Tag: 食事介助

具体的な検討を

本来、検討する…というのは
具体的に考える…ということだと思うのだけれど
認知症のある方へのケアやリハにおいて
抽象論的なレベルにとどまり
だからこそ声高に叫んだり
共感して盛り上がったりもするのだろうと思うのだけれど
なんだかなぁ…と思ってしまうのです。

目の前の現実を
小さな困難であったとしても
1つずつ改善することが
望まれていることだと思うし
明日の私たちにできることだと思う。

「優しく不快のないように対応します」
と宣言することよりも
まずは、今日、この晩ご飯を
食べやすく介助できる。
宣言するよりもそっちのほうが先じゃないかな。

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食事介助−スプーン操作修正編

手関節を掌屈させ前腕回外を強める。

自分にとっては不自然な身体操作ですが
こうすると対象者はまっすぐに前を向いた状態で
食塊をとりこむことができるようになります。
(対象者の斜め前から介助が可能であるなら
他の方法も選択肢にはいるけど
たぶん、通常は難しいことが多いと思う)

自分にとって
自然な動きというのは
自然だからこそ自覚しにくい。

だから常に自分の身体操作が対象者にとって
不利益な結果となっていないかどうか
確認することが大事だと考えています。

本当は養成過程において
このあたりをトレーニングすべきだとは思いますが
トレーニングされていないことを言い訳にしちゃマズイと思う。

「対象者に寄り添ったケアを」
と言うのならば
大きな理想を抽象論として語ったり叫んだりするのではなくて
まずは日々の小さな現実から見直すことが必要だと思う。

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食事介助−スプーン操作ココロ編

通常、食事介助は真横から行われる。
その位置ではよほど気をつけないと
介助者の身体構造にのっとった自然な動きは
スプーンを対象者の口元に斜めに差し入れることになる。

介助者にとっての自然な動きだから
これでいいのか?という意図がなければ
目の前で起こっている現実に気がつけない。

対象者の顔が自分のほうに向いていて
正面を向いていないことに

気がつけば修正しようとする。

じゃあ、どうしたらいいのか?
続きはまた明日(^^)

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食事介助−スプーン操作

食事介助の時に
まっすぐに正面を向いて食べるのではなくて
介助者のほうを向くようにして食べている人って案外多い。

でも、これは食べている人の問題ではなくて
介助者の問題。

なぜか?

それは明日。

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上唇を要チェック!

最近多いなぁ…って感じるのが
上唇での取り込みが十分に機能していなくて
食塊を結果的に押し出してしまうので
スプーンから食塊がこぼれ落ちてしまったり
1回量が少なくなってしまったり
咬合不全を起こしていたり

そのような方でも
適切に介助すれば
だんだん上唇で取り込めるようになってきます。

適切に介助されないために
もっている能力を発揮できないだけでなく
不適切な介助に適応できるからこそ
結果として食べ方が不適切なパターンになってしまう

そんなの本当にもったいない。

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「ムセない=食べ方OK」じゃないよ〜

「ムセない=食べ方OK」
なんかじゃないですよ〜。

この話題はもう耳タコかも。ですが
繰り返し言いたい。

喉頭の動きは良好だけど
上唇での取り込みは良くない方
って、実際、ものすっごく多いです。

なんか食べさせにくいけど
ムセはないのよね…というケース。
ムセてないからって
重要視されずにそのまま…となりがちですが
たいていの場合、適切な介助によって取り込みも上達します。
(ホントよ!)

逆に放置しておくと
食事拒否、食塊貯留、ムセ…などの問題が出てきてしまいます。

まだまだ、
「ムセない=食べ方OK」
という誤解が多いようですが
食べ方を観る時には
ムセの有無だけでなく
上唇でのとりこみ、舌の動き、食塊認知
…といった面もチェックしてください。

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逆もまた真なり?とはいかんぜよ

長く会話ができたり
自分の気持ちや考えを
言葉にして明確に伝えられるからといって
「ちゃんと話ができる」
とは言えません。

構音が不明瞭だとすれば
どんなに長くしゃべれたとしても
可能性の1つとして
お食事の時に舌の動きが低下しているおそれがあります。

舌の動きが低下していれば
構音も不明瞭になっている可能性もあります。

ただ、逆に
構音が明瞭だとしても
お食事の時に舌の動きは大丈夫…とは言いきれません。
(この部分の誤解が大きいと感じています)

「逆もまた真なり」とは言いきれないのです。

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舌の動きが見落とされている

舌の動きが見落とされている食事介助において
看護介護職員が重点を置いてみているのは
ムセないかどうか…ということです。
これはとても大切なことです。
でも、ムセなければ食べ方がOKということにはなりません。
ところが、ムセないから大丈夫…という判断が下されがちで、案外、舌の動きが見落とされてしまいがちです。
つまり、ムセないから嚥下は大丈夫、他はわからないけど…ではなくて
ムセないから食べること全般も大丈夫…という判断になってしまう傾向が高いのです。

たいていの施設、病院において
対象者の食べ方の能力よりも高い食形態が選択されがちな傾向があるのは、このような背景があるからではないかと考えています。

食事を介助していれば、口腔内に食塊が残っているかどうか、食塊が残りやすい部位があるのかどうか…ということはわかります。
少なくとも、食事後の口腔ケアの時に、口腔内に食塊が残っていることは確認しているはずなのです。
口の中に食塊が残っている…ということは、舌の動き=本来の意味の咀嚼が不十分なことを意味しています。
それなのに、食形態の変更について検討されていないことが多いようで不思議に思います。

食べこぼしがひどかった方や
食事を食べようとしなかった方
食事中に手を口の中につっこみ手づかみ食べをしていた方が
食形態を落としたことにより、スムーズに食べられるようになった…というケースは枚挙にいとまがありません。

見た目にも美味しくお食事していただきたい…という気持ちはわかりますが
対象者の食べる能力よりも高すぎる食形態の選択は、不適切な環境への不適切な学習をさせてしまうおそれがあります。
「生活リハ」という言葉が誤解されているのではないかと感じています。
むしろ、適切な食形態で十分に「食べる」ことの再学習ができると、1ランク上の食形態でも食べられるようになることのほうが多いのです。
(認知症のある方への「学習」については、誤解されていることが多々あると感じているので、そのことはいずれまた記事にするつもりでいます)

ムセの有無だけではなくて、食べ方をちゃんと把握してほしい。
少なくとも、口腔ケアのときに食塊が残っているという事実に気がついたら、単にその場で口の中をきれいにするということだけではなくて、何が起こっているのか、その事実が示している意味について考えをめぐらせてほしいと思っています。

食事は生命に直結した場面ですし、最後まで残るADLでもあります。
食形態の選択、食事介助の方法の選択が、対象者の「食べる」能力と障害について、適切に把握したうえでの選択になっていきますように…。
心から願っています。

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