大声・暴言というカタチで表現されているコト

ちょっと待った

認知症のある方の
大声や暴言というカタチで表現されているコトに対して
多くの場合に
カタチを問題視して、
カタチを減らすために、
カタチへの対応の工夫を考える
という方向性で検討されがちです。

でも実は
大声や暴言というカタチでしか表現できないから
というケースが往々にしてあります。

不合理だけど能力でもある。

本当に私たちが考えるべきことは
大声や暴言をどう減らすか
ということではなくて
大声や暴言というカタチ以外のカタチで
表現してもらうには、どうしたらよいのか
つまり、何を表現したいと意図していたのか
確認・把握するということなんです。

だって、能力。なんですもの。

大声や暴言という
一見不合理に見えるけれど
能力の不合理な現れなんだから
大声や暴言を「減らす・改善する」という
「方向性」で考えることは
認知症のある方の能力を失わせるということになってしまう。
たとえ、結果としてであっても。
たとえ、意図していなくても。

こういうことをよくよく考えている人は
実は案外少ないものです。
「寄り添ったケアを」と言いながらも
180度違うことをやってしまっていたり。。。
自分がやっていることが何を意味しているのか
丁寧に考えて、丁寧に自らの実践を振り返る人は
残念なことに、本当に少ない。

私にできることは
日々の実践を通して自らを振り返り続けることと
可能な範囲で発信し続けること。

必ず
真っ正面から受けとめてくれる人の存在を信じて。

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記念すべき1001記事

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記念すべき?1001記事は
私の気持ちを書かせてください。

私は今
本当に作業療法士になって、良かったなぁと感じています。

それは
作業療法士は
障害と能力のプロフェッショナルであり
医学と暮らしの橋渡しができる職種であり
そして何よりも
能力と特性を活かすという
人間への賛美・応援に溢れているところが大好きです。

まだまだ未熟ではありますが
自分の中で方向性がはっきりと見えてきて
ある程度の実践が継続的に行えるようになってきたことも
大きいなぁ…と感じています。

でも
ここに至るまでは随分と苦しい思いもしました。

他の誰かが作業療法について言っていることを聞いても
納得できないことばかりでしたし (^^;
自分の実践にも満足できないことが多かったし
常に不全感に苛まされていました。

だけど
こんな私でも変われました。
随分と成長もしたと思います。
その分遠回りもしました。
私にとっては意味のある遠回りでしたが
これからの若い人たちには
しないで済む遠回りであるなら、しない方が良い
その分の心身のエネルギーと時間を
より建設的な方向へ発揮していっていただきたいと
思っています。

これからも引き続きどうぞよろしくお願い申し上げます。

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祝☆1,000記事達成!

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ぱんぱかぱ〜ん☆

な、なんと、この「よっしーずボイス」
この記事をもちまして
1,000記事を達成いたしましたー!

うっわー、嬉しい (^^)

2011年10月9日に始まった「よっしーずボイス」

たくさんの方にお立ち寄りいただいたおかげです。
本当にどうもありがとうございます m(_ _)m

いつのまにか、そんなに続いていたんだ。。。
そう思うとちょっと感慨深い。

この4年半の間には
現実の世界でも、こちらでも、いろんなことがありました。
確実に言えるのは
私も4年半分は年とったな。ということで (^^;
でも、おかげさまで
ムダには年くってないぞ。くらいの気概はあります (^^;

いつまで続くか
どうなるか
先のことはわかりませんが
これからも可能な限りは
「花も実もある毒もある よっしーずボイス」
書き続けていきますので
引き続きどうぞよろしくお願い申し上げます m(_ _)m

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認知症は脳の病気→障害を把握

我慢のしどころ

巷に溢れている認知症のある方への対応の誤解は
根本的には、
「認知症という状態は脳のさまざまな病気によって引き起こされる」
ということがわかっていないことに由来するのだと思う。

もっと正確に言うと
抽象的なレベルでは、わかったつもりになってるけど
いざ、日々の具体的現実的な困難に直面すると
抽象的な理解がすっとんでしまって
かつてどこかで聞いたことのある方法論
たとえば、不安や不快の原因探索とか
好きなコト・モノを探すとか
楽しく、笑ってもらうとか
一気に表面だけをみて、
表面改善の対応を考える人が
圧倒的に多くなってしまうのです。

いわく
どうしたら、食べてくれるようになるか
好きな食べ物を出してみよう

これらは
障害と能力の把握
つまり、今、何が目の前の方に起きているのか
この人は、この状況をどう認識して、どう表現しているのか
をすっとばしてしまっている。
表面的にみて表面的に対応を考えてるだけ。

脳血管障害後遺症としての片麻痺のある方に
何の評価もせずに
いきなり、どうしたら歩けるようになるか
いきなり、どうしたら元の職場に復帰できるか
なんて考える人はいない。

仮に、それをやったら
効果がないどころか、逆効果になることだって起こりえる。

それとまったく同じコトを
違うカタチで実践している。
しかも、良かれと思って実践してしまっている。

さまざまな疾患を抱える方へのリハが進歩してきたように
認知症のある方へのリハやケアも進歩していくはず。
5年後、10年後の進歩を心から期待しています。
そして、どんなに小さくても
その一助にこのサイトがなれるようにガンバリマス。

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うっわーアクセス4位!

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うっひゃ〜!
全然気がついてなかった
県士会サイトアクセスランキング 第4位 !
ウェブ管的知恵袋>県士会サイト白書>5月の実績報告

こんなにたくさんの方に
お立ち寄りいただいていることに感謝申し上げます。

本当に本当にどうもありがとうございます m(_ _)m

(もう、こういう時に語彙の貧弱さが哀しい私 。。。)

このブログを書いていて
集客数アップを狙ったことはありませんが
それでも素直に嬉しいです。
初めての4位。

最近、ちょっとずつだけど嬉しいことも増えてきていて
なんだか、ここでもご褒美をいただいた気持ちです (^^)

これからも、頑張って書いていきます!
これからもよろしくお願いします。

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仕事の報酬は仕事 2

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仕事の報酬は仕事
だと思っているので
お仕事が増えるのは、しんどく思うことはあっても苦にはならない。

新しいお仕事で
今まで接点がなかったような方と出会えるのも楽しい。
そこで出会った方から教えていただけることもたくさんあるし
自分としては当たり前にしていたことでも
当たり前じゃないって伝えられて嬉しくなることもある。

モチロン
労働としての対価をきちんと受け取ることができているから
こういう感想を抱けるのだと思いますが
(もうちょっと頂ければもっと嬉しいですが)

どこで誰と誰がどうつながっているか、わからないし
1回のお仕事がきっかけとなって
どんな風に展開していくかなんて、わからない。

誠実にお仕事を通しての主張が
たとえ、現在は主流じゃなくて異端と思われるようなことでも
中身が本質を突くものであれば
絶対に耳を傾けてくれる人は存在する。

ごく少数だけど
必ず存在する。

そういうことって
洋の東西を問わず
古今を問わず
起こっていることなんだということも
よくわかってきた (^^;

仕事の報酬は仕事
だから、本当にありがたい。

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認知症疾患治療病棟のOTの役割 4

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私は今、認知症疾患治療病棟に勤務していますが
大切な役割の1つとして
身体的な障害を評価できる
ということを挙げておきたいと思います。

認知症=アルツハイマー型認知症
というわけではありません。

認知症という状態像を引き起こすさまざまな疾患があります。

臨床的に多いのは、アルツハイマー型認知症ですが
ときどき、ちょっと変わった変性疾患の方も入院されます。

レビー小体型認知症や前頭側頭型認知症のある方は
かなりの頻度で入院されます。

その他にも
大脳基質基底核変性症やALSを合併した認知症
特定不能な認知症のある方も入院されます。
そのような場合には
身体的な障害を起こしている場合がとても多いものです。

また、どんな疾患であれ、症状が進行すると
皮質の萎縮による脱抑制によって原始反射が起こる場合もあります。

このあたり
知識がないと身体的な障害というのは
実はかなり見落とされがちなんです。

そして、「認知症」という先入観によって
知識がないがために
「乱暴」「意欲低下」「心気的」「性的逸脱行為」などと
誤った判断を下されがちです。

民間の単科の精神科病院では
「身体的な障害」を評価できるのは
作業療法士だけ。だったりすると
身体的な障害を身体的な障害だと伝えることができるのも
作業療法士だけ。ということになります。

認知症治療病棟に勤務する作業療法士の
大きな役割の1つだと考えています。

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食事介助が変われば他の介助も変わる

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食事介助が適切に行える方は
他の介助も適切に行える方です。

食べることの援助ではなく
ただ食べさせているだけの方は
申し訳ないですが、他の場面でも
援助ではなく「〇〇させる」のではないでしょうか。
その方法論が
乱暴なのか、優しげなのかの違いがあったとしても。

どんなに優しげに接したって
「〇〇することの援助」と「〇〇させている」ことは
天と地ほどの違いになってしまいます。

優しい=良い関わり
というわけではないのです。

食事介助において
「食べることの援助」を明確に自覚した上で実践できる人は
使役ではなく援助というメタ認識のもとにメタ実践を
ただ食事という場面で実践しているに過ぎないので
場面が変わっても共通するメタ認識のもとでメタ実践を
できるようになります。

食事は
最後まで残る
認知症のある方が「行為」として表出できる場面です。

しかも
比較的工程の少ない、シンプルな、繰り返しの多い場面です。

他の排泄や更衣、入浴という複雑な場面よりも
介助者が何が起こっているのかわかりやすいのです。

つまり、食事介助において
援助ができない人に
他の場面において援助ができると言えるでしょうか。

暮らしの場面において
もっというと私たちの在りようにおいて
100%の完璧性というものは存在しません。

けれど、私たちの関わり方において
「援助」なのか、「使役」なのか、ということは
180度方向性が異なってきます。
時には「使役」するしかない場面だってあるでしょう。
でもその時には「使役」しているんだという自覚が必要です。

その場で使役をしているのに援助のつもりになっている
その場は使役で、力技で「問題を解決」できたからといっても
今はよくても、その後に悪影響を与えてしまうということは
たくさんあります。
感情の記憶は残っていくと言われている所以です。

食事介助が適切に行えるようになる
ということは、
介助全般が適切に行えるようになることの
入口なのです。

 

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