Tag: コミュニケーション

かつて、誰だったか忘れちゃったけど
「記録は更新されるもの」って言ったアスリートがいた。
科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問だし。
今、私が言っていることや実践していることは
多くの人によって今まで積み重ねられてきたことを
包含するような新しい視点と考え方です。
まだまだ少数の方にしか届けられていないけど
将来もっとたくさんの方に受けとめられることを願っています。
そして将来
今、私が言っていることや実践していることを
さらに包含するような新たな視点に則った
新たな考え方を提案する人が出てくるとも思っています。
記録は更新され
科学は修正され
そんな風にしてより良くなっていくことを願っています。
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観る「眼」がないと
一見悪そうに見えて、その実良いことを観てとることができない。
一見悪そうに見えてるだけのことを「悪い」こととしか見られない。
一見悪そうに見えることを「悪い」から修正・改善しようとすれば
隠れていて表面に現れていない「能力」をも
結果として、つぶしてしまうことになってしまう。
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一見良さそうに見える悪いことも
一見悪そうに見える良いこともある。
でも
いったい「何に」照らして良いのか悪いのか。
良し悪しは
自分の価値判断ではなくて
その人の目標に照らして判断されることだと思う。
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認知症のある方に
「問題がない」んじゃなくて
よくわかってないけど
合わせてくれてる
(よくわかんないけど、そうしようか)
と従ってくれてる
だけのことって結構ある。
認知症のある方に
合わせられるという能力があるからこそ
できることでもあって
病状が進行して
「よくわからない」
「合わせる、従う」ことができなくなった時に
その本音を表明せざるを得なくなった時に
初めて「問題」が表面化する
そういうことは、とてもよくある。
食事介助の場面で起きてることと
同じことが違うカタチで現れてる。
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どんなコトでも
100%のエビデンスをもつものなんてない。
だからこそ
今目の前にいる方に対して
自分が提供していることが
本当に適切なのかどうか確認する必要がある。
相手は機械じゃないから
こうすればああなる
そんなわけないから。
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適切に評価ができれば
適切に目標を設定できる。
「こうなったらいいなぁ」って具体的にイメージできる。
だから、変化を待つことができる。
行動変容の途上で
努力していることが伝わってくる。
眼に見える変化が現れるまでの
双方にとって一番辛い時期を
じっとこらえて待つことができる。
認知症のある方の能力を見いだせれば。
それは、盲信ではなくて
評価の結果としての確信だから。
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人間関係において「原因」なんてないと考えています。
そうする、そうなる「必然」はあるし
モノゴトが表面化するに至る「きっかけ」はあったとしても。
これって、まさしく ICF に依って立つ考え方だと思う。
だけど、多くの場合に多くの人は未だ ICIDH に拘泥してる。
認知症のある方の生活障害やBPSDには
不安などの何らかの原因があるから起こるので
原因を探索し改善しましょう。。。とはよく聞く言葉ですが
これって、まさしくICIDHの考え方です。
生活障害やBPSDが起こっている「場」において
何が起こっているのか見いだすことの方が
よっぽど重要で必要で効果的です。
そのためには知識が必要
知識がなければ「見れども観えず」なんです。
同じ場面でも
見る人によって観えることと観えないことが違ってくる。
そして、そのことに
観える人は気がつけても
観えない人には違うということすら、わからない。
つまり
認知症のある方だけの「問題」ではなくて
私たちの「課題」でもあるのです。
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一生懸命な人ほど辛い気持ちになることが多いと思う。
「自分1人が頑張ったって。。。」
その気持ちは本当によくわかる。
かつて私も幾度そのような気持ちを抱いたことか。
でも決してそうじゃない。
自分1人でも頑張ることは
「対象者にとって」世界が変わるに等しいこと。
文字通りの意味でそうなんです。
ICFに依って立てば。
認知症のある方は能力があるからこそ
結果として不合理な言動に至ってしまう。
自分1人であっても
本当に適切な関わりができれば
(本当に的確な評価ができていれば)
認知症のある方に行動変容が起こる。
行動変容に至った認知症のある方の言動が
今度は周囲の他者へも行動変容を結果として促していく。
だから
まずは、自分がいかに的確に評価・関与できるか
そっちを追求していくことが肝心なんだよね。
本当に
自分1人であったとしても
認知症のある方には行動変容が起こる。
1人より2人、2人より3人の方が
より早く明確に行動変容が起こるけど
それは、最初の1人がいて初めて言えること。
認知症のある方は
それだけの能力をもっている。
ただ自分1人では
もっている能力を合理的に発揮できないだけ。
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