Category: よっしーずボイス(ブログ)
私はバリデーションワーカーの資格をもっています。
実技メインの卒業試験がありました。
合格のレベルに達していれば合格できる。
落とすための試験ではなくて
資格をもって仕事をするに足る
かどうかの判断をするだけだから
再挑戦ができる。
バリデーションワーカーの養成過程において
すばらしさを唱えられた記憶はない。
でも、私はバリデーションは有用だと感じ
絶対、バリデーションワーカーの資格をとって
実践がおこなえるようになりたいと強く願った。
講師は質問があれば、どんなことにも答えてくれた。
提出課題に対するコメントも枝葉末節のことではなかった。
私にとっては
バリデーションそのものを学ぶことができたのはもちろん
トレーニングという体験学習ができた意義も
とても大きかったと感じています。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/274
「実習は楽しく」
「OTの楽しさを伝えることが実習」
スローガンを唱える人は多いけど
私には理解できない。
将来、OTとして「仕事ができる」に足る
知識と技術とその用い方のトレーニングが実習なのでは?
実習が楽しいとか
OTの楽しさ、素晴らしさを知るとか
そんなのは結果として付随するものではあっても
目的として優先すべきことではないはず。
たとえば
パイロットや自衛官の養成過程において
自らの職業の楽しさ素晴らしさを知るという目的で
カリキュラムが組まれているかなぁ?
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/273
フツーに考えてあれ?って思うことって結構ある。
たとえば
「教育」を知らずに、実習指導をしているとか
「話し合い」「会議」を知らずに、
他職種との話し合いに参加しているとか
私は必要に迫られて個人的に勉強したけど
現状のいろいろを見聞きするたびに
1)個人的に勉強するような態度の涵養
2)組織的に勉強させる機会の設定
どちらかをしないと、
これからは本当に立ち行かなくなってしまうんじゃないかしら?
基本を知らないまま、
体験が経験として積み重なっていくことはあり得ない。
むしろ、
「悪貨が良貨を駆逐する」ことにつながりかねないとすら思う。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/272
提起した方法にはポイントがあります。
それは、「動きを止めないように動く」ということです。
タイヤの1ヶ所を手で押し出すようにすると
タイヤがぐるっとまわるように
円環状になっているという特性を活かすのですから
ふんばったりするような動きを止める行為をすれば
そこで身体全体の動きが止まってしまいます。
滑らかに
がんばらずに
個々のパーツとしての筋力に頼らずに
身体全体の協調を活かして
立ち上がりー座る
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/271
対象者の能力と特性が
日々の暮らしの困難を乗越えていく。
その力強さに目を見張らされる。
でも、逆に言えば、ないものねだりはできない。
だからこそ、今できることを大切にしたいと思う。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/269
身体を総体として働きやすくするために
立ち上がりの時には
両手を大腿から下腿、足首、つま先へ…と
さすりおろすようにします。
ここでのポイントは
手が常に身体に触れたまま動くということです。
手が触れていることによって
たとえば、タイヤのように
身体が線ではなくて円環状になるようなイメージです。
身体に端のない状態をつくる
身体がつながっていて始めも終わりもない状態
この状態で動きが生じれば
身体の他の部分もつられて動かざるをえません。
手でさすりおろす…という動きにひきづられて
臀部が持ち上がります。
動きを決して止めないことがポイントです。
座る練習をする時には
立った状態で両手を大腿に置き
大腿〜下腿、足首、つま先へと手をさすりおろすようにしながら
腰をおろしていきます。
臀部が着座したら
手をつま先、足首、下腿、大腿とさすりあげるようにして
身体を起こします。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/259
お年寄りに対して
筋力強化を主体としたリハを行うということは
「個々のパーツの能力の総和=身体能力」
という考え方に基づいています。
でも、それは本当でしょうか?
身体は常に全体として 総体として働いています。
身体のあるパーツの能力が
低い時には低いなりに
高い時には高いなりに
身体は常に総体として働いている。
それなのに
筋力強化を主体とするということは
逆に言えば、
総体として働いている身体を
無自覚であったとしても
否定してしまうということを意味します。
抽象的な「正常な身体」を 勝手に設定して
そこからの引き算として
お年寄りの現状をとらえる
…という考え方は
いろいろな人生経験をしてこられたお年寄りの生き方までも
暗に否定してしまうことにもなりかねません。
判断基準が「正常な身体」であるならば
追い求めているのは「正常化」ということです。
それは、はたして、
「その人らしさを大切にする」と言えるでしょうか。
「お年寄りを尊重する」と言えるのでしょうか。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/258
実は、健常と呼ばれている私たち自身が
腰部の筋を収縮させることによって 臀部を持ち上げているのです。
観てればわかるし
やってみればわかる
けれど、そこに注意を向けなければわからない…
常識を鵜呑みにする人にはわからない…
身体を前傾し、足裏からの床反力を使って立ち上がれるのは
膝と股の屈曲角度が鈍角になる
スツールのような高いイスに座っている場合です。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/253
最近のコメント