Tag: 状態把握

Activityを拒否された時にどうするか:生活歴の聴取

2)マンツーマンで生活歴を聴取する
  :話をしやすいように事前の情報収集と聞き方に工夫をする
ということについて記載していきます。

完全にマンツーマンで対応するところで
ラジオ体操といっても実現困難なこともあるかもしれませんし
認知症のある方によっては、ラジオ体操でも拒否する方もいるでしょう。

そんな時には
生活歴を聴取すると良いと思います。

通常、私たちが認知症のある方に出会う場合に
事前に何らかの情報があることが圧倒的に多いです。
事前情報については必ず目を通しておきます。

現住所、出生、家族構成、職歴
これだけわかるだけでも会話の糸口になります。

現病歴だけでなく既往歴も重要です。
リハ中に体調不良の兆候を察知し即応できるためも必要です。
認知症が進行してくれば、てんかん発作が起こることもよくあります。
気構えがあるだけで対応がスムーズになります。

どこで生まれて
どんな風に暮らしてきたのか
小さな頃どんな風に遊んで
若い頃の趣味や仕事はなんなのか

ここでもポイントがあって
何をしていたのか尋ねるだけではなくて
どんな能力を要求されていたことなのか
を意識しながら聞いています。

目の前にいる方がどんな風に暮らしてきたのか
イメージできることがポイントになります。

そのためにも事前に
当時の時代背景や風物詩、ニュースや流行していたものを
知識として知っているかいないか、ということは大きな違いになります。
まずは、それらを事前に調べておく
その方の出身の名所・名産品などを調べておく
そんな努力は今すぐにできます。
その上で尋ねると、具体的に尋ねることが可能となります。

今はネットで知りたい情報にアクセスするのが容易です。
「認知症のある方でもできるレク」
なんて情報を知るために努力するのではなくて
(一時凌ぎ、時間稼ぎとしては、アリかもしれませんが)
根本的な情報収集にこそ努力する方が
短期的には手間かもしれませんが、長期的にはよっぽど有効です。
そうやって調べた情報が回り回って他の方にも適用できたりします。
そのような努力を蓄積していけば多面的に知識を増やせることになり
さまざまな方への対応に有効活用できます。

対話に際して、伝わり具合の実感の差となって滲み出るものです。

  認知症のある方に
  「昔はそういうものだったじゃない?」
  「みんな、そうだったよね?」
  「なぁ?」
  などと同意が返ってくることを確信されたようなお言葉を頂戴するたびに
  (えー私はその時まだ生まれていないんだけど)
  と思いつつも、内心ちょっとは嬉しかったものです。

その方のバックボーンに触れながら話を聞く
時には視覚的に情報を提供しながら話を聞く
(例えば、当時のニュース場面や風物の写真などを見せながら)
そうすると、いきいきと話をしてくださったり
広がりと深みのあるお話を聞くことが可能となります。

そして得られた情報は
今、この時、私自身が活用できる根拠となると同時に
認知症のある方が次に移る施設のスタッフにとっても有効活用できる根拠となります。

もしも、
認知症のある方にActivityを提供して拒否された時に
折り紙とか塗り絵とか手当たり次第に
漫然と「何かしている風」を装って「何かをさせる」のではなくて

人間としては、拒否されたことによるショックは受け止めても
プロとしては、拒否を情報収集の機会と捉えて次の手を打つ
ということが大切だと考えています。

何かする、していることが良いわけじゃない

していることに充実感を感じられるような
そして、することそのものに
自分が自分であることを再体験・再認識できるような
そんなActivityが提供できると
「できることをやらせる」
「徘徊しないようにできることを探す」なんてことはできなくなります。

そして
Activityの意味をその都度、対象化・抽象化・概念化する努力を重ねていると
作業療法とは何ぞや
ということを実感を伴って理解することができるようになっていきます。

  作業療法とは何だろう?
  それは考えることではなくて実践することです。
  結果を出してから、何がどう良かったのかという意義を
  固有のケースごとに具体的に考えることです。
  誰かと語り合うものではありません。

  パイロットがパイロットとは何だろう?
  なんて考えているでしょうか?
  同僚と語り合っているでしょうか?
  それぞれの考えは考えですけど
  まずは、自分の技量を高めることに日々努力しているのではないでしょうか?

Activityは本当に大きなパワーを持っています。
大きなパワーを持つものは、逆効果となった時のマイナスの作用も大きいものです。

認知症のある方に良かれと思って提供したけれど
結果的にであったとしても傷つけてしまったということはありませんか?

どうしたらそのようなマイナスとなることを回避できるか
 
「まず第一に患者を傷つけないこと」
ヒポクラテスの言葉の最初に書かれていると日野原重明は言っていました。
「患者は患者であるというだけで傷ついている」
そこから出発する。

認知症のある方に嫌がられたけど
この20分、どうしたらいいんだろう?
無理矢理させることはしたくない
そうしたら、何もできないで終わってしまった。。。
こんなので良いとは思えないけど
どうしたらいいのか、わからない
先輩に聞いてもわかったようなわからないような。。。
なんだか誤魔化されたような気がして納得できない

どこかでそんな悩みを抱えている人の力になれますように。。。
かつて一人でもがいていた過去の私が欲しかった答えです。

もうひとつ
生活歴を聴取する時には
マンツーマンでしっかり時間をとって聴取するだけでなく
ちょっとした時間でも良いから
何か体験をした後で、話しかけると良いのです。
体験の後で、その体験と関連するようなことを聞いてみます。

体験した後だと、再認しやすくなるので
関連する過去の体験を話しやすい状態になっています。

たとえば
ラジオ体操第一をした後に
「体操、お上手でしたね。
 お若い頃は運動得意だったんですか?」
そこで
「そんなこともないけど、陸上の選手だったんだよ」
と答えが返ってくれば
「選手に選ばれるなんてすごいじゃないですか!
 何の選手ですか?長距離?短距離?」
と話を広げながら聴くことができます。

もしも
「運動は苦手だったんだよ」
と答えが返ってきたら
「学生時代に得意だったのはどんなことですか?」
と聞いてもいいし
「学生時代に好きだったことは何ですか?」
と聞いてもいいし。

懐メロ鑑賞だったら
もっと話を広げやすいと思います。
「今の歌手は、〇〇ですよね」
と問いかけてその反応によって
「お好きですか?どんなところがお好きですか?」
「代表曲は△△と◇◇だそうですけど、お好きな歌はなんですか?」
と聞いたり、あるいは
「お好きな歌手は誰ですか?」
あるいは
「この歌、流行した歌だそうですけど聞いたことはありますか?」
と別の歌を視聴していただいてもいいですよね。
そうすると、歌にまつわる思い出を教えてくれるかもしれません。
そこに、その方らしさが反映されています。

また、
毛糸モップを作った後に
「お若い頃は編み物をなさっていたんですか?」と尋ねると
「そうよ。母がよくやってたから私もね。
 こたつの上掛けとか編んでたのよ。」とお答えしてくれたりします。
ここまで答えてもらえたら、いろいろと聞くポイントがありますよね。

スティーブ・ジョブズは、市場調査はしなかったけれど
モニタリングは、重要視していたそうです。
ユーザー体験の情報にはきちんと耳を傾けていたとか。

よくわかります。
心の底から同意します。

どんなActivityをしたいか尋ねるよりも
検討したActivityを提供してみてその結果を確認する
遂行の仕方、表情、Activityの結果、直後の感想 etc.eto.
ジョブズ風というわけではありませんが
私も「事後」を重要視しています。

 

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Activityを拒否された時にどうするか:戦略的待機

それでは、まず最初に
1)戦略的に時間稼ぎをする
  :拒否なく応じていただける別のActivityに誘導して機会を待つ
ということについてご説明していきます。

認知症のある方が拒否するにはするだけの必然がある
必然であって原因ではありません
ここが共感できることが大切です。

スティーブ・ジョブズは「意図こそが重要」と言いましたが
まさしくその通りで
本質を突く言葉は普遍的だと常々感じています
私たちの側の問題解決のために認知症のある方に何かさせようとすることと
  (無自覚であったとしても、
  診療報酬や介護報酬上20分間何とかうまくやれているようにしなくては。
  等のセラピスト側の焦りを解決しようとすることは多々ある)
認知症のある方が「たとえ認知症になったとしても自分自身は変わらない」
ということを再体験できた結果としてActivityに取り組めることは
見た目同じように見えてその実内面への働きかけのベクトルは真逆です。

そしてこの内面への関与のベクトルの向きこそが
無意識に伝わり作用していると感じています。

だから、困ることを恐れない
自分が困らないように、困ることを回避して言葉巧みに言い繕っても
その場は良いかもしれませんが
長期的にはメリットがないどころか、逆効果となってしまいます。

困っている自分に正直に向き合うことができて初めて
認知症のある方の予期不安にも共感できるようになります。
そこがスタート!
 
このスタート地点を間違えると自己修正ができなくなります。
経験を重ねた人の話でも、有名な人の話でも
抽象論ではいいことを話しても、具体論でいい加減な話をされると
納得できないですよね?
神は細部に宿る。とは本当にその通りだと感じています
 
そうなりたくなければ、スタート地点を揺るがせにしないことです。
人間だから諸般の事情で揺るがせてしまうことだってあるでしょうけれど
そうした自分を誤魔化さずに自覚することができれば
スタート地点に必ず戻ることができます。

くどいようですが、本当に大切で
なおかつ、臨床現場で揺るがせてしまうことあるあるなので記載しました。

そのスタート地点に立ってから
認知症のある方が拒否せずに行えそうなActivityから導入していきます。
その方の特性と能力から、〇〇というActivityが適切だろうなと判断があっても
その方が拒否されるようであれば決して無理矢理誘導したりしません。

この記事では詳しく触れませんが、
 認知症のある方の場合に「やりたいことをやってもらう」というのは
 困難なことが多々あります。
 詳細はこちらのブログでも過去に記載したことがあるので検索してみてください

その代わりに
次善の策として拒否なく行えるActivityに誘導して
そのActivityの遂行の仕方を観察・洞察・確認していきます。

たとえば
ラジオ体操第一は、認知症のある方にとって
手続き記憶として保たれていることが多いものです。

できれば
オープングループで(誰でも参加可能で出入りも自由な場)
体操の場を構築しておくと
認知症のある方が集団に埋もれることもできるので
失敗が目立たない、できなくても目立たないと感じることができて
誘導が容易で拒否されることも少ないものです。

また、懐メロ鑑賞も有用です。
歌わなくていい、聞くだけでいいところがポイントです。
歌は言葉にならない感情を喚起し味わうことが可能です。
聞いたことがある、思い出せたことがあるという体験ができるので
比較的拒否されにくいActivityでもあります。

体操も懐メロ鑑賞も
カタチに残るActivityではありませんが
運動する、見る、聞くという体験も立派なActivityです。
手工芸だけがActivityではありません。

ちなみに
一昔前には、「認知症=ゲーム、レク」みたいな風潮がありましたが
進行した認知症のある方にゲームは難しいActivityとなります。
ゲームを楽しむためには
1)説明されたルールを理解する
2)理解したルールを覚えている
3)ルールに従って行動できる
という条件をクリアできて初めて楽しむことができます。
アルツハイマー型認知症では近時記憶が低下していきますから
難しいですよねぇ。。。

私が今いる病棟では風船バレーも難しかったです。
どう動くかわからない風船を目でしっかり追い続ける
ということが困難な方が多いので
風船バレーの大前提が成り立たないのです
もちろん、軽度の方やゲームによっては遂行可能なものもあるでしょうけど
作業療法士としては、どんなゲームがどんな能力を必要とするのか
作業分析ができていれば、遂行の可否についても見当がつきます。

いずれにしても
対象者の方の特性と能力と、Activityとのマッチングがポイントです。

それから、大切なことは
「あぁ良かった。できることがあった」で終わらせずに
事後の情報収集が大切。
体操や懐メロ鑑賞の場面での参加の仕方をきちんと観察・洞察していきます。

自分の判断したActivityを直接は提供していなくても
間接的に適否の判断根拠の一つとなります。

異なるActivityは異なる能力を要求するので
遂行の可否や遂行の仕方に違いは生じて当たり前ですが
同時に、メタ能力というか、下支えしている能力は通底するものなので
どのように行うのか
という部分は、その方の特性と能力の大きな判断材料となります。

そして、その方自身が
「できた!」という体験を蓄積していくと
その方に応じて
「やってみようかな?」と思う気持ちが生まれてきます。
この機会をとらえ、逃さずに、働きかけます。

そういった関与がしやすいのが並行集団です。

おそらく、身障系の病院では期せずとも並行集団というカタチで治療がなされていると思います。
 同じ時間に同じ場所を共有していても
 個々の人によって異なることをしている
並行集団の中に身を置くことで
いろんな人がいるな、いろんなことをやるんだな
ということを見聞きすることを体験できます。
実際には認識されにくいようですが
この期間を猶予として担保できることも大切です。

他の人がやっているActivityを眺めるようになったり
やたらセラピストと眼が合うようになったりしたら
変化の兆しです。

他の人がやっているActivityの難易度が高すぎて
対象者には難しいと思われた時にも
該当Activityの多様な側面をよく認識して
当該対象者がそのActivityのどのような側面を好んでいるのかを判断すると
その方の特性に合致していて、しかも混乱せずに遂行できるように場面設定にも工夫した
Activityを選択・提供できるようになります。

最初からピンポイントで適切なActivityを選択できなくても良いのです。

認知症のある方が拒否するに足る必然があるように
私たちにもその時それぞれでの能力の限界があります。

自分自身のその時々での能力の限界を正直に受けとめられれば
認知症のある方の気持ちの揺れを受けとめ
その時その場でのその方の遂行を協働することが可能となります。

その都度のActivityが
私たちが理解の過程にあることを認知症のある方に象徴として伝えてくれます。

適切なActivityを選択し提供することができれば
その方の良い面を良い方向に理解し受けとめた象徴としてActivityが機能します。

関与のベクトルの向きさえ間違わなければ

経験が経験として蓄積されていきます。

Occupyを取り扱い、治療的に活用する作業療法士には
言葉以外のコト、行動や体験といったコトが
表現し、伝える、伝わる、ということに関して、
もっと明敏であることが求められていると思います。

 

・・・

次の記事では
2)マンツーマンで生活歴を聴取する
  :話をしやすいように事前の情報収集と聞き方に工夫をする
についてご説明していきます。

 

 

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Activityを拒否された時にどうするか:はじめに

先の記事で
「拒否は情報収集のチャンス」という記事を書きました。

認知症のある方が
拒否するには拒否するに値する必然があります。
(原因ではなくて必然です)

その中でも最も多いのが
「できない」
「わからない」
という予期不安から
Activity遂行を尻込みしてしまうというケースです。

私たち作業療法士が
認知症のある方に出会った時点で既に認知症のある方は
たくさんの失敗体験・喪失体験を蓄積してきています。

生活する、暮らすだけでも
失敗する。混乱する。不安になる。
どうするんだっけ?と朝起きてから夜寝るまでの間
考えながら暮らしていらっしゃいます。
 
私たちが考えなくても自動的に当たり前にできること
例えば、朝起きたら間違えることなくトイレに行き
パジャマの下衣を下げ、下着を下ろし、排泄し、清拭し、下着を上げ、下衣を上、手を洗い。。。

ある方は排尿後に
「ちゃんと出たね」とおっしゃいました。

私はトイレで「ちゃんと出た!」とは思いません。
ちゃんと出るかどうか迷ったり不安に思ったりしません。
確信を持って排尿しています。

また、ある方は
「カラオケ?私カラオケ好きよ。だって考えなくてもいいんだもの。」
とおっしゃいました。

あぁ、そうか。。。言葉にしなくても
暮らすだけでたくさんのことを考えながら暮らしているんだ
と思いました。

その都度その都度考えなくてはならないとしたら
「やる」ことに必死で楽しむどころじゃないでしょう。
「これ以上困ることなんてやりたくない」
と感じるのは当たり前なんじゃないかなと思います。

そう考えていくと
Activityへの導入も慎重にならざるを得なくなってくる

失敗体験、混乱体験、不安な体験とならないように
声かけや場面設定にも細心の配慮をしようと思うようになってくる

私たちの仕事は
「何かをさせる」ことではなくて
「何かをする」ことが目的でもなくて
「何かをした」ことは手段であって
「何かをした」ことで認知症のある方がプラスの体験ができる
ことにあると考えています。

「拒否されてどうしたら良いのかわからない」
という気持ちはわかりますが
これは問題設定の落とし穴なんです。

拒否されてどうしたら良いのかわからない
というのは私たちの側の問題であって認知症のある方の問題ではない。

私たちは認知症のある方の困難を改善するために仕事をしているので
解決すべきは私たちの困りごとではありません。
ここがいつの間にかすり替えられてしまうのが、臨床あるあるです。
問題設定が悪いから適切な答えが出てこないというのも、現場あるあるです。
だとしたら、適切に問題設定ができるようになれば良いだけなので
そこに立ち戻るべきなんです。
でも、なかなかそうはならない。。。

このあたりの混同・すり替えは、
いろいろなところでいろいろなカタチで起こっています。
あまりにも蔓延っているので、きちんと指摘できる人も少ないし
指摘した上で解決できる方策を示せる人もまた少ないので
善意はあってもモノゴトが解決できずに真摯な人ほど悩みまくる
という構図があちらこちらで散見されているのではないでしょうか。

認知症のある方の立場にたてば
何かをするより、しない方が自分にとってはプラスの時間
という意思表示なんです。

だとすると
目の前にいる方にとって
提案したActivityが

プラスの時間になると、
私たちが確信できるものを提案する

ということが前提条件となります。

  認知症のある方の場合
  「やりたいことをやる」というのが良い方向に作用しないことも多々あります。
  これも以前に書いていることですので検索してみてください。

ところが
この前提条件をクリアするよりも
「いろいろなことをやる方が良い」
「何もしないよりした方が良い」
「何かさせないと」
という思い込みがあって
「することのマイナス」については、あんまり検討されなくて
とにかく、できることを何でもいいから、させるように焦ってしまったり。。。
それで、塗り絵やら折り紙やらを提示したり。。。
しかも、幼稚な下絵で。。。
(この問題もすでにあちこちで指摘済みです。検索してみてください。)

  ちょっと話はズレますが
  認知症のある方の精神的疲労について
  あんまり検討されなくて、できるからって難易度を上げてしまったり。。。
  特に通所系の施設では、自宅での暮らしが豊かになることが本来の目的なので
  手段と目的を取り違えないように、
  質的にも量的にも頑張らせすぎないことが大切だと考えています。
 
なんとなく提供したActivityをやってもらえたりすると
あぁ良かったで終わってしまいがちですが
(本当は良い結果が出た時こそ、何がどう良かったのか検討する意義がある)
拒否されたら考えるようになるので
本当にチャンスなんです。

ただ、多くの場合に先輩に相談しても
「昔とった杵柄」や「毎朝の挨拶作戦」「なじみの関係づくり」「褒めてあげる」など
なんとなく継承されてきたことを言われるだけで
納得できたわけじゃないけど
自分では納得できる解決案が思いつかないのでそれ以外に術がなく
心の奥ではこんなんじゃいけないのに。。。と思いつつも
多忙な日々に流されていく。。。という人もいると思います。

4月からは先輩として後輩指導にあたることになって
内心ドキドキしている人もいると思います。

「破綻の危機は成長へのチャンス」
という中井久夫の言葉は、本来統合失調症のある方に向けた言葉だと思いますが
もっと広く一般化しても通用する言葉だと思います。

困ることは成長へのチャンスなんだからいいことなんです。
困ることすら、できない人になっちゃいけないんです。

作業療法士として
まずは、その方に有益だと確信できるActivityを選択できること
(具体的には、こちらでもたくさん記事を書いてきたので検索してください)
その努力から始めましょう。

その上で、提案したActivityを拒否された時にどうしたら良いのか
私がしているのは次の二つです。
 
1)戦略的に時間稼ぎをする
  :拒否なく応じていただける別のActivityに誘導して機会を待つ
2)マンツーマンで生活歴を聴取する
  :話をしやすいように事前の情報収集と聞き方に工夫をする

次からの記事でご説明していきます。

 

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ADLは再認を強化しやすい場面

ADLは
特定の場面で特定の行動を繰り返し行う
再認を強化しやすい場面でもあります。

また
食べる・立ち上がる・歩く
といった行動は、誰でも赤ちゃんの時から
繰り返し行ってきた究極の手続き記憶でもあります。

ここに
認知症のある方とリハビリテーションの可能性があります。

ただし、
再認は

ポジティブにもネガティブにも働きます。

立ち上がりや食事介助、口腔ケアなどの場面で拒否がある場合に
対象者にとっての必然として拒否があるのですが
その必然を観察・洞察せずに
表面的に、「拒否されないように介助しよう」という視点では
対象者のネガティブな再認を強化することになってしまいます。

「拒否されないように介助しよう」という視点は
私たち介助する側の視点であって
認知症のある方の視点ではないからです。

逆に言えば
強い拒否をする方でも
拒否の必然を洞察できれば
本来のその方の能力と特性を引き出し
結果として、拒否の改善・消失に結びつけられることが多々あります。

拒否の強い方は
過去の不適切な介助を再認した結果の意思表示
ということが多々あります。

だからこそ
今、適切な介助を、体験を通して
ポジティブな再認の蓄積を図る
意味があります。

ピンチはチャンス!

 

 

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拒否は情報収集のチャンス

認知症のある方へ対応しようとして
暴言や暴力や介護抵抗があると
正直、しんどいですよね。

そうすると
無意識の自己防衛から
「どうしたら暴言や暴力や介護抵抗を受けずに済むだろうか」
という観点に立って物事を考えようとしてしまいます。

でも、そうじゃない。
気持ちはよくわかるけど。

そのような観点に立って
為されたことが効果があるわけがない。
(だって、自己防衛の観点で対象者の観点ではないもの)
仮に短期的に効果があったとしても
長期的にはむしろ逆効果にしかならない。

ここで、私は決して
介助者が我慢すべき。などといっているわけではありません。

我慢することではないけれど
拒否された、その時その場にいる人が
一番よく状況をわかるのです。

どのような場面で
どのような状態像の方に
どんな関与をしたら
拒否されたのか

ここは、情報収集のチャンスなんです。

拒否は表面的な言動であって
必ず、拒否というカタチに現れている障害と能力があります。

そこを観察・洞察すれば
本質的な改善のミチがひらけてきます。

検査はするけど
貴重な情報収集の機会を逃している人って大勢います。
情報収集せずに「どうしたら良いか?」考えても
適切な介入方法が得られるわけがありません。

私たちは
客観性や科学的であるということを誤解させられてきたと思う。

人文科学に寄与する私たち対人援助職がすべきことは
科学的・論理的・合理的な観察ができるように
観察の精度を高めることであって
観察を否定することではない。
 
検査には検査の意義があるけれど
観察より検査の方が価値が高いわけではない。

観察とは
「ちゃんと関わっているのに拒否する」
といった表面的な言動ではなく
認知症のある方にとっての
環境の一因子としての私たち自身の言動も含めた「場」と
拒否という言動に反映されている能力と障害と特性を把握することです。

拒否されたら
メゲてしまうかもですが
そんなことを言っていたら勿体無い!
情報収集のチャンスをつかまねば。

ここで情報収集ができれば
回避すべき場面を明確に具体的に設定することができるようになります。

 

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ウソみたいなホントの話:食事介助編

声を大にして言いたいのは
重度の認知症のある方の食べ方も
介助を含めた環境との相互作用の結果であるということです。

だから
介助が変われば食べ方も変わる
 
喉頭完全挙上できなかった方ができるようになったり
頚部後屈して食べていた方が
頚部前屈を伴う上唇での取り込みができるようになったり
開口してくれなかった方が開口できるようになったり
ためこんでしまい食事に時間がかかっていた方が
スムーズに送り込めるようになり
結果として食事摂取時間が短縮されるようになったり
板のようにガチガチだった舌が柔らかくなったり
食べられるようになる(舌の動きが改善される)ことで発語ができたり

食事介助を変えるだけで
疎通困難な重度の認知症のある方でも
食べ方は変わります。

どれもみんな本当のことです。
日々、感動しています。
認知症のある方の能力に。
ここまでわかってるんだということに。

「食事介助」=「何を」✖️「どうやって」 食べていただくか

「何を」という食形態の工夫については、ものすごく発展してきたと思います。
一方で、「どうやって」という私たちの介助については
まだまだ発展の余地があるように感じています。

ムセの有無しか気に留めていない介助者はまだまだたくさんいるはずです。

特別に嚥下リハをしなくても食事介助だけで変わります
というか、むしろ認知症のある方には嚥下リハはせずに
(そもそもできない)
実際の食事場面での介助方法に気をつけた方が良いのです。

もちろん、できる方にはした方がより効果的です。
でも、嚥下リハをすることで混乱したり不安になったり
できなかったりする方には、しない方が良いのです。
「できない」「わからない」というネガティブな感情を惹起させる体験は
マイナスにしかなりません。

食べ方は介助者によって良くも悪くも変わります。
ものすっごく流動的です。

食事介助というのは、対象者と介助者との協働作業です。

全員が適切な介助ができなかったとしても
たった一人でも的確に介助ができれば確実に変わります。
自分一人がちゃんとしたって。。。と感じてしまうこともあるかもですが
絶対に効果はあるから諦めないでほしい。

認知症だから誤嚥性肺炎は仕方ない
なんてとんでもない誤解です。
確実に誤嚥性肺炎を減らすことができます。

ポイントは
対象者の食べ方を摂食・嚥下5相にそって観察することです。

そして
食べ方を修正しようとする、のではなくて
無理なく食べられるように援助する、という視点から介助することです。
この修正ではなく援助するという立ち位置が最も重要です。

なぜなら
先の記事で紹介した「立ち上がり」と同様に
「食べる」ことについても身体協調性の低下が起こっているからです。
 
認知症のある方の食べ方の困難の多くは
私たち介助者の不適切な介助に原因があり
不適切な介助にも適応しようとして誤学習が起こっています。

確かに
認知症のある方に、食べることに関するウイークポイントはあります。
歯がない、オーラルジスキネジアがある。。。
でも、それらを拡大再生産してしまっているのは私たちなんです。

それなのに
必死に食べようとしていることに気づかずに
「問題点」として状況を悪化させてしまっている。。。

だからこそ
認知症のある方の食べ方は変わる可能性があります。
たくさんの方が変わっていきます。

修正すべきは、むしろ、私たち介助者の側にあります。

 

 

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ウソみたいなホントの話:スポンジ解説編

 

手指の拘縮悪化予防のために
スポンジが絶大な効果があることを
前の記事「ウソみたいなホントの話」でお伝えしました。

スポンジは
100均でも入手できるし
加工は普通のハサミだけでできるし
失敗しても作成し直すことが容易です。
耐久性に欠けるのがやや難点ではありますが
すぐに作れる、安価、でも絶大な効果があるということで
費用対効果にとても優れています。

入手するスポンジは
フニャッと潰れてしまうものは向かないので
復元性、反発性の高いスポンジを選んでください。
使い勝手が良かったのは、ダイソーで購入したこちらのスポンジです。

私は100均のキッチンコーナーで選んでいますが
バスコーナーや車の洗車コーナーで販売されているスポンジも
選択肢に入れておくと良いかと思います。

さて
それでは、なぜスポンジという素材なのか
スプリントやタオルではなく
スポンジという素材を使う意味について説明していきます。

手には、縦・横・斜めのアーチがあります。
昔、学校で習ったでしょう?

力を抜いた状態でご自身の手指を見てみてください。
母指と示指、小指と手掌面が作っている空間の大きさに違いがありますよね?

次に、ギュウっと力を入れて手指を握ってみてください。
母指と示指、小指が作る円還の大きさにも違いがありますよね?

そして、いずれの場合でも
手指が作っている空間は円筒状ではなくて円錐に近い状態になっています。
縦・横・斜めの3つのアーチがあるからです。

よく、タオルやおしぼりを丸めて握ってもらっているかと思いますが
丸めた状態だと円筒形になっています。
円筒形のものを握らせるということは
小指側を過剰伸展させることになります。
 
小指に関与する筋といえば
小指対立筋・浅指屈筋・深指屈筋・総指伸筋・小指伸筋などで
多関節筋です。

  神奈川県作業療法士会>「いつでも何回でも再学習☆応援講座」
  >再学習・筋触診ー上肢編をご活用ください

多関節筋ですから
小指のMP・PIP・DIPの関節を過剰伸展させるということは
外力としてその時に強制的に伸展させることはできても
身体自身の必然として伸展していないので
代償として筋の近位部を収縮させることになります。

筋そのものがリラックスした結果として伸展しているのではなくて
他動的に強制的に筋の遠位部を伸展させれば
代償的に筋の近位部を収縮するしかない

伸展が過剰であればあるほど
代償としての収縮が強くなります。

その結果、善かれと思っての巻きタオルなのに
逆効果となり、拘縮をもっと悪化させてしまいます。

臥床時のポジショニングと
同じコトが違うカタチで起こっているだけです。

  臥床時には、股関節・膝関節を強制的に
  クッションで伸展・外転させて
  かえって骨盤の捻れを引き起こしたり
  屈曲拘縮を悪化させてしまいがちです。

強引でも伸展させないと拘縮がひどくなるという
知識のない善意による思い込みのために
結果として逆効果を招いてしまい
対象者の状態を悪化させてしまっているのです。

  「知は力なり」という言葉がありますが
  一時は「無知は力」だ。。。と思ったこともありました (^^;
  でも、やっぱり「知は力なり」なんだと考え直しました。

このような誤った対応の根幹にあるのは
「現状は悪いから、良くしてあげなければ」という
人体構造の解剖学的生理学的知識に基づいていない善意であり
因果関係論であるICIDHに依拠した考え方です。
そして、善意からなされているが故に
自覚・修正しにくいという問題があります。

現実には
人体というのは、解剖学的にも生理学的にも連続性があり
常に、環境との相互作用を営んでいます。

相互関係論であるICFに基づいたリハの実践をするというのは
人体の解剖学的生理学的可変性を良い方向に活用するということです。

  OTの人はよく理論が必要と言いますが
  理論を治療に活かすというのは、こういうことです。
  ICFという最も本質的な理論に依拠した実践なのかどうか
  どんなことでも常に
  理論と実践とを相互にフィードバックさせる、
  自身に問いかけながら実践を積み重ねるということです。

痙性の強い方でも
筋肉は常時一定の緊張度にあるわけではなく
その方なりの幅で筋緊張が変動しています。

スポンジは反発性がありますから
筋緊張が強い時には指尖と手掌面との接触を緩和し
筋緊張が弱まった時には本来の可動域に合わせてスポンジが広がってくれます。

つまり、スポンジは手指に合わせて収縮したり拡張したりしてくれる

ところが、巻きタオルやおしぼりやスプリント素材には反発性がありません。
巻きタオルは、人の手指がタオルに合わせることを要請しますが
スポンジは、人の手指にスポンジの方が合わせてくれる

多関節筋だから
手指にスポンジを握っているだけでも
手指の筋の緊張が緩和すれば
前腕や上腕の筋緊張も緩和して
結果として手指や手関節、肘や肩の可動域が拡大します。
というよりも、
その方本来の可動域を目にすることができるようになるのです。

理想論や本来の肢位を基準として想定し
そこから差し引きマイナスで現状を判断し
基準に到達すべく、近づけるべく、修正・改善しようという
視点はICIDHに基づいた考え方であり
急性期には必要かもしれませんが、生活期にある方には適切とはいえません。

現状を否定せず
その方なりの埋もれている本来の能力を発揮できるように
(その場合の多くは、誤介助誤学習由来のものです)
援助するという視点こそがもっとも重要です。

スポンジを作る時には
その方の手指の最大可動域に合わせてはいけません。

最大可動域よりも小さめに作ります。
だから、こんなに小さく細いスポンジでも効果があります。

スポンジを装着する時には
向きを間違えないようにすることが大切です。

作成者が装着・脱着するのであれば問題ありませんが
看護介護へ装着を依頼する場合には
(夜間に装着し昼間は装着せずに動きを引き出したい場合など)
向きが的確に装着できているのかどうか
間違えないように明確に説明することと同時に確認しておくことも必要です。

写真を撮って説明入りの取り扱い説明書を作成し
使用する場所、つまりお部屋に掲示しておくことだけではなく
使う対象そのもの、つまりスポンジにも目印をしておくことが必要です。

ここに努力を惜しむと
深く考えずに、単に「つければ良い」と考えている人に
反対向きに装着されて
その結果、効果がない、やっても仕方ない、やらなくて良いと
誤認されてしまいがちです。
(こういうことは本当にしばしばよくよく起こります)

本来は
共有すべき情報を作成・提供するまでが
OTの仕事、分掌範囲だと考えますが
職場の状況によっては
拡散・共有化までを担当した方が良いこともあります。

「なんで私がそこまで?」と思うかもしれませんが
仕事はやったもの勝ち
必ず自身の地肉となって底力がついてきます。
でも、永遠に繰り返すだけでは
賽の河原の石積みのような気持ちになって
「もう、やってられない!」となりますから
実践力のある他部門の人を見つけておくことです。

本当に効果のあることをしていれば
必ず一人は見ていてくれる(観ることができる)人がいるものです。

時間はかかっても、そこから広げていく道ができてきます。
その人の職位や状況にもよりますが、将来的な希望が見えれば
頑張り続けることができます。

関連してあと何点かお伝えしておきます。

装着したスポンジが外れないように
ひもやゴム紐をつけたりします。

認知症のある方の場合には
ひもやゴム紐など目につく素材があることで注意を引き寄せることになり
それらを引っ張ってしまったり
外してしまったり、異食してしまうこともあります。

ひもやゴム紐があった方が良いのか
ない方が良いのか、その方の状態に合わせて判断します。

スポンジは消耗品ですので
反発性が弱まってきたら作成し直すことが必要です。

装着によって最大可動域が拡大することもよくあります。
拡大した可動域に応じてスポンジを大きく作り直すことも必要です。

その方の状態像をよく把握して
適切な環境を提供する一環としてのスポンジ作成
ということなのです。

 

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関与しながらの観察:よっしーver.

「関与しながらの観察」とは
精神科医 Harry Stack Sullivan (1892-1949)によって提唱されました。

「現代精神医学の概念」 中井久夫・山口隆訳   みすず書房

 

評価とは
関与しながら観察することによって為され
治療とは
観察しながら関与することによって為される
と考えています。

 

そのためには
自分が何を観察しようとしているのか明確化できている
観察できる場面設定を行える(除外すべき条件がわかる)
意図的に選択された対応が行える(言語・非言語ともに)
起こっている事象を洞察できるだけの知識がある

ということが前提要件として求められます。

作業療法士の業界の一部では
検査と評価の混同や
目標を目標として設定できない
という臨床能力の育成に関して根本的な問題があると考えています。

多くの先達の努力のおかげで臨床知見の相当な蓄積が為されている昨今
そのメリットもあればデメリットもあって
該当障害の対象者に対しては
為すべきとみなされた検査項目を行い
為すべきとみなされた治療項目を行う
この過程において詳しく多数の検査項目を知っていることが優れた作業療法士である
というような誤解があるように感じられてなりません。
この間提唱されたEBMが誤解に拍車をかけたようにも感じています。
つまり標準化された作業療法の実践が本来の目的達成のために用いられるのではなくて手段の目的化に過ぎなくなってしまっているということです。
だから知見の集積の乏しい認知症という分野において
「どうしたら良いかわからない」「認知症は難しい」という訴えとなって現れているに過ぎないと考えています。

また
目標を目標というカタチで設定できず
方針や目的との混同が多々みられており
しかもそのことに自覚がないというケースにたびたび遭遇しています。
養成校の作業療法学科教授でも目的なのに目標として設定しているケースに複数遭遇しています。
受け取るリハサマリーでも目的を目標として設定されているケースも少なくありません。
 
このような現状では自家撞着に陥り自己修正ができようはずもありません。
だから「作業療法は説明するのが難しい」「作業療法は理解してもらいにくい」などと自己憐憫に陥るか、真逆の方向に「作業療法は素晴らしい」と自画自賛することで目の前の現実に向き合うことから逃避しているのではないかと勘ぐりたくなってしまいます。

現状改善への提案の一環として
目標設定に関しては
作業療法総合研究所において研修会で講師を務めました。

良い作業療法士になるために−目標を目標として設定できる

対象者の方と協働して良い目標が設定できる作業療法士になろう!

良い目標が設定できる作業療法士になろう!−概念編

認知症のある方への対応、作業療法の実践に関しては
作業療法学会で発表したり
各種研修会講師を務めたり
依頼された原稿を寄稿したり
こちらのブログで情報発信をしてきましたが
それらの集大成として「OT佐藤良枝のDCゼミナール」を作成・公開しました。

作業療法は実践の科学なのですから
最も重要なことは日々の臨床において結果を出すことです。
結果を出すということは対象者の方が良くなることです。
対象者の方が良くなるということは目標を達成できることです。
だからこそ、目標を目標というカタチで設定できなければならない意味がここにあります。
目標を目標というカタチで設定できずに、目的や方針や治療プログラムと混同していれば結果が出たかどうかがわからないということを意味しています。

結果を出せるためには
いろいろな検査ができることでもなく
いろいろな理論を知っていることでもなく
大学院を卒業しているとか、論文をどれだけ読んだり発表しているとか、それなりの職位にあるとか、ましてや経験年数の多寡とは何の関係もありません。
目の前で起こっている事象をプロとしてきちんと観察できることから始まります。

ところが
知識がなければ、プロとしての観察が行えません。

食事介助において
「口を開けてくれない」
「飲み込んでくれない」

ちゃんと声をかけたのに
突然怒り出すなんて怒りのスイッチがわからない

といった、表面的なことしか見ることができないのであれば
近所のおじさんおばさんと何の違いがあるのでしょうか?

口を開けてくれない、飲み込んでくれない
突然怒り出した
といった表面的な事象には
認知症のある方の困難(症状や障害)とともに能力も反映されています。
その、反映されている困難や能力を観察することができるから、プロなのです。

そして
その表面的な事象は
その時その場の状況や相対した作業療法士の関与も大きく影響しています。
その影響についても観察でき、影響の意味が洞察でき、影響をプラスの方向にコントロールできるから、プロなのです。

関与しながらの観察という言葉、概念は
昨今では、あまり教えられていないようで
学生や若手作業療法士に尋ねても
「教わらなかった」という答えが返ってくることが多くなってしまいました。

かく言う私も学生の頃に言葉として聞いたことはありましたが
その意味の理解ができていたかと言うと、やっぱりわかっていなかったと思うし
当然、実践もできてはいませんでしたが
知っているということはモノゴトのスタートになります。
(もちろん、知っていることと理解できることと実践できるということそれぞれの隔たりの大きさは十分わかっていますけれど)

観察する時には、何らかのカタチでの関与を必ずしています。
そしてその関与の在りように応じて観察の視点も広さも深度も変わってきます。

対象者を自身の意向に従わせようとしているのか
対象者の困りごとを少なくしようとしているのか
対象者は何もわからないと仮定しているのか
対象者は何とかしようと努力していると仮定しているのか
自身の関わりを吟味・検討せずに無自覚な声かけをしているのか
自身の関わりを吟味・検討した結果、意図的な声かけをしているのか

同じ事象を観察しても
人によって異なる観察結果が生じる所以です。
だから観察結果の相違を論じても仕方ない
前提となっている無自覚の関与の相違をこそ、論じるべきだと考えています。

関与の在りように応じた観察をしている

このことは、どんなに強調しても強調しすぎることはないと感じています。

「 ゲド戦記 IV 帰還 」のコケばばの言葉のように
「だけど、わしの方に見る目がなかったら、相手に目があるかどうかは言ってくれなきゃわからない。」記事「深きは深きを知るもので」より)
ということになっているのではないでしょうか。

 

だから
研修会で、観察と評価の重要性を説明しているにもかかわらず
「〇〇という人がいるんですけど、どうしたらいいんでしょうか?」
というカタチの質問があちこちの研修会で繰り返し起こるのだと感じています。
思考過程がもうガチガチにハウツー(思考ですらない)に染まっている証左なんだと感じています。

認知症のある方にどうしたらよいのか、
わからない時には評価に立ち返る
評価が曖昧な時には観察に立ち返る
観察する時には、認知症のある方を援助するという立ち位置に繰り返し立ち戻る

「関与しながらの観察」
この言葉に込められた意味は
とてつもなく広く深く
対人援助の実践に直結している
と感じています。

 

 

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