Tag: 対応

入院時サマリー

私は、入院時サマリーも書くように心がけています。

当院入院中の方が
骨折などで他院転院することもあります。

骨折前のADLがどうだったかって
急性期の病院にしたら必須の情報だと思うし
看護情報にADLも記載されてるけど
動きの質には触れられていないから
立ち上がりのパターンや歩行のパターンが
書いてあるとたぶん助かると思うのです。

それに
認知症のある方に
慣れていないリハ職だって少なくありません。

回避してきた場面や
対応が円滑にすすむ方法など
ピンポイントで伝えられれば
転院先でのリハそのものが円滑に進む
…のではないかと思うのです。

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限りなくうれしい

「月刊よっしーワールド」の
「バリデーションセミナー2012」の記事が

人気記事の上位にずっとランクインされたままです。

ほら、画面右側の上から3つめに「人気記事」って
項目があるでしょう?
今までは、人気記事の上位=最新記事…という感じでしたが
ここにきてちょっと変化が。

私が記事を更新し続けているのに
変わらず「バリデーションセミナー2012」の記事が
上位にあるということは
アクセス数が増えているということ(^^)

バリデーションをたくさんの方に
知ってほしいなぁ…と思っている私には
とてもうれしい(^^)
限りなくうれしいことです(^^)

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マンネリの活用

モノゴトの良し悪しは相対的。

だったら、
マンネリだって活用しようと思えば活用できるはず。

上手に活用しているのが
長寿番組なんじゃないかしら?

細部は異なっていても
おおまかなパターンは決まっている
つまり、展開の予測の幅がある程度規定されている
視聴者は自らの予測を裏切られない
期待通りの展開が進む

そんなに集中しなくてすむ
そんなに考えなくてすむ
少ない投資でまずまずのリターンが得られる

規定された構造
というのは、安定しています。

その安定を
つまらないとみるか
安心とみるか

コップ半分の水を
半分しかないとみるか
半分もあるとみるか

「みる」のは
自分でもなくて、職員でもなくて
認知症のある方。なんだよね。

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違うことをしなくちゃいけない?

対象者の状態像によりけりだとは思いますが

一般的に言って
「マンネリはよくない」
って思われていると思います。

だから
「同じことばかりするんじゃなくて」
「たまには違うことを」
「マンネリ化しているから対策を」
などという言葉が出てくるのだと思います。

でも、マンネリ=よくない
って思い込むのってどうかなぁ?

よくない…っていうのは価値判断だから
何かに基づいて判断されているはず。

マンネリのどこが悪いのか
…って考えると
マンネリの良い面、使える面
が思い浮かぶと思う。

だって、モノゴトの良し悪しって相対的だもの。

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偉大なるマンネリをめざす

「何をしたらよいのかネタが尽きちゃって…」
時々相談されます。

「偉大なるマンネリをめざすのもテよ」
私はそう答えます。

もちろん、対象者の状態によりけりなので
一概には言えませんが
認知症のある方の場合
偉大なるマンネリが功奏することも多いのです。

だって、よーく考えてみて。

疾患特性として
ワーキングメモリや近時記憶が低下している方が多い
ということを。

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ケアの統一

ケアの統一よくよく聞くヘンな言葉 「ケアの統一をしましょう」

だって、お年寄りの状態がさまざまなのに ケアを統一して、どうしていいことができると思うんだろう?

その時その場のその関係性において 適切な関わり方ができるかどうかこそが問われているのに

たとえば トイレ動作の自立を目標にがんばっている方がいるとして その方が「おしっこもれそうだから手伝って」と言っているのに 「自分でできるように練習しているんだから手伝えないの」 「みんなでそう決めたのよ」 って、そんなのってどうかと思う。

論理のすりかえ。だよねー。 結果として、起こるはずのことを 方法論として、用いている

どんな時どんな場どんな関係性においても ステレオタイプな対応をするのではなくて その時その場のその関係性において 適切な対応をすることで 結果として、 どのような時どのような場どのような関係性においても 能力を発揮できるようになっていく…だよね。

「あの人は人を見るからさー」 いやいや…(^^; 人を見る能力があるのは、イイコトで…。

もしも、人を見て、ある動作をやったりやらなかったりするのだとしたら それは、依存的等という言葉でくくられるのではなくて その人にとっては、「やらされ感」があって 本当はやりたくない、やりづらい…ということを態度で示しているのではないでしょうか。

だとしたら、私たちが考えるべきことは 「やればできるんだから、がんばってやって!」 などという言葉で動作を「させる」のではなくて 「どうしたら、やりやすくなるのだろう」 「本人にとってのやることのメリットって何なのだろう」 ということなんじゃないのかしら。

日々の臨床の場では すぐに答えが出ないこともたくさんあります。 その時には、答えらしきものに飛びつくのではなくて お互いしんどくても 今は答えがない…でも、この方向性で考え続けよう という態度を持ち続けることなのではないでしょうか。

少なくとも 答えらしきものに飛びつくことで お年寄りをよぶんに傷つけることは避けられるのですから。

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箸を箸として扱える

箸を箸として扱える「あーなるほど!」と思ったことがあります。

Hさんの食事のしかたをみて
看護師さんが「箸が使えるね」と言いました。
でも、私はその時「箸が使えていない」と思っていたのです。

どういうことかというと
看護師は
Hさんが箸を使って食べこぼしなく介助もなく自分で食事していたから
「Hさんは箸を使える」と思ったのです。
私は
Hさんが握り箸で箸をスプーンのようにして食べていたので
「Hさんは箸を持って食べられるけれど箸を箸として扱えない」
と判断したのです。

こういうことって、ものすっごくたくさんあります。

視点の違いで同じ現実を見ているのに違う事実と認識する

でも、そのことに自覚のある人はそんなに多くいるわけではありません。
モノゴトの前提が違うのに
前提を抜きにして、結果だけをああだこうだ言ってる…(苦笑)

自分の視点とか前提って
自分にとっては、あまりにも自明のことだから自覚しにくいけれど
異なる前提を放置して
結果だけをすりあわせようとしても
うまくいくはずがない…(^^;

Hさんの例では
箸の使用可否について結果だけを議論しても平行線で終わってしまいます。
「箸は持ってこぼさず食べられるけれど握り箸で箸としての操作はできていない」
という起こったことそのままを共有すること
Hさんにとっての優先事項を確認しあって
それを根拠にして箸の扱いをどうするか
ということではないでしょうか。

 

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約束したでしょう

銀杏リアルの世界でも、ネットの世界でも、よく遭遇する言葉です。

「そういうことはしないって約束したでしょう」
この言葉に遭遇するたびに、ヘーンなの!…って思っちゃいます。

だって、ケアやリハの場面で「約束」する時って
たいてい、通常の対応でどうにもならないから使われることが多いと思う。
つまり、どうしようもないから最後の印籠として登場する(^^;
だけど、どうしようもないものだから
結局、約束は破られ、対象者の方は二重に叱られる。

「待ってるって約束したでしょう」
「そういうことはしないって約束したでしょう」
「どうして約束したのに守らないの」

おいおい…(^^;
できもしないことをさせてるのはどっちなんだい?
しかも、対象者の尊厳を二重に損なってしまっているのに…

そもそも、約束って、自分で自分に誓うもの。
誰かにさせられるものじゃない。

「○○様」とか何とか言うより先に
対象者の方に対して約束なんかを持ち出さずにすむように
対応の工夫を私たちが考えるほうが先なんじゃないのかなー?
と思うのであります。

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