Tag: コミュニケーション
農家の90歳のAさん。
車いすに座っているけど移動するのでフットプレートに足をのせてほしい。
そこで職員が言った言葉が「オミアシヲアゲテクダサイ」
Aさんは足をあげることができませんでした。
接遇は、とても大事だと思います。
「オミアシヲアゲテクダサイ」と声をかけた人は「敬語で接しよう」「丁寧に対応しよう」と心がけていたのだと思います。
でも、相手に伝わってはじめて「言葉」なのではないでしょうか。
言語理解力が低下している方に、伝わる言葉を意図的に選択して使用する。
「足、上げて」
認知症のある方の対応について、子ども扱いされた…などの批判があり、現状改善のためにも接遇が重要視されていることは知っています。
けれど、丁寧な言葉遣いは、えてして長文になりやすく動詞が修飾されて使われているために、言語理解力が低下している認知症のある方には伝わりにくいという現実もあります。
だから、職員は無自覚のうちにも伝わりやすい言葉を使っていたという過去があるのではないでしょうか。
ただ無自覚だったので、子ども扱いされたという批判に対して的確に説明することができなかったのではないでしょうか。
だったら、私たちがすべきことは、マニュアル的に表面的に敬語を使うことではなくて、相手が理解しやすいシンプルな言葉を意図的に選択する。と同時に言葉をシンプルにした分、表情や口調、しぐさというノンバーバルの部分で丁寧さを補うことを意識して工夫するということではないでしょうか。
接遇や声かけの大切さについては、誰も異論がないと思います。
でも「大切大切」と言っているだけでは目の前の方に接遇や声かけの大切さという理念を具体化することはできないと考えています。
接遇や声かけの大切さがスローガンになってしまってはいないでしょうか?
自分がしたいことを実践するのではなくて、相手が困惑しないで受けとめられるように伝え方の工夫をする。
その時その場のその関係性において意図的に選択する。
自分がしている対応と言語化(概念化)を合致させていく努力を積み重ねていく。
その過程こそが接遇であって、敬語で話す、○○すべしというマニュアル化された言葉を使うことが接遇ではないと考えています。
善かれと思って導入された接遇の概念が現場の対応を混乱させてしまうことがないように…接遇の概念に振り回されるのではなくて接遇の概念を対応に活用できるようにという本来の趣旨が現場に活かされることを、地道にではあっても一歩一歩積み重ねられていくことを願っています。
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食事中に大声があって困る
どうしたらよいでしょうか?
という場合には
実は、食事中に何か不快などの原因があって
大声を出しているわけではなくて
食べ方の問題
ひいては、食べさせ方の問題
ということのほうが圧倒的に多いんです。
大声をどうしたら少なくできるのか
大声の原因は何か
…ではなくて
まず、食べ方をありのままに観ることが大切なんだと感じています。
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身体は総体としてはたらいている
だから
上肢を使った立位訓練をおこないます。
この考え方は決して新しいものではありません。
むしろ、昔ながらの考え方だと思います。
けれど
臨床的にはとても効果的で
なのに
臨床的にはあまり活用も重要視もされていないように感じています。
身体は目に見えて動いている部分だけがはたらいているわけではない。
上肢を動かすことによって
下肢のはたらきも変わります。
望む動きを怖がってしようとしない時には
無理強いせずにサポートをします。
その積み重ねで怖がらずにおこなえるようになってきます。
「筋力低下」という言葉は本当によく聞く言葉ですが
実際には、「筋力低下」ではなくて「はたらきの低下」
によるものが少なからず含まれていると感じています。
(了)
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できないことをトレーニングするのではなくて
できていることのできかたを良くする
その過程において
関連しているはたらきが他の能力として表面化してくる
歩けないけど
かろうじて立てる
そういう時には、歩き方ではなくて
立ち方をよくするトレーニングをする
そうすると、かろうじて歩けるようになってくる
そこで、歩き方をトレーニングする
これは、過去に立ち上がりと座り方のトレーニングの記事でも書きましたが、身体面でも認知面でも対応についての私の基本的な考え方です。
もう1つ、私の基本的な考え方があります。
それは「身体は総体として働いている」
というものです。
(もう少し続く)
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立位訓練…っていうと
立位保持10秒…なんてことをイメージする方もいるかもしれませんが、私はそんなことはしません。
私たちが立つことができるのは
常にバランスをとり続けることができる。ということです。
ただ、棒のように突っ立っているわけではなくて
細かな重心移動を常におこなうことができる。
結果として立つことができている。
つまり、立ち方の再学習…重心移動の練習をします。
よくやるのは、上肢を動かし足で身体を支えるという体験の提供です。
その方の立てる範囲で立っていただき
立ちきれない部分はフォローしながらおこないます。
すぐに座れるようにプラットフォームマットの端で膝裏を支えたり
時には背部と臀部を壁で支えながら立ったり
前から膝を固定しながら私の方に手をおいていただいたり
立てる状態で立ちながら
その状態で上肢を上下や前後に動かしながら立っていただきます。
介助立位での重心移動の体験を提供します。
SDATの方でHDSーRヒトケタの方でも動作誘導でおこなえる方は多いものです。
(続く)
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立てない… 足で身体を支えられない方も少なくありません。
特に、もともと認知症があって骨折して手術して
…という場合。
(中には、自主トレとして歩けてしまう方もおられますが)
「認知症」という診断名があると
「歩かせないと歩けなくなるから歩かせろ」
という考え方があるらしく?
立てないのに歩行練習をおこなう
…というケースによく遭遇します。
でも、認知症があろうとなかろうと
立てない、下肢で自重を支えられないのですから
身体的な理由で歩けるようにはなりません。。。
「立つ」練習が大切なんです。
認知症という診断名があっても
「立つ」練習が可能な方はたくさんいらっしゃいます。
続きは明日。。。
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精神科医の中井久夫の言葉です。
本当にその通りだと思う。
もちろん、中井久夫は統合失調症のある方を念頭において言った言葉だと思うけれど普遍的な意味をもっている言葉だと思います。
「困る」ってことはいいことなんだよ。
困れる…ということは。
今までのやり方では通用しないからこそ
違うやり方が要請される。
それはまさしくRe-Habilis
対象者の方だけでなく
自分自身に対しても
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かつて、河合隼雄は
「症状を形成することもできない人がいる」
と本の中で記載していました。
それと同じように
「困ることすらできない」人もいるのではないか
… と感じています。
「困っていない」んじゃなくて
「困ること」すらできない。
「困らない」ように現実認知を歪める。
もうこの年になってくるとめんどくさいから (^^;
なるべくそういう人には関わりたくないのですけど
そういう人こそほんとの困ったちゃんなんですよね 。。。
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