ありそうでないのが目標設定の研修会
今週末、12月22日(土)の午後に
東海道かわさき宿交流館にて目標設定の研修会が開催されます。
目標を目標のカタチで設定できることは、とても重要なのですが、
現実には目標と目的や治療内容との混同が為されていて
そのために余分な混乱、困惑が引き起こされているのは勿体無いことだと感じています。
残席わずか、締め切りまでわずか。
お申し込みの予定のある方はお早めにどうぞ。
詳細は
作業療法総合研究所のサイトの該当ページをご参照ください。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3985
11月 12 2018
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3981
11月 11 2018
スティーブ・ジョブズの言葉に
「意図こそが重要」と言う言葉がある。
この言葉の意味を
その都度その都度何回もわかり直している。
認知症のある方への対応について
「援助」なのか、「使役」なのか、という違いはとても大きくて
にも関わらず、実は自覚されにくい。
例えば
入浴でもトイレでも誘導しようというときに拒否されてしまう
ということは、よくあります。
このときに
「誘導しようとしたら拒否されてしまった。
どうしたらいいだろう?」
と言う問いのカタチでは
「拒否されない誘導の方法は何があるだろう?」
というカタチで問いを重ねることになってしまいます。
これでは主語が私たちになってしまっています。
ここでもしも
「誘導しようとしたら、嫌!と言って顔を背けてしまった。
このときに何がこの方に起こっていたんだろう?」
というカタチの問いを立てれば
「何が嫌なんだろう?嫌でないことは何だろう?」
と次へ続けることのできる問いのカタチができます。
この問いは主語が認知症のある方になっています。
どっちだっておんなじじゃん。
とはならない。
意図は相手に伝わってしまう。
例え、明確に表現してもされなくても。
そして、その意図はその後の私たちの行動にも影響を与える。
拒否されないように。。。という観点を重視した関わり
認知症のある方が受け入れやすい方法を探るという観点を重視した関わり
援助なのか、使役なのか
容易にすり替わりがちだからこそ
気持ちだけでは防ぎにくいことだからこそ
意図的に気をつけなくてはならないと思う。
言葉で「認知症のある方に寄り添ったケアをします」
と宣言することも大切かもしれないけれど
個々の実践において「寄り添ったケア」という理想に合致しているかどうか
具体的に検討するとともに
予防できるものは予防していくために
気をつけ方の言語化が必要なのではないかと考えています。
<お詫び>
今回の一連の記事において
誤解を招きかねない表現をしてしまったために記事を削除いたしました。
ここに深くお詫び申し上げます。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3978
11月 05 2018
ここからが問題で
私たちは援助と使役が紙一重ということを
それほど明確には学んでこない。
理想として語られた言葉として聞くことはあったとしても
実際にどのようにしてすり替えが起こってしまいがちなのか
どうしたら少しでも防ぐことが可能なのか
具体的には教えてもらうことがない。
「気をつけましょう」では
行動変容は起こらない。
それはサボっているからではなくて
そうしたくないからというだけでもなくて
気をつけたくても行動を変えることができないことだってある。
認知症のある方の
一見不合理な言動から能力を見出そう
そのように意思として心がけたとしても現実問題できない人は少なくない。
こういう状態は、とても辛い。
なぜできないのか?
それは、過程の具体化が抜け落ちてるから
願えば叶うわけでもなく
唱えれば叶うわけでもない
気持ちだけでは行動変容は起こらない。
自分の実習体験を思い起こせば
あるあるの話なんじゃないかな?
指導者に指摘されたことはわかる。
自分も努力しようと思う。
でもできない。。。
一方で
認知症のある方の立場に立ってみれば
理解してほしい、助けてほしい
と願うだけでなく
自分でできる限りのことはできるようになりたいと願っている。
してもらうのではなくて、自分でできるようになるような援助も願っている。
認知症のある方本人も
周囲の方も
困ってしまう生活障害やBPSDには
その場面にこそ、困りごとというカタチで現れている能力と障害が反映されている。
アフォーダンスの言葉を借りれば
見出されるのを待っている
表面的に
修正したり、改善したり、制圧しようとしてはいけない。
結果としてであっても
能力を否定することになってしまうから。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3953
11月 02 2018
人は環境の中にいる。
いろいろな構造物に囲まれているし
いろいろな人間関係に囲まれている。
自覚的にも無自覚にも甘受している情報はたくさんある。
アフォーダンスとは
環境の中に実在する行為の資源 と定義されている。
私たちは対人援助職として
対象者に対峙するけれど
同時に認知症のある方の側に立ってみれば
無数の環境の中の構成因子でもある。
認知症のある方は
私たちの言動を手掛かりの一つとして
環境認識し対応しようとする。
だからこそ
私たちの言動の意図がcontrolであれば、
通常は誰だって嫌がるものではないだろうか。
その表れが
ネガティブなパターンだと
表れ方だけを見て否定的な判断を下されがちだけど
そこだけ切り取ってしまえるものなのだろうか?
それに、通常、私たちが暮らしの中で
「え?」と思うような対応をされても
内心の思いを抑圧して表面的には追従することもあるのと同様に
認知症のある方だって合わせてくれることだってたくさんあるに違いない。
そこって現実に起こっていても評価されにくいところだと思う。
だけど、私たちが判断できないからといって
現実に起こっていないわけじゃない。
私たちが観えていないだけで
認知症のある方は必死になって対応しようとしている。
それは能力があるからこそできること
なんだと思う。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3948
10月 31 2018
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3942
10月 22 2018
平成30年10月21日(日)に
東京の中央労働基準協会ビルにて
(株)geneさん主催のセミナー
「認知症のある方への対応入門〜評価のすすめ方」というテーマで
講師を務めてきました。
運営を担当してくださったTさん
参加してくださった方々
どうもありがとうございました。
お疲れさまでした。
認知症のある方をcontrolするということと
認知症のある方の環境認識を援助するということは全く違う。
全く違うけれど紙一重。
容易にすり替わってしまいがちだから自戒が必要。
この立ち位置を明確にしておかないと
その上に積み上がっていかないというところからご説明を始めました。
援助という視点を明確にした
意図的な観察をすることによって
評価が深まっていく。
そのために必要な考え方、展開の仕方を具体的にご説明したつもりです。
今回は「評価のすすめかた」がテーマでしたが
次回11月25日(日)の「認知症のある方への評価から対応まで」では
評価をどのように対応に活かすかについて
具体的な事例を紹介しながらご説明いたします。
そして
生活障害やBPSDを表面的に修正しようとしてはいけない
ということの意味をもう一歩深く踏み込んでお伝えしたいと思います。
「こういう時にはどうする」というハウツー的展開へ違和感を抱いている方や
自分のしていることは認知症のある方を言いくるめたりごまかしたりしているだけ
なのではないかという疑問を抱いている方には、きっとお役に立てる内容と自負しています。
ご参加、お待ちしております。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3938
10月 16 2018
仕事でも講演でも
自分が組み立てて何かを為した時に
ふと違和感を感じたとしたら
それは私にとってのブラッシュアップのヒントだった
ということって、とても多い。
どこがどう。と明確に言語化できなくて
でも、何か心に引っかかることがある。
そんな時には
まず言語化できるように努力するけど
必ずしもすぐに「あ!そうか!」とわからない時だってある。
わからないことって、抱え続けるのは
モヤモヤした気持ちでいることになるけど
忘れないようにする。エイやって放り投げないようにする。
違和感を感じたところを心に留めておく。
それだけでも違う。
そうすると、後になって、ひょんな時に
「あ!そういうことだったのか!」と気がつくことが多い。
気がついてしまえば何てことはないことでも
気がつけない時は、どうしたって通り過ぎてしまう。
違和感がブラッシュアップのヒントになる。
そういうことって、とても多い。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3932
最近のコメント