Category: よっしーずボイス(ブログ)

スローガンの先行に不安

プロなんだから実現できることが求められてくると思う。

「認知症があってもできることがある」
「認知症のある方に寄り添って」
それは本当にその通りだと強く思います。

一方で
今は、あまりにスローガンだけが先行しているように感じられて
先行きに不安を感じることもあります。

理念をどうやって具現化していくのか
そこが明確化されなければ
スローガンがご家族やご本人や関わる職員を
結果として追いつめてしまうことだってあるのではないでしょうか。
そして、そのような積み重なりの果てにスローガンが否定されてしまうことのないように願っています。

方法論を明確化しないために
実現できない人を追いつめたり
追い求める理念を否定してしまったり
そんなことが起こりませんように。。。

もう既に「ブーム」がいくつも生み出され消費されてきて
結果として沈黙が訪れるというパターンが続いています。

寝たきり老人ゼロ作戦
パワーリハ
学習療法
センター方式
バリデーション
ユマニチュード。。。

これらはすべてツールだから
ツールとして使いこなすべきだったのに
いつの間にか目的化してしまって
目の前にいる認知症のある方の利益に貢献できたか危うくなってしまったように感じています。

ツールとして適用する対象を明確にして
ツールとしてきちんと活用すれば認知症のある方に寄与できるものだと考えています。
ブームとして祭り上げちゃったからいけない。
つまり扱い方が不適切だったのではないかと。

だから
スローガンの扱い方に関しても同じようなことが起こらなければいいけれど
と思ってしまうのです。

スローガンを唱える立場に立つ人だって必要だと思うけれど
「願えば叶うわけではない」「唱えれば具現化できるわけではない」
ということをイヤというほど身に沁みて知っている私としては
興味は唱えることではなくて実現化する過程にあります。
まずは、自分がプロとして実現できるように
その精度も効果も高めていくことに
そして自分だけでなく他の人も実現できるように明確化・言語化していくこと

「認知症があってもできることがある」
ということを知らない人が減って、知る人が増えてきたら
必ず「どうしたら実現の援助ができるのか」求められる時が来る。
その時に明確な思考過程が示されないために
苦労と努力を重ねても実現できないとしたら
スローガンがその人を追いつめてしまいます。
追いつめられないとしたらスローガンの理念が口先だけだということになってしまいます。
理念と実践の乖離というよくあるパターンが増えるだけになってしまいます。
そんなのはイヤだと思うからこそ。

プロとして、理念を具現化するためには
強く願うことでも、大きな声で語ることでもなく
実現に向けての思考過程の明確化・言語化・共有化、知識と技術を磨くことだと考えています。

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コミュニケーションの二重性

他者とのやりとりとは
その時その場のその関係性において
為されるものではあるけれど
同時に
自分自身の世界への表明でもある。

だから
やりとりに際して
いろいろなことが起こるけれど

たとえば
理不尽な思いとか
相手の本心に触れて傷つくとか
真っ正面で受けとめてもらえた実感とか
それはさまざまな感情を自分の内に引き起こすけれど

その時にどうするか
ということに関して言うと
世界への表明なのだから
問われているのは自分の在りようそのもの
ということにもなってくる。

アンテナを高く張っている人はたくさんいる。
より善いものを求めている人はたくさんいる。
真贋を見分ける眼をもつ人はたくさんいる。
そうでない人や見せかけだけの人もたくさんいるけれど
それが世界だもの。

多様な世界に対して
自分がどう在るのか

その時その場のその関係性において何を優先するのか
自己保身に走る人もいるけれど
その人が世界に対してそういう表明をしているだけのこと。
でも、世界に対してそういう在りようの表明をしない人だってたくさんいる。

目の前にいる誰かとのやりとりは
見た目、目の前にいる人と為されるものだけれど
同時に世界への自己表明をしている。
自分がどう在るか、在りたいかの選択をしている。

目の前に立ち現れる日々の暮らしにおいて
最優先になるのは厳然として目に映ることだけど
起こっていることはそれだけじゃない。

人との出会いって本当に不思議なもので
必要な時に必要な出会いが起こるし、出会い直しも起こる。
世界が広がっていくし深まっていく。

この歳になって
わかり直すことがたくさんある。

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プラトーを味わう

一見すると伸び悩みのような
学習曲線が水平のような状態になっていることをプラトーと言います。

リハの世界でもよく言いますよね。

成長の過程においては
誰にでもプラトーって訪れる状態だと思う。
習得する過程において右肩上がり一直線なんてことはないもの。

右肩上がりに成長した後、必ずいったんは水平状態で大きな変化が見えない時がくる。

でも、
本当に停滞なのか、
本当は次へのステップとしての雌伏の時期なのか
どっちでも起こりうるけど、傍目には区別がつきにくいかも。
当の本人にだって、わかりにくいかも。

今回の自分自身のプラトーは長く感じました。
と言っても、対外的には(他者的には)あちこちで異なる活動をしていたから
他者にはそんな風には見えなかったかもしれないけれど
自分としては感じることが多々ありました。
現実の世界での実践は多面的で連続していても
内面での思考の深まりが実感できなかったりするとちょっとしんどい。
そういう時はOut Putしにくかったりします (^^;
自分の中で混沌としてるから。
とりわけ今思えばラストの時期がしんどかったかも。

でも、フッと抜けた気がする。

現実に自分が抱える困難のゴールが自分なりに納得のいくレベルで明確になった
そのとたん、いろんなことがクリアに見えて
同時に(だからこそ)現実的なやりとりが意味のある答えとして返ってくる
といったような。

年とったおかげで
プラトーで苦しい時にも味わいながら身を浸すことが少しはできるようになり
タイミングという、時の訪れを待つことができるようになった気がする。

年とったおかげで
過剰な(あるいは)余分な他者への期待をしなくてすむようになり
同時に、明確な現実的根拠がなくても揺るがない信頼感のようなものが生まれてくると感じています。
自分自身への
誰かという他者の存在への
生きるということへの

プラトーの時期はしんどいけど
内的に次への変化のステップの時期としても現れ得ると感じています。
組み上がったものを崩してもう一段組み上げ直すという。

準備が整ったら
なんらかのきっかけ(本当はきっと幾つものきっかけが連なっている)があって
それと知ることができるようになる。

焦らずにプラトーを味わう
それも一興だと思えるようになりました。

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暮らしを主語にする

認知症という病気から始まるのではなくて
Aさんという固有の人がいて
Aさんの暮らしが最初にあって
たまたまAさんが病気のために認知症という状態像になって
さまざまな障害を抱えながらも暮らしていく

最初に病気があるんじゃなくて
暮らしが最初にある

かつて
中井久夫が
「医師に治せない病気はあっても看護師が看護できない病気はない」と言ったように
認知症は病気そのものは進行していくけれど
暮らしの援助ができないわけじゃない

まず、暮らしを観ること
暮らしを支えること
暮らしを主語にすること

そうするとブレたり混乱したりメゲたりせずに
着実に歩を進めていけるんじゃないだろうか

地域という押し進められるキーワードの中で
多職種連携が形骸化せずに
実態を伴って進んでいけるんじゃないだろうか

そんな感触があります。

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在りようを工夫するこれからの地域

使えるお金は限られているから
これから先に新しいハコモノや制度を作るのには限界がある。

もっと有機的なシステムが否応もなく求められてくると感じています。

既存の組織や制度の中で
誰かがスーパーヒーローになるのではなくて
厳しい状況ではあるけれど
みんなが少しずつ一歩前に踏み出し合って
知恵を出し合ってできることをしていき合う

誰もがみな今でさえも十分に忙しいけれど
もしも一歩ずつ前に進むことができれば
そして進み合っていることを確認できれば
状況は変わる可能性がたくさんあるとも感じています。

古来、私たち日本人は環境と用途を1対1対応ではなく
同じ素材を用途に応じて使い分ける工夫を
暮らしそのものの中で行ってきました。

たとえば
1枚の布を対象に合わせて包み変えたり
1つの部屋を時に寝室、時に食堂、時に作業場、時に団らんの間と使い分けたり

そういう知恵ってDNAに組み込まれているんじゃないかな

私たちが知らずにしてきて
一度は自らなくしてしまったものの意味を
もう一度わかり直した上で活用し直す

そういったことにもつながるんじゃないかな

従来通りの在りようから
一歩だけ前に踏み出す

最近になって
いかに自分が地域のことを知らないできたのか
痛切に感じています。
ちょっと調べるだけで
ちょっと電話をかけて教えていただくだけで
こんなにもいろいろなことが現在進行形で為されているのだということに
驚くとともに知ることの無かった自分を反省しています。

ただ、案外バラバラに所属している何らかのテリトリーの中で
そっと(当たり前のように)行われている(だからこそスゴイ)から
今所属しているテリトリーの外のことは知らないでいる
知るきっかけがないままでいる

誰かの発想が
他の誰かの新たな発想を呼び起こすように
誰かの実践が
他の誰かの次の実践を呼び起こすかもしれない

そんな可能性を感じる今日この頃です。

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潮目が変わる

私は自分に訪れる
モノゴトのタイミングの良さについて
すごくラッキーだと感じています。

必要な時に必要な本に出会うことができたり
人との出会いにも恵まれていると感じています。

時には驚くようなことにも遭遇してきたけれど
結果として自分にプラスになるような出来事だったことが多いかも。。。

たぶん
最近になって
兆しを明敏に感じられるように
日々の暮らしに取り紛れてしまうことが多いけれど
時たまぽかっとした時にふと感じることが多くなってきたと思います。

兆しの意味を読み取ることは難しいけれど

たぶん
脱皮する時期が来たのだと思う。
「何に」
「どこへ」
それはまだわからないけれど

変化を恐れず
外向けのアンテナは高く
心のアンテナは深く

必要な時に必要なことが起こる
それは確信している。

最近立て続けに新たな出会いに遭遇し
自分の抱える仕事を異なる視点から考えることが立て続けに起こり
その渦中にいるから先が見えなくて不安がないわけじゃないけど
変化の時なんだなということは感じる。

もう少し若い時だったら
焦っていたような気がするけれど
今は少し余裕をもって
潮目に目を凝らせるように
少なくともその意思を持てるようにはなってきたかも。

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思考回路が伝わる

方法論ではなくて思考回路が伝わっていく

だから
やっちゃいけないこと(方法論)は、やっちゃいけない(方法論)と
おかしなことは、おかしなことだと
明確に言わなくちゃいけない。

ただ
言い方に関して、人としてのマナーがあるだけだと
今はそんな風に考えています。

認知症のある方への対応で困った時に
「食事介助で口を開けてくれないのですが、どうしたらいいのでしょうか?」
「大声で介護抵抗のある人に対して、どうしたらよいのでしょうか?」
というパターンで質問されることは本当に本当によくよくあります。

こういうパターンで質問する
ということは、こういうパターンで臨床しているということを表してもいるのです。
その意味は、リハ職が一番わかるはずだと思います。

結果としてのAという現れ方に対して、万能な方法論があるわけがない。

考え方や方法論は
人により時代により変遷していくものでしょう。

でも、根本的な考え方、在りようとでも言うものは
本質に迫るものであればあるほど変遷していくはずがない。

認知症のある方への対応に関して
切実に困っているからこそ、
さまざまな方法論が提唱されているし
また要望もされるのだろうとも考えます。

「徘徊する人がいるんです。どうしたらよいでしょうか?」
「高齢の女性だったらタオルをたたんでいただければ?」
実際にあったやりとりですし
また臨床でもよくあるあるな対応でもあるでしょう。
そしてそれで「済んでしまう」場合だってあるでしょう。
済んでしまった場合には「何が起こっていたのか」ということについて
検討されにくいという現実もあります。

そのような現実の中で
一生懸命な優秀な人ほど
方法論が暗黙のうちに伝える無自覚な思考回路に傷つき悩み
思考回路と提唱されている理念の乖離に疑問を抱き
現状に対しての違和感や苦悩を共有化できる人が周囲にいなかったり
ということも起こってきます。

そしてまた
認知症のある方ご本人が体験した
「一度起こったことはなかったことにはならない」
「感情の体験は積み重なっていく」
という当たり前のことの吟味が為されない
ということも起こってきます。

私自身、今までは明確に言語化できなかったことがたくさんありますし
これから先においても、繰返し繰り返しこういった思いを味わっていくのだろうと
覚悟もしています。

だからこそ
伝えていく意義があるのだと
言語化する意味があるのだと
はっきりともう一段わかり直しました。

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鹿児島に行ってきました

平成29年12月16日(土)鹿児島県作業療法士会教育部さん主催で
「認知症のある方の食事介助を再考しよう」というテーマで講演をしてきました。

参加して下さった方々、おつかれさまでした。
お招きくださり、当日の運営に携わられた教育部のみなさま
どうもありがとうございました。

鹿児島は方言の表現もやわらかく、イントネーションもやわらかいのですが
それ以上に暖かなお心遣いをいただき心から感謝申し上げます。

お話をしている時の参加者のみなさんの真剣なお顔から
より良い臨床をというみなさまのお気持ちが伝わってきて
これからが頼もしく感じました。

帰りの飛行機までの少しの時間を活かしてちょこっとだけ観光気分を味わってきました。

 維新ふるさと館

時間がある時にゆっくり訪れたいところです。
展示品に手書きの説明文もあったりして地元感が満載。
1月には改装も終わるそうです。

冒頭の写真は桜島

今回はこの観覧車に乗ってみました。
せっかくなので、シースルー観覧車に (^^)
 

シースルーだけあって、よく見えます。

 
鹿児島空港
風は強めで冷たかったけど良いお天気になりました。

ちょっと甘めの揚げたてのさつま揚げは本当に美味しかったし
本当にちょこっとだけど鹿児島市内を歩くこともできたし
超渋滞だった道中でもタクシーの運転手さんからいろいろ教えていただけたし
鹿児島県作業療法士会教育部のみなさまのお心遣いや心意気
参加されたみなさまの真剣なまなざしに
密度の濃かった鹿児島滞在を思い出します。

この後は少し時間に余裕ができるし
今回の滞在でエネルギーを分けてもらえたので
私自身の野望に向けて(^^)
計画を練って実現に向けて動き出します。
実現の暁には、こちらでもお知らせいたします。
乞うご期待☆

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