特性が能力の足を引っ張る

私たちが日々安寧に暮らしている。ということは、
山の細い尾根を歩いている。ということにも似ている。
と実感することが時々あります。

特性が能力の足を引っ張ることもある
からなんです。

認知症のある方の
遂行機能障害には、様々な要素が組み合わされて
目に見える障害となって現前しますが
障害となるきっかけがその方自身の特性だったりすることが
とても多いのです。

例えば
何かモノゴトを為そうとして
手順を考える時に
丁寧にきっちりとやろうと工夫したが故に
動作干渉として作用してしまい
当初意図した手順を忘れてしまう

こういうことって
実は、とても多くみられている事象です。

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能力と特性が見えない状況

その人らしさが損なわれることは決してない。

見えなくなることはあっても。

見えない状況があるだけ
だから、見えるようになる状況を作れば良いのだと思う。

ただ、そこには大きなギャップがある

私たちは無自覚のうちに
いろいろなことができているから
能力がスモールステップのクリアの蓄積として発揮されていることを認識しにくい。

例えば
毛糸モップは、多様な方が作れるActivityではありますが
それでも認知症のある方には難しい面もあります。
構成障害や遂行機能障害のある方には
工夫が必要だったり、工夫しても難しかったりします。
そういうことがわからない人には、ものすごくあっさりと
「これなら簡単だから〇〇さんにやってもらえば」と言われたりします。

〇〇さんにやってもらうと
工程を説明しても
毛糸の端に毛糸を結びつけてしまったりします。
そこでさらに「ここをこうして」と説明すると怒り出してしまったりします。
「ここをこうして」の説明の難しさは以前の記事をご参照ください)

そこだけ見ると
「こんな簡単なこともできない」
「できていないから丁寧に説明してるのに何で怒られなきゃいけないの」
と思われるかもしれませんが。。。

実は、認知症のある方にとっては
酷なことをしているし、小さな親切大きなお世話をしているし
善意からの関わりだから余計に自らの関わりの不適切さに自覚がない
ということにもなってしまっているのです。

なのに
「〇〇さんはすぐ怒る」というレッテルを貼られてしまったり。。。

でも
異なるActivityを行うと
〇〇さんは怒ることもなく集中してものすごく丁寧に
しかも自分が作業しやすいようにちょっとした工夫もしながら
能力と特性を発揮して行うことができたりします。

〇〇さんは、確かに困難なことを抱えているけれど
能力と特性を発揮できないわけじゃない。

〇〇さんにはできないことだったから
能力と特性が見えない状況だったというだけ
ということになります。

だったら
能力と特性が見える状況を作れば良いのだと考えています。

認知症があろうが、なかろうが
誰だって、できないことはできない。
ある任意の事柄ができなくたって
他のことでできることはいっぱいある。
そんなの当たり前のことだもの。

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特性は消えない

声を大にして言える。

その人らしさは消えない。
損なわれることはない。

一時的に見えなくなることはあっても
見えないだけで、なくなるわけじゃない。

たとえ
表面には見えなくても
その片鱗は必ず現前している。

その人に届くように聴き
受け取れるように観察し
現前した事実に基づいて洞察する。

ここで依拠するのは理論ではなくて、あくまでも事実なんです。

 

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わかるからこそできなくなる

認知症のある方を見ていて思うのは
「できないことは単に能力低下してできないわけじゃない」
ということ。

わかるからこそ
きっちりやろうとするからこそ
丁寧にやろうとするからこそ
その工夫をしようとしたからこそ
できなくなってしまうということ。

特性が裏目に出てしまう。。。

だから
「できる」ことを目的化して
「お手伝い」してしまうのも良し悪しなんだよね。
結果としてであったとしても
その方の特性を反故にしてしまうことになりかねないから。

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できることのすごさ

私たちにとっては
なんでもないように、ごく簡単に、見えることでも
「できる」ためには、いくつものスモールステップをクリアしなければ
「できる」ようにはならない。

身の回りのことでも
何か作ったりすることでも

スモールステップが明確にわかるようになると
できることのすごさを実感する。
こんなに難しいことができているんだ。
その「できる」ということに感嘆する。

 

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できない?見えない?

目の前にいる方が本当にできなくなってしまったのか
あるいは、単に私がその方ができるところを見る機会がないだけなのか
本当に難しい。

だからこそ
聴いてみなければわからないし
それもたった一度ではなくて
聴き続けてみなければわからないときもある。

いったんできなくなってしまったように見えても
ふとした時にできている場面に遭遇することだって少なくない。

能力を喪失したことと
能力を発揮できないでいることと
発揮されている能力が見えていない
ということは、全然違う。

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事実の子7:座る練習→立ち上がれる

こちらのブログにも
何回も書いてきましたが
ウソみたいな本当のハナシ。

静かにそっと音がしないように座る練習をすると
一人でスッと立ち上がれるようになります。

立ち上がりの練習を
「はい、頑張って!」と努力して立たせることはしません。

立ち上がりは
1)完全に全介助で 2)ご本人には努力させずに
ただし、3)重心の移動方向にだけ気をつけて 行います。

座る時に、
1)音がしないように  2)ソッと  3)体幹の前傾を十分に保ちながら
場合によっては、4)体幹が伸展しないように腰や背中を支えながら 座っていただきます。

一人ではスッとスムーズに立ち上がれなくて
何回もお尻を持ち上げようと努力してようやく立ち上がれたり
何かにつかまって身体を引っ張り上げるようにしてようやく立てる
あるいは、どうしても一人では立ち上がれない
という人に対しては
立ち上がりの練習をするのではなくて
座る練習をした方が早く立ち上がれるようになります。

お試しあれ〜⭐︎

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事実の子6:?「一緒にやるから大丈夫」

前の記事と同じ意味ですが
「一緒にやるから大丈夫」
この言葉も注意が必要な言葉だと考えているので自戒しています。

励ましや気持ちを支えるために使ったのだとしても
構成障害のある方にとっては
「ここをこうしてこうやって」と
隣で説明されてもわからない。ということが多々あります。

わからない、できない方にやっていただこうとして
文字通り手をとって教えるような説明では
達成感は得られにくいと思いますし
なんだか「させてる」「作らせてる」ように感じませんか?

私たちの脳が対象者の方の手を動かさせている
そんなの、嫌です。

「一緒にやるから大丈夫」
この言葉を言う人に悪気があるわけではないと思います。
でも、結果としてでも
「やらされた感」を感じさせてしまわなかったかどうか
PDCAを回すことが大切なのではないかと考えています。

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