Category: よっしーずボイス(ブログ)

口腔ケアに再び協力ー「PDCA」

重度の認知症のある方で
口腔ケアの時に
開口を維持するのが難しくて
介助者の指を噛んでしまうような方に対して
細心の注意を払ってケアしていると思う。

Kポイントを使って
開口を維持して
手早く口腔ケアして
その間も大声を出されたり指を噛もうとしているから
終わり次第、さっと指を抜くしかない
という場合も多いかもしれません。

オーラルバイトもあるけど
虫歯のある箇所で使ってしまうと
歯が折れて誤嚥してしまう恐れもあるから
安易に使用せずに、使用前にはグラグラしている歯の有無は確認しておく必要もあります。

ただ
前の記事で書いたように
本当に重度の方で開口保持するのが難しい方が(状態像の詳細は書けませんが)
再び意図的に開口しようという能力を発揮できるようになるということの意味を考えると
「食事介助で起こっていることと同じコトが違うカタチで起こっている」だけだと感じます。

場面に対して不適切言動が起こる時には必然性がある

認知症という脳の病気によって起こる
状況理解力の低下(低下であって喪失ではない)という本人が抱える課題

認知症のある方に対して
能力にどう働きかけるかという工夫ではなくて
優しく丁寧に快適にといった心理社会的な抽象的な方策にとどまってしまっている
という介助者側が抱える課題

これらが輻輳して「口腔ケアの困難」という現れ方をしている
と考えています。
食事介助で起こっているコトとまったく同じ。

食事介助において
不適切なスプーン操作に適切に適応しようとした結果不適切な食べ方を学習する。
いわば、「誤介助誤学習」が非常に多く散見されている。
だからこそ、適切なスプーン操作に対しては適切に適応しようとして適切な食べ方の再学習が起こる。
「正の介助に対して正の学習」が起こった結果として、重度の認知症のある方でも食べ方が変わる。

口腔ケアに対しても
感覚の最も鋭敏な口腔内のケア時に
「認知症だから」「わからないから」と考えて
通じやすい説明を工夫したり、ラクな方法を工夫したりすることがなければ
そりゃあ、当然、抵抗も起こると思う。

口腔ケアの時に
口を開けてくれない、指を噛まれる、大声を出す
じゃあ、どうしたらいいの?
と考えるのではなくて
認知症のある方は、能力は低下していても喪失しているわけじゃないのだから
どんな能力があるか
その能力を活用するにはどうしたら良いのか
こちらがどう伝えたら理解しやすくなるのか

私たちの思考回路を変えること

大切なのは、その方の状態把握、評価、アセスメント。だと思う。

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口腔ケアに再び協力ー「終わり方」

口腔ケアをする時に
気をつけていることがあります。
それは終わり方。
認知症のある方が力を抜いた状態でケアを終えること。

HDSーRをとる時には、終わり方に気をつけています。
最後の設問は語想起課題ですが
なかなか答えられない、想起しようとしているのに想起できなかった
という体験で終わらないように。
不全感や喪失感を拭うことはできないにしても
こちらのマナーとして行なっています。

それと同じ意味で
認知症のある方の口腔ケアの終わり方にも気をつけています。
特に、介護抵抗のある方が歯を食いしばって大声を出したままで終わらないように。

もちろん、説明も声かけもしていますが
それでも、自分の口の中に他者の指やスポンジが入ってきて触られるのは
決して嬉しい体験にはならないと思う。

せめて、終わる時にラクな状態で終われるようにするということ
対象者の方が力を抜いた状態で終われるように

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口腔ケアに再び協力ー「能力」

すごく嬉しかったのは
能力がなくなっていたわけじゃない。ということ。

能力を発揮できない状態や状況にあったとしても
能力そのものがなくなってしまったわけじゃない。ということ。

両者をとり違えてはいけないし
能力を発揮できるような状態や状況を工夫することの重大さ

あらためて
身が引き締まるような思いがしました。

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口腔ケアに再び協力

口腔ケアをする時に
開口を保持できない方には
Kポイントを刺激して開口していただくことがあります。

じゃないと
こちらの指を噛まれてしまいます。

ある時ふと感じることがあって
Kポイントの刺激を外してみました。

意図的に開口を保持してくれてることに気がつきました。
すごく嬉しい。

口腔ケアに協力するということが、できなくなったわけじゃない。

能力を喪失したわけじゃない。

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スモールステップ

誤嚥性肺炎になった後
もう一度経口摂取にトライする方を担当して思うのは
焦っちゃいけない。
スモールステップを着実に踏んでいくこと。

能力は
白黒じゃなくてグレースケール。
そのグレーの色調をどれだけ細やかに色分けするように把握できるか
ということが大切だから

スモールステップも細やかに設定して
細やかに達成できるように援助することが大切

経口摂取していないと
どんどん体力が落ちてしまうから
こちらが内心焦ってしまう時もある。

でも、焦ってもロクなことにはならないどころか
逆効果になってしまうから
焦らない、焦らない。
自分自身に言い聞かせる時もある。

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理念と実践の照合

私たちが理想とするケアの理念をどうやったら具現化できるのか
まさしく今後問われてくる課題だと考えています。

認知症の普及啓蒙が進めば進むほど
理念と現実との狭間に直面する機会が増えてくる

こういう課題は
抽象的に考えても答えは出ない。
正確に言うと
抽象的に考えても日々の実践に役立つ「具現化の方法」は出てこない。

日々の実践の場において
理念と実践の照合をその都度行うといった
気の遠くなるような地道な作業を一人一人が行っていき
そこから得られた知見の検証から始めるしかないと考えています。

その過程において
目からウロコのような発見があったり
先人が語っていた言葉を深く再認識できるような体験があったりするのだと思う。

私はかつて
とても苦しい日々を送っていたことがあります。
自分の中で、常識的一般的なケアの対応では
どう考えてもケアの理念に反するとしか感じられなかった時
自分としては、そんな対応はもうイヤだと感じた時
バリデーションに出会うことができて本当によかったと思う。
「帰りたい」と言う方の気持ちをどんな風に聴いたら良いのか
ゴールはまだまだ遠いけれど、スタートラインに立つことはできたし
とにもかくにも、スタートを切ることはできるようになった。

でも、バリデーション創始者のナオミ・フェイルが言ったように
「バリデーションは万能ではない」

認知症には様々な生活障害があり、様々なBPSDがある。

なぜ、バリデーションを通して
「語る」ことで「帰りたい」と言う気持ちが解消されるのか
なぜ、BPSDは出る人と出ない人がいるのか
理念と実践の照合を繰り返すと
理解や認識、発見が深まっていく。
(そう言う意味で大切なのはPDCAを回すこと。一番大切なのは「C」を疎かにしないこと)

作業療法の「体験」の意味がもう一段深く理解できるようになっていく。

耳に心地の良い言葉やギョーカイに深く浸透している言葉(概念)って検証されにくいものですが、
案外表面的に見えることに過ぎない理解、入り口でしかない理解って多々あるように感じています。

理念と実践が乖離しているとしたら
どちらかが間違っている。
「認知症のある方に寄り添ったケア」と言う理念が間違っているとは考えられない。
だとしたら、実践がどこかでズレている。
だとしたら、そのズレを修正すれば良いだけだと考えています。

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「痛いですよ。言わないだけ。」

ずいぶんと昔に聞いたことがあります。

ある対象者の方がリハ中に
「痛い」って繰り返し言っていたけど
セラピストから我慢するように繰り返し言われ続けていた。

ある時にセラピストが
「〇〇さん、ずいぶん良くなりましたね。痛いって言わなくなりましたね。」
と言ったら
対象者の方が「痛いですよ。言わないだけ。」と答えた。

言ったってしようがないと思えば
もう言わなくなりますよね?

「言わない=ない」わけじゃない。

リハの世界じゃなくても
認知症があってもなくても
普通によくあることですよね。

今まで書いてきた認知症のある方の帰宅願望のケースでも
「帰りたい」と言わないようにしているだけなのか
「帰りたい」と言う必然性がなくなったのか
全然違うことだけど
私たちは、どっちを求めているんでしょう?
認知症のある方は、どちらを求めているのでしょうか?

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「寄り添ったケア」って何?

「認知症のある方に寄り添ったケア」は
ケアの理念として語られています。

理念が実践とリンクしているかどうか
照合しながら自らの実践を吟味している人は、
たぶんとても辛い思いを抱いているのではないでしょうか。

理念や理想が高ければ高いほど
目の前の事象に自分が関与する仕方、実践との隔たりを
否応もなく感じると思う。

先の例で言えば
「帰りたい」という方に対して
どのような対応が為されているのでしょうか?

「帰りたい」と言う言葉には
帰って何をしたいのかという切実な気持ちがある。
イマ・ココで起きていることではないにしても

その切実な気持ちがあるということをまず認識して
その上でその気持ちに共感することが
「認知症のある方に寄り添ったケア」なんじゃないかな。
入り口の前に立ち
入り口の扉を開けることなんじゃないかな。

「帰りたい」という言葉の不合理さという判断のもとに
気持ちを逸らすことを目的として
「お茶でもいかが?」「タオルをたたんで」「今日はもう遅いから」
などという声かけをすることが本当に「寄り添ったケア」なのかな?

私たちの腕は2本しかないから
「ごめんね。今はこっちをしなくちゃいけなくて」
という場合が必ずあると思う。
それはやっぱり「ごめんなさい」だと思う。

今は、どの分野の人も、どこで働いていようとも
とても忙しい日々を送っていると思うから
「忙しくて話が聞けない」
という現実も確かにあると思う。

でも、本当にそれだけかな?

時間があるにもかかわらず
私たちがとれる方策として
「お茶を飲んで」「外は寒い」「また今度」などと
話をすり替えてはいないだろうか?

「帰りたい」という気持ちを聞くのではなくて
「帰りたい」という言葉を言わせないように
しているのではないだろうか?

それって
本当に「認知症のある方に寄り添ったケア」なのか?
自己欺瞞に陥って悩んでいる人は少なくないだろうと思う。
違うかな?

自己欺瞞に陥るのがイヤだから
理念と実践の乖離について、自覚しないで済むように
気がつかないようにしている。
そういう人も少なくないだろうけど。

現実の要請として
自覚的に時間稼ぎをする場合だってあると思う。

問題は無自覚に
「認知症のある方に寄り添ったケア」と言葉で語りながら
行動として真反対のことをしている場合だと感じています。

認知症のある方にとっても
ケアする人にとっても
良いことはない。

問題を抑圧して、見えなくしているだけ

認知症のある方に能力があれば
問題の抑圧に協力してくれることもあると思う。
でもそれは、認知症のある方が私たちに寄り添ってくれているから
成り立つ対応なんじゃないかな。

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