Tag: コミュニケーション

評価とは何か@暮らしの支援

ここにいていいんですか?

暮らしの支援をするという視点で
評価とは何か。ということがようやく明確に言語化できるようになってきました。

生活障害や BPSDはあっても
能力を能力として
特性を特性として
発揮しながら暮らしている。

見た目の不合理な言動というカタチで現れる困難は
ひとくくりにされて「認知症」という病気のせい、能力低下のため
と認識されてしまって、そこから如何に行動修正するかという視点に立って
対応の工夫が考えられる。。。という思考過程を踏んでいることが多いように感じています。

実は、見た目の不合理な言動というカタチで現れる困難には
次の3つが複合して反映されていると考えています。
1)病気や障害そのものによる困難
2)困難を能力発揮して代償しようとした結果
3)過去から現在において周囲の関係性との中で起こる過剰適応の結果

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ICFで対応する

対象者は
現在の横軸
過去からの縦軸
輻輳した関係性の中に「在る」

だからこそ
相互関係論である
ICFで評価・アセスメント・見立てをし
ICFにのって対応するということが必要なのだと考えています。

VFやVEによって
嚥下の状態を明確に把握できる機会が増えたということはとても良いことだと感じています。
ただ、「今、そうだ」ということは言えても
原因なのか、結果なのか
的確に判断することが必要だと考えています。

脳血管障害のようなエピソードがあれば原因と判断できても
特段のエピソードがない、高齢者や認知症のある方の場合には
原因ではなくて、結果であることが非常に多いという体験をしています。

認知症のある方の
能力低下が原因ではなくて
私たちの不適切なスプーン操作の結果として起こっている。
だからこそ、私たちが介助を変えれば
認知症のある方の食べ方も変わる。

主治医が「この方の大脳新皮質はコピー用紙1枚の厚さしかない」と言う方でも
食事介助の場面だけで食べ方が変わる。

誤嚥性肺炎を再燃せずに
摂取時間も大幅に短縮し
食べこぼしもなく
対象者の方も
介助する人も
お互いラクに行えるようになる。

このことは、もっとたくさんの方に知っていただきたいことですし
もっと重要なことは
「不適切な環境へ適応しようとした結果として起こる。過剰代償の結果として起こる」
ということが食事介助の場面でだけ起こっているわけではない
同じコトが違うカタチで現れていることがたくさんある。
ということを知っていただきたいと思っています。

どんなに良心的な職員でも
知識がないために
あるいはケアの常識に囚われてしまうと
「見れども観えず」になってしまっていることがたくさんあります。

観るポイントがわからなければ観ることはできません。
観ることができるように
このブログに具体的なポイントを記載していきますし
講演の時にはもっと明確にお伝えすることができます。
私の本の中にも記載してあります。

周囲にかけられたメガネを外して
目の前にいる人をまっすぐに観ることから始めれば
新たな発見がたくさんある。
常識として言われていたことは新たな概念のごく一部だった。
つまり今までの常識をさらに包含するような新たな概念を発見できることだってあります。

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パワーによる代償:全介助

食事全介助の方でも
同じコトが違うカタチで起こっています。

開口した時に舌が後の方に丸まってしまっていたり
口角から食塊が溢れたり
舌をスプーンの背で押した時に硬い抵抗感があったり
嚥下していないのに開口したり
これらは、対象者の方の能力低下ではありません。
適切なスプーン操作をするだけで解消される状態像です。

単に「食べさせる」「口の中に入れる」介助をしているだけでは
このような状態像を見過ごしてしまいますが
全介助の方でも食べ方は本当にいろいろです。
どんな風に食べているのか、観察することが重要で
観察もせずに「ゆっくり時間をかけた介助」が良いわけではありません。

たとえ時間をかけたとしても、
「何を確認しながら介助しているのか」自分の中でわかっていなければ
「見れども観えず」
自己修正が効きません。
大切なポイントを見過ごしているという意味では
時間をかけない介助と同じ結果になってしまいます。
「意味の理解」で書いたことと
同じコトが違うカタチで起こっているだけだと感じています。

クリスティーン・ブライデンが言ったように
「異常な環境には異常な反応が正常だ」

私たちは
認知症があろうがなかろうが
身体障害があろうがなかろうが
常に総体として環境適応しています。

養成課程において明確に学ぶ機会がなかったために
結果として職員が不適切なスプーン操作をしていれば
対象者の食べ方の巧みさ、細かな筋肉の多い口腔内の筋の協調はすぐに低下してしまう。
低下した協調を補おうとしてパワーで代償する。
舌の柔軟な動きが発揮できなくなってしまう。
代償が効いている間は不適切なスプーン操作にも適応できているが
代償では応じきれなくなり、結果として誤嚥が起こり、肺炎に至ってしまう。

特に
舌をスプーンの背で押した時に感じる「堅さ」「抵抗感」については
舌の過剰筋緊張が考えられます。

上の歯でこそげ落としたり
食べようとしている、そのタイミングに合わせて舌を押せなかったり
といった不適切なスプーン操作が行われれば
「食べにくい」と感じて
口腔内の筋の協調が低下した状態で
食べようとするならば、頑張ってパワーで代償するしかない
その結果として、舌が硬くなってしまう
そうすると、ますます、不適切な介助を引き起こし、
ますます口腔内の筋の協調が低下し
ますます、パワーで代償し。。。
悪循環が起こり、結果として、誤嚥性肺炎になってしまう。。。

だとしたら
回避すべき不適切なスプーン操作とは何か
望ましいスプーン操作の基本は何かを
明確に学ぶ機会がありさえすれば現実は変えられる。
認知症のある方は、ラクに安全に食べられるようになるし
介助する人は、ラクにスムーズに安全に早く介助ができるようになります。
誤嚥性肺炎は確実に減らせると確信しています。

変えようと思えば今すぐにでも変えられることです。
そして今まで知ることもなかった
認知症のある方の能力に触れる入り口になることを強調したいと思います。

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巧みさの発揮と環境

向こう側が透けて見えるカンナ屑
どれほどの技術があったら、こんな風に削れるのでしょうか。

   

新神戸駅近くにある竹中大工道具館で展示されています。
写真撮影OKの博物館です。
鉋、鑿など、たくさんの種類が展示されていました。
対象と用途に応じて道具を使い分けていることを感じ入りました。

さて、本題です。

前の記事で
食事後に指にスプーンの跡がクッキリと残ってしまった方に
スポンジを差し込んだスプーンを使っていただきました。
スプーンの把持の仕方が異なっています。
食事後に指にスプーンの跡が残ることもありませんでした。

身体能力としての巧みさが発揮できるためには
道具を含めた相応の環境が必要だし
道具を使いこなせるためには身体能力としての巧みさがどの程度あるのかという判断が必要です。

大工さんが
たくさんの道具を揃える一方で
道具を使いこなせるための身体能力を育むための修行期間が必要で
その期間の長短よりも実際にできるようになることが大切だという記載を
宮大工さんの本で読んだことがあります。

認知症やその他の障害があると
今までできていた身体能力を発揮しにくくなるから
身体能力に合わせた環境としての道具の工夫が求められるのだと思うし
仮にその環境整備が為されない時には
自らの能力として使えるパワー、力任せに頼った能力を発揮してでも
頑張って「食べる」という行為遂行しているのだと思う。

末梢の過剰な筋収縮が
近位の筋の過剰収縮をも引き起こすことによって
肘周囲の筋の過剰代償の結果として、口元までのリーチがおろそかになってしまったり
首周囲の筋の過剰代償の結果として、誤嚥を招きやすくなってしまっている
といった可能性は十分にあります。

だとすると
「今」自力摂取できているからといって安易に「問題なし」という判断をするのではなくて
将来を見越して
「より長く」自力摂取できるように
「より安全に」食べられるように
パワーによる代償をせずに、
持っている巧緻性・協調性を発揮しながら食べられるように
「今」スプーンの工夫をすることが必要なのだと考えています。

施設にしても病院にしても
道具を含めた多様な環境整備には限界がある。
現実として多様性をどこまで整備できるのかは施設によりけりでしょうけれど
少なくとも、その暗黙の前提要件を抜きにして
一方的に、安易に、対象者のせい…「高齢だから」「認知症だから」「能力低下してるから」
にしてはいけない。
抽象的に曖昧な認識のまま対象者の状態像のせいにしてしまうことではなくて
物理的現実的に今すぐの対応が難しいのだという
現実を直視した認識ができることだと考えています。

また、「適切な」道具選択という意味でも
自力摂取の評価・アセスメント・見立てができる職種として
作業療法士の関与が求められていると感じています。

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パワーによる代償:スプーン把持

イメージ_スプーン

まずは、食事を自力摂取できている方から説明していきます。
認知症があってもなくても同じコトが起こっていると感じています。

さて、本題に戻って。。。
食事を自力摂取している方は
往々にして手指の巧緻性や協調性の低下を
抹消や上肢の中枢部の過剰筋緊張によって補おうとして頑張りすぎて食べている。
最初は「問題」がなくても
パワーによる代償は将来の上肢の各関節間の協調を低下させてしまう。
そういうケースが非常によくみられています。

一人の対象者の方を長くみている方は経験があるはずです。
最初は自力摂取できていたのに、特別なエピソードがあったわけでもないのに
いつの間にか、食べこぼしが多くなり、口元へ運べなくなり、全介助になり、ムセるようになり。。。

多くの場合に
対象者の「老化」「能力低下」のせいにされてしまいます。
でも本当にそうなのかな?

ちょっと食べこぼしがあったり、摂取に時間はかかっても
自力摂取できていると、その人がどんな風にスプーンを把持しているかということは案外見過ごされてしまいがちです。
実際には、ものすごい把持の仕方をしている方がたくさんいらっしゃいます。
自力摂取できているからといって対応しないでいると
そう遠くない将来に全介助になってしまうリスクの高い方達でもあります。

つまり
スプーンで自力摂取の可否だけを観るのではなくて
どんな風に、というHowの部分を観る
ノーマルかアブノーマルかという視点ではなくて
過剰代償していないか、頑張り過ぎていないか、という視点で観察することの重要性を強く感じています。

よくあるのが
お食事後に手指を見ると
スプーンの跡がくっきりと指に残っているという方。
とてもたくさんいらっしゃいます。
つまり、スプーンを「持つ」のではなくて、指にグッと力を入れて「握って」います。

身体は総体として働いている
環境との相互作用を行なっている

私たちの身体は無意識にも機能しています。

試しに親指と人差し指、親指と中指で丸を作るように指先をつけた状態で
指先にぐーっと力を入れてみてください。
意識的に力を入れているのは指先であっても
肘の周りの筋肉や首に勝手に力が入っているのを感じることができると思います。

極論すると
こんな風にしてでも食べているということになります。

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パワーで補わなくて良いように

食事が自力摂取できる方でも
全介助の方でも
パワーで補わなくて済むように
食環境の整備とご自身の協調性や柔軟性を保つことが大切だと考えています。

協調性と柔軟性が低下してきても
日々の暮らしの困難、とりわけ、自分で食べ続けられるように
大抵の方は文句を言うこともなく
ご自身の身体の使い方を工夫して頑張っていらっしゃいます。
ううん、正確に言えば、頑張り過ぎてしまう。

能力低下とみなしがちな現実は
実は能力による過剰代償の結果というコトが多い

同じコトが違うカタチで起こっている

食事に限らず
認知症のある方の対応について
高齢者のリハについて
誤解が非常に多いと感じています。

目の前に起こる現実をまっすぐに観ている人は気がついていると思う。
ただ、明確に言語化できないから違和感として抱えているだけで
言葉にできない人が少なくないんじゃないかと思います。

食事は観ようと思えば容易に観ることができるし
食べられたか食べられないか結果が明白だから
食事について取り上げてみます。

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意味の理解

非麻痺側のべた足歩き

以前にネットで
「立って食事介助する施設はおかしい」
という論調の記載を複数見かけたことがあります。

もちろん、対象者の為にも介助者の為にも
座って食事介助ができるのであれば
それに越したことはありません。

でも
立って食事介助することの何が問題なのか
その意味をどれだけの人が「本当に」認識しているのだろうか?
とも思ってしまいました。

上から目線で失礼だから?
敬意を表するために相手よりも下から介助したいから?

それって対人援助職として大切な心がけではあるけれど
あくまでも、こちらの意図であって
「相手にとって」の意義ではない。

食事という場面は生命に関わる場面でもあります。
立って食事介助すると
どうしてもスプーンを上に向かって引き上げやすい状況が生まれてしまうし
喉頭挙上の動きを目で見て確認することは難しい状況です。

たとえ、座って食事介助していたって
上の歯でこそげ落とすようなスプーン操作をしたり
スプーンを斜め上に引き抜いていれば
立っていようが、座っていようが、どちらも同じとても危険な行為です。
喉頭挙上の動きを目で見て確認しなければ誤嚥を起こす介助をしてしまいかねません。

「立って食事介助をしてはいけない」とスローガンを唱えるのではなくて
立って食事介助することの何が問題なのか
意味を明確に理解することの方がずっと重要です。

そうすれば
立って食事介助せざるを得ない状況でも
リスクを認識した上で最大限配慮した対応ができるし
座って食事介助していても
同じ意味のリスクは回避しようと工夫することができるようになります。

同じコトが違うカタチで起こっている

「立って食事介助をしてはいけない」
「認知症のある方には敬語を使いましょう」

志ある援助職の人の
心身を消耗させるような状況は変わって欲しい。

必要なのは
目の前にいる人に
その時その場のその状況において
適切な援助ができることであって
一律に唱えられたスローガンの実践ではないと思う。

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必然・相互関係

誤嚥性肺炎などで絶食期間があれば
経口摂取で必要水分・栄養量の最低限が担保されるまでは
最低、その絶食期間と同じ日数を考慮しています。

絶食前に
誤介助誤学習があれば、さらに能力復帰までには日数がかかってしまうし
脱水や低栄養、貧血などがあったり
経過において過度な離床で体力消耗があれば、さらに日数がかかってしまう。
(離床設定の問題については後日改めて)

何事も必然がある

現状は
現在の相互関係の結果であり
過去の相互関係の結果でもある

縦軸・横軸の輻輳した関係性の中に「イマ」がある

だから
「今」「私」が変わる「意義」がある

そのことの意味が本当にわかると
一見、その場では、大きな過誤が起こっていないように見えることでも
徒や疎かにはできなくなる。

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