Tag: 食事介助

スプーン操作を見直すべき兆候

対象者の方に下記のような兆候が見られたら
それは介助者がスプーン操作を見直すべき兆候でもあります。

<開口した時>
・舌が奥に引っ込んでいる
・舌が硬くなっている

<食塊をとりこむ時>
・顎が上がっている
・上唇を丸めずに閉じている
・口角から食塊がこぼれ落ちる
・引き抜いたスプーンに食塊が残っている
・正面ではなく介助者の側に頭部を回旋している

<食塊が口腔内にある時>
・咀嚼・送り込みに時間がかかる

<食塊を嚥下する時>
・喉頭が完全挙上しない
・喉頭が複数回挙上する

これらは、見ようと思えば今すぐに誰にでも観察できることですが
たいていの場合に、上記兆候は観察されず
「見れども観えず」
視界に入っているはずなのに意識化されていません。

上記兆候は
介助する側の人の不適切なスプーン操作が原因となって
引き起こされたり、増悪されたりしている兆候です。

つまり、改善可能な状態像なのに
見落とされていて対処されていないのが現状です。
 
食事介助の時には
ムセの有無しか確認していない人がとても多いのが現状です。

しかも、
強く激しくムセるとすぐに食事中止を指示する職員がとても多いという問題もあります。

ですが、このような対処は合理的ではありません。
ムセとは何か?
身体の働きについて本質を知ることなく思い込みで対処しているだけです。

この問題については次の記事で。

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食具の工夫:介助

通常は普通のスプーンで介助しますが
場合によっては、全介助でも異なる食具を使うこともあります。

写真上の赤いスプーンのように
幅が狭くて浅いスプーンを使ったり
箸やシリンジで1ccずつ介助したこともあります。

認知症のある方や生活期にある方は
口腔内にちょっとした困難を抱えていることが多く
ちょっとした困難をちょっとした困難のまま
食べられるように維持していくことが大事だと考えています。

ところが、現実には、ちょっとした困難を観察・洞察できず
低栄養・脱水を回避するために結果として
「食べることの援助」ではなく「食べさせる」ことになりがちです。
そこから誤介助誤学習の悪循環に陥ってしまいがちです。

開口しない、ためこむ、抵抗するなど食べようとしなくなった場合に
単にスプーンでなんとか食べさせようと介助をすることは
ネガティブな体験の再認の強化になってしまい
食べることの再学習を阻害してしまいます。

誤介助誤学習の悪循環から抜け出すためには
まず、介助を変えることです。
その一つとして、スプーン、食具を変えます。


シリンジで液体の栄養補助食品を介助したり


液体の栄養補助食品をストローで摂取してもらったり


箸で栄養補助食品のゼリーやソフト食を介助します。

「ラクに食べられた」体験ができるということは
ポジティブな体験の再認の強化にもつながります。

重度の認知症のある方でも再認できる方は非常に多くいます。
ADLは体験を通して再認を促しやすい場面でもあり
特に「食べる」ことは究極の手続記憶ですから
毎回の食事介助が再認の促しの場面になっているとも言えます。

ここで気をつけていただきたいことは
再認はポジティブにもネガティブにもどちらにも働く
ということです。

現状では
善かれと思って
でも知識と技術が伴わない、観察と洞察が不十分な場合に
結果として毎回の食事介助でネガティブな再認の強化をしている
とも言えます。

この悪循環から抜け出すために
「ラクに食べられた」というポジティブな再認を促すために
食環境としての食具を変えます。

対応が適切であれば
そのうちに開口がスムーズになってきますから
その段階で通常のスプーンに切り替えていきます。

介入直後から食べ方の改善を実感できますが
どんな人にでも目に見えてわかるくらいに
食べ方が改善するには1〜2週間かかります。
その後通常の介助に移行できるまでに
もう2週間ほどかかることが多いです。

その間、ご本人が余分な苦労をすることになってしまうので
「予防にまさるものなし」
問題が表面化する前の段階で
(食事介助に困難も負担も感じていない段階から)
適切なスプーン操作
喉頭の完全挙上を必ず視覚的に確認しながら
食事介助してほしいと切に願っています。

「口を開けてくれない」
「ためこんで飲み込んでくれない」
「食べるのを嫌がる」
というのは、結果として表面的に起こっている事象に過ぎません。
ここだけ切り取って「さて、どうしたら?」と考えても答えは出ません。
まずは、それらに反映されている食べ方をきちんと観察することです。

摂食・嚥下5相にそって
食べ方を観察・洞察すれば
目の前にいる方に何が起こっていたのかがわかる。

だから、どうしたら良いのか
どのような食形態・食具・介助方法・場面設定をしたら良いのか
がわかる。

それらは自然と浮かび上がってくるものです。

考えることではないのです。

観察・洞察の結果
必然として導き出されるものなので
明確に浮かび上がってきます。

明確化できない時には考えてはいけません。

何が起こっていたのか、という観察・洞察が曖昧だから
明確化できないのですから
どうしたら良いのか考えるのではなくて
目の前に起こっていることをもう一度観察し直すことに
立ち戻れば良いのです。

 

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ご家族に苦行させない

私は食事介助は本当に大切に考えています。
それにはさまざまな理由があるのですが、それはまた別の機会に書くとして。

食事介助は
特別の技術も知識もなしでも誰にでもできるだろうと
心のどこかで思われているのではないかと感じることが多々あります。
(親なら誰でも乳幼児には必ず食べさせる時期がありますものね)

とんでもない誤解です。
どうしたら食べやすくなるだろうか?
そして、その意味について考えながら実践を積んできましたから
安全に楽に美味しく食べられるように食事介助できる自信も
(逆に、決して実行しませんが)
全然美味しくなく辛く危険な介助をすることもできます。
(マイナスがわかるからこそプラスが実践できるという意味です)
そしてそれがどうしてなのか、具体的に言葉で明確に説明することもできます。
それだけの知識と技術を持っている自負があります。

職員同士で会話しながらの食事介助とか
嚥下5相を観察せずに介助するとか
喉頭挙上していないのに次の食塊を介助するとか
口の奥にスプーンを入れるとか
斜め上にスプーンを引き抜くとか
無理矢理口をこじ開けて食べさせるとか
覚醒が悪いのに介助するとか
。。。書いていて本当にイヤになってきますが
そんなことは決してしません。

その代わりに
身体の動き全体を含めた食べ方をよく観察します。
表情や視線をよく観察します。

言葉にならない、表情や行動という
もうひとつの言葉を聴こうと心を澄ませます。

食事介助は、どうやって「食べさせるか」ということではありません。

その方がどんな風に食事という場面に向き合っているのかを知り
その方なりの食べるという環境へのアウトプットを援助し
その方の環境感受・認識・対応という一連のループを
ループとして完結するように援助することです。

例え、
ループが小さなループであっても、歪な形であっても
その方のループがループとして完結できるように援助することです。

例え、
表面的には食べていたとしても
ループがちぎれた形であれば
援助ではなくて従属の要請になってしまいます。

とりわけ
ご家族は、職業として介助に従事しているわけではありません。
大切なご家族だからご家族としてできることをするので
ご家族に苦行をさせるような「指導」を対人援助職はすべきではないと考えています。

「ちゃんと食べさせないと体が弱っちゃうからしっかり食べさせて」
「ちゃんと水分を摂らせないと脱水になっちゃうからしっかり飲ませて」

ご家族にそんな風に「言う」のではなくて
ご家族が「ちゃんと」できるように「なる」ためには
どこをどうしたらいいのかをまずやってみせられる
そして具体的に明確に言葉で伝える
ことが対人援助職の仕事なんじゃないかな。

職業として関わっている自分ができないことを
ご家族に「させる」のはおかしなことだと思う。

ご家族は、ご家族としてそばにいるだけで
対象者の方の支えになっている。

「うまく食べさせられなくてごめんね」
「無理矢理食べさせてごめんね」と思わせながらご家族に介助させるのは
対象者の心の支えを剥奪してしまうことになりかねないと思います。

今よりもずっと過酷な時代を生き抜いてこられ
人生の総まとめの時期にあるお年寄りにとって
食べられないなら食べられないなりに
食べようとしているなら食べるチカラに合わせて
介助していく方法とその姿勢を伝えて
食事介助という場面に
対象者がどんな風に向き合っているのかを理解すると
まるで、その方自身の生き様が浮かび上がってくるように感じられます。
かつてのその方を彷彿とするような類似したエピソードを
ご家族が思い出すことができれば
例え、食べられても食べられなくても
その方とご家族との絆をもう一度再構築することになる。

「ちゃんと食べさせる」ことを最優先するように仕向けられたご家族は
必死なご家族ほど、対象者の言動を感受観察する機会に目をつぶらされ
その事によって絆を再構築する機会を失ってしまう。

対象者は自身の尊厳をご家族によって損なわれるという体験をする事になってしまう。

私たち人間は、食べる機械じゃない。

ご家族は、介助「要員」ではない。

介助は仕事であってもご家族がしても
大変だけれども
介助したからこそ、介助という体験そのものから得られることもあるのだから。。。

年の瀬に新たな決意をしました。
がんばるぞー!

今年はどなたも大変な年だったと思います。
お身体にはくれぐれもお気をつけて。。。
良いお年をお迎えください m(_ _)m

 

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コップで水分摂取の介助2

下唇にコップの縁を当ててから
コップを傾け
上唇に液体を触れるのを確認します。

そうすると
対象者のお身体が動きます。
動く場所は人によって異なります。
頭部だったり、背中だったり、顎だったり。
それが一口量のサインなのでコップの傾けを元に戻します。

してはいけないのは
コップを口角まで押し当てたり
一度に大量の水分を口腔内に「入れてあげて」はいけません。

対象者が「飲むのを援助」してください。

本当に多いのが
食事介助を「食べさせて」あげている人です。

本当に少ないのが
対象者が「食べることを援助」している人です。

言葉遊びではなくて
文字通りに
食べさせているから
飲ませているから
食べられなくなる
飲めなくなる
ということが起こっているのです。

そして
食べることを援助し
飲むことを援助すれば
もう一度食べたり飲んだりできるようになる方が
圧倒的に多いのです。

 

 

 

 

 

 

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コップで水分摂取の介助

いやーご無沙汰しました。
1週間ぶりですね。
ちょっと色々と急を要することが立て続けにありまして (^^;

今、職場でトロミは最小限にしようと取り組んでいます。
本当にガッツリ、トロミをつけられると
マズいし、喉の奥にへばりついて気持ち悪いし
「ゴクゴク飲みたい」っておしゃられる方の気持ちもわかります。

「ムセたら困る」「ムセないように」という気持ちから
不必要にトロミをつけられたり
トロミの粘性をあげられたりしていることもあるんじゃないでしょうか?

それは、善意からの行動ではありますが
プロとしては根拠なしの行動によって
対象者に不利益をきたしてしまっている恐れもあり得ます。

必要最小限のトロミにする
と、必然的にスプーンではなく、コップから介助で水分摂取してもらう
という場面が出てきます。

ところが、コップからの水分摂取の介助方法については
これまた、スプーン操作と同様に、
どこに気をつけるか、どのようにコップを扱うか
ということについては明確に言葉にして教えてもらっていない方が
圧倒的に多い現状があります。

起こっているのは
「同じことが違うカタチ」で現れています。

飲ませているけれど、飲む介助になっていない。
食べさせていても、食べる介助になっていない。

目の前にいる方の、飲みにくさ・食べにくさは
決して、その方だけの病状進行などの原因ではありません。

次の記事で
具体的な操作方法について記載していきます。

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食べ方は連続性の中にある

人間の身体は
解剖学的にも生理学的にも連続しています。

食べるということは
摂食・嚥下5相の一連の流れの中にあり
相互に影響しあっています。

つながっているから

決して
咽頭期だけの問題などではありません。

VFやVEで咽頭期の機能が目に見えるようになったことは
良いことではありますが
それが全てではありません。

咽頭期は口腔期の影響を受けますし
口腔期は準備期の影響を受けています。

だからこそ
準備期(=スプーン操作)を変えることに意味があります。

シュレディンガーは言いました。
「大切なことは誰もが見ていることの中に
誰も考えたことがないことを考えること」

私は意図していたわけではありませんが
結果として誰もが見ていることの中に
誰も考えたことがないことを考えていました。

それは私の頭の中だけで生じたわけではなくて
目の前にいる方の食べ方をありのままに観察したことによって生じたものなのです。

 

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食事介助は相互関係の中にある

文字通り
食事介助は食べようとする方と介助する人との相互関係の中に成り立ちます。

たとえ
意識しようとしまいと

特に
準備期は食べようとする方に
介助する人のスプーン操作が直接影響します。

どんなに
重度の認知症のある方だとしても
適切なスプーン操作には適切に反応し正の学習が生じ
不適切なスプーン操作にも適切に反応し誤学習が生じます。

クリスティーン・ブライデン氏の
「異常な環境には異常な反応が正常だ」
というわけです。

本当に根深い誤解として
認知症のある方の食べ方を100%認知症のある方のせいにしてしまう
とりわけ咽頭期の問題に集約してしまう傾向がありますが
それは、ICIDHにまだまだ囚われていて脱却・卒業できていない
ということを意味していると感じています。

 

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ヘンな言葉「立って食事介助してはいけない2」

立って食事介助してはいけない理由
1)上唇での食塊取り込みを阻害してしまう
  上の歯でこそげ落としたり、スプーンを斜め上に引き上げてしまいやすいから
2)喉頭挙上の動きを目で見て確認しにくい
  喉頭の不完全挙上や複数回挙上を見落とす恐れがある

生命に直結するリスクのある介助となってしまいます。

食事介助をする時に
上の歯でこそげ落としたり、
スプーンを引き抜く時に斜め上に引き上げていたら
立って食事介助をしようが、座って食事介助をしようが
どちらでも危険な介助であることに変わりはありません。

「食事中にムセたから食事は中止」するよりも
(これだっておかしなことですが)
上記のような危険な介助をしている場合には
結果としてムセているので
まずは、きちんとしたスプーン操作ができるようにすることが先です。

手段の目的化に陥ったり
表面的に言動を規制することしかできないと
実際には対象者の方に対して不適切な介助をしているのに
表面は良いと言われた言動をしているので
かえって介助の自己確認・自己修正が効きにくいという
大きなデメリットがあります。

ハウツー思考の弊害
「〇〇という時には△△する」
「□□の時には✖️✖️してはいけない」
というだけの対応では
たまたま「当たる」ことはあっても
普遍・本質的な在り方ではなく
自己修正を阻害することもあるので
良くないどころか、かえって悪い、逆効果になることすら起こり得ます。

 

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