不適切な介助も意味がある
最近はそう思うようになってきています。
しゃかりきになって
100%の適切な介助の「統一」を求めなくてもいいんだ…って。
モチロン、程度問題ではあるけれど
常に対象者に対して100%の適切な介助が行われなくても
ガッカリすることはない…って。
なぜなら
不適切な介助の体験があるからこそ
適切な介助の入力が際立つ
対象者の心身が「相違」を明確に感じ取れるなら
比較対照の相違という認識を
不適切な介助がもたらしてくれるのでは?
介助の100%の「統一」に心身のエネルギーを注ぐよりも
一回の介助の適切さが100%になるように
心身のエネルギーを注げばいいんじゃないか?
実は100%適切な介助ではなくて
88%くらいの適切さ加減に過ぎないのに
100%だって勘違いしていることが問題だったんじゃないか?
そんな風に考え、また、感じてもいます。
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