Tag: 状態把握

履物なら「あゆみシリーズ」

介護シューズで選ぶなら、「あゆみシリーズ」がオススメです!

履物は市販品にも安くて良いものがあります。
↓ こちらは、シュープラザで ¥1,280で購入できました。

ただ、市販品だと商品入れ替えもあるから
常に在庫があるかどうかはわかりません。
「あゆみシリーズ」なら
むくみのある方や足幅の広い方、装具を履いている方にも履けるように
足囲が9Eまで選べる商品もあるし
片足のみ注文やベルト延長、名前入れサービス、補高対応など
屋内用、屋外用ともに幅広い商品展開が魅力です。

昔は、リハビリシューズの選択肢も限られていたし
ご家族もバレーシューズを購入される方が多かったけれど
そんなの、「今は昔」になりましたね。。。
最近は介護用品店も大手スーパーやドラッグストアの介護用品コーナーも
ずっと身近になってきたので
入院当初から様々な履き物を購入される方が増えてきました。

選択肢が増えた分、ご本人の状態と商品とのマッチングが大切になってきたし
知らないことによる不利益もあります。
履物の選び方や留意点などの詳細は、
あちこちで記事を書いていますので検索してみてください。

covid-19の感染対策でずっと行っていなかったけど
今年は、HCR 国際福祉機器展 に行こうかな?

履物って履いてみないとわからないこともあるし。
業者さんと情報交換できるのも意味があるし。
 
今年のHCRのリアル展示は、
9月27日(水) ~ 29日(金) 10:00~17:00(最終日は16:00まで)
とのことです。

 

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グループワークの功罪

グループワークには、グループワークの良さがあるし
「三人寄れば文殊の知恵」もあるとは思います。

他者の視点や考え方を知り
自身の思考を再構築することにもなりますし
協働作業を通して課題を達成するという体験も貴重です。

でも、それはベースに
参加メンバーに知識が教授・共有されているという前提があってこそ
成り立つ話だと思います。

以前にあるところで
認知症に関する一般の入門者向けの研修で
徘徊している方への対応をグループワークで検討させるように
みたいなほんわかとした依頼があって
その時は、依頼先におかしなことだと意見提出したことがあります。

一般の入門者向けの研修なんだから
きちんとした知識を提供することが最優先だということ
「徘徊している方」といっても、その方なりの徘徊する必然は千差万別で
話しかけ方とかも千差万別でひとくくりにはできないこと
適切な対応は自然と浮かび上がってくるもの
どうしたら良いのかは本来考えるものではない。
どうしたら良いのかわからない時は観察に立ち戻る
こちらが勝手に「あぁなのかな?」「こうなのかな?」と
勝手に推測するのは一番やってはいけないことだと。

グループワークって、偽の達成感を味あわせることもできてしまうんですよね。

達成すべき課題が明確で
ファシリテーターが優秀であれば
有意義なグループワークも可能
ですが
やってみたらわかるけど、案外難しいものです。
そうでないことも多々あります。。。

ましてや入門者同士が何を話し合えるというのでしょう?
知らない人同士が楽しく会話できてなんとなく達成感があって。とか
日頃の愚痴や不安を共有できた。とか
というパターンもあるのか、グループワークは楽しい!なんて人もいますが
達成すべき課題の達成度はどうだったのでしょう?
成果物は抽象論にとどまり明確には出せなかったけど
いろんな人と話せて楽しかったなんて本末転倒です。

たぶん、根本的な問題は
教えるべきことを教えられないという現状があるのだと思う。

そこには、二つの問題があって
認知症は脳の病気なんだから、
本来は、まず知識と技術で解決すべきことを解決しなければ
その人に寄り添うなんて大それたことはできないということが理解できていない。
だから、心意気、真心、優しさなんて
よくわからない、曖昧な、でも耳障りの良いことで対応できると思われている。
 
もう一つは
普段、現場でハウツー的対応しかしていないから
抽象化・言語化できないので他者に的確に伝達できないし
その自覚もできていないこと

徘徊している見知らぬ人に遭遇したら
警察通報の一択です。
警察官が来るまでの間、安全なところで待っていただけるように
余計な不安感を抱かせないように
してはいけないことは明確にあります。
望ましい対応は、その方その方によって異なりますから
それは会話をしながら探らなくちゃいけない。
その探り方は、基本の実践ができた次の段階で学ぶものです。
よく知りもしない人同士が話し合うようなことではないんです。。。
例えて言うならば、
道路で倒れている人がいました。
どうしたら良いのかを教えるのではなくて
どうしたら良いのかを考えましょうというグループワークを
救命救急の初心者コースを受講しにきた人にやらせるようなものです。
怖い、怖い。。。

対人援助職を養成する立場にいる人が監修していた部分でしたが
こういう人に教えてもらうんじゃ、学生も本質を理解することができなくて当然
現場に出てから困るだろうな。。。と思いました。

ずいぶん昔ですが
老健に実習に来た介護学生に
学校で認知症のことをどんな風に教わったのか尋ねたところ
「否定しちゃいけないって教わりました」と言われました。
そのほかは?って尋ねたけど
「それだけです」って。 
  
(まぁ、学生の言うことですから教えてもらっても
 咄嗟には答えられなかったということもあるかも知れませんので
 いくつか確認しました。)
近時記憶障害とは?
4大認知症とは?
ということも教えてもらっていなかったということがありました。
それじゃあ、現場に出てから困るよね。
どうして良いかわからなくて当然だと思いました。

OTだけじゃなくて、
ポジショニングも、食事介助もそうですけど
対人援助職の養成・教育・伝達の問題って本当に大きいと思います。

このことに関連して最近見つけたサイト
ふくしま国語塾の「指導」には
はっきりと書かれています。

  昨今の教育界では、「教えない教育」なるものが流行っています。
  知識・技術を与えない。しかし個性は求める。
  その結果、たとえば感想文を書かせれば、
  面白かったです、悲しかったです、など
  没個性の文章ばかりになる。
 
  知識・常識。型・技術・方法。
  これがあればこそ、
  自己表現と他者理解が可能になります。
  表現力や読解力を身につけさせたければ、
  まず、知識・技術を与えること。
  与えることをためらわない。
  その先でこそ、個性は輝きだすのです。

分野は違えど
知識・技術を教えることの必要性は共通しています。
知識と技術がないのに、どうやってちゃんと対応しろと言えるのか
本当に理解できません。。。

「認知症のある方に少しでも力になりたい」と
願うならば、その願いを支えるに足る知識と技術がなければ
役に立てるどころか、逆効果や迷惑になることすら起こり得ます。

  昔だったら
  実習の時に、
  「気持ちだけじゃダメなんだ」「知識と技術がなければダメなんだ」
  と自分の未熟さを痛切に体験・実感させられたものです。
  今は学生に成功体験を求められ求めさせるから
  学生はかりそめの成功体験を学んでしまう。。。
  就職して社会人として、一人の職業人として
  初めて自身の未熟さに向き合うことになり
  それはその人にとっても、周囲にとっても大変なことだと思います。

脳卒中後遺症のある方に少しでも力になりたいと
願う人がいくら願ったとしても、知識と技術がなければ逆効果になります。
かつては、過剰に安静をとらせて寝たきりになってしまった。
その反動もあって、過剰にがんばらせすぎて今度は痛みや拘縮を起こしてしまった。
寝たきりがいけないからと離床が推奨され、今度は座らせきりという問題が起きた。
それらを踏まえて、適切なリハが提供できるように
専門家としてのリハ職が要請されるようになった。

同じ脳の病気である認知症にも同様のことが起こっています。
昔は「恍惚の人」が代表するような時代もあった。
その反省も踏まえて、反動のように、優しく否定しないような対応が推奨された。
それだけでは対応しきれないということがわかってきていて
適切な対応とは何か?ということが問われるようになってきている。
 
今はまだ水面下での動きに留まっていて表面化してはいないけれど
「優しい対応をしてもそれだけでは認知症の問題は解決できない」
ことが誰の目にも明らかになってきているのではないでしょうか?
本当の専門家としての対応が要請されるようになってきている。

歴史から学ぶことって、とても大切なのではないでしょうか?

 

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声かけ再考:感覚ー判断ー行動

イメージ_紫陽花

認知症のある方に対してトイレ誘導をする時に
どんな声かけをしていますか?

「トイレに行きましょうか?」と尋ねた時に
認知症のあるAさんが「ううん、行かない」と答えたから
トイレ誘導しなかったのに
別の職員が「おしっこ出る?」と尋ねたら
Aさんが「出る」って答えて誘導されてた。
さっき尋ねた時には「行かない」って言ったじゃん。なんで?
みたいな経験をしたことはありませんか?

答えは
感覚ー判断ー行動  を踏まえた声かけの有無です。

認知症のある方によって、その時々によって
違和感を感じる ー 尿意と判断できる ー 尿意を解消するための手段としての行動
もぞもぞする  ー おしっこ     ー トイレに行く(連れて行って)
のどの段階で理解できるのか、表現できるのかが異なります。

その方が理解できる言葉の段階を踏まえて尋ねることが重要です。

その方が「もぞもぞする」ことしかわからないのに
トイレに行きましょうか?では理解できなくて断られて当然です。

この時に大切なことは
「よろしければお手洗いにご案内いたしましょうか?」
と敬語で丁寧な言葉使いで尋ねることではないのです。

そして多くの場合に
認知症のある方の言語理解力は変動します。
昨日は理解できていたことが今日は理解できなかったということもありますし
尿意を訴えなくなってしまった方が再び尿意を訴えるようになることもあります。

変動の幅、その方の最大能力と困難な時の能力とを踏まえて
イマ、ココでの能力を確認しながら声かけを選択する

その時その時で
声かけの理解の段階を把握した上で意図的に選択した言葉で尋ねる

ということができるかどうかが重要なのです。

認知症のある方に対して
声かけの重要性を否定する人はいないと思います。
ただ、声かけについては
接遇的な意味合いでしか捉えていないのではないでしょうか。

私は、接遇的な意味合いではなくて
(接遇を否定しているわけではありません)
障害と能力の観点から
声かけについて捉え直すこと
ここでは、概念の階層性を確認しながら対応する
ことを提案しています。

クリスティーン・ブライデン氏の言った
「私たちとあなた方の世界に橋をかける」
ということを
「あなた方の立場」からも
少しでも現実化・具現化していきたいと思っています。

 

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他部門連携:ポジショニングのちょっとした工夫

他職種に
ポジショニングを説明する時に
設定した時の写真をとって
設定方法を書いて
注意事項も書くのですが
お部屋に掲示しても複数のクッションがあると
設定部位を間違えられてしまいます。

そこで
「対象に工程を語らせる」

クッションに
「どの部位にどう設定するのか」
書いたものをテプラで貼付してみました。

臥床時は赤色のテプラ、離床時は青色のテプラ
と色も変えて混同しないように工夫しました。

これでも間違えられることはありますが
頻度は激減しました。

設定方法について
質問したり確認してくれる人は良いのですが
「設定を間違える」という時点で
設定とその人の実践とに乖離があることがわからない
もしくは
乖離がきたすマイナスがわからない

ことを意味しているので
間違えるなと、言うのではなく
間違えにくいように、方法を提示する

ようにしています。

以前に何かの記事で
「施錠を忘れないように気をつけましょう」と言うのではなく
「施錠を忘れないような仕組みを考える」

という記事を書きましたが、その一例です。
 
再現性の担保についての工夫を
ポジショニングを例に紹介しました。

さて、
お気づきの方もいると思いますが
「対象に工程を語らせる」とは
認知症のある方への対応と同じことをしています。

そのココロについては、別の記事でお伝えします。

 

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筋力低下廃用論に惑わされない

中核症状とBPSD

高齢→廃用・筋力低下 といった論調は
一見正当のように見えるので
リハやケアの分野ではよく聞く考え方ですが
疑問を抱いたことはありませんか?

高齢者に「筋力低下」と判断して
「立ち上がり」をリハプログラムとして提供している方は
とても多いと思います。
筋力低下の判断根拠として本当にMMTをしましたか?
MMTがどの段階であれば筋力低下で、
どの段階であれば筋力OKなのでしょうか?

私は過去に複数のALSの方を担当したことがありますが
筋力低下とは、まさしく力が入らない状態です。

CVA後遺症や認知症のある方など生活期にあって
「筋力低下」と判断された方々との状態は全く違います。

見た目、「立ちあがれない」からといって
「筋力低下」 とは限りません。

生活期にある方の場合
立ち上がり時に腰背部の筋肉が同時収縮を起こしてしまって
個々の筋力はあるのに総体として立てない身体
なっている例は枚挙にいとまがありません。

筋力が低下しているのではなくて
筋力の使い方、身体の働きが下手になっているのです。

以前、老健に勤務している時に
担当のPTが立ち上がりも含めた個別リハをやっていましたが
立ち上がりが自力で行えず、ずっと介助されていました。
その方に私が座る練習だけして、
立ち上がりは全介助で行うという

身体の使い方の再学習を行ったら
一人で立ち上がれるようになって
「あれ?立てた?」と驚かれたことがありました。
同じようなケースを多数経験しています。
 
老健ですから、個別リハの他にも生活リハとして
食事やおやつや排泄介助の時にも立ち上がれるように援助がなされます。
一日何回になるでしょう?
廃用ではないんです。

筋力強化や立ち上がりではなくて
身体の使い方の再学習を行って
立ち上がりができるようになったケースは枚挙にいとまがありません。
しかも、重度の認知症のある方でも可能です。

末梢の問題ではなくて
身体各部の協調性の問題、中枢の問題なんです。

立ち上がれない→筋力強化 という考え方は
身体協調性の低下を筋力で代償しようとさせるので
身体の使い方の再学習をせずに
立ち上がり100回なんて、効果がないどころか逆効果になってしまいます。

リハやケアの分野では
一見正当そうに見えて、その実不適切なことがたくさん流布しています。
「立ち上がり100回」もその一つです。
過剰な同時収縮によって
腰を痛めたり、身体が硬くなってADLが低下してしまいます。
今すぐにそんなことはやめて、
「座る練習」を取り入れていただきたいと思います。

立ち上がりができない方は
たいてい、座り方も上手にはできません。
どさっと後方にひっくり返るように座ります。

できないことを過剰努力させてやらせるのではなく
努力の方向を変えて、できることのでき方をよくしていく。

「座る練習」でのポイントは重心の移動方向を適切に導く ことです。
「立ち上がり」は全介助で
 力を入れない、踏ん張らない、身体の動きと重さを活用する ことがポイントです。
詳細はあちこちで記事にしていますから検索してみてください。

 

 

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私が行っている集団リハ@認知症治療病棟


 
私が集団を運営する時には
並行集団を活用しています。
同じ場所、時間を共有するけれど
人によって何をするかは違う。。。という集団です。

課題集団(全員が同じことをする)を用いる時には
参加形態に許容性のある体操や音楽鑑賞を行います。

認知症のある方に対して
レク的にゲーム的なActivityを導入しようと
することが多いようですが
ゲームって難しいんですよね。

どんな簡単なゲームでもゲームにはルールがあります。
ゲームを楽しむことができるためには
 1)ルールの説明を理解でき
 2)理解したルールを覚えておき
 3)覚えたルールに則って行動する
という能力が要請されます。
近時記憶障害が重度な認知症のある方には、実は最も苦手な課題なんです。
だから、私はゲームは行っていません。

今日は
精神科病院の認知症治療病棟で
2時間の精神科作業療法を重度の認知症のある方に対して
どのように組み立てて実践しているのか、お伝えします。

最初に音楽鑑賞を行います。
音楽鑑賞の導入では、誰もがよく知っている有名な懐メロを流して
私が主導権をとった進行をして集団凝集性を高めるようにしています。
その後、「私がしている音楽鑑賞の進行」で書いたように
参加者ごとにリクエストを尋ねていきます。

音楽鑑賞後には水分補給を行います。
水分摂取しながら鑑賞を継続できるように
オートで曲を流していきます。
この時に飲み物の準備や配膳・下膳を行います。
お一人お一人のペースで水分摂取していただきます。
それはメリットでもあるのですが、
どうしても集団凝集性が下がってしまうので
もう一度集団凝集性を高めるために体操をします。
手続き記憶を活用できるように
ラジオ体操第一とみんなの体操を行っています。

その後、後半は鑑賞とActivityを並行して行います。
Activityは個人ごとに提供しています。
(書字やスクラッチアート、塗り絵、ちぎり絵、毛糸モップ、指編み、間違い探し等)

  役割分担してみんなで大きな作品を作る
  ということは、考えがあってやっていません。
  いずれ別の機会に説明します。

16名の集団に対して
音楽鑑賞とActivityを並行して提供し
Activityも個人ごとに提供するという二重の並行集団を作っています。
(今は半数の8名の方がActivityを実施しています)
16名の中には帰宅要求で落ち着かない方や
注意散漫な方や訴えの多い方もいますし
立ち上がって歩き出したら転倒のリスクのある方もいますし
褥瘡予防のために途中で除圧を目的とした介助立位の機会を設けたりと
私にも同時並行課題、注意分散能力を要求されるので大変ではありますが
だいぶ鍛えられてきました (^^;

最後は今日の流れを振り返った後に
締めくくりとしていつも同じ曲を流しています。
毎回同じ曲を流すことで「終わり」を印象付けることもできますし
スーパーでレジが立て込んできたら
ビートルズの「Help」が流れるのと同じように
看護介護職員へ「終わったからお迎えお願い」という合図にもなっています。

個人ごとに異なるActivityを提供するという並行集団を
円滑に運営するためのポイントは、準備をきちんと行うということです。
「段取り8割」ってよく言いますけど
まさしくその通りで
その方が遂行しやすいように
Activityの遂行方法を言葉ではなく場面に語らせる・対象に語らせる
ように準備しておく
 ということです。
(詳細はあちこちで書いていますので検索してください)

人によっては、
1分前のことも忘れてしまう方や
HDS-R実施困難な方でも

遂行方法を場面に語らせるように準備をしておけば
介助や声掛けをせずとも一人でActivityに取り組めることは多々あります
というか、それを念頭に考えています。。。

現場あるあるの誤解は
「HDS-RやMMSEの得点が低いからゲームに参加してもらったけど
 ペットボトルボーリングや輪投げや風船バレーもできない
 やっぱり認知症が重度だからしょうがないね」
というものです。

重度の方にゲームをさせたら、できなくて当然です。
仮に、できたとしても
一つひとつ何をするか指示されて、
その通りにしただけで、意味がわからなければ
その場褒められたとしても本当に達成感があるものでしょうか?

近時記憶障害が重度でも
手続き記憶の活用や遂行機能障害を的確に評価することによって
自身で行えるような場面設定の工夫の余地は生まれます。

 もしも、マンツーマンで個別で対応できるのであれば
 選択肢はもっと広がります。

 このあたりは、老健に勤務していた時に身体面認知面それぞれの
 自主トレ立案・提供を頑張ってきたことが
 下地となって役立っていると感じています。
 
並行集団でActivityを行えば
他人と比べる、比べられることがないので
実施に際して不安感が少しは減るのも良いところじゃないかな
と感じています。

 そもそも、並行集団って社会そのものなんですよね。
 いろいろな人がいる。
 いろいろなことをしている。
 ひととき、同じ時間と同じ場を共有している

Activityを導入するときに
多くの方がおっしゃいます。
「難しいことはできない」「私はバカだから」「不器用だから」

そう感じるに足るだけの失敗体験を積み重ねてきているのです。
だからこそ、Activityの仕上がりの綺麗さには留意していますし
ましてや、幼稚な下絵の塗り絵や輪投げなど
見た目が幼児向けのような課題を提供することは決してありません。

なお、この記事は
精神科病院の認知症治療病棟に勤務している作業療法士が
たった一人でどうやって
「集団」で
「2時間」の間
「対象者の方に有意義な作業療法」を
実施・提供・運営するかという観点で書いたものです。

職場環境や施設特性や対象者の状態像が変われば
また異なる方法論の方が適切ということになります。

 

 

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視覚的手がかりを増やす:書字の工夫

歌詞を書き写すというActivityも行っています。

「読む」時には、黙読する人が多いと思います。
過去によく歌った歌や聴いたことのある歌なら
その記憶が読むことを助け、
書き写す時に歌詞を思い出し黙読を助けると考えています。

民謡や懐メロ、唱歌や演歌など
好きな歌は人それぞれなので
題材としては、無限のバリエーションを作ることができます。

また、段階づけも細かく設定できます。
白紙の紙でもきちんと行替えして書き写すことができる方もいれば
行だけはあったほうが書きやすい方もいますし
見本と全く同じマス目の方が書きやすい人もいます。

特に前頭側頭型認知症のある方の場合は
見本通りに模写することは得意です。
視覚的被影響性亢進という症状がプラスに機能しているのだと考えています。

  実際の作品をお示しできませんが
  塗り絵で本当に細かな模様まで見本通りに色を塗っていた方もいました。

症状が進行すると
上記のようなマス目でも書けなくなってしまいます。
字が書けないのではなくて
どこまで書き写しているのか
どこから書いたらいいのかわからなくなってしまうようです。

そのような時には
視覚的手がかりを増やすと効果的です。

文字以外を薄く塗りつぶしておくことで
どこまで書いてどこから書いたら良いのか
視覚的探索をする際のヒントになります。

他にも
行の一番上のマス目だけ色を変えていくとか、二重枠にするとか
状態に合わせて工夫をしてみると良いと思います。

 

 

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私がしている音楽鑑賞の進行

音楽鑑賞というActivityについて
個々の方それぞれの能力と特性を発揮できるような援助をするために
私がしている工夫をご紹介します。

歌はもちろん人それぞれ好き嫌いがありますし
歌の楽しみ方も人それぞれ
音楽の世界に浸ってしんみりと聴き入りたい方もいれば
ワイワイ盛り上がるのが好きな方もいます。

集団で音楽鑑賞をする場合には
進行する人の中で、ある一線を明確化しておくと
参加している認知症のある方もいろいろな歌とその楽しみ方を
お互い許容してもらえるように感じています。

それでは実際の進行ですが
まず最初は
こちらからいろいろな曲目を提示します。
だいたい有名どころの懐メロや流行歌を提示します。
そこで曲の聴き方に注目して観察します。
好きな曲や聞き覚えのある曲は
前のめりになって聞いたり、表情も違っています。

この段階では
集団の凝集性を高めることと
参加された方の心身の状態の確認をします。
(もちろん事前に情報収集してありますが、最新の状態確認をします)
私が主導権をとった進行をします。

次に、あらかじめ作っておいた歌手一覧を見せながら
この中だったら誰の歌を聴いてみたいですか?とお一人ずつ尋ねます。
具体的に選べるように視覚情報として提示しながら尋ねていきます。
この時に、進行を止めないように、いろいろな歌をオートで流すようにしています。
 
  今は私一人で最大16名の方を対象に
  精神科作業療法として集団活動を実施していますから
  歌を視聴する流れを止めて、一人ずつ尋ねると
  せっかく高めた集団凝集性がなくなってしまい
  注意集中も保たれず
  不安になって帰宅要求などの訴えが出てきて
  集団活動が成り立たなくなってしまいますから
  このような工夫をしています。

この時に
「聞きたい歌を教えてください」と言葉で尋ねても
思い出せないから答えられない方でも
歌手名を提示されれば、名前から歌手を想起できる方は大勢います。

つまり、再生ではなく再認に働きかけています。
なおかつ、聴覚情報ではなく視覚情報として提示しています。

曲は、歌手名から検索した3曲くらいを
言葉で提示してその中から選んでいただいています。
曲名を聞けばどんな歌かイメージできる
再認できる方が多くいらっしゃいます。

最初にこちらからランダムに提示した時に
特に聞き入っていた歌手や曲があればこの時に追加で提示することもあります。

人によっては
お気に入りの歌手のお気に入りの曲がありますから
そのような時には、こちらから歌手名や曲名を提示せずに
オープンクエスチョンで
「聞きたい歌手は誰ですか?」
「聞きたい歌があれば教えてください」
と尋ねるようにしています。
再生可能な方にはなるべく再生を促す尋ね方をしています。

毎回、同じ歌手の同じ歌を選ぶ方もいれば
その時々で違う歌手の違う歌を選んだり
90歳代の方がキャンディーズや松田聖子を知っていたり
70歳代の方がピンクレディーを毎回必ずリクエストされることもあります。

こちらの問いかけに答えていただくことで
自然に会話の機会を設けることもできます。
ただし、近時記憶が低下している方が多い場合には
会話で長く時間を取ってしまうと注意集中が途切れてしまうので
集団を構成する方たちの状態に応じて
問いかけの仕方や回数にも注意しています。

また近時記憶が低下していると
(当院では1分前のことも忘れてしまう方が大勢います)
画面に映った歌手の名前や曲名を聞いてはいても忘れてしまいますから
曲の間奏の時には必ず歌手名と曲名を伝えるようにしています。
「あ、そうそう、この歌手だった」「この歌だった」
と思い出していただけるように。
これも再認に働きかける工夫です。

歌手や曲にまつわるエピソードを伝えるか
どの程度どんな風に伝えるかも
その時に集団を構成する方たちの状態に応じて判断しています。
基本はあんまり余分に私が話さないようにしていますが
近時記憶がもう少し保たれている方や注意集中が可能な方が多ければ
曲のイントロや終了直後にエピソードを伝えると
再認できることの幅が増えたり
その方が知っているエピソードを語ってくれたり
思い出話をしてくれたりなどの良い面もあると思います。

場面設定の基本として
重度の認知症のある方でも注意集中が保ちやすいように
集団の中で症状や障害が目立ちにくいように
と考えています。

音楽鑑賞ですから、途中で集中が途切れても目立たないし
口ずさみながら聞いても不自然ではないし
参加形態に幅があり自由度があるのが良いなぁと思っています。

誘導する時にも
「リハビリ」「OT」「活動」という言葉は使わずに
「歌を聞く会」「五木ひろしの歌を聞く」「美空ひばりの歌を聞く」
というように具体的にイメージしやすいように声かけしています。
その方が大好きな歌手や曲があれば、その歌手名や曲名を言って誘導しています。

「歌の会」というと
「歌は好きだけど、人前で歌うのは絶対イヤ」と拒否されることも多々あります。
「歌わない、聞くだけ」と歌わなくて良いことを担保していますし
そのイメージが伝わるように、あえて前の席ではなく後方の席へ誘導することもあります。
もちろん、歌いたくなったら口ずさんでもいい
(今はコロナ渦なのでマイクをお渡しすることはなくなりましたが)
歌いたい方には前に出てきてマイクを持って歌っていただいていました。

同時に
訴えの多い方への対応や
歩行不安定な方の立ち上がりや
帰宅要求のある方への対応なども行いますが
できるだけ場の円滑な運営が行えるように
どうしたらその方たち一人一人が集中できるようになるのか
何かコトが起こってから対応するのではなく
コトが起こる前に、起こらないように、予防対応的に考えています。
(これについては、長くなるので別の記事でお伝えします)

同じ時間、同じ空間を共有するけれど
個々の方それぞれの能力と特性を発揮できるような援助をするために
私がしている工夫をご紹介しました。

  2時間の精神科作業療法を音楽鑑賞だけでなく
  他の要素も組み合わせ、個人ごとのActivity提供という
  並行集団としての展開もしていますが

  長くなるので、こちらも別の記事でお伝えしていきます。

私としては、こういった意図と配慮のもとに
音楽鑑賞の場面を運営・進行しているのですが
人によっては「ただ歌を聞かせてるだけ」「誰でもできる」と思うようで
実際、そう言われたことがあり
その時の態度がちょっとあんまりで
私もその時は若かったし、ちょうど良いきっかけもあったので
進行を変わってもらったことがあります。
そしたら、今まであんなに歌いまくっていた方たちが
(当時はコロナ渦ではないので)
まったく歌わなくなり、一気にシーンとしてしまって
その人は「あれ?あれ?」と言っていました。
 
前の記事「多訴の方への対応」で書いた通り、
実践している人には
「何をしているか」「何が起こっているのか」わかるけれど
実践していない人には
皆目わからないということが起こっているのです。

歌を聞かせるだけの人には
さまざまな配慮のもとに複数の意図を持って進行しているのを
目の前で見せてもらってもわからないのです。
  「OTの不安への答え」で書いたように
  紀伊克昌先生や古澤正道先生のデモンストレーションを見ても
  過去の私には何をしているのか、さっぱりわからなかったように
でも、実践している人には一目瞭然で何をしているのかわかる。

このことは、
生活期にある方への食事介助やポジショニング設定、立ち上がり・歩行介助
認知症のある方への対応全般について言えることです。
同じコトが違うカタチで、ありとあらゆるところで起こっているんです。

たかが音楽鑑賞、されど音楽鑑賞
その場をどれだけ豊かにできるかどうか
運営する人の意図によって全然違ってきます。

耳タコかもしれませんが
スティーブ・ジョブズの言うとおり
「意図こそが重要」なんです。

「歌わせる」「聞かせる」のか
歌を聞くことを通して能力発揮の援助をしたいのか
表面的には同じように見えて
その意図のベクトルは真逆です。
そしてその意図こそが伝わっているのです。

他のActivityでも、まったく同じことが違うカタチで起こっています。

どのActivityが良いのか、という問題ではないのです。
「何をやらせようか」という言葉が出た時点で答えは決まっています。
  (野村克也の言う「負けに不思議の負けなし」というわけです)
「何をしていただいたら良いかしら?」と言葉だけを丁寧な表現にしても
中身は同じですから答えも決まっています。

もちろん、悩む人は、日々のリハやActivityに困るから悩んでいるわけで
仕事に対して、いい加減な人ではないからこそ、出てくる悩みです。
でも、悩み方を間違えているんです。
 
対象者の状態像と特性が把握できれば
どんなActivityが適切なのか、それはなぜなのかが
明確に浮かび上がってきます。

浮かび上がってこない時には評価が曖昧なんです。
だから、評価に立ち戻れば良いのです。

でも、多くの人は
評価、状態把握に立ちもどることをせずに
「Aが良いか、Bはどうだろう?何が良いかしら?」と
悩むのです。。。
そこは本来悩むところではなくて、実行するところなんです。
状態把握、評価を。

認知症のある方のActivityの選択が難しいのではなくて
状態把握、評価が難しいと自身の現状に向き合うところなんです。

自身の評価困難という現状に向き合うことを回避して
認知症のある方のActivity提供の困難さに
問題設定をすり替えてしまう。。。OTの現場あるあるです。

評価と検査を混同する。
評価を状態像把握ではなくて、
MMSEやHDS-Rや立方体透視図模写テストなどのバッテリーをとる
検査をすることと混同・すり替えてしまうのも
OTの現場あるあるです。
 
「OTの不安への答え」にも書いたとおりで
こういったすり替えや問題設定の問題は
リハやケアの現場であらゆる場面で起こっています。
 

 

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