Tag: コミュニケーション

不安で当たり前

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たとえば
タイムマシンか何かで私たちが突然瞬間移動した場所が
砂漠のまっただ中だったとしたら
密林のまっただ中だったとしたら
大氷原のまっただ中だったとしたら
どんなに不安な気持ちになるだろうか

そこで出会った人たちが
険しい表情やキツい口調で何かしゃべっていたら
どんなに不安な気持ちになるだろうか

不安が高じれば
相手の言動を深読みしたり
疑心暗鬼になったりするかもしれない

認知症のある方の不安な気持ちには
及びもしないだろうけれど
こんな風に考えるだけでも
不安な気持ちは如何ばかりか…と思います。

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笑顔のチカラ

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入院当日の方の表情は
たいていこわばっていて不安げです。

そんな時に
笑顔で接するだけで
その方の表情が和らぐことがままあります。

楽しく!笑わせる!などというスローガンではなくて
「大丈夫ですよ」「心配しなくていいんですよ」
ということを笑顔を通して伝えることもできます。

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できない情報を集めてもできるようにはならない

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対象が学生でも認知症のある方でも精神科の患者さんでも
その人がどれだけできないか
話のテーマにしている人たちもいるようですが
できない情報をどれだけ集めても
その人ができるようにはならない。
(むしろ、できないことを話題にするほど対象者はできなくなっていく)

その人の能力を見いだし活用する方策を見いだすことで
できるようになっていく。
話題にするならそっちを話題にしないと。

私たちの仕事は診断でも評論でも審判でもない
援助なのだから。

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行動変容には時間がかかる

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待つ…って大事だと思う。
その人の変化が目に見えるくらいに変わるには
時間がかかる。
兆しはあっても
兆しに気づける人は少ないし
兆しの時期には、本人にわからないこともある。

兆しが大きな変化に至るまでの間が
とても大事だと思う。
本人も辛いし
定着するまでは容易に元に戻ってしまう。

変えること=治療や教育じゃなくて
変わることの援助=治療や教育なんだと思う。
だから、待つことって大事だと思う。

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インタビュー記事

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恥ずかしながら … (^^;

お役に立てたこともあるようなので紹介します。

2011年に県士会地域リハ部のインタビューを受けました。
「認知症のある方への作業療法」<前編>成功と失敗
>147号:平成23年1月発行8〜9ページ
「認知症のある方への作業療法」<後編>OTへのメッセージ
>148号:平成23年3月発行10〜11ページ

一般社団法人神奈川県作業療法士会http://kana-ot.jp
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食事介助が要注意の方

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実は、認知症のある方で
オーラルジスキネジアがある方は
少なくありません。

そのような方でも自力摂取している時には
食べ方の問題はあまり表面化してきません。
ですが、何かの拍子で食事に介助を要するようになると
介助のしにくさ…食べにくさといった課題が
表面化するようになります。

たとえ、オーラルジスキネジアがあったとしても
ご自身で食べやすいように
全身を協調させることができていた
けれど、他者の介助に合わせることは難しい。
その方の食べ方に合わせて介助することが難しい。
このようなケースにはよく遭遇します。

ムセない=食べ方OK
食べこぼしがない=食べ方OK
ということではないのです。
問題が表面化していなくても
食べ方そのものの評価が大切なのです。

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適切な対応は自然

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適切な対応は自然すぎて
なんにもしていないように
なんにも考えていないようにすら思われるかも。
だからこそ、適切なんだけど。

でも本当は
いろーんな吟味を踏まえての対応だから
表面だけマネしようと思っても
吟味の過程を経ていない人には再現できない。

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不適切な介助も

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不適切な介助も意味がある
最近はそう思うようになってきています。

しゃかりきになって
100%の適切な介助の「統一」を求めなくてもいいんだ…って。
モチロン、程度問題ではあるけれど
常に対象者に対して100%の適切な介助が行われなくても
ガッカリすることはない…って。

なぜなら
不適切な介助の体験があるからこそ
適切な介助の入力が際立つ
対象者の心身が「相違」を明確に感じ取れるなら
比較対照の相違という認識を
不適切な介助がもたらしてくれるのでは?

介助の100%の「統一」に心身のエネルギーを注ぐよりも
一回の介助の適切さが100%になるように
心身のエネルギーを注げばいいんじゃないか?

実は100%適切な介助ではなくて
88%くらいの適切さ加減に過ぎないのに
100%だって勘違いしていることが問題だったんじゃないか?

そんな風に考え、また、感じてもいます。

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