唯一無二の関係性の中で起こる
行動変容は双方向に起こる。
行動変容が深いほど、感覚や感情の動きも大きく伴う。
それらをより深く、より広く、より多く
感受・体験してきたことに「セラピストの経験」の意味がある。
もしも
変化を起こさせることを目的としたならば
それは援助ではなくて、使役ではないのかしら?
その違いを常に鋭敏に
自分自身に問いかけながら行うことの責務を
作業療法はその歴史からも背負っているのではないでしょうか?
4月 08 2016
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4月 07 2016
作業療法の作業は occupation を和訳したもの。
occupation を対象者ー作業療法士の関係性の中で
恊働し達成するコトに「意味」がある。
行動変容は
自分1人では起こりにくい。
かといって、他者であれば誰でもいいというわけじゃない。
起こっていることの「意味」がよく感じられ理解できる
そのためには、知識と技術とトレーニングが必要で
一時期席巻した「意味のある作業」という言葉。
いやいや、意味のない作業なんてないってば。
ギリシャ神話にだってあるじゃないですか。
「意味のある作業」という言葉で
たぶん、本当に言いたかったのは
「意味の合う作業」だったんじゃないかと思います。
結果として。なんだけど
わかりやすい意味を作業に求めた結果
起こっていることの「意味」を
双方ともに感じにくくなってしまっている
そんなことはないだろうか 。。。
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4月 06 2016
実は
私は過去あんまり「作業療法士として」働く
…という気持ちよりも
対象者の方に役立てるようになりたい
…という強い気持ちを抱いてきました。
初めて勤めたのが小児の肢体不自由児施設だったし
その後も老健で長く勤めていたので
「全身を観る」「リハスタッフ」という意識の方が
強かったと思います。
でも
不思議なもので
結果として
私は作業療法士として働いている
と言明できるようになっています。
自分自身の言葉で
作業療法とは何か…ということを言えるようになっています。
それは
作業療法を作業療法として
実践できるようになった…ということと
無関係ではないと思っています。
作業療法よりも
目の前のAさんにとって優先して必要な時には
バリデーションを実践できるようになった…からこそ
安心して作業療法を提案できるようになった
ということも大きいと感じています。
私は臨床家なので
一番興味のあることは、自分の腕…知識と技術を磨くこと。
そのことによって、目の前のAさんに寄与できるようになること。
少なくとも、Aさんにとって悪いことをしないですむようにはなること。
ただ、さすがに年齢を重ねてきて
イヤでも自分が第一線から退く日があるのだ
…ということを意識しないわけにはいかなくなってきました。
(若い頃はそんなこと微塵も感じなかったケド)
ある医師が
「精神科作業療法は作業療法士によってつぶされる」
と言っていたそうですが
そう言わずにいられなかったんだと思う。
作業療法の素晴らしさを知っているからこそ
似て非なるものを哀しいやるせない思いで見ていたんだと思う。
平成28年度は
作業療法士として…ということも
ちょっと書いておきたいなぁ…と思いました。
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4月 05 2016
ふとしたことから
「NHK 精霊の守り人」のメイキング番組を見て
本編も見始めました。
「精霊の守り人 NHK放送90年大河ファンタジー」
http://www.nhk.or.jp/moribito/
ふだん、私はあんまりテレビドラマは見ないのですが
綾瀬はるかのアクションも凄い。
アクション俳優じゃないのに
身体の動きがしっかりしてる。
だいぶ前に映画「陰陽師」で野村萬斎の走るシーンを見た時にも
体幹がしっかりしてることに驚いて
ふだんからきちんと身体を使ってる人は違うんだと
関心したことを覚えています。
インタビューを見て納得しました。
http://www.nhk.or.jp/moribito/interview/s1/interview15.html
腕立て伏せを毎日200回
腹筋を毎日30×5セット
。。。
その他にアクションを覚えて
セリフを覚えて
etc.etc.
プロなんだ 。。。と感じました。
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4月 04 2016
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4月 01 2016
私たちは
私たちが意図したことがスムーズに行かなかった時に
つまり、私たちが生活障害やBPSDに直面させられた時に
初めて、どうしたものか
と対応の工夫を考えることが多いと思います。
でも
本当は、そうじゃない。
認知症のある方の困りごとが
生活障害やBPSDというカタチで現れるより前に
ふだんの何気ない会話や行動の中にこそ
近時記憶の程度や
再認の可否といった
能力と障害が反映されている。
その段階で
私たちが能力と障害を見いだし対応を工夫することができれば
後になって「イヤ」「拒否」というカタチでしか
伝えることができなかった能力と障害を
私たちが見誤ることがなくて済んだかもしれない。
そして
本当は、こういったことが
もっとたくさん、もっといろいろなカタチで現れているのじゃなかろうか
そんな風に感じています。
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3月 31 2016
前にも記事に書いたと思いますが
認知症のある方に誘導を拒否されない為に
「毎朝顔を見せて挨拶する」とか
そんな相手の善意にすがるような行動は
もう卒業しませんか?
言葉は悪いけれど
なんだか、相手の信頼を利用して
こちらの思い通りにするみたいで
内心イヤじゃないですか?
少なくとも、私はそういうのはイヤ。
目の前にいるAさんの
能力と障害を把握して
たとえば、前の記事のような部屋の入口の写真や
実際に懐メロを歌う時に眼にしている画面を
写真に撮って提示すると
「懐メロを聞きにいく」という言葉を視覚情報が補足して
どこに行くのか
どんなところなのか
再認を促す大きなヒントになりますので
再生ができなくてわからなくてイヤと言った方が
「それじゃあ行こうか」
となるケースがたくさんあります。
あくまでも
ひとつの例ですが。
( この続きもまた明日 )
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3月 30 2016
この写真は
懐メロを聞いたり歌ったりする部屋のドアを開けたところです。
認知症のある方をご案内してドアを開けた時に
「あぁ、ここね。」
「あぁ、この前も来たね。」
「そうだね。先週来たね。」
「何言ってんのよ。昨日も来たじゃないの。」
等という会話が飛び交います。
私は、そうだったのね。
と納得してます。
再生ができなくても
再認はできる方が多いのです。
そして近時記憶次第で細部を思い出せる程度が規定される。
逆に言えば
再認しかできないから
この部屋に到着するまでは
さぞかし不安だったろうと思います。
こういう能力と障害を踏まえて
声かけを工夫すると良いと考えています。
続きは明日 (^^)
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