申込開始「認知症の評価・分析とシーティング」

申込受付が始まりました!

日本シーティングコンサルタント協会さん主催の
「認知症の評価・分析とシーティング」
2017年9月30日(土)に、東京北とぴあにて開催されます。

昨年に引き続き、お招きいただきどうもありがとうございます。

当日のシンポジウムもとても楽しみです (^^)

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余裕があるから予防もできる

前の記事に関連して。。。

暮らしが先。ということを書きました。

もしも、今、暮らすことに精一杯だとしたら
予防になんて手を回すことができない。
今日、どうやって一日をやり過ごすか、まずはそっちが切実だもの。
頭では良いことって理解できていても
人の手は2本しかないし、身体だって1つしかない。

1年後のことではなくて
今日、明日のことが切実

そういうことだって起こりうる。
もしも、そういう方に予防に取り組んでもらおうとするならば
今日、明日を少しでもラクに暮らせる「援助」がまず最初だと思う。
それが何なのかは人によって異なってくると思うけど。

直近のことが担保されて初めて将来のことにも考えが回せるように
心身のゆとりが出てくるものだと思う。

でも、実は、今日明日暮らすことだけで
精一杯という人だって少なくないんじゃないでしょうか。

日中独居・老老介護・認認介護。。。本当に多いです。

暮らしが先
あまりにも当たり前のことだけど、忘れてはいけないと感じています。

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暮らしから障害を観る

私たちは「私」という固有のメガネで目の前に起こることを見ている。
誰もこの「私」というメガネを外すことはできない。
はずしたら「私」が「私」でなくなっちゃう。
無色透明のありのままを見ることはできない。

当たり前のことなんだけど
この当たり前のことからスタートしていくと
認知症のある方への対応について
一見常識として定着していることでも
ものすごくおかしなことだということに気がつけるようになることってたくさんあるんです。

医師はその職業の特性上、疾患を診ています。
私たちリハスタッフは、障害と能力のプロとして要請されているし
仕事の場が地域、在宅へと展開されればされるほど
対象疾患が急性的ではなく慢性に経過するものであればあるほど
暮らしから障害を観ることが要求されてきます。

この観点を忘れちゃいけないんだと、日々感じています。

障害から暮らしを観るのではなくて、暮らしから障害を観るのだと。

最初に暮らしがあるのだということを。

介護保険の利用者の方に対して
「活動・参加」が焦点化されてきているのは、とても良いことだと思う。

ただ、気をつけなくちゃいけないことが
ときどき置いてきぼりにされているような気がしてなりません。

廃用にならないように、引きこもりから脱することができるように
家から出る機会を模索しましょう
って、流れにときどき違和感を感じることもあります。

もともと、いわゆる活動的な方で外出が好きで。っていう方が
高齢に伴い、あるいは種々の障害によって、外出しなくなり
って言うんだったら、お出かけしましょうよって誘う
あるいは、お出かけできるように働きかけることはとても重要なことだと考えています。

けれど、もともとあんまり人と関わるのが好きではなくて
ひとりで静かに過ごす時間が好きで
そういう方に対して、外に出て人と交流しましょうって働きかけるのはどうかなーと思うのです。

どんな風に過ごしてきたか、過ごすことを望むか。ということは
まさしくその方その方によって、まったく違っていて、良い悪いの問題で語れることではありません。
年をとって、廃用にならないように、認知症にならないように、という観点から
暮らしぶりを変えるのは、一歩間違うと、たとえ結果としてであったとしても
今までのその方の暮らし方、生き方をも否定することになりかねません。
それって本末転倒ではないでしょうか。

高齢者に対して量的改善だけを求めるのは、生きものとしての人間の否定につながりかねない。
ICFの活動・参加は、誰かの指標にもとづいて奨励されているものではなくて
その方お一人お一人の援助のために作られた概念であるということを決して忘れてはいけない
正しい暮らし方、望ましい暮らし方などがあるわけがない

介護予防、生活習慣病予防というのは手段であって目的ではない
障害から暮らしを観るのではなくて、暮らしから障害を観る
介護予防できれば、認知症予防できれば、生活習慣病予防ができれば
より自分らしく暮らすことができやすくなる

暮らしが先

そこを取り違えてしまっては、いけないのだと強く感じています。

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講演@在宅医療トレーニングセンター

平成29年7月4日(火)に
神奈川県医師会在宅医療トレーニングセンターさんに伺い
「認知症のある方のもう1つの言葉〜能力を見いだし能力に働きかける」
というタイトルで講演をしてきました。

在宅で認知症のある方に関わるヘルパーさんやケアマネさん
看護師さんや介護職の方などなど多岐にわたる職種の方にご参加いただいたとのこと
ものすっごく蒸し暑かったから、みなさん上気したお顔で来室されていました。
私もちょっと歩いただけで汗びっしょりになりましたもの。
そんな中、担当のIさんがこまめに空調の確認をしてくだったおかげもあって
かなりお部屋の中は快適でお話に集中して耳を傾けてくださった方が多かったんじゃないかと感じました。
おつかれさまでした。

Iさんには事前の準備段階からいつもきめ細やかに明確にご対応いただき
大変感謝しております。
どうもありがとうございました。

認知症のある方への対応の中でも
声かけにポイントを絞ったお話と
ちょっとだけですが、演習にも挑戦していただきました。
いかがだったでしょうか?

結果として起こっている表面的な事象だけをみて
どうしようと考えてもブレークスルーは生まれません。

結果として起こっている一見不合理な言動の中にも
認知症のある方の能力がちゃんと投影されています。

だからこそ
私たちが対応の工夫をする意義があります。

そのことをお伝えすることができてとても嬉しく思いました (^^)

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POST記事 連載中

POST
PTOTSTの働き方・学び方発見サイトさんに
2017年7月1日
「そのそも活動・参加とは何なのか 認知症のある方を担当したら」という
私の記事が掲載されました。

たくさんの方にお立ち寄りいただき嬉しい限りです m(_ _)m

ご自宅にいる認知症のある方は
一日が長く感じられる場合もよくあります。
施設にいる認知症のある方を担当していると
他部門からの「徘徊しないように何かできることない?」
などという要請を受けることもあるでしょう。

結果として現れている表面的な事象に対して
「じゃあ、どうしようか」と考える思考パターンは
もう卒業しませんか?

他の対象疾患を抱える方に対して
目の前に起こっていることから障害と能力を明確化していく
という思考パターンをトレーニングされてきたリハスタッフであれば
認知症のある方に対しても同様の思考パターンで向き合えるはずです。

認知症のある方への活動・参加ということを考える。ということは
ICFの「活動・参加」という概念の本質に深く向き合う。ということを
否が応でも要求されるようになります。
その過程は、辛いこともありますが
認知症のある方に対してだけでなく
リハスタッフが担当している他の対象疾患を抱える方に対しても
一歩深いところでの洞察が働くようになると感じています。

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鹿児島に行ってきました

 

平成29年7月1日(土)に鹿児島県作業療法士会 教育部さんの主催で
「認知症の方への理解を深める」というタイトルで講演をしてきました。

お招きくださいました教育部さん
とくに事前の準備段階から窓口となってやりとりしてくださったHさんには
心から感謝申し上げます。
理事のYさんはじめみなさまとのひとときは
楽しく、またとても充実した時間でした。
いろいろお気遣いいただき、どうもありがとうございました.

モリモリの内容で時間ぎっしりお話を詰め込んでしまいましたし
時間の関係ですべての方のご質問にお答えできずに申し訳ありませんでした。
もしよろしければメールでご連絡いただければ、お時間がかかっても必ずお返事を差し上げます。
(配布資料の一番最後にアドレスを記載してあります)

お話を聴いてくださった方が
それぞれの場でひとつずつ積み重ねていっていただいて
時を経るごとに認知症のある方とご家族の余分な困難が少しでも少なくなるように
そして、できうることならば少しでも助けになることが多くなるように
この次がまだまだあるので、さらに積み重ねていっていただけることを心から願っています。

鹿児島士会の方がみなさん、とても感じが良い方ばかりで
鹿児島での滞在をとても快適に過ごすことができました。
どうもありがとうございました m(_ _)m

甘いお醤油は初体験でしたし
大根の唐揚げは絶品でした!

冒頭の写真は、鹿児島中央駅付近で観覧車と路面電車
(お気に入りの1枚となりました)

こちらは、朝、ホテルの部屋からの眺め

言わずと知れた桜島

空港近くには茶畑が広がっていました。
さすがお茶の名産地

お約束の富士山

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目指す着地点

「帰りたい」「子どもが家で待っている」
といった表現で訴える方は大勢いらっしゃいます。

そんな時によく言われるのが
「説得より納得」
でも実際には言うは易し。行うは難し。と感じることはたびたびあるのではないでしょうか。

確かに「説得」は効果ないどころか、一利もないことのほうがずっと多いように感じています。
けれど「納得」を着地点にもってくると、これまた別の問題が生じるように思います。

納得して「あぁそうか。ありがとね」を着地点にもってこようとすると
あの手この手を使って
笑わせようとしたり気をそらせようとしたり最後まで追いつめてしまったり
結局は説得とは違うカタチであっても説得と似たようなパワーを用いてしまう
そんなジレンマを感じたりしてはいませんか?

着地点は「納得」に置かない

その方がずっとお互いの精神衛生上プラスだと思います。
納得はできないけれど、もしかしたらそうなのかなぁ?
でも良いのだと思います。

だって、認知症のある方はそれだけの能力をもっておいでですし
そもそも、私たちだって普通に暮らしていれば
いろいろな場面に遭遇して納得できないことでも仕方ないねと
いったんはモノゴトから距離を置くことなんてしょっちゅうあるのではありませんか?

余談ですけど
対人援助職はゴールを理想的に高く上げ過ぎだとよく感じます。
ふだんの私たちの暮らしではあり得ないようなことをゴールにもってくる。
結果を声高らかに宣言する。
でもその実現の過程はものすごく曖昧。
そういったパターンが多いように感じています。
結果ではなくて過程の方をもっと丁寧にきめ細やかに検討することの方が
プロとしての在りように結びつくように感じるんですけど。。。

「納得」はできないけど、そうなのかな?
「納得はできないけど、ちょっと時間をおいてまた聞いてみようか

そんな風に感じてもらえれば十分なんじゃないかな

だって「帰宅要求」はとりあえずその場は収まったんだし。

だけど、本当は帰宅要求を収めることが目的じゃないと思う。
帰宅要求という方法で表現でき、コミュニケーションすることができているのだから
言葉と感情のやりとりをできる
その結果、一方的に押し通すばかりではなく押したり引いたりもできる
だからこそ、目にみえる結果としての帰宅要求が止まった。ということになるのだと思う。

こういうことってたくさんあるように感じています。

今、何が起こっているのか
まずは、その把握から
その時に従来から言われている方法論を鵜呑みにして考えるのではなくて
もう一度自分と相手との関係性において吟味をする。ということ。

地道な実践の検証から、思いもかけないブレークスルーが生まれてくる。
いっぱいあるように感じています。

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≠「言う」=「する」

先週書いた記事の中で
村上龍が初台リハビリテーション病院のことを
「可視できるヒューマニズム」と評したことをとりあげました。

願いとしてのヒューマニズムを
現実の中で実践を通して見えるカタチで実現していく
それができることがプロなのだと感じました。

プロというのは
実現できる知識と技術をもっている人のことだし
だからこそ実現する時に丁寧にきめ細やかに実践していく人のことだと感じています。

日曜日のセミナーでもお話しましたが
願いをカタチにするための知識と技術がない状態で願いだけがいくら強くあっても
現実を変えることはできない。

美味しく食べていただきたい
栄養や水分をちゃんと摂取していただきたい
そのような願いを抱いているのであれば
対象者に対して「食べてね」と言うのではなく
対象者が食べられるように自分が「する」のだと

知識と技術がなければ
自分が「する」のではなくて
対象者に対して「ちゃんと食べてね」と言うしかなくなってしまうのだと

そして
認知症のある方への食事という場面で起こっていることは
認知症のある方への生活障害やBPSDという場面でも
まったく同じことが違うカタチで現れているだけなのだと

「認知症のある方へ寄り添ったケア」
「その人らしさを大切にしたケア」
そのようなケアの理念を実現するために
私は語るよりも考える
ある特定のそれぞれの場面において
私自身の
どのような言動が認知症のある方へ寄り添ったケアに該当して
どのような言動が認知症のある方へ寄り添ったケアに該当しないのか
どのような言動がその人らしさを大切にすることになって
どのような言動がその人らしさを大切にしていないことになるのか
尊重と迎合との違いは何か

私は臨床でとても困っているから
いつも具体的に考えるようにしているし
セミナーや研修会の講師を務める時にも
抽象的なことを語ることはしない
自分自身のポリシーとして
抽象的な理想論を語っているだけでは目の前の現実を変えることはできない
必要なのは、理想を具現化する過程においての
在りようであり具体的で明確な考え方なのだと考えているから

私自身の体験として
涙をこぼさずにいられないような体験はヤマほどあるけれど
そのような体験を講師として話すことはしないから
人によっては感動や共感を求めて研修会に参加する人もいるようですけれど
そのような人にとっては私の話は物足りないと思います。

私が講師をお引き受けする目的は
認知症のある方は能力をもっているが故に暮らしの困難に遭遇する
だからこそ、対応を工夫する意義がある
ということを明確にお伝えするため
1人でも多くの困っている対人援助職の人と
1人でも多くの認知症のある方とご家族の余分な困難が少なくなるため

今の自分でできることを「する」ために
その1つの手段として
たとえばこのブログの記事で「言う」ことを活用しています。

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