「変化は辺縁から起こる」

「変化は辺縁から起こる」
誰の言葉か忘れてしまったけれど
ずっと胸に残っている言葉です。

どんな世界にも流行り廃りがあって
えてして、ついうっかりと、その時々の流行りゴトに乗っかりたくなるものだし
また、乗っかることを要請されもするけれど
ものすごく流行るコトって廃れるのも早い。
リハの世界にだって流行りゴトはある。
認知症のある方への対応にだって流行りゴトはある。

流行りゴトが無意味だとは思えない。
流行るには相応の理由があるし、部分的には意義がある。
そこを検討されずに全肯定、全否定となる風潮や
対象は異なれど同じことを繰り返してしまう私たち自身の在りようが問題なのだと感じています。

一方で本質・真実は時代を超え、地域を超え、伝えられていくものだと思う。
たとえ、萌芽期においては認められなくとも。
それは歴史が証明している。
認められないどころか、迫害されてきた。
ガリレオ然り、小笠原登然り。
でも時代が彼らの主張に追いついた。
今は彼らの主張の方が常識となっている。

正邪や常識といったものさしは
時代により地域により異なるし変わるもの。
その前提を忘れてはいけないと常々思う。

私たちは「正しい」ことを為すのではなく
目の前にいる方にとって「適切な」ことを為すのが仕事。

その時々の流行りゴトの世界に身を置いてしまうと
真贋を見極める眼を涵養することが叶わなくなってしまう。

「変化は辺縁から起こる」

これからの未来を背負って立つ若い人には
流行りゴトや声の大きさに惑わされることなく
真贋を見極める眼を涵養していってほしいと切に願っています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3905

「在りよう」が積み重なる

「 聞いたことは忘れる。見たことは思い出す。体験したことは理解する 」

本当にそうだと感じています。

体験したことは理解する。
もっと言えば
体験は裏切らない。
もっと正確に言うと
体験に向き合った在りようは裏切らない。
在りようが積み重なっていく。

良いと言われたことは
何がどう良いのか考えた上で実践してみる。
そうすると何が良くて何が今ひとつなのかよくわかる。

業界に流布していることでも
未検証だったり検証が不十分だったり意図が不明瞭だったり
そういうことって少なくない。

地道に体験を重ねたからこそ
今になってはっきりとわかることがたくさんある。

「よっしーさんの話には(文章には)迫力がある」
「説得力がある」
「他の人と考えていることが全然違う」
というお言葉をいただくことが多々ありますが
裏打ちされた体験が下支えになっているからだろうと思う。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3889

「OTジャーナル」提言に掲載

「作業療法ジャーナル」最新刊Vol.52No.11の「提言」を執筆しました。

臨床家として率直に提言しています。

読んでいただければ嬉しく思います。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3891

お申込はお早めに

来月10月6日(土)に文教大学本郷キャンパスにおいて開催される
「認知症のある方に本当に役立つセラピストになるために」は
ただいま参加受付中ですが、既に80名近い方のお申込があるとのこと。

先着100名の受付ですので
参加を検討されている方はお早めにどうぞ。

詳細とお申込はこちらをご覧ください。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3894

講演@知的障害施設団体連合会

2018年9月21日(金)に保土ヶ谷公会堂にて
神奈川県知的障害施設団体連合会さん主催研修会で
「対人援助を考えるー認知症のある方への対応の工夫ー評価の重要性」というタイトルで講演をしてきました。

こちらの主催者には、2年前にもお声かけいただきお話をさせていただきました。
その時のお話を聞いてくださった方が参加されていて
スプーン操作を試してみたところ、本当にその通りで
誤嚥性肺炎を繰り返していた方が頻度が少なくなったこと
食べ方が変わったことを教えてくださり
私もとても嬉しくなりました。

また、連絡の窓口になってくださった方と共通の知人がいることもわかり
久しぶりに連絡を取ることもできてこれもまた望外に嬉しかったです。

今回、お話を聞いてくださる方が知的障害のある方の施設に勤務されている方ということで
講演の構成や内容などずいぶんいろいろなことを考えながら作成しました。
その過程において、私自身発見することも多く勉強になりました。
門外漢の私をお招きくださり、ありがとうございます。
対人援助という本質についてきっと共通する部分があるということで
期待してくださっているのだと思い、身が引き締まる思いでした。
信頼には結果で応えたいと思いながらデータを作成していました。

おかげさまで無事に終了することもでき
感想をお聞かせいただいたり
現状についてのお話も教えていただき
終了後の反省会という名の飲み会にも図々しくもお邪魔してしまい
でも、こちらもとても楽しかったです。
会長のMさんはじめみなさま大変お世話になりました。
本当にどうもありがとうございました。

分野は違うのに、こちらのサイトにお立ち寄りくださっている方がいると聞き
ブログ管理者冥利に尽きます。。。m(_ _)m
これから頑張ってこちらの記事更新をしていきます。

どうも以前のように前のめりに記事更新できなくて
PCに向かいにくかったのですが、気持ちが吹っ切れました (^^)

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3892

言語化への努力

かつて
♪言葉にできない♪
という歌もありましたが。。。
(歳がバレバレですね)

私たちの仕事は技術職だから
どうしても言葉にできない領域もある。
「感じ」「加減」という。。。感覚的に明確にわかっていても言葉にしづらいこと
そしてそれ以前に、自分自身明確にそうとは感受せずにわかっている「暗黙知」の領域と。

だからこそ
言語化への努力を続けることが必要なのだと感じています。

これは果てのない努力かも。ですが

必要に迫られて
言語化への努力を重ねていると
その時々で自分でそうとは認識せずにしていた部分を自覚させられる体験が起こる。

そうか!
ここを言わなくちゃいけなかったんだ!
と納得できる。

自分にとっての当たり前は
当たり前だからこそ自覚しにくい。
そしてその当たり前は
他者にとっては当たり前とは限らない。

その時々の必要に迫られて
できることをしていけば良いのだと
それで十分なのだということが今は分かる。

時期が来たら
また別の体験によって
目覚めさせられる。

今も10月の講演のスライドを作っていて
「そうだ!ここを言わなくちゃいけなかったんだ」
とはっきりわかったことがあって
ちょっとスッキリ。

暗黙の前提を明示すること

暗黙の前提を吟味すること

多分、臨床で実践的に行える研究的姿勢というのは
こういうところにあるのだろうと感じています。
論文化しようが、しまいが、
臨床家として必要な姿勢なのだと。

そのためには
自分が何をしようとしているのか
最低限、そこは言語化できないと。

そしてその言語化(概念)と
自らの実践と結果との間に乖離がないかどうか
確認しないと。

ブレークスルーは
努力の積み重ねの上に降りてくる。

努力が当初の意図の通りに報われずとも
努力が無駄になることなんて決してない。

今、もしも、苦しんでいる人がいるとしたら
この言葉を送りたい。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3887

研修会「認知症のある方に本当に役立つセラピストになるために」

お知らせいたします!

10月6日(土)に
まる一日かけて
「認知症のある方に本当に役立つセラピストになるために」
という研修会が開催されます。

作業療法士以外の方でも
興味のある方なら、どなたでも参加できる研修会です。

しかも!
参加費は無料です。

詳細は
こちらでご確認ください。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3881

「関与しながらの観察」によって

「援助」と「使役」は紙一重
だから気をつけよう。

ここまでは今まで言えてた。
でも「気をつけようね」では行動修正できない
ってことも別のところで言ってた。
(確か、戸締まりか何かの話でここにも書いたことがあると思う)

具体的な行動として明確化できないと
修正はできない。

「気をつける」気持ちはあっても
「どこを」「どう」行動するのか明確化できなければ
気をつけた結果としての行動に結びつかない。

「援助」と「使役」は、すり替えられがちで見た目にもわかりにくい。

例えば
食事介助は
「食べさせる」ことも
「食べることの援助をする」ことも
どちらにも転ぶ。
そして端から見ている、遠目から見ているだけでは区別がつきにくい。
でも、当の介助を受けている人にしてみたら
その違いは明確に感受される。
例え、介助する人が無自覚であったとしても。

どうしたら、すり替わることなく
「援助」し続けることが叶うのか。。。

ある人の言葉が助けになって、ようやく明確にわかった。

「関与する」から「援助」を模索することができる。
「関与しない」から「使役」になってしまう。

ハリー・スタック・サリヴァンの言った
「関与しながらの観察」

対人援助のスタートであり、ゴールでもあるんだろう。

今までこの言葉の真意をあんまりわかっていなかったかも。
ようやく切実にわかることができ始めたかも。

ものすごい実践を成した人の言葉は本質を突く。

シンプルだけど深い。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3880