Tag: リハビリテーション

PDCAサイクルを回す

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どんなコトでも
100%のエビデンスをもつものなんてない。

だからこそ
今目の前にいる方に対して
自分が提供していることが
本当に適切なのかどうか確認する必要がある。

相手は機械じゃないから
こうすればああなる
そんなわけないから。

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変化は待てる

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適切に評価ができれば
適切に目標を設定できる。

「こうなったらいいなぁ」って具体的にイメージできる。

だから、変化を待つことができる。

行動変容の途上で
努力していることが伝わってくる。

眼に見える変化が現れるまでの
双方にとって一番辛い時期を
じっとこらえて待つことができる。

認知症のある方の能力を見いだせれば。
それは、盲信ではなくて
評価の結果としての確信だから。

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たとえばの誤解 4

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人間関係において「原因」なんてないと考えています。
そうする、そうなる「必然」はあるし
モノゴトが表面化するに至る「きっかけ」はあったとしても。

これって、まさしく ICF に依って立つ考え方だと思う。
だけど、多くの場合に多くの人は未だ ICIDH に拘泥してる。

認知症のある方の生活障害やBPSDには
不安などの何らかの原因があるから起こるので
原因を探索し改善しましょう。。。とはよく聞く言葉ですが
これって、まさしくICIDHの考え方です。

生活障害やBPSDが起こっている「場」において
何が起こっているのか見いだすことの方が
よっぽど重要で必要で効果的です。

そのためには知識が必要
知識がなければ「見れども観えず」なんです。

同じ場面でも
見る人によって観えることと観えないことが違ってくる。
そして、そのことに
観える人は気がつけても
観えない人には違うということすら、わからない。

つまり
認知症のある方だけの「問題」ではなくて
私たちの「課題」でもあるのです。

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たとえばの誤解 3

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一生懸命な人ほど辛い気持ちになることが多いと思う。
「自分1人が頑張ったって。。。」

その気持ちは本当によくわかる。
かつて私も幾度そのような気持ちを抱いたことか。

でも決してそうじゃない。

自分1人でも頑張ることは
「対象者にとって」世界が変わるに等しいこと。
文字通りの意味でそうなんです。
ICFに依って立てば。

認知症のある方は能力があるからこそ
結果として不合理な言動に至ってしまう。
自分1人であっても
本当に適切な関わりができれば
(本当に的確な評価ができていれば)
認知症のある方に行動変容が起こる。
行動変容に至った認知症のある方の言動が
今度は周囲の他者へも行動変容を結果として促していく。

だから
まずは、自分がいかに的確に評価・関与できるか
そっちを追求していくことが肝心なんだよね。

本当に
自分1人であったとしても
認知症のある方には行動変容が起こる。

1人より2人、2人より3人の方が
より早く明確に行動変容が起こるけど
それは、最初の1人がいて初めて言えること。

認知症のある方は
それだけの能力をもっている。
ただ自分1人では
もっている能力を合理的に発揮できないだけ。

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痛切な体験

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私は最初、肢体不自由児の施設で働いていて
臨床1年目、2年目の時に
ボバースの第一人者、紀伊克昌先生や古澤正道先生が
施設に来てくださり、デモンストレーションを間近で見る機会があった。
その時のことは決して忘れない。

ふだん誰も見たことがない
子ども達の能力を
初対面のはずの先生方の手で目の前に見せられた時のことを。

できないのは
子共たちではなくて、私たちなのだという事実を。

雲泥の差とは、まさにこのこと。

そしてそれなのに
親御さんは、まったく同じ時間で同じお金を払うのだという現実を。

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実習は体験学習の入り口

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最初に立ち返って考えてみれば
「見学実習」「評価実習」「総合実習」
の意味や位置づけが確認できると思う。

見学実習で「観察」を
評価実習で「評価」を
総合実習で「全部」を
体験学習する。と考えています。
体験学習することによって
脳の中に思考回路を形成しておくことだと考えています。

学生だし
体験学習だから
完璧にはできるようにならなくて当たり前。
だけど
体験学習だから
学生自身にoutputとして実行してもらわないと
脳の中には回路ができない。

指導者がどれだけ懇切丁寧に説明しても
それはinputにしか過ぎない。

実習は体験学習の積み重ね

学生「自身」によって
具体的に考え、現実に実施し、明確に振り返る
その過程を指導者が援助はしても使役になってはいけない。

使役の方がお互いにラクだけど
体験学習を通して思考回路が形成できていない学生が
臨床に出てどのような思いをするか
ひいては担当された対象者の方がどのような思いをするか
容易に想像できると思う。

実習は実習単体で存在しているわけではない。
養成校の学内教育と臨床での卒後養成との狭間にあって
それぞれの関係性の中に存在しているから
当然変化は要請される。

でも要請される変化って
誰を念頭に置いて検討されるのだろう?

私たちは長いキャリアを通して体験学習を積み重ねていく。
その入り口が実習なのだけれど
生涯学び続けていくことを
職業選択の責任の一部として担うけれど
いったい誰のために学ぶのだろう?

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「なぜ」は自分に問いかける

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「なぜ」は自分に問いかける。

認知症のある方が「なぜ」生活障害やBPSDを起こすのか
とは考えない。
そうする(なる)必然があるとは考えるけど。

むしろ「なぜ」は自分に問いかけた方が良いと思う。

なぜ、そうしようと考えたのか?と

前に他の方にやってみて効果があったから
前にこうしたらとアドバイスしてもらったから
…というケースって案外多いんじゃないかしら?

でもそれって本当は「なぜ」には答えていない。

「なぜ」今目の前にいる方に?
という答えには全然なっていない。
ということに気がつけると思うから。

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チカラの凄さと怖さ

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重度の認知症のある方が
食べ方が変わっていくのを
(食べ方を良く変えていこうとして、そうなっていくのを)
見ていけるのは嬉しい。

私とだけじゃなくて
他のスタッフが介助しても
前より上手に食べられるようになったのは嬉しい。

上手に食べようと工夫しているのを見られることは嬉しい。

脳の可塑性って凄いな。
人間の能力って凄いな。

そう思う。
そしてそのチカラがどちらにも転ぶことの怖さを改めて思う。

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