Category: 教科書的基礎知識篇

「あそこに行く!」

転倒リスクの高い方が
食堂からパントリーを指さして
「あそこに行く!」と言って立ち上がろうとしています。

(あそこに行って何をしたいんですか?)と尋ねたら
「あそこの向こうにある郵便局に行くんだ!」と答えました。

パントリーには食べおわった食器が並んでいます。
パントリーの向こうは廊下です。

さて
あなただったら、どう対応しますか?

答えは
今週の土曜日、2月19日に掲載します。

 

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概念の明確な理解

認知症のある方の
生活障害やBPSDといった困りごとの改善や
能力と特性の発揮のためには
評価、アセスメント、状態把握ができることが重要です。

評価、アセスメント、状態把握とは
決して、検査やバッテリーをとることではありません。
その時その状況を事実に即して、観察・洞察できることを意味しています。

観察・洞察というと
客観的ではない、科学的ではない、根拠に乏しい
といった批判もあるようですが
批判されるべきは、未熟な観察・洞察であって
観察・洞察そのものではありません。

観察の解像度を上げるためには
知識の習得が必要です。

知識の習得とは
単に知っている。ということではありません。

概念を明確に理解することです。

曖昧な理解しかできないから観察し損ねている人がたくさんいます。
その代表例が、「短期記憶」です。
この言葉、概念の誤認と誤用については
「現場で役立つ認知症研修会ー観察力を磨く」において説明します。

他にも、遂行機能障害、構成障害という
認知症のある方の生活障害に大きく関わっている障害について
言葉は学校で聞いたことはあっても
意味を明確に説明できない人はたくさんいます。

「わかっちゃいるけど言葉にできない」
と言う人もたくさんいますが
本当にわかっていれば明確に言語化できます。

  明確な言語化を突き詰めた先に
  どうしても言葉にできない領域がありますが
  突き詰めてもいない人にはそこまで到達できません。

遂行機能障害や構成障害とは何ぞや
という言葉の意味を言語化できないから観察できないのです。
観察できないから、当然、障害も能力も洞察できない。
結果、検査やバッテリーを活用するのではなく
検査やバッテリーにすがるしかなくなってしまう。。。
そのような人には観察・洞察とはどういうことか見当もつかないことだから、
観察・洞察を批判する。。。
最も大きな瑕疵は、自身が観察し損なっていることの自覚がないことです。

  本当は無自覚に意識下では、気がついていると思う。
  でも自覚してしまうと困るのは自身だから
  困らないように自覚することを回避しているんじゃないかな。。。?

けれど
観察し損なっているという自覚さえ芽生えれば
観察できるようになるチャンスがある
ということでもあります。

答えは常に目の前にあります。

そのためには
概念を明確に理解することが最初の一歩です。

ピンチはチャンス

 

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「現場で本当に役立つ認知症研修会」

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
この1年が皆様にとってますます良い年でありますように。。。

「事実の子たれよ。理論の奴隷たるなかれ。」(内村鑑三)

「書かれた医学は過去の医学である。
 目前に悩む患者の中に明日の医学の教科書の中身がある」(沖中重雄)

この二つの言葉は
私が臨床実践において大切にしている言葉でもあります。

臨床での蓄積をカタチにするために参考書的な立ち位置を目指して
2020年度に立ち上げたサイト
「OT佐藤良枝のDCゼミナール」
2021年度はコツコツと構築してきました。
2022年度はよりわかりやすく伝達するために
オンラインでの勉強会を計画しています。

その一端として
2021年3月9日(水)20:00〜20:40に
「現場で役立つ認知症研修会」をZoomにて開催します。

参加費無料
どなたでも参加できます。

「〇〇という時には△△する」
という表面的にハウツーを当てはめるような臨床思考は
「その人に寄り添ったケア」という理念と相反する在りようです。

理念は唱えているだけでは実現することはできません。

では
「その人に寄り添ったケア」という理念に沿った実践が
できるようになるためにはどうしたら良いのか

「関与しながらの観察」( Harry Stack Sullivan )
の実践によって可能となります。

まずは
認知症のある方に、その時何が起こっているのか
洞察できるようになることから始めます。

洞察できるためには
生活障害やBPSDを含めた表面的な事象に
反映されている能力と障害を観察できるようになることです。

観察できるようになるためには
知識が必要です。

第1回目の今回は
40分という限られた時間の中でも
知っていると役立つけれど、教えてもらえる機会が少ない知識について
 概念を明確化することによって観察することが可能となる
 ということをきちんとお伝えしたいと思います。
実際の現場ではどんな風に現れるのか
観察と洞察の具体例について
お伝えします。

残席わずかとなりました。
お申込をお考えの方はお早めに。

詳細・お申込・お問合せは
https://yoshiemon.info/2021/12/26/study/3565/
からどうぞ。

 

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帰宅要求への対応

リハ中に帰宅要求のある方へ対して
どのように考え対処すると良いのか。という提案です。

まず、多くの人が
どうやって帰宅要求から気を逸らして
リハに集中してもらえるか考えるようですが
そうすると逆効果になってしまって
認知症のある方にも悪いし
自分自身も辛くなったりしませんか?

私は
まず、再認可否について確認しています。
その確認は、困った場面に遭遇してから行うのではなくて
普段のいろいろな関わりの中で自然に行えますから
近時記憶の連続性とか再認可否については
意図的な質問やポイントを見逃さずに
あらかじめ確認しておくと対応の幅が広がります。

さて
実際の対応ですが、下記のように
状態像によって対応を変えています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   ・
・                           ・
・ 1)    再認可能な方              ・
・ 2−1)再認困難だが、私との疎通を自覚できる方 ・
・ 2−2)再認困難で、私との疎通を自覚できない方 ・
・                           ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1)    再認可能な方
HDS-Rが1桁の方でも再認可能な方は少なくありません。
再認可能な方には、きちんと事実を説明するようにしています。
再認可能なので説明された事実を受け入れてもらえます。
「帰宅要求のある方に対して(1)」

注意点としては、受け入れやすい説明を心がける
ということでしょうか。
特に声の大きさや口調といったノンバーバルな表現に
こちらの感情が反映されやすく
また認知症のある方も反応しやすいので
少なくとも自覚的であるべきであり
できれば意識的にコントロールできると良いと思います。

 

2−1)再認困難だが、私との疎通を自覚できる方
再認困難でもきちんと私との疎通を自覚できている方には
その方にとっての切実な裏付けとなっている感情表出を
妨げないように話を聴きます。
始めは表出することに精一杯です。
表出に精一杯な時にはまず表出してもらうことを優先します。
そのうち、変化が生じます。
ちゃんと聴けていれば必ず変化を感じるものです。
表情や口調や身体の動きなどノンバーバルなところに現れます。
その変化を逃さずに「介入」をします。
どんな介入をどんな風にというところは、
その時その方の変化に応じて異なります。
関与しながら観察していれば、
その時その状況のその関係性において
どうしたら良いのかという答えを感受することができます。

 その方から「お話しちゃってごめんなさいね」と言われれば
 すぐにリハの場面を伝え何をどんな風にするのか伝えますし
 (それで済んでしまうことも多々あります)
 幾多の人生の困難を乗り越えてきたその方法を尋ねて
 答えてもらうこともあります。
 (あなたは困りごとを乗り越えてきたと暗に伝える意味がある)

 これらのやりとりを通して
 信頼「感」が醸成されることはよくあります。
 私が誰でどういう仕事かは忘れられてしまっても
 なんとなくでも頼りになる人だと思っていただける。
 いい加減なことを言ったりしたりする人ではないと思っていただける。
 それは本当に困った時に、頼るよすがとなるものでもあります。
 お互いに。

 もっと言うと
 いつか病状が進行して別の困難に遭遇した時に
 その方が別の場所で別の誰かを信頼しようとするかどうかにも
 関わってくることなのだと感じています。

 

2−2)再認困難で、私との疎通を自覚できない方
あまりにも訴えが切迫していて
こちらの声かけが耳に入らないような状態も起こり得ます。
そのような時には言動を否定すると火に油を注ぐようなことになって
逆効果となってしまいます。
認知症のある方の言動を否定せず、安全確保を最優先にして見守ります。
関与しながら観察していると必ず変化を感受することができます。
その変化を見逃さず「介入」します。
その方が感じているだろう感覚を言語化することによって
私との疎通を図ります。
こちらに注目を向けることができれば
その感覚に対応する行動に繋げます。
「イマ、ココ」という現実に戻っていただくために
感覚の表現と表現された感覚に基づく行動をきっかけにします。
ここで応じていただければ、焦らなければ
リハの場面へ誘導することが可能となります。

  ただし、ここでリハの場面設定「 何をどうするか 」が曖昧だと
  また混乱に戻ってしまうことも起こり得ます。

混乱しないで場面の切り替えに応じてもらえるためには
認知症のある方にとって明確な場面であることが必須で
ここに状態像把握が必須
能力の活用が必須という意味があります。
「帰宅要求のある方に対して(2)」

 

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中核症状をみるーはじめに

中核症状をみる「認知症は難しい」という言葉をよく聞きます。
確かに難しいけれど、認知症だから特別に難しい…とはあんまり感じたことがありません。
むしろ特性なんかはかえってわかりやすいようにも感じています。
そこで、認知症のどこが難しく感じられるのか、考えてみました。

もしかしたら…と思ったのは、他の障害たとえば片麻痺の場合には評価(すべき?)「項目」を教えられています。関節可動域、麻痺の状態、感覚…etc。etc。
そしてそれらは標準化された方法があり、それに則って検査することが求められています。
つまり、何をやるのかがはっきりしている。
(もちろん、検査=評価ではありませんが)

ところが、認知症は…もしかして評価(すべき?)「項目」を列挙できないから、何をどうしたらいいのかがわからない…のではないかと考えました。
だから、認知症のある方の状態像が把握できないのかも。
だから、表面的なハウツーを結局望んでしまうのかも。
だから、看護介護職員はBPSDで困っているのに「ROM、筋力強化、座位訓練」といったパターン化したリハが提供されることになってしまうのかも。

そこで、最初の最初。
評価実習の学生さんがアルツハイマー型認知症のある方を担当したと想定していくつかの記事を書いてみようと思います。
そうすれば、学生さんにも就職したばかりの若手作業療法士にも認知症のある方を久しぶりに担当した中堅・ベテランの作業療法士にも、もしかしたら…臨床での指導という側面で教員の方にも何かお役に立つことがあるかもしれない…などと思いつつ (^^;

まずは、中核症状を評価するように促します。
学生さんでよくあるパターンが、学生が気になったことを意味や優先順位も考えずにどんどんと掘り下げていこうとしてしまうことです。評価しなくちゃ、考えなくちゃ…と気持ちばかり焦っていると陥りやすいところです。
そうではなくて、まずは中核症状を評価することの意味を説明します。
生活障害は中核症状に起因して起こること、そして生活障害を改善するためには症状の裏返しとしての能力を把握してはじめて対応の工夫を考えることができるのだということを伝えます。
(この段階では学生さんは聞いていてもおそらく本当には意味がわかっていません。でもそれでも今はよいのです。伝えておくことに意味があります。)
能力を把握するための前段階として障害の有無とその程度を把握するのだということを伝えます。
中核症状とは…記憶障害、見当識障害、言語機能障害、高次脳機能障害、実行機能障害など。です。
まず、これらの言葉とその概念を確認します。
私は学生さんに概念を尋ねて答えてもらうようにしています。そうすると学生さんの理解の程度を把握しやすくなるからです。
概念が答えられれば次に進みます。答えられなければ復習することを促します。

蛇足ですが…私は中核症状と能力のスクリーニングは最低限、最初にしておく必要性があると考えています。
たとえ、トップダウンのアプローチや対象者のやりたい作業を決めることから始めたとしても、対象者の現状のおおまかな把握ができずに適切なアプローチを選択することは困難だと考えます。
詳細な評価は必要に応じて後から追加で実施しても間に合うと思いますが、スクリーニングだけは不可欠と考えています。

次回から、中核症状のそれぞれの説明と臨床での体験談をからめてご説明していきます。

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BPSDへの対応とその視点・考え方

BPSDへの対応とその視点・考え方徘徊や暴言、暴力、異食や大声等のBPSD(Behavioral and Psychological Smptoms of Dementia:認知症の精神・行動症状)は、ご本人も介助者も困ってしまいます。
タイトルに引かれてこのサイトを訪れてくださった方は、きっと今何かしらの困りごとを抱えておられるのではないでしょうか。
ケアの分野でよく言われているようなことは一通り試してみたけれど、なかなか現実が変わらない…どうしたらいいのだろうかと思い悩んでおられるのではないでしょうか。
「認知症のある方が言っていることは否定しちゃいけない」って言うけど、じゃあいったい何て言ったらいいんだろう?って思いませんか?介助者が我慢だけを積み重ねたり、嘘をついて迎合したりするのってやっぱりヘンだって思いませんか?

BPSDに対して、多くの人が「問題視」して現状をなんとか修正・改善しようとして「対応策」を考える…というのが現在のケアの常識のように感じています。でもその立ち位置は、現実的に私はあまり有効ではないと感じています。そのような方法論が依拠する視点、考え方に疑問も抱いています。
私が有効だと実感しているのは「BPSDも状況・場面に対するアウトプット」だという考え方です。「BPSDは能力があるからこそ起こる」「能力の現れ方が不合理なだけ」「BPSDの原因などわからない。その場面でその人にとって必然をもって起こる」「より合理的なアウトプットのために能力を活用する」という視点、考え方です。

リハの分野でもケアの分野でも相互関係論であるICFをとりいれるという考え方は常識になっていると思います。このことに異論がある人はいないと思います。
けれどBPSDの原因を探索し原因に対応するという考え方は因果関係論であるICIDHそのものです。片方でICFを提唱しながら片方でICIDHに基づく方法論を提唱するというのは合理的な考え方とは思えません。
このように一見もっともな、でもその実不合理な現状に違和感を抱いている人は本当は私だけではないと思います。ただ言語化できないから、言われていることが何となく変だと思いつつもどこがどう変なのかわからない。ただ違和感だけはずっと残っている…。違うかな?

具体例を挙げて考えてみたいと思います。
たとえば、食事場面におけるBPSDは案外多いものです。
口を開けてくれない、スプーンを噛んでしまう、大声などのBPSDは職員なら一度は遭遇したことがあるのではないでしょうか。
介護保険下のさまざまな施設で「BPSDを改善」しようと思って「不安や不快の原因を探索」「親切丁寧に優しく接する」「褒めてあげる」ことを一生懸命しても状態が変わらなくてほとほと困ってしまった…という方に接するのが今の私の職場です。
つまり、現在の常識と言われている対応をしても「BPSDを改善」することはできなかった方が対象者なのです。
私は、今、障害と能力を把握する・能力を合理的に表出できるように再学習を促すという視点に立って、具体的に指導することで結果としてBPSDが改善されるという体験をたくさんしています。そしてそれは私以外の職員でも再現できることなのです。もともとご利用されていた施設の職員やご家族でも再現できます。
ここで大切なことは、これらの現実が意味していることです。
つまり、重度の認知症のある方でも学習できる、学習しているのだという現実です。

食事の時に口を開けてくれない、舌で食塊を押し出してしまうという方が職員の介助に合わせて口を開けてスムーズに食べられるようになりました。
食べたくない、不快や不安なことがあってそうしているのではなくて、食べようとするとそのような食べ方しかできなかった。それに対して介助者が適切な対応ができなかった。なぜなら介助者がご本人の障害と能力をわからなかったからなのです。
ここで再確認をしておきたいと思います。
認知症というのは脳の病気です。
脳の病気によって起こる生活障害です。
脳卒中後遺症のある方に「褒めてあげる」「かまってあげる」「親切丁寧に接する」なんて考え方でリハやケアを提供している方はいないはずです。
同じ脳の病気なのに、なぜ認知症だけそうなってしまうのでしょう?
今、本当に求められているのは「BPSDをなくす方法論」ではなくて「BPSDというカタチであらわれている生活障害を障害構造として適切に把握し、不合理な現れ方をしている能力を、合理的な現れ方で活用できるように再学習を促す」という視点の変換なのではないでしょうか。

口を開けてくれない、舌で食塊を押し出す…という方は、協調性が低下していました。身体の唇、舌、顎を上手に連動させることが難しかったのです。
また、保続という症状もあったので不適切なパターンを自分では断ち切ることができずにいました。コップからの水分摂取はより適切なパターンで摂取できていたので、食べようとして不合理な食べ方になっている時には水分摂取をしてから食事を介助するようにしました。細かい過程をはしょって簡単に書いていますが、このような過程を経て適切に食べられるようになったのです。

もちろん再学習ですから新たな食べ方が定着するまでには時間がかかります。
途中必ずできたりできなかったりする過程があります。
変化の兆しが見えても一足飛びに変わるわけではないという認識を共有化しておくことが重要です。
そして、この間ご本人の気持ちを支えることも大切です。
それでいいのだと。このままで大丈夫なのだと。
直接言葉にしたり、言葉にならないもう一つの言葉で伝え続けることによって再学習の過程を支えることができます。
また、再学習の援助が適切に行えなければよけいに時間がかかるだけでなく逆戻りしてしまいます。まずは私たち職員が再学習の過程を妨げないことが第一優先なのです。

そのために私たち職員はもっと認知症という病気を勉強しなければなりません。
病気がわからなければ症状や障害を把握できない。
表面に現れている状態像に投影されている障害を把握することができません。障害を把握することができなければ、障害と表裏一体の能力を把握することもできません。不合理な現れ方をしている能力を合理的なアウトプットへと再学習を促すことができません。
表面的な大まかなBPSDとしての現れ方だけを見て、表面的に対応を考えるという非常に大雑把な現状だからこそ、適切な援助ができないだけなんだと考えています。(徘徊している方に対して、女性ならばタオルたたみをしていただく…というような在り方はもう終わりにすべきだと考えています)

私は現状を非難したくてこの文章を書いているわけではありません。
私たちが変われば、認知症のある方やご家族や職員が必要以上に困惑する現状を変えることができるということを伝えたいのです。
(モチロン、ゼロにはならないでしょうけれど、少なくとも今よりは良くなると確信しています)

「学問に王道なし」という言葉がありますが、認知症のある方に対して適切な援助ができるようになるための早くてラクな近道などはありません。

確認ですが、認知症という単一の疾患があるわけではありません。
認知症という状態像を引き起こすさまざまな疾患があります。
4大認知症と言われている疾患を挙げることができますか?
4大認知症と言われている疾患のそれぞれの症状を明言することができますか?
これができなければ適切な援助などできようはずもありません。
答えられなかった方は、まずは、最低限これら基礎知識から勉強しましょう。
脳卒中後遺症でどのような症状が出るのか知らずに、リハやケアに従事している人はいないと思います。同じように認知症の症状を知らずに適切なリハやケアができるわけがありません。
「認知症のある方へのリハやケアは難しい」という声をよく聞きますが、私に言わせれば知識がないからです。だったら知識を習得すればいいだけなのです。
図書の紹介は既にこちらのコンテンツでお示ししています。
「老年期認知症ナビゲーター」http://kana-ot.jp/wp/yosshi/261
講演の時にご紹介している本は「認知症テキストブック」中外医学社 です。
今からでも決して遅くはありません。是非お手にとっていただきたいと思います。

私は、認知症のある方へのリハやケアがより良いものになっていくことを心から願っています。
キーワードは「能力を活用する」だということを実感しています。
重度の認知症のある方でも、生きている限り能力がある。能力を発揮して生きている。
ただ現れ方が不合理なだけだということを。
同時に、ないものねだりはできない。失われてしまったことを取り戻すことはできない。ということも痛感しています。
だからこそ、今できている能力を大切にしたい。埋もれていて表面に現れない、不合理な現れ方しかできない能力を見い出し、活用できるようになりたいと願っています。

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作業提供の考え方

作業提供の考え方以前にある研修会を聴講した時に、他職種の方から講師に対して「認知症のある方に作業選択をどのように考えたらいいのですか?」という質問がありました。
他職種でもこんなに真剣に本質を考えている人がいるのだということを知り、とても嬉しく思いました。
ただ、その時の講師の答えはおそらく質問者が納得するものではなかったように感じました。

私たちは作業療法士として、自分が提供している「作業療法」を説明することが求められています。
少なくとも「療法」をうたって報酬をいただいている以上は。
正解ではないかもしれない、多数の賛同を得られるものではないかもしれない、けれど自分が今何を考えて行っているのかくらいは説明責任があると考えています。

そこで私が認知症のある方に、作業提供するにあたっては、こんな風に考えていますよ。ということをご説明しようと思います。
どれだけ賛同をいただけるかはわかりませんが、少なくとも臨床的には役に立つ。学生や他職種に説明する時には役に立つ考え方だと思っています。

まず、認知症のある方の特性にそって、作業の傾向を選択します。
次に、今の能力で可能な能力にそって、作業の種目を選択します。
最後に、障害と困難に対しては、場面設定で配慮をします。

たとえば
作業を媒介にして他者との交流を楽しむ方には、工程が明確で反復する要素の高い手仕事系を選択します。
短期記憶も近時記憶も障害されているけれど手続き記憶が保持されているので、2工程で遂行可能で穴に糸を通す手続き記憶を活用できる毛糸モップを選択します。http://kana-ot.jp/wpm/tips/post/162
手仕事をしている他者との少人数グループを設定します。
高齢のため、視力が低下しているので作業をする時の机とハンガーと毛糸の色は同系色を使わずに明確に違いが認識できるように選択します。
また、高齢で手指の巧緻性も低下しているので、努力しなくても円滑に作業ができるように毛糸に一工夫をします。http://kana-ot.jp/wpm/tips/post/237
この方は、作業の手を休めることなく、同時にOTRともその場にいる他者とも笑顔で話しながら30分~40分ほど毛糸モップを行っていました。
「みんなと仲良く働かなくちゃね」とよくおっしゃっておられました。

たとえば
豊かで繊細な言語表現に秀でていた方であれば、言語表現の機会を提供します。
認知症が進行していて抽象思考力・言語操作能力は低下しているけれど、具体的な日常生活場面での感覚(視覚、触覚、温度感覚)なら言語化できる方の場合には、散歩という種目を選択します。
刺激が多すぎないように静かな場所を選び、マンツーマンで、OTRからの質問は短い文章で端的に行うようにします。
暴言暴力介護抵抗のある方ですが、散歩の場面では「一点の曇りもない青空」という言葉をスッと口に出されていました。
若い頃は国語と漢文が得意だったそうです。

もし、その方に対して不適切な作業提供を行えば、認知症のある方は作業を継続しようとはしません。
認知症のある方は日々の暮らしの中で、毎日毎日イヤというほど喪失体験・失敗体験に遭遇しているのです。
生きるだけでも精一杯なのに、何を好んで辛い思いをそれ以上にしなくてはいけないのでしょう。
そのかわり、適切な作業であれば、認知症のある方は没頭します。
「楽しかった」「おもしろかったわー」と満面の笑顔でおっしゃいます。
ただし、休息をとっていただいたり、途中で切り上げることが難しいので、疲労しないようにあらかじめ工夫が必要です。

作業体験(単に手工芸に限らず)は、認知症のある方にとって「私は私である」ことの再認識を体験を通してもたらすことができます。それが一番の強みであり、また認知症のある方から必要とされていることだと考えています。
認知症のある方は、記憶障害に伴い、本質的には「私が私でなくなっていく」ことへの不安を強く抱いています。
現段階では、慢性進行性の疾患である認知症という病気を治癒することはできません。
もちろん、進行を少しでも遅らせるための薬物療法や非薬物療法はありますが、「私が私でなくなっていく」不安に対して、実はあまりアプローチされていないのではないでしょうか。

認知症のある方に作業を提供することの意味は、何かさせることによって気を紛らわせ落ち着かせることではありません。
まったくその逆で、適切な作業があるから没頭できた結果として落ち着くのです。
没頭できる…日々の暮らしの中でさまざまな困難に遭遇しても「私は私である」ことを自分自身の体験を通して再確認できる…認知症のある方にとってその場がどれだけ貴重な場か想像に難くはありません。

ただし、本当にパワーのあるものは用い方を謝れば逆効果にもなるのは世の常です。
作業療法は、下手をすると効果がないならまだしも、単なる使役に陥り、認知症のある方にとってこれ以上ないほどの苦痛でしかない「場」を提供してしまうおそれを常に内在しています。
作業療法士は作業療法そのものが抱える両面性…光と闇に、誰よりも自覚的であってほしいと願っています。

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評価の進め方ー最初の挨拶

評価の進め方ー最初の挨拶認知症のある方に出会ったら…
「認知症」という診断名がすでにある方なら、まず最初にADLとコミュニケーションを評価しましょう。
ADLとコミュニケーションのそれぞれについて
何ができるか、できないか。
どこまでできて、どこからできないか。
どんな風にできて、どんな風にできないのか。
これで、その人の現状がおおまかに把握できると思います。

そこからさらに詳細に現状を把握するために個々の要素について絞り込んだ評価をしていけばよいと思います。
その過程で、診断疾患から生じる症状がどんな風に現れているか
診断疾患にはない症状の有無についても確認できればなお良いと思います。

ここで重要なことは、必ず状況とセットで評価する…ということです。
状況というのは自分を含めた環境のことです。
ここが臨床ではよく見落とされがちでそのために適切な評価ができずに困惑してしまうということが起こりがちなのです。

一番最初は、まず挨拶から始まりますよね?
最初の自己紹介とご挨拶で、言語的な意思疎通の可否と短期記憶の可否が確認できます。
「○○さんですね?リハビリのよっしーと申します。初めまして。」
「〇〇さんの下のお名前を教えていただけますか?」
「□□という下のお名前はどう書くんですか?」 
このように尋ねてどんな風に反応が返ってくるのか…それが評価の第一歩です。
最初の自己紹介と挨拶が同時にスクリーニングの場でもあります。
もしも、この時点で適切な答えが返ってこないのであれば、その後の評価を構成的面接(場面設定)で行うことは困難だという判断ができます。それは評価場面の選択ができるということで評価できないということではありません。観察主体の評価から始めてみようという判断ができるのです。
そして、適切な答えが言語的に返ってこなかったとしても何らかの「応答」があったはずです。
その「応答」を異なる場面でも確認します。

また、言語的な意思疎通と短期記憶が可であれば、直接尋ねることができます。
「○○さん調子はいかがですか?」
「○○さんの暮らしの困りごとを一緒に解決していくのが私の仕事なんです。」
「〇〇さんのことをいろいろと教えてください。」

そして相手が答えたことに対して、質問をふくらませていく。
相手が答えていないことを尋ねる時には、答えなくてもよいという留保をつけながら尋ねます。

これらの評価をすすめる過程でその方の対応のパターンというものが滲み出てきます。
そのパターンから生活歴を類推することが重要です。

最初の評価ですべてを確認しようなどと思わなくてよいのです。
評価をしぼりこんでいく、回を重ねるごとに評価を深めていく、評価の精度を高めていくという姿勢が重要なのだと考えています。

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