Tag: 作業療法

他部門連携:ポジショニングのちょっとした工夫

他職種に
ポジショニングを説明する時に
設定した時の写真をとって
設定方法を書いて
注意事項も書くのですが
お部屋に掲示しても複数のクッションがあると
設定部位を間違えられてしまいます。

そこで
「対象に工程を語らせる」

クッションに
「どの部位にどう設定するのか」
書いたものをテプラで貼付してみました。

臥床時は赤色のテプラ、離床時は青色のテプラ
と色も変えて混同しないように工夫しました。

これでも間違えられることはありますが
頻度は激減しました。

設定方法について
質問したり確認してくれる人は良いのですが
「設定を間違える」という時点で
設定とその人の実践とに乖離があることがわからない
もしくは
乖離がきたすマイナスがわからない

ことを意味しているので
間違えるなと、言うのではなく
間違えにくいように、方法を提示する

ようにしています。

以前に何かの記事で
「施錠を忘れないように気をつけましょう」と言うのではなく
「施錠を忘れないような仕組みを考える」

という記事を書きましたが、その一例です。
 
再現性の担保についての工夫を
ポジショニングを例に紹介しました。

さて、
お気づきの方もいると思いますが
「対象に工程を語らせる」とは
認知症のある方への対応と同じことをしています。

そのココロについては、別の記事でお伝えします。

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4826

私が行っている集団リハ@認知症治療病棟


 
私が集団を運営する時には
並行集団を活用しています。
同じ場所、時間を共有するけれど
人によって何をするかは違う。。。という集団です。

課題集団(全員が同じことをする)を用いる時には
参加形態に許容性のある体操や音楽鑑賞を行います。

認知症のある方に対して
レク的にゲーム的なActivityを導入しようと
することが多いようですが
ゲームって難しいんですよね。

どんな簡単なゲームでもゲームにはルールがあります。
ゲームを楽しむことができるためには
 1)ルールの説明を理解でき
 2)理解したルールを覚えておき
 3)覚えたルールに則って行動する
という能力が要請されます。
近時記憶障害が重度な認知症のある方には、実は最も苦手な課題なんです。
だから、私はゲームは行っていません。

今日は
精神科病院の認知症治療病棟で
2時間の精神科作業療法を重度の認知症のある方に対して
どのように組み立てて実践しているのか、お伝えします。

最初に音楽鑑賞を行います。
音楽鑑賞の導入では、誰もがよく知っている有名な懐メロを流して
私が主導権をとった進行をして集団凝集性を高めるようにしています。
その後、「私がしている音楽鑑賞の進行」で書いたように
参加者ごとにリクエストを尋ねていきます。

音楽鑑賞後には水分補給を行います。
水分摂取しながら鑑賞を継続できるように
オートで曲を流していきます。
この時に飲み物の準備や配膳・下膳を行います。
お一人お一人のペースで水分摂取していただきます。
それはメリットでもあるのですが、
どうしても集団凝集性が下がってしまうので
もう一度集団凝集性を高めるために体操をします。
手続き記憶を活用できるように
ラジオ体操第一とみんなの体操を行っています。

その後、後半は鑑賞とActivityを並行して行います。
Activityは個人ごとに提供しています。
(書字やスクラッチアート、塗り絵、ちぎり絵、毛糸モップ、指編み、間違い探し等)

  役割分担してみんなで大きな作品を作る
  ということは、考えがあってやっていません。
  いずれ別の機会に説明します。

16名の集団に対して
音楽鑑賞とActivityを並行して提供し
Activityも個人ごとに提供するという二重の並行集団を作っています。
(今は半数の8名の方がActivityを実施しています)
16名の中には帰宅要求で落ち着かない方や
注意散漫な方や訴えの多い方もいますし
立ち上がって歩き出したら転倒のリスクのある方もいますし
褥瘡予防のために途中で除圧を目的とした介助立位の機会を設けたりと
私にも同時並行課題、注意分散能力を要求されるので大変ではありますが
だいぶ鍛えられてきました (^^;

最後は今日の流れを振り返った後に
締めくくりとしていつも同じ曲を流しています。
毎回同じ曲を流すことで「終わり」を印象付けることもできますし
スーパーでレジが立て込んできたら
ビートルズの「Help」が流れるのと同じように
看護介護職員へ「終わったからお迎えお願い」という合図にもなっています。

個人ごとに異なるActivityを提供するという並行集団を
円滑に運営するためのポイントは、準備をきちんと行うということです。
「段取り8割」ってよく言いますけど
まさしくその通りで
その方が遂行しやすいように
Activityの遂行方法を言葉ではなく場面に語らせる・対象に語らせる
ように準備しておく
 ということです。
(詳細はあちこちで書いていますので検索してください)

人によっては、
1分前のことも忘れてしまう方や
HDS-R実施困難な方でも

遂行方法を場面に語らせるように準備をしておけば
介助や声掛けをせずとも一人でActivityに取り組めることは多々あります
というか、それを念頭に考えています。。。

現場あるあるの誤解は
「HDS-RやMMSEの得点が低いからゲームに参加してもらったけど
 ペットボトルボーリングや輪投げや風船バレーもできない
 やっぱり認知症が重度だからしょうがないね」
というものです。

重度の方にゲームをさせたら、できなくて当然です。
仮に、できたとしても
一つひとつ何をするか指示されて、
その通りにしただけで、意味がわからなければ
その場褒められたとしても本当に達成感があるものでしょうか?

近時記憶障害が重度でも
手続き記憶の活用や遂行機能障害を的確に評価することによって
自身で行えるような場面設定の工夫の余地は生まれます。

 もしも、マンツーマンで個別で対応できるのであれば
 選択肢はもっと広がります。

 このあたりは、老健に勤務していた時に身体面認知面それぞれの
 自主トレ立案・提供を頑張ってきたことが
 下地となって役立っていると感じています。
 
並行集団でActivityを行えば
他人と比べる、比べられることがないので
実施に際して不安感が少しは減るのも良いところじゃないかな
と感じています。

 そもそも、並行集団って社会そのものなんですよね。
 いろいろな人がいる。
 いろいろなことをしている。
 ひととき、同じ時間と同じ場を共有している

Activityを導入するときに
多くの方がおっしゃいます。
「難しいことはできない」「私はバカだから」「不器用だから」

そう感じるに足るだけの失敗体験を積み重ねてきているのです。
だからこそ、Activityの仕上がりの綺麗さには留意していますし
ましてや、幼稚な下絵の塗り絵や輪投げなど
見た目が幼児向けのような課題を提供することは決してありません。

なお、この記事は
精神科病院の認知症治療病棟に勤務している作業療法士が
たった一人でどうやって
「集団」で
「2時間」の間
「対象者の方に有意義な作業療法」を
実施・提供・運営するかという観点で書いたものです。

職場環境や施設特性や対象者の状態像が変われば
また異なる方法論の方が適切ということになります。

 

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4815

視覚的手がかりを増やす:書字の工夫

歌詞を書き写すというActivityも行っています。

「読む」時には、黙読する人が多いと思います。
過去によく歌った歌や聴いたことのある歌なら
その記憶が読むことを助け、
書き写す時に歌詞を思い出し黙読を助けると考えています。

民謡や懐メロ、唱歌や演歌など
好きな歌は人それぞれなので
題材としては、無限のバリエーションを作ることができます。

また、段階づけも細かく設定できます。
白紙の紙でもきちんと行替えして書き写すことができる方もいれば
行だけはあったほうが書きやすい方もいますし
見本と全く同じマス目の方が書きやすい人もいます。

特に前頭側頭型認知症のある方の場合は
見本通りに模写することは得意です。
視覚的被影響性亢進という症状がプラスに機能しているのだと考えています。

  実際の作品をお示しできませんが
  塗り絵で本当に細かな模様まで見本通りに色を塗っていた方もいました。

症状が進行すると
上記のようなマス目でも書けなくなってしまいます。
字が書けないのではなくて
どこまで書き写しているのか
どこから書いたらいいのかわからなくなってしまうようです。

そのような時には
視覚的手がかりを増やすと効果的です。

文字以外を薄く塗りつぶしておくことで
どこまで書いてどこから書いたら良いのか
視覚的探索をする際のヒントになります。

他にも
行の一番上のマス目だけ色を変えていくとか、二重枠にするとか
状態に合わせて工夫をしてみると良いと思います。

 

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4799

私がしている音楽鑑賞の進行

音楽鑑賞というActivityについて
個々の方それぞれの能力と特性を発揮できるような援助をするために
私がしている工夫をご紹介します。

歌はもちろん人それぞれ好き嫌いがありますし
歌の楽しみ方も人それぞれ
音楽の世界に浸ってしんみりと聴き入りたい方もいれば
ワイワイ盛り上がるのが好きな方もいます。

集団で音楽鑑賞をする場合には
進行する人の中で、ある一線を明確化しておくと
参加している認知症のある方もいろいろな歌とその楽しみ方を
お互い許容してもらえるように感じています。

それでは実際の進行ですが
まず最初は
こちらからいろいろな曲目を提示します。
だいたい有名どころの懐メロや流行歌を提示します。
そこで曲の聴き方に注目して観察します。
好きな曲や聞き覚えのある曲は
前のめりになって聞いたり、表情も違っています。

この段階では
集団の凝集性を高めることと
参加された方の心身の状態の確認をします。
(もちろん事前に情報収集してありますが、最新の状態確認をします)
私が主導権をとった進行をします。

次に、あらかじめ作っておいた歌手一覧を見せながら
この中だったら誰の歌を聴いてみたいですか?とお一人ずつ尋ねます。
具体的に選べるように視覚情報として提示しながら尋ねていきます。
この時に、進行を止めないように、いろいろな歌をオートで流すようにしています。
 
  今は私一人で最大16名の方を対象に
  精神科作業療法として集団活動を実施していますから
  歌を視聴する流れを止めて、一人ずつ尋ねると
  せっかく高めた集団凝集性がなくなってしまい
  注意集中も保たれず
  不安になって帰宅要求などの訴えが出てきて
  集団活動が成り立たなくなってしまいますから
  このような工夫をしています。

この時に
「聞きたい歌を教えてください」と言葉で尋ねても
思い出せないから答えられない方でも
歌手名を提示されれば、名前から歌手を想起できる方は大勢います。

つまり、再生ではなく再認に働きかけています。
なおかつ、聴覚情報ではなく視覚情報として提示しています。

曲は、歌手名から検索した3曲くらいを
言葉で提示してその中から選んでいただいています。
曲名を聞けばどんな歌かイメージできる
再認できる方が多くいらっしゃいます。

最初にこちらからランダムに提示した時に
特に聞き入っていた歌手や曲があればこの時に追加で提示することもあります。

人によっては
お気に入りの歌手のお気に入りの曲がありますから
そのような時には、こちらから歌手名や曲名を提示せずに
オープンクエスチョンで
「聞きたい歌手は誰ですか?」
「聞きたい歌があれば教えてください」
と尋ねるようにしています。
再生可能な方にはなるべく再生を促す尋ね方をしています。

毎回、同じ歌手の同じ歌を選ぶ方もいれば
その時々で違う歌手の違う歌を選んだり
90歳代の方がキャンディーズや松田聖子を知っていたり
70歳代の方がピンクレディーを毎回必ずリクエストされることもあります。

こちらの問いかけに答えていただくことで
自然に会話の機会を設けることもできます。
ただし、近時記憶が低下している方が多い場合には
会話で長く時間を取ってしまうと注意集中が途切れてしまうので
集団を構成する方たちの状態に応じて
問いかけの仕方や回数にも注意しています。

また近時記憶が低下していると
(当院では1分前のことも忘れてしまう方が大勢います)
画面に映った歌手の名前や曲名を聞いてはいても忘れてしまいますから
曲の間奏の時には必ず歌手名と曲名を伝えるようにしています。
「あ、そうそう、この歌手だった」「この歌だった」
と思い出していただけるように。
これも再認に働きかける工夫です。

歌手や曲にまつわるエピソードを伝えるか
どの程度どんな風に伝えるかも
その時に集団を構成する方たちの状態に応じて判断しています。
基本はあんまり余分に私が話さないようにしていますが
近時記憶がもう少し保たれている方や注意集中が可能な方が多ければ
曲のイントロや終了直後にエピソードを伝えると
再認できることの幅が増えたり
その方が知っているエピソードを語ってくれたり
思い出話をしてくれたりなどの良い面もあると思います。

場面設定の基本として
重度の認知症のある方でも注意集中が保ちやすいように
集団の中で症状や障害が目立ちにくいように
と考えています。

音楽鑑賞ですから、途中で集中が途切れても目立たないし
口ずさみながら聞いても不自然ではないし
参加形態に幅があり自由度があるのが良いなぁと思っています。

誘導する時にも
「リハビリ」「OT」「活動」という言葉は使わずに
「歌を聞く会」「五木ひろしの歌を聞く」「美空ひばりの歌を聞く」
というように具体的にイメージしやすいように声かけしています。
その方が大好きな歌手や曲があれば、その歌手名や曲名を言って誘導しています。

「歌の会」というと
「歌は好きだけど、人前で歌うのは絶対イヤ」と拒否されることも多々あります。
「歌わない、聞くだけ」と歌わなくて良いことを担保していますし
そのイメージが伝わるように、あえて前の席ではなく後方の席へ誘導することもあります。
もちろん、歌いたくなったら口ずさんでもいい
(今はコロナ渦なのでマイクをお渡しすることはなくなりましたが)
歌いたい方には前に出てきてマイクを持って歌っていただいていました。

同時に
訴えの多い方への対応や
歩行不安定な方の立ち上がりや
帰宅要求のある方への対応なども行いますが
できるだけ場の円滑な運営が行えるように
どうしたらその方たち一人一人が集中できるようになるのか
何かコトが起こってから対応するのではなく
コトが起こる前に、起こらないように、予防対応的に考えています。
(これについては、長くなるので別の記事でお伝えします)

同じ時間、同じ空間を共有するけれど
個々の方それぞれの能力と特性を発揮できるような援助をするために
私がしている工夫をご紹介しました。

  2時間の精神科作業療法を音楽鑑賞だけでなく
  他の要素も組み合わせ、個人ごとのActivity提供という
  並行集団としての展開もしていますが

  長くなるので、こちらも別の記事でお伝えしていきます。

私としては、こういった意図と配慮のもとに
音楽鑑賞の場面を運営・進行しているのですが
人によっては「ただ歌を聞かせてるだけ」「誰でもできる」と思うようで
実際、そう言われたことがあり
その時の態度がちょっとあんまりで
私もその時は若かったし、ちょうど良いきっかけもあったので
進行を変わってもらったことがあります。
そしたら、今まであんなに歌いまくっていた方たちが
(当時はコロナ渦ではないので)
まったく歌わなくなり、一気にシーンとしてしまって
その人は「あれ?あれ?」と言っていました。
 
前の記事「多訴の方への対応」で書いた通り、
実践している人には
「何をしているか」「何が起こっているのか」わかるけれど
実践していない人には
皆目わからないということが起こっているのです。

歌を聞かせるだけの人には
さまざまな配慮のもとに複数の意図を持って進行しているのを
目の前で見せてもらってもわからないのです。
  「OTの不安への答え」で書いたように
  紀伊克昌先生や古澤正道先生のデモンストレーションを見ても
  過去の私には何をしているのか、さっぱりわからなかったように
でも、実践している人には一目瞭然で何をしているのかわかる。

このことは、
生活期にある方への食事介助やポジショニング設定、立ち上がり・歩行介助
認知症のある方への対応全般について言えることです。
同じコトが違うカタチで、ありとあらゆるところで起こっているんです。

たかが音楽鑑賞、されど音楽鑑賞
その場をどれだけ豊かにできるかどうか
運営する人の意図によって全然違ってきます。

耳タコかもしれませんが
スティーブ・ジョブズの言うとおり
「意図こそが重要」なんです。

「歌わせる」「聞かせる」のか
歌を聞くことを通して能力発揮の援助をしたいのか
表面的には同じように見えて
その意図のベクトルは真逆です。
そしてその意図こそが伝わっているのです。

他のActivityでも、まったく同じことが違うカタチで起こっています。

どのActivityが良いのか、という問題ではないのです。
「何をやらせようか」という言葉が出た時点で答えは決まっています。
  (野村克也の言う「負けに不思議の負けなし」というわけです)
「何をしていただいたら良いかしら?」と言葉だけを丁寧な表現にしても
中身は同じですから答えも決まっています。

もちろん、悩む人は、日々のリハやActivityに困るから悩んでいるわけで
仕事に対して、いい加減な人ではないからこそ、出てくる悩みです。
でも、悩み方を間違えているんです。
 
対象者の状態像と特性が把握できれば
どんなActivityが適切なのか、それはなぜなのかが
明確に浮かび上がってきます。

浮かび上がってこない時には評価が曖昧なんです。
だから、評価に立ち戻れば良いのです。

でも、多くの人は
評価、状態把握に立ちもどることをせずに
「Aが良いか、Bはどうだろう?何が良いかしら?」と
悩むのです。。。
そこは本来悩むところではなくて、実行するところなんです。
状態把握、評価を。

認知症のある方のActivityの選択が難しいのではなくて
状態把握、評価が難しいと自身の現状に向き合うところなんです。

自身の評価困難という現状に向き合うことを回避して
認知症のある方のActivity提供の困難さに
問題設定をすり替えてしまう。。。OTの現場あるあるです。

評価と検査を混同する。
評価を状態像把握ではなくて、
MMSEやHDS-Rや立方体透視図模写テストなどのバッテリーをとる
検査をすることと混同・すり替えてしまうのも
OTの現場あるあるです。
 
「OTの不安への答え」にも書いたとおりで
こういったすり替えや問題設定の問題は
リハやケアの現場であらゆる場面で起こっています。
 

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4798

OTの不安への答え

半年近く前になりますが
分野違いですけど、ある研修会に受講者の立場で参加しました。

そこで若い作業療法士の
「自分のやってることがこれでよいのか不安」
「見通しが立たない中で日々仕事をしている」
という声をたくさん聴きました。

思ったのは
これって「実習は楽しく!」という方針の弊害じゃない?ということでした。
養成校の先生も指導者も「楽しく」って本当によく言葉にしますよね。
結果として楽しい実習だった。なら良いと思いますが
目的として楽しい実習を目指すのは本末転倒
実習の時に体験すべきことは体験しておかないと
何よりも本人が就職してから大変な思いをすることになるし
課題の先送りをしてしまうと(実習中は問題が表面化しなくて楽でも)
卒後養成を本格的に整備・充実できずにいたら
「なんちゃってOT」が増えてしまって
OTの質が問われかねなくなり
結局は自分達で自分達の首を絞めることになりかねないと危惧しています。

私は実習の時に
「今は指導者がいるけど、将来は自分自身がこの選択・決定の責任を負うんだ」
ということに身も震えるような怖さを感じました。
自身の知識と技術のなさに直面させられ
習得への思いを新たにしたものです。
だから、実習は楽しいどころか、辛い思いをたくさんしました。

それは自分が未熟だったから仕方ないことだと受け入れるしかありませんでした。
そういうものでしょう?
事実に向き合い、乗り越える努力をする。
乗り越え方には幾多の方向性も方法もあるとしても。
仮に私が優秀な学生だったら、楽しく実習をすることができたかもしれませんが。。。

卒業してから必死になって勉強しました。
当時は限られた知見しかないし
今のように多数の研修会があるわけでもなかったのですが
それでも片っ端から本を買い、片っ端から研修会に出ていたので
パンの耳をかじり、素ラーメンを食べていて
突然尋ねてきた知人に笑われたものです (^^;
同期と勉強会を立ち上げましたが、そこで思ったのは
どんぐりの背比べじゃダメだ。良い指導者からちゃんと教えてもらわないと。
ということでした。

私が就職してすぐに勤めていた肢体不自由児施設には
ボバースアプローチの世界的権威の
紀伊克昌先生や古澤正道先生が年に1回きてくださり
デモンストレーションを目の前で見たことがあります。

普段誰がやってもできなかったことを
え?こんなこともできるの?というようなことまで
子供たちができるようになっていました。
しかも初めて会った人の手で。

ダメなのは子供たちじゃなくて私たちじゃん!
この子たちは本当はこんなことまでできるのに
もしかしたらもっとできるかもなのに。。。
と痛切に思い知らされたものです。

デモンストレーションで何が起こっているのか皆目わからず
当然再現することもできず
教えてもらうにも教えてもらうに値するだけのレベルに到達しないといけないと
強く思いました。

また、天と地ほどの技術の差がこんなにもあるにもかかわらず
診療報酬上、
同じ時間のリハを受け
同じお金を親御さんは払わなくちゃいけない
ということを思い知らされました。

今のままじゃいけないと思っても
当時は自分で自分をどうやって育てていけば良いのかわからなかった。。。

だから
「自分のやってることに自信が持てず不安」
「見通しが立たない中でやっていて不安」
という気持ちは、参加者の本当に正直な気持ちの吐露だと感じたし
かつての自分を思い起こしても共感できます。

でも
そういった気持ちを抱いているという時点で
結果が出てないことの表明だし
それは実は、状態把握・評価が曖昧で不十分ということの表明でもあります。

ここでも問題設定の問題、すり替えが起こっています。

人として、不安な気持ちには共鳴できるけれど
プロとして解決すべきは、
あなたの不安じゃなくて結果が出せていないことの方です。

結果が出せたから不安は解消されるのであって
結果が出せていないのに不安だけが解消されるわけがない。

360度の試行錯誤は、プロのお仕事じゃありません。
限界があったとしても、範囲を狭められる試行錯誤がプロのお仕事です。

かつて、試行錯誤という名の360度広角対応しかできなかった私でも
地道に研鑽を積むことで
本来の試行錯誤ができるようになってきました。
そしてほとんど試行錯誤せずに結果を出せるようになってきました。

大切なことは、観察・洞察です。
確かな知識に基づいた観察・洞察であり
観察・洞察に基づいた確かな技術の適用です。
そして何よりもまずは結果を出すことです。

臨床実践において理論は必要不可欠なものではありません。
ここは断言できます。
私は、いわゆる作業療法領域で紹介される理論を使っていませんが
  現実に認知症のある方に適用できないからです。
  除外要件が多すぎるものは本質ではないと考えています。
正確に言えば、よっしー理論とでもいうべきものはあり
重度の認知症のある方に対して
骨折後のリハや食事などのADL面でもActivityの領域でも
生活障害やBPSDへの対応に対しても通底している考え方です。
そして結果も出しています。
(もちろん対象者の状態によっては限界もあります)

ここが大切なところですが
なぜ結果を出せたかの言語化もできます。
つまり、今何が起こっているのか推測できるようになったし
これからどうなるかという見通しのもとで関与できるようになった
ということです。
ただし、それらはあくまでも推測であり見通しであり
不確定な要素が生じることもあるし
必ず確認するようにしています。

同時に
何をどうしたらマズイ。ということもはっきりわかるようになりました。
一般的抽象的なレベルではなくて
具体的現実的に
固有の〇〇さんのその時の状態の中で。という意味です。

私が臨床の現場で抽出してきたことは
「対象者の埋もれている能力を見出し
 より合理的に発揮できるように援助する」
「対象者の能力を信頼する」
「対象者の特性の良い面が良い方向に発揮できるように援助する」
「自分を含めたその時その場の状況・関係性の中で
 対象者の言動が表現されている」
「関与しながら観察する」
これらの概念を指針として大切にしているということです。

でも最初はまったくできませんでした。
本当に何も分かっていなかったと思う。。。
私はまだまだ未熟だけれど、少なくとも方向性を確立できた今になって
かつて、自分がいかにわかっていなかったかということは
はっきりとわかるようになりました。

  できない時には、できないからこそ
  「できる」ことがまったく認識できない
  できるようにならなければ、できない人とできる人との違いがわからない

  できるようになって初めて、
  できない人とできる人との違いがわかるようになるのだ
  ということもよくよくわかるようになりました。

私ができるようになったのは観察と
その観察を支えた知識のおかげで理論は無関係です。

バリデーションは有用なツールだと感じていますが
私は作業療法士として実践し、
バリデーションを適用することもありますが
バリデーションありきの実践をしているわけではありません。

理論はツールですから、活用するものに過ぎません。

誤解を避けるために敢えて書きますが
私は理論を否定はしませんし
論文の読み書きの意義もありますし
バッテリーを使用することに意味もありますが
それらと臨床能力とは直結はしていないと言っているだけです。
   
臨床能力、実践力は
理論とは別に実践力として涵養すべき種類のもので

そのために必要なのは解剖学・運動学・症候学などの基礎知識の習得と
自身の観察力・洞察力を磨くことです。

Twitterで同じことを言っている研究者のツイートを見かけました。
https://twitter.com/shinshinohara/status/1451563470495752199?s=21
ぜひ、前後のツイートも読んでみてください。

「勉強すればするほど落ち込む」という言葉を他のSNSでも見かけましたが
そりゃそうです。
上には上がいるのです。
上と自分との落差を明確に認識できたとしたら
それは良いことなので落ち込む必要はないのです。
スタートラインに立てたということなのだから。
むしろ、今までが幻想の中にいたのです。
自分が落ち込むことを回避するために困ることすらできない人に
なっちゃいけないのです。

学びは楽しいことです。
自分の変化・向上を実感することができる。

でも
対象者の立場にたてば

少しでも腕の良いセラピストに担当してもらいたいでしょう?
「実習は楽しく!」「仕事は楽しく!」
なんてことは言ってられないんじゃないかな?

敢えて書きますが
私は何も実習を苦しい辛いものにしろ。と言ってるわけじゃありません。

「辛かったけど、苦しかったけど、楽しかった」
という結果としての楽しさと
手段、目的としての楽しさを混同してはいないでしょうか?

私は学生の時の授業で
「君たちのような若造が人様の役に立とうだなんてとんでもない」
というようなことを言われたことがあって
ショックでしたけど、同時にその通りだとも思いました。
(多分今のご時世だったら言ってもらえない言葉でしょうけど)

実習という守られた環境で
セラピストとして働く、対人援助職として働くということの
心身両面の厳しさに対する心構えが全くできずに就職したとすれば
働き出してから、突然ひとりのセラピストとして在ることを要請されるわけで
それは非常にキツいことだと思います。
 
その矛先が
「認知症だから仕方ないよね」と対象者に向かったり
「理論の習得や論文の読み書き」と知的武装に向かったり
「多数のバッテリーを使用する」と検査と評価の混同
となってしまって
かんじんかなめの基礎知識の概念の本質を習得する
習得した知識を活用して観察・洞察するといった
自分自身の臨床能力を高めることに向き合う
ことを回避させてしまっているのではありませんか?
  
その代表例が目標を目標というカタチで設定できない
ということではないでしょうか?
  
「目標設定が難しい」という声もよく聞きますが
それは違うんです。

目標の概念が理解できておらず(目的や方針や治療内容と混同する)
対象者の状態像の把握ができていなければ
当然的確な目標設定ができるわけがありません。

ただし、ここに希望もあって、逆に言えば
目標の概念を理解すればいいし
対象者の状態像の把握ができるようになればいいだけなのです。

評価、状態像の把握が難しいという人もいるかもですが
目標を目標というカタチで設定できれば
設定の過程において
状態像の把握が要請されます。

つまり、目標設定を的確に行おうと意思することで
状態像の把握をも同時に要請されるのです。
(私の目標設定の講演を聞いたことのある人は
 深く納得してもらえると思います)

多くの人が
目標設定なんて地道なことよりも
手技や理論に走りますが
その焦る気持ちはわかるけれど
すり替えちゃいけないんです。

なんちゃってOTになりたくなければ
OTという職業を選んだ時点で
生涯続く厳しい地道な研鑽の日々を選んだも同然なのです。

冒頭に紹介した研修会では
ビデオも見せていただいて
講師が対応した時の対象者の表情と行動と
他のスタッフが対応した時の対象者の表情と行動は
同じ対象者なのに、まったく違っていたのです。

研鑽の蓄積とそれらを支えた在りようは
無意識のうちに伝わっているんだろうと思いました。

「学問に王道なし」

今私たち作業療法士がすべきことは
「OTは楽しい」
「OTは素晴らしい」
という呪文を唱えることではなく
楽しいOTを対象者が体験できるように
素晴らしいOTを対象者が体験できるように
作業療法士としての臨床能力を磨き、高める
そのためには地道な日々の実践とその継続しかないのです。

 

 

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4811

オススメActivity「スクラッチアート」

あまり知られていない
でも、現場で使えるActivityとして
スクラッチアートを紹介します!

スクラッチアートとは
ハガキ大の大きさの黒い用紙に
白い色で下線が描かれているので
同封されているペンで白い線の上をなぞって削っていくと
鮮やかな色が浮き出たり、ホログラムのような色が浮き出たりします。
ダイソーで販売されていたものを購入しました。

冒頭の作品は
1ヶ月半以上取り組んでいた方なので
複雑な図案でも綺麗にできるようになりましたが
もっとシンプルな図案もあります。
 
2-3分前のことも忘れてしまうような、
近時記憶が高度に低下している方でも作れます。

スクラッチアートの良いところ
1)工程が少なく、工程を覚える必要がない
  ・白い線の上をなぞる という1工程のみ
2)自身の関与の結果が明確で綺麗
  ・なぞった→色が浮き出た という達成感が即時に得られる
3)出来上がりが綺麗
  ・多少なぞり忘れがあっても失敗として目立ちにくい
  ・多少なぞり方が雑でも失敗として目立ちにくい
4)段階付けが容易
  ・シンプルな下絵から複雑な下絵まで種類が豊富
  ・風景画、動物、曼荼羅や星座など下絵が多様
   好みに合わせて下絵を選べる
  ・線をなぞるだけでも綺麗、面を削って色を出してもどちらも綺麗
   面の削り方に自由度があって工夫ができる

近時記憶が低下していても
構成障害があっても
手指の巧緻性が低下していても
大雑把な性格の方でも
「白い線の上をなぞる」ことができれば行えます。

綺麗な変化を感じつつ取り組めるので
作業そのものが集中力をサポートしてくれます。

気をつけるところは
1)眼精疲労
  ・用紙のコントラストが強いので休憩を挟むか、作業時間は短時間にとどめる
2)削りカスの処理
  ・黒くて細かな削りカスがかなりでます。
   おしぼりやタオルを用意しています。

応用としては
無地の用紙も売られているので
短歌や俳句や歌詞などの模写もできると思います。

綺麗な字で書ければ仕上がりも綺麗だし
そうでなくても味わいのある仕上がりになるんじゃないかと思っています。

私が手工芸的な結果が明白なActivityを行う時には
見た目の綺麗さには、こだわっています。
一生懸命やったのに、綺麗にできなかったらガッカリしちゃいます。

近時記憶障害が高度であっても
その場の状況理解はできる方は大勢います。
自分自身が納得できない結果を目の当たりにしたら
意欲も削がれてしまいます。
「褒めておだてて言いくるめればいい」と考える人は
ガッカリした認知症のある方の表情に気がつかないのでしょう。
頑張っても良い結果にならなかったという体験は
能力低下、老いへの無力感全般へと容易に一般化しやすいので
可能な限り回避できるようにしています。

Activityを行なったその都度
「お、綺麗!」「あら案外素敵じゃない?」
って感じていただけるように。
ポジティブな感情を抱けるポジティブな体験となるように
対象者の方の特性と能力とActivityのマッチングには気をつけています。

 

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4788

工程はActivityに語らせる


重度の認知症のある方でも
Activityを行える方はたくさんいます。

初めて行うActivityを紹介する時には
まず最初に完成品を見ていただき
完成品の用途を説明します。

ここで興味を持った方には
作り方の説明を実演しながら行います。
実演する時は通常通りに最初から行います。


 
例えば
幅広い状態像の方に適用可能なのが毛糸モップ
毛糸モップを例にとって説明していきます。

 

1)ハンガーの下に毛糸をくぐらせる

2)糸先を輪っかの中に入れる

3)糸先を引いて毛糸をハンガーに結びつける

 ここの工程をあえて省くことも多々あります。
 認知機能が低下している場合には省いたようが理解しやすいケースが多いです。
 自分がやることだけを覚える、余分なことは説明しないという意味です。
 ここを誤解している職員が大勢います。
 丁寧に説明しようと思って説明しすぎてしまうと
 認知症のある方に入力刺激が多すぎて混乱させてしまいます。

 認知症のある方へのわかりやすい説明とは接遇を尽くすことではないのです。

 

 

認知症のある方に実際にやってもらうことを通して
工程を説明していきます。
ここで最も重要なことは工程の最後から体験学習するということです。

 

1)糸先を輪っかの中にいれておき、糸先を引き絞る動作をしてもらう

まず、この工程を繰り返し体験してもらいます。
迷うことなく糸先を引き絞る動作ができるようになったことを確認してから
次の工程にうつります。

 

2)毛糸の糸先をハンガーの下からくぐらせてから
  糸先を輪っかの中に入れ引き絞るという2工程の動作をしてもらう

 

この2工程を迷うことなく行えることを確認したら
ひとつ遡って、毛糸をとるという工程を追加します。

3)毛糸をとる、ハンガーの下をくぐらせる、輪の中に糸先をいれ引き絞る
  という3工程を行なってもらいます。

この3工程を繰り返し行なってもらい
迷うことなく行えることを確認したら
次に糸先をそろえるという工程を追加します。

4)毛糸を取る、糸先をそろえる、ハンガーの下を潜らせる、輪の中に糸先を入れ引き絞る
  という4工程を行なってもらいます。

 * ここは細かく段階づけをしていきます。

 

   まず、糸先はそろえて、隙間を開けて置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   糸先をズラして、糸の隙間も開けて、置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   毛糸を少し丸めた状態で置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   毛糸を一本そのままの状態で置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   3本ほどの毛糸をまとめて置いておき
   そこから1本取って行えることを確認します。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   毛糸をまとめた状態にして置いておきます。
   ここまでできたら、困っていないか時々確認する程度の見守りをします。

 

 

  ちなみに
  アクリル毛糸同士ではなくて
  モヘアや綿とアクリル毛糸の異素材の組み合わせも素敵です。

  ただし、モヘアは軽くて細くてつまんでいる感覚が分かりにくいので
  そのあたり大丈夫な方が対象となります。

認知症のある方あるあるなのが
最初はできていたのに
途中で混乱してわからなくなってしまうケースです。
  
  その方にとって、何か注意をそらせるようなことがあった時に起こりやすい
  なので、私はあまりAct.中には話しかけないようにしています。
  一般的に「楽しく!」という思い込みによって
  「わいわいした雰囲気」を作り出そうとしたり
  おしゃべりをするケースも散見されますが
  そのような場面は実は注意集中を妨げやすい場面設定でもあります。
  もちろん、そのような場面設定でも注意集中が可能であれば良いのですが
  重度の認知症のある方の場合には周囲の環境という場面設定によって
  本来の能力発揮が妨げられることのないようにしたいものです。

途中で混乱してしまったり
トイレなどでいったん手を止めた後で
できなくなってしまった場合には
迷いなくできる工程まで戻ります。
この時に工程の最初に戻るのではなくて
工程の最後から確認していくことがポイントです。

工程の最後から
「こうしたらできる」
「こうやってできた」
という体験を繰り返し行うことで
できる、できた、という再認をすることが可能となります。

その上で1工程ずつ増やしていきます。
増やす工程そのものは「くぐらせる」「手にする」「そろえる」などの
かつて必ずどこかで行なってきた手続き記憶です。
その手続き記憶を新たな体験に統合する作業をしてもらうことを意味しています。

だから、段階づけは細かく行いますし
混乱したり、不安になったり、わからなくなってしまった時には
「できる」工程に戻って再認してもらっています。

ここまで、1回のリハの時間に行えたとしても
次に来る時には忘れてしまうことも現場あるあるです。

なぜなら、時間経過という時間干渉と
その間、さまざまな動作をしていたという動作干渉という二重の意味で
認知症のある方が忘れやすい状況に置かれるからです。

つまり、忘れてしまうのは仕方ないことなのです。

むしろ、初めてのActivityの工程を覚えているということ自体
素晴らしい能力発揮なのです。

手工芸をしていた方は、このような体験の統合が容易なことが多くあります。
たとえ、1−2分前の会話を忘れてしまう方でも
Activityの工程を覚えられることは本当にたくさんあります。

仮に、せっかく工程を教えたのに
忘れられてしまったからとがっかりする必要は全くありません。

忘れてしまったとしても
その方の行動パターンはこちらが把握できているので
工程のどこまで戻ったら良いのかの判断基準は手にしています。

もちろん、認知症のある方の体調変動によって多少の誤差はありますが
判断基準があるので提供するこちらの負担は初回ほど多くありません。

 

私は、Activityの工程を丁寧に言葉で説明を尽くし
「一緒にやるから大丈夫」とつきっきりで
安心させるような場面設定はしていません。
 
Activityの工程はActivityそのものに語らせるような場面設定をする工夫をして
認知症のある方が安心できるような場面設定をしています。
手も口も出しませんが、目だけは離さずにいる場面設定をする方が
認知症のある方自身の達成感を促しやすく
また、メタ認知やメタ体験としての達成感も得やすくなります。
そしてそのような体験ができるリハ場面そのものが
ポジティブな再認の場となるのでリハやActivityへの拒否が少なくなります。
 

 

もし良かったら是非お試しください。

ポイントは
・言葉だけに頼らず視覚的説明を活用する
・工程は最後から体験を通して理解してもらう
ということです。

認知症のある方への介助、援助、支援とは
接遇を尽くすということとは異なるのだと考えています。

  蛇足になりますが
  こう書くと必ず「接遇を否定した」と誤読する人がいるので念の為。
  私は接遇そのものは対人援助職として必要だと考えてはいますが
  接遇を尽くすことで認知症のある方の生活障害やBPSDが
  改善されることにはならない。
  私の主張は評価に基づいて対応を判断すべきということです。

 

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4757

Activity導入や誘導への工夫

アルツハイマー型認知症のある方は
どれだけ集中してどれだけ綺麗にActivityを遂行していたとしても
次の時には忘れてしまうことがよくあります。

言葉で具体的なエピソードを伝えても
再認できないことも多々あります。

そのような場合には
前回行っていた作りかけの作品や以前に仕上げた作品を持参して
「続きをやりましょう」と誘導するようにしています。

作品を見る、視覚情報として提示することで
過去の体験を思い出していただく試みです。

病状が進行すると視覚的な再認も困難になってきますが
少なくとも今目にしている、これをやるんだということは伝わります。
何をどうするのかわからない状態で誘導するのではなくて
これから行うことは今見ていることなのだと
視覚的に理解していただくことで
余分な不安を減らすことができます。

認知症のある方の誘導というのは難しいものです。
病棟からリハ室への誘導は、
リハスタッフ自身が行うところと看護介護職が行うところがあると思います。
リハスタッフ自ら行うところで働いている人は
誘導の大変さを実感していると思います。

逆に、看護介護職が誘導しているところでは
感謝の気持ちを忘れてはいけないと思います。
現場あるあるなのが
「誘導には拒否を示すけど
 行ってしまえば抵抗どころかノリノリで楽しむことができる」
というケースです。
入浴などでもよく見られることです。
「今いるところと異なる場所へ行く」ことへの不安を抱く認知症のある方はたくさんいます。
言葉での説明が説明にならず、言われたことが理解できない方や
言われても再認できないから自分ごとと思えずに拒否する方は大勢います。

認知症の症状や障害について
例えば近時記憶障害やエピソード記憶の低下、場の見当識障害、視空間認知障害といった言葉を知っているだけでは十分ではありません。
暮らしの中の場面場面においてどんな風に反映されているのかを観察することができて初めて知識が知識としての意味を持ちます。

そうでないと
「OT室でこんなに楽しそうにしているのに誘導に拒否を示すのは誘導の仕方が良くないからでは?」と誤認してしまいます。
そういうこともあるかもしれませんが、もし誘導の仕方が良くないのだとしたら
良い誘導をやって見せなくては。
やって見せてから
「〇〇という誘導のここが良くない。△△という誘導のここが良い。」
ということを説明できなければ。

なにごとも事実に基づくことが大事
認知症のある方へのリハやケアの分野では
旧態依然とした思い込みによって「今まで為されてきたことを検証することなく漫然と行う」ことが多々あります。
漫然とした対応から脱却するためには、事実を観察・洞察することと、それらが行えるようになるためには知識の習得が必須です。
ここで言う習得とは聞いたことがある、と言う意味ではありません。
概念の意味理解をきちんとできていると言うことが肝要です。
 (たとえば、幻視と錯視を混同している作業療法士はたくさんいます。
  そのような人の話はたいてい説得力がありません。
  私が尊敬する岩崎清隆先生は用語の定義をきちっとされています。
  細部をおろそかにしない人の話は説得力があります。)
概念の意味理解ができなければ見れども観えず、になってしまい
観察・洞察し損ね、その方の状態像把握をし損ね、適切な対応ができないどころか不利益になってしまうことすら起こり得ます。
臨床では、とても大切なことなのに疎かにしている人が多くて残念に思っています。

概念を理解した知識があれば
今目の前にいる方が誘導を拒否する必然を洞察できるようになります。
そうすると、
「無理矢理誘導する」ことも
「誉めておだてて言いくるめて誘導する」ことも、できなくなります。

  昨今の状況から、さすがに無理矢理誘導するような人は
  少なくなっていると思いますが
  その逆に褒めておだてて言いくるめるような方法はまだまだ多いと思います。
  やっていることは真逆のようでいて、その実ふたつの対応は
  「認知症=わからない」と思っている点ではどちらも同じです。

誘導に限りませんが
認知症のある方に言葉だけで対応の工夫をしようとすることには限界があります。
視覚的理解に働きかけることはかなり有効ですが、
あまり取り入れられていないようで本当にもったいないなと感じています。

  また、選んでいただく という時にも視覚情報を提示するようにしています。
  言葉だけで尋ねると
  「なんでもいいわ」「あなたが選んでよ」となってしまいがちです。

  毛糸モップの仕上げに使うリボンの色を選んでいただくときに
  「何色が良いですか?」と言葉で聞くのではなくて
  実際に複数のリボンを提示して毛糸モップの毛糸に合わせながら
  どの色が良いですか?と尋ねると
  「考える」「迷う」「判断する」ことができるようになります。

  考えてみれば当たり前ですよね。
  同じピンクでも緑でも、色の明度や彩度が違えば
  見た目の印象は全く変わってきます。

  選んでいただく時には、具体的に選べるようにしています。

誘導する際に再認に働きかける方法が有効であるためには
リハ室やOT室での体験をその方にとって有意義なものにする必要があります。

ちょっと痛い思いはしたけど終わったら身体がとてもラクになったとか
Activityに集中できて心地よい充実感を感じられたとか
なんだか居心地が良かったとか

再認は、ポジティブにもネガティブにも働きますので
ネガティブな体験しかできないリハ室やOT室であったとすると
導入する際に拒否するのは正当な意思表示でしかありません。

認知症だから忘れるだろう・忘れてるだろう・わからないだろう
なんてたかをくくっている人がいるかもしれませんが
とんでもないことです。
感情記憶は蓄積していきます。
体験を通して再認できる方もたくさんいます。
HDS-R3点の方でも視覚的情報の提示で再認できることもありました。

認知症のある方の能力低下なのか
能力を観ることのできない私たち職員の側の問題なのか

現場では、混同され、すり替えられ、思い込みによって誤認されがちです。

目の前で起こっていることを事実として観察する
「曇りなき眼で見定め」ることができれば
混同することも、すり替えることもなく
認知症のある方の能力を困難とともに目にすることができるようになります。

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4753