Category: よっしーずボイス(ブログ)

素朴な疑問「トレーニング体験談」

私はバリデーションワーカーの資格をもっています。

実技メインの卒業試験がありました。

合格のレベルに達していれば合格できる。
落とすための試験ではなくて
資格をもって仕事をするに足る
かどうかの判断をするだけだから
再挑戦ができる。

バリデーションワーカーの養成過程において

すばらしさを唱えられた記憶はない。

でも、私はバリデーションは有用だと感じ

絶対、バリデーションワーカーの資格をとって

実践がおこなえるようになりたいと強く願った。

講師は質問があれば、どんなことにも答えてくれた。

提出課題に対するコメントも枝葉末節のことではなかった。

 

私にとっては

バリデーションそのものを学ぶことができたのはもちろん

トレーニングという体験学習ができた意義も

とても大きかったと感じています。

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素朴な疑問「実習指導」

「実習は楽しく」

「OTの楽しさを伝えることが実習」

スローガンを唱える人は多いけど

私には理解できない。

将来、OTとして「仕事ができる」に足る

知識と技術とその用い方のトレーニングが実習なのでは?

実習が楽しいとか

OTの楽しさ、素晴らしさを知るとか

そんなのは結果として付随するものではあっても

目的として優先すべきことではないはず。

 

たとえば

パイロットや自衛官の養成過程において

自らの職業の楽しさ素晴らしさを知るという目的で

カリキュラムが組まれているかなぁ?

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素朴な疑問

フツーに考えてあれ?って思うことって結構ある。

たとえば

「教育」を知らずに、実習指導をしているとか

「話し合い」「会議」を知らずに、

他職種との話し合いに参加しているとか

 

私は必要に迫られて個人的に勉強したけど

現状のいろいろを見聞きするたびに

1)個人的に勉強するような態度の涵養

2)組織的に勉強させる機会の設定

どちらかをしないと、

これからは本当に立ち行かなくなってしまうんじゃないかしら?

基本を知らないまま、

体験が経験として積み重なっていくことはあり得ない。

むしろ、

「悪貨が良貨を駆逐する」ことにつながりかねないとすら思う。

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「座るー立つ」方法のポイント

提起した方法にはポイントがあります。

それは、「動きを止めないように動く」ということです。

タイヤの1ヶ所を手で押し出すようにすると

タイヤがぐるっとまわるように

円環状になっているという特性を活かすのですから

ふんばったりするような動きを止める行為をすれば

そこで身体全体の動きが止まってしまいます。

 

滑らかに

がんばらずに

 

個々のパーツとしての筋力に頼らずに

身体全体の協調を活かして

立ち上がりー座る

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ひとりごと

対象者の能力と特性が

日々の暮らしの困難を乗越えていく。

その力強さに目を見張らされる。

でも、逆に言えば、ないものねだりはできない。

だからこそ、今できることを大切にしたいと思う。

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「座るー立つ」方法の提案

身体を総体として働きやすくするために

立ち上がりの時には

両手を大腿から下腿、足首、つま先へ…と

さすりおろすようにします。

ここでのポイントは

手が常に身体に触れたまま動くということです。

手が触れていることによって

たとえば、タイヤのように

身体が線ではなくて円環状になるようなイメージです。

身体に端のない状態をつくる

身体がつながっていて始めも終わりもない状態

この状態で動きが生じれば

身体の他の部分もつられて動かざるをえません。

手でさすりおろす…という動きにひきづられて

臀部が持ち上がります。

動きを決して止めないことがポイントです。

 

座る練習をする時には

立った状態で両手を大腿に置き

大腿〜下腿、足首、つま先へと手をさすりおろすようにしながら

腰をおろしていきます。

臀部が着座したら

手をつま先、足首、下腿、大腿とさすりあげるようにして

身体を起こします。

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「座るー立つ」身体は総体として働いている

お年寄りに対して

筋力強化を主体としたリハを行うということは

「個々のパーツの能力の総和=身体能力」

という考え方に基づいています。

でも、それは本当でしょうか?

 

身体は常に全体として 総体として働いています。

身体のあるパーツの能力が

低い時には低いなりに

高い時には高いなりに

 

身体は常に総体として働いている。

 

それなのに

筋力強化を主体とするということは

逆に言えば、

総体として働いている身体を

無自覚であったとしても

否定してしまうということを意味します。

 

抽象的な「正常な身体」を 勝手に設定して

そこからの引き算として

お年寄りの現状をとらえる

…という考え方は

いろいろな人生経験をしてこられたお年寄りの生き方までも

暗に否定してしまうことにもなりかねません。

 

判断基準が「正常な身体」であるならば

追い求めているのは「正常化」ということです。

それは、はたして、

「その人らしさを大切にする」と言えるでしょうか。

「お年寄りを尊重する」と言えるのでしょうか。

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「座るー立つ」観れども観えず

実は、健常と呼ばれている私たち自身が

腰部の筋を収縮させることによって 臀部を持ち上げているのです。

観てればわかるし

やってみればわかる

けれど、そこに注意を向けなければわからない…

常識を鵜呑みにする人にはわからない…

 

身体を前傾し、足裏からの床反力を使って立ち上がれるのは

膝と股の屈曲角度が鈍角になる

スツールのような高いイスに座っている場合です。

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