私たちは
感知した情報をそのまま認知しているわけではない。
「見た」と認識した時点で
すでに「見たい」もの「見よう」としていたものを
無自覚のうちに取捨選択されたものを見ているし
「聞きたい」もの「聞こう」としていたものを
無自覚のうちに取捨選択されたものを聞いている。
そういう前提条件を自覚していないと
認知症のある方にとっての
視聴覚環境の把握を見落としたり歪めてしまうことにすら
なりかねない…と感じています。
明日はその補足説明をします。
11月 28 2012
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3月 16 2012
OTがなにか特別なことを企画して
対象者の方を楽しませたりとか
認知リハやトレーニングをしたりとか
それはそれで要請されていることでもあるけど
一番大切なことが一番疎かになってる
それは、ご本人ご家族にとって
どうしたら少しでも暮らしやすくなるのか
そのためにどういう工夫をしたらいいのか
ということを、具体的に現実的に言語化して伝えること
だと思う。
こんな風にしたらいいですよ
…等というマニュアル本もあふれていますが
Aさんに有効なことが
Bさんには無効なことだっていっぱいあります。
目の前のご本人にとって
本当に有効な方法論でなければ意味がない。
OTは医学的知識をもっている(はずです)
医学的な状態像、知識をもっている医師が
暮らしの困難改善のための具体的なアドバイスをしているのは
少数例だと感じています。
暮らしの困難に直面する介護職の多くは
医学的知識をもっていないので
アドバイスが表面的な方法論のレベルにとどまりがちです。
OTは医学的知識をもっている(はずです)
暮らしの困難が起こる状況の分析をできる(はずです)
対象者の能力と障害と特性を把握できる(はずです)
医学的知識に基づいて暮らしの困難の改善案を
具体的現実的に模索し提案するような 架け橋になれる(はずです)
OTがした場面設定という枠組みの中で
対象者の表面的な言動を観察をするのが仕事ではなくて
そこで表面的にあらわれている言動から
対象者の能力と障害と特性を把握すること
そして
日々の暮らしの困難を改善するために
具体的現実的な対応を言語化すること
一番大切で一番求められているのに
何故か臨床の現場では
疎かにされてしまっていることのように感じています。
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2月 17 2012
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12月 09 2011
評価として
記憶の連続性をみたり、見当識の状態をみても
それだけでは片手落ち
日々のいろいろな場面で起こったことを
記憶の連続性や見当識の状態と
関連づけて「何が起こっているのか」を推測できることが大事
もちろん、障害だけでなくて
代償もふくめて残存能力をどのように使っているかということも
そうやって考えると
身体障害と認知障害と
症状や障害は異なっても
なんら考え方に違いはないのよね
私たちは
現実的に具体的に
対象者の役に立つことをできるように評価するのであって
ただ単にチェックリストの項目を埋めるために
記憶の連続性をみたり、見当識の状態をみるわけではない
疾患特性による違いはあっても
それらを支える下部概念としての考え方は同じなんだよね。
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12月 08 2011
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12月 07 2011
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12月 06 2011
12/1(木)の記事「行為という自発的な場面の観察を」の続きです。
http://kana-ot.jp/wp/yosshi/176
どの疾患による認知症であれ
時や場の見当識が低下してしまった方は
自分がいるここがどこで何をするところなのかが
わからなくなったり、とりちがえてしまいます。
また、リハビリというのは
ある目標達成のために
ある目的をもって
ある一定時間、特別の場で特別のことを
対象者と作業療法士が恊働しておこなうもので
これら二重の前提条件の理解の上に
体操しましょう、歌を歌いましょう、これを作ってみませんか
…ということが成り立つわけですが。
ところが、この前提条件が共有できていないのに
表面だけ、何かしましょう…と言っても
「今はそれどころじゃない」となってしまいます。
もちろん、上手い具合に?取り違えてくれている場合もありますが。
大切なことは
単に、「なじみの関係」づくり…というのではなくて(^^;
障害としての見当識の低下という状態と
その代償を、何を使ってどのようにおこなっているのか
ということを、こちらが適切に把握できているかどうか…であって
どうやったら、リハビリにノってくれるかどうか
…などではないと思うのです。
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12月 05 2011
12/1(木)の記事「行為という自発的な場面の観察を」の続きです。
http://kana-ot.jp/wp/yosshi/176
私には忘れられない体験があります。
こちらが提供する活動に関しては、いつもやんわりとおことわり…。
後のほうの席で見学常連。
こういう方に対して、えてして職員側は
「なにかできることない?」
と現状を否定的にとらえがち。
「活動的になるように」対応策を考えよう
…なーんてことも少なくないんじゃないかしら?
でも、この方はとてもゆったりと中庭を眺めていらっしゃいました。
「鳥がなにかついばんでるから雨があがったんだな…と思って」
そう答えたその方のその時の表情を今でも覚えています。
豊かな場…というのは、1人1人違う。
こちらが設定した枠組みでは見落としてしまうことがある。
詳細はこちらに ↓
県士会サイト> 作業療法の魅力を語る> 作業療法を語る> 「私たち自身の在りようをみつめる」
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