Tag: コミュニケーション

立位訓練…っていうと
立位保持10秒…なんてことをイメージする方もいるかもしれませんが、私はそんなことはしません。
私たちが立つことができるのは
常にバランスをとり続けることができる。ということです。
ただ、棒のように突っ立っているわけではなくて
細かな重心移動を常におこなうことができる。
結果として立つことができている。
つまり、立ち方の再学習…重心移動の練習をします。
よくやるのは、上肢を動かし足で身体を支えるという体験の提供です。
その方の立てる範囲で立っていただき
立ちきれない部分はフォローしながらおこないます。
すぐに座れるようにプラットフォームマットの端で膝裏を支えたり
時には背部と臀部を壁で支えながら立ったり
前から膝を固定しながら私の方に手をおいていただいたり
立てる状態で立ちながら
その状態で上肢を上下や前後に動かしながら立っていただきます。
介助立位での重心移動の体験を提供します。
SDATの方でHDSーRヒトケタの方でも動作誘導でおこなえる方は多いものです。
(続く)
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立てない… 足で身体を支えられない方も少なくありません。
特に、もともと認知症があって骨折して手術して
…という場合。
(中には、自主トレとして歩けてしまう方もおられますが)
「認知症」という診断名があると
「歩かせないと歩けなくなるから歩かせろ」
という考え方があるらしく?
立てないのに歩行練習をおこなう
…というケースによく遭遇します。
でも、認知症があろうとなかろうと
立てない、下肢で自重を支えられないのですから
身体的な理由で歩けるようにはなりません。。。
「立つ」練習が大切なんです。
認知症という診断名があっても
「立つ」練習が可能な方はたくさんいらっしゃいます。
続きは明日。。。
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精神科医の中井久夫の言葉です。
本当にその通りだと思う。
もちろん、中井久夫は統合失調症のある方を念頭において言った言葉だと思うけれど普遍的な意味をもっている言葉だと思います。
「困る」ってことはいいことなんだよ。
困れる…ということは。
今までのやり方では通用しないからこそ
違うやり方が要請される。
それはまさしくRe-Habilis
対象者の方だけでなく
自分自身に対しても
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かつて、河合隼雄は
「症状を形成することもできない人がいる」
と本の中で記載していました。
それと同じように
「困ることすらできない」人もいるのではないか
… と感じています。
「困っていない」んじゃなくて
「困ること」すらできない。
「困らない」ように現実認知を歪める。
もうこの年になってくるとめんどくさいから (^^;
なるべくそういう人には関わりたくないのですけど
そういう人こそほんとの困ったちゃんなんですよね 。。。
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「目からウロコのお話でした」
「なんとなくモヤモヤ思っていたことをハッキリ言葉にしてもらえた」
私の講演を聴いてこういった感想をお寄せくださる方が多くいらっしゃいます。
目の前の現実に「問い」も「答え」もある
そう感じています。
ただし、気づこうとしなければ
目の前にある「問い」に気がつくことができない … 。
「目からウロコ」
そう言ってくださった方は
目の前の現実をちゃんと見ている。
見ているけれど概念化できていないだけ。
だから、目の前の現実を言葉にして伝え直してもらえればワカル。
「ハッキリ言葉にしてもらえた」
そう言ってくださった方は
目の前の現実を概念化しようと努力している。
その過程にあるから欲していた言葉がそれとワカル。
今、私がこうやって言語化できるようになるまで
ものすごくたくさんの時間とエネルギーを費やしてきました。
これからの若い人たちが同じようなことに同じように時間とエネルギーを使うのはもったいない。
ここからさらに未来へ向けて
今よりもプラスを積み重ねていけるように
時間とエネルギーを使ってほしい。
そう願っています。
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講演などで
認知症のある方とのあれこれを
体験談として紹介させていただく時には
ご家族に許可をいただいているのですが
ほとんどのご家族がご快諾してくださいます。
「同じように困っている方々のお役に立つなら」
この言葉を聴くたびに胸が熱くなります。
今まで私が出会ったたくさんの方々に
教えられてきたこと。
これからの若い人たちには
遠回りする分の時間とエネルギーを
より建設的なことがらに振り向けてほしい。
そう思って
「よっしーずボイス」「よっしーワールド」を書いたり
いろいろな機関からの講演依頼を引き受けています。
来週は1週間で3本の講演
準備もハードだったし実際もハードだけど (^^;
ここでやらねば女がすたる。
どうぞ私の声がみなさまに届きますように …
そして、願わくば
みなさまのそれぞれの立ち位置での
日々の実践が一歩前に進むことに寄与できますように … 。
認知症のある方の余分な困難が
少しでも少なくなりますように … 。
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本来、検討する…というのは
具体的に考える…ということだと思うのだけれど
認知症のある方へのケアやリハにおいて
抽象論的なレベルにとどまり
だからこそ声高に叫んだり
共感して盛り上がったりもするのだろうと思うのだけれど
なんだかなぁ…と思ってしまうのです。
目の前の現実を
小さな困難であったとしても
1つずつ改善することが
望まれていることだと思うし
明日の私たちにできることだと思う。
「優しく不快のないように対応します」
と宣言することよりも
まずは、今日、この晩ご飯を
食べやすく介助できる。
宣言するよりもそっちのほうが先じゃないかな。
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手関節を掌屈させ前腕回外を強める。
自分にとっては不自然な身体操作ですが
こうすると対象者はまっすぐに前を向いた状態で
食塊をとりこむことができるようになります。
(対象者の斜め前から介助が可能であるなら
他の方法も選択肢にはいるけど
たぶん、通常は難しいことが多いと思う)
自分にとって
自然な動きというのは
自然だからこそ自覚しにくい。
だから常に自分の身体操作が対象者にとって
不利益な結果となっていないかどうか
確認することが大事だと考えています。
本当は養成過程において
このあたりをトレーニングすべきだとは思いますが
トレーニングされていないことを言い訳にしちゃマズイと思う。
「対象者に寄り添ったケアを」
と言うのならば
大きな理想を抽象論として語ったり叫んだりするのではなくて
まずは日々の小さな現実から見直すことが必要だと思う。
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