えばちゃんとやってくれる。
 洋服がたくさんあるんだ。」

 〇〇さんにちゃんとやって欲しいことがあるんですね。
 (両手を太ももの下に入れているのを見て)
 ところで、今、寒いですか?

「いや、寒くはないんだけどね、
 朝方寒くなったら嫌だから服を取りに行こうと思って」

 服を取りに行きたかったんですね。
 それでは、洋服のあるところにご案内します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 上着は、その方のお部屋のベッドの上にちゃんと畳んで置いてありました。
 その後上着を車椅子の後ろにかけて食堂に戻りましたが
 立ち上がることはありませんでした。

 

いかがでしたか?

それでは、私が何を意図して何をしていたのか
解説をしていきます。

この方は、最初から「手段(方法)の言葉」を使っています。

 「あそこに行く!」

あそこに行って、何をしたいか ということは言っていません。
そこで、まず最初に目的を尋ね返しました。

  あそこに行って何をしたいんですか?

それに対する答えが
「あそこの向こうにある郵便局に行くんだ!」と
もう一度、「手段(方法)の言葉」で答えられました。

そこで、再度、目的を尋ね返しました。

  郵便局に行きたいたんですね?
  郵便局に行って何をするんですか?

  ここは、口調に気をつけないと。
  詰問しているような口調にならないように気をつけながら
  語尾は小首をかしげるようにして尋ねました。

そこで、ようやく、この方がしたいことを答えてくれました。

  〇〇さんに言えばちゃんとやってくれる。
  洋服がたくさんあるんだ。

ちゃんとやってほしい。
その気持ちを受け止めたことを言葉にして伝えます。

  〇〇さんにちゃんとしてほしいことがあるんですね。

何をちゃんとして欲しいのか、尋ねてみないとわかりません。
洋服に関係あることだと言っています。

ここでその方の様子を確認すると、両手を太ももの下に入れています。
この方は寒がりだし、両手を太ももの下に入れてるのは寒いからかな?
と思って具体的に尋ねてみました。
イマ、ココでのその方の感覚を確認する言葉です。

  ところで、今、寒いですか?

ここで、ようやく 目的の言葉 が出てきました。

「いや、寒くはないんだけどね、
 朝方寒くなったら嫌だから服を取りに行こうと思って」

この方が
あそこに行きたかった
郵便局に行きたかった
本当の理由は、上着を手元に置いておきたかった
ということがわかりました。

このように
認知症のある方が
何かしたいと思った時に
直接的にしたいこと(目的)を言葉にせずに
したいことを達成するための手段(方法)の言葉で表現することは
よくよくあります。

そのことを職員が認識せずに
表現された言葉だけを切り取って
「あそこへ行きたい」
「郵便局へ行きたい」と言われた時に
「郵便局なんてここにはない」
「今は寒いから郵便局には出かけないほうがいい」
「あそこはパントリーでその向こうは廊下。よく見て」
「そんなことより、お茶でもいかが?」と言ったり
あるいは
「じゃあ、あそこへ行ってみましょう」と車椅子を押して行って
「郵便局はありませんよね?」などと言っても
かえって大声で怒鳴られまくって立ち上がり続けて
ほとほと困り果ててしまう。。。ということも現場あるあるです。

でも、よくよく考えてみて下さい。

上記のような職員の対応は
「立っちゃダメ」「立たないで」と言われても、
それでも、なおかつ

どうしても郵便局へ行きたいと思う、あなたにとっての必然を教えて下さい。
ではなくて
  あなたが何をしたいのかは感知しない
  あなたの言っていることはおかしなことだ
  おかしなことを言っているとわかってね
と言っているのと同じなんです。

だから
「やっぱりあんたは私の話を聞いてくれないじゃないか」
「だから〇〇さんじゃなきゃダメなんだ」
「郵便局に行くって言ってるのに違うところに連れてきただろう」
「なんでこんなところに連れてきたんだ!」
「そうやって私を言いくるめようとして!」
「私のことをバカだと思っているんでしょう!」
と怒り出してしまう。。。

それに対して
この方は最近怒りっぽいから認知症が進行したのかな?と
認知症のせいにして、自身の関与を吟味検討することなく終わってしまう。。。

でも
この方の怒りはもっともなこと、正当な怒りではないでしょうか?

この方が本当は何をしたいと思っているのか
困っていることは何なのか
答えることができるのは、その方だけ
対象者の方だけです。

対象者の方は答えている
答えを聴くためには工夫が必要
です。
私たちは聴けている?

 

答えを聴くために必要なのは
知識の明確な認識であり、
その知識をもとにした観察・洞察であり、
自身の意図を的確に実現できる技術です。

 

詳細は
「声かけの工夫の考え方」
に説明してありますので、ぜひご参照ください。

この記事で説明している
「手段(方法)の言葉と目的の言葉」を理解しておくと
認知症のある方とのコミュニケーションの質が上がり
ケアの質、対応の工夫の質が格段に上がると思います。
(ただし、適切に実践できるためには反復練習が必須です)

もうひとつ
大切なことは「声」です。
「何」を言うか考えても
口調に無頓着だったりすると
認知症のある方は口調のキツさに反応して怒ってしまうことがあります。

認知症のある方への声かけ、コミュニケーションにおいて
What、言葉だけでなく
How、声もcontrol して選択しながら関与できることが大切です。

認知症のある方の答えを聞いているようで本当には聴かずに
表面的な困りごとをどうやって収めるのか考える風潮もあります。
もちろん、私たちの手は2本しかないから
気持ちがあっても収める、しのぐしかない時だってあります。
そのような時には、しのぐ自覚のもとに正々堂々としのげば良いと思います。
ただし、決して「しのいでいることと適切な対応の混同をしない」ことが重要です。
だって、違うんですから。

今はどの職種も忙しい。
時間も人手も限りがあります。
だからと言って
事実と内心の要請とを混同するから話がややこしくなってしまいます。
課題解決において、この混同も現場あるあるではないですか?

本当に適切な対応は時間もかかりません。
適切な食事介助をすれば15~20分程度の通常時間内で食べられるようになるのに
適切なスプーン操作ができないから
対象者の食べるチカラが混乱・低下し、
結果として食事に要する時間が40分もかかってしまう。。。

同じコトが違うカタチで
認知症のある方への対応全般に関しても起こっているだけです。

まず、考えるべきは適切な対応、食事介助ができることであって
それは可能なのだということを実践し伝えることが
このサイトでの役目のひとつだと考えています。

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