表面化していない問題その2

通所系あるいは入所系の事業所において
「何をしてどのように過ごしていただくか」
というのは課題の1つです。

日々の業務に忙殺されて
実は何となく提供していたり
できる→やっていただく
という視点で考えているだけだったり
雑誌などに掲載されていたことを行ってみたり
という場合が少なくないのではないでしょうか。

その最たるものが塗り絵です。
塗り絵が悪いわけではありません。
ですが、なぜ目の前にいるAさんに塗り絵なのか
その提供理由を明確に言語化できる人がどれだけいるでしょうか。
塗り絵は手を使うし色の区別も必要だから認知症の進行予防によい
と言う人もいるかもしれません。
でも、塗り絵をしても残念ながら認知症という状態像は進行していきます。
そのことを最も自覚しているのは認知症のあるご本人です。
努力してもできなくなる、難しくなってきた…そのような実感を明確に感じています。

逆に私たちの立場で考えてみて
数学の問題は論理的思考力を鍛えるのにいいからやりましょう
と言われてどれだけの人が積極的にやるでしょうか?
モチロン、嬉々として集中して取り組む人だっているでしょう。
当たり前ですけど、人によりけり。ということなんです。

そして、事業所を利用していない時のご家庭での過ごし方について
多くの場合、ご家族は「何をして過ごしてもらったらよいのか」悩んでおられます。
でも、利用している事業所からアドバイスをもらえることもまた少ないように感じています。

この問題は介護保険サービスの事業所において
あまり表面化していなかったとしても存在している問題だと感じています。

単に「やりたいことをやる」「好きなことをやる」というだけでは
解決できない問題があるどころか、逆効果にすらなる場合もあるということについては
いろいろなところで述べてきました。

若年性認知症のある方の居場所がない。という問題もあります。
ですが、問題の本質は本当に「Where」なのでしょうか?「What」なのでしょうか?
本当は「How」が問われているのではないでしょうか?

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表面化していない問題その1

今、私が接している認知症のある方は
さまざまな援助を受けながらも
暮らしの困難が解消されなくて入院された方だから
対象者の母集団がある意味、限定されている可能性があるとは思っています。
「問題がない」方が存在しているけれども、私がただ会う機会がないだけなのだと。
ただ、表面的に「問題がない=適切な対応ができている」とは言い切れないとも感じています。

「こんなに明確に説明されたのは初めて」
「今まで誰も教えてくれなかった」
「そういうことだったんですね」
私に言われたご家族の言葉です。

在宅で介護保険サービスを複数使っていても
それぞれの事業所はそれぞれの役目を果たそうと一生懸命に努力されていることと思います。
けれど、その一方でサービスを使ってもご家庭での困りごとに対して事業所がアドバイスをする
ということもまた少ないように感じています。
つまり、介護保険サービスを使っているにもかかわらずご家庭での家族間での困りごとは
ご家族がなんとかするしかない…という構図もあるのではないでしょうか。

NHKスペシャルで放送された「介護殺人 当事者たちの告白」
その取材記録をまとめた本です。
NHKスペシャル取材班『「母親に死んでほしい」−介護殺人・当事者たちの告白−』新潮社

この本の中には
介護殺人に至ったケースの3/4は何らかの介護保険サービスを利用していた
なかにはホームヘルパーを毎日利用していた方もいた
隣近所からも孤立しているわけではなく近隣との交流がある方の方が多かった
という記載があります。

介護だけに没頭して
ご家族だけが抱え込んでいるわけではない
にもかかわらず悲劇が起こってしまっている。

つまり、単にサービスを利用するだけでは解決しない
ということが現実に示されているのです。

本の中には
「認知症という病気を理解しろと言われても理解しても介護負担が軽くなるわけではない」
という介護者の言葉も記載されていました。

この言葉に
まさしく現在表面化はしていない、けれども厳然としてある
認知症のある方をとりまく現実の一端が端的に示されているように感じました。

認知症のある方に適切な対応の工夫は
介護する側にとっても負担が軽くなる方法です。
お互いにとってプラスの体験を得られるようになります。

1人でも多くの方に伝わりますように。。。

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POST連載記事「Activity:要素の活用」

良い姿勢?

理学療法士作業療法士言語聴覚士のためのサイトPOSTさんに
私の連載記事が掲載されました。
「Activityの選択−要素の活用−」

以前好きだった、得意だった趣味活動ができなくなったり
認知症のために、好きなことややりたいことを言葉にできなかったり
やりたいと言った趣味活動が認知症のためにやってみたらできなかったり
このような場面には臨床上非常によく遭遇します。
その時にどうしたらよいのか、案外難しくて困ってしまうということはよくあります。
身体障害であれば、同じコトでも違うやり方に変えてできるように工夫する
という方法がとれますが、認知症のある方は疾患特性から新しいコトは覚えられないので
現実的には難しいケースが多いのです。

私のご提案をPOSTさんが掲載して下さいました。
よかったらお立ち寄りください。

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謹賀新年2018

みなさまは、お正月をどんな風に過ごされましたでしょうか?

私は今年は久しぶりにのんびりとしたお正月を過ごすことができました。
ふだんなかなか読めない本を読むこともできたし(^^)
ちょっとは家の中のこともできたし(^^;
年明け年度中に企画していることのメドもついたし(^^)/

2017年は、おかげさまでいろいろな経験を重ねることができました。
全国各地でさまざまな職種のたくさんの方々と出会うことができて
それぞれの場で頑張っている方がこんなにいるということを深く実感できて
とても励まされました。

誰にとっても平等に訪れる1日24時間

何を大切にするか
何を優先するか
それは人それぞれで正邪の問題ではなく適否の問題になってくる。
良くも悪くも

私は根っからの臨床家なので
臨床家としての視点でモノゴトを考える。
臨床という現実から問い返され続けてきたのは
考え方と実践との一致なんです。
実践を通して考え方を否応もなく検証することを求められ
実践において細部を揺るがせにしないことを求められてきた。

問われているのは「世界」における自分の在りようなんです。

自分の周囲の「人たち」の在りようが理解し難いと感じている方も
きっといらっしゃると思います。
でも「世界」はもっと広い。
大きな「世界」に踏み出せば
もっと多様な人たちがいて
モノゴトに真摯に向き合っている人たちが
たくさんいるんです。

2018年は、
このブログはもちろん
「オレンジ☆マルシェ」においても
一生懸命な故に目の前の現実に困惑を抱いている方が
絶望と諦観に身を潜めることを余儀なくされるのではなくて
今の現実のもう1つ外側にある「世界」へ向けて目を凝らしてみようと思えるような
そんな記事が書けたらいいなと考えています。
特定の団体からのご依頼の他に、どなたでもご参加できる講演の予定もあります。
決まりましたらこちらでもご案内をしていきます。
どうぞご検討ください。

今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

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良いお年をお迎えください

私は今日が仕事納め

1年365日リハを提供している施設では
「仕事納め」という言葉など遠く感じられるかもしれませんね。
明日も大晦日もお正月も、働かれる方、おつかれさまです。
今日でひと息つける方も、おつかれさまでした。

振り返ってみれば、今年も怒濤の1年でしたー (^^;
いろいろあったけど、楽しかった。
仕事の範囲が広がって、また一段、成長できた(と自分自身で思ってる)
異なる分野の多用な仕事を同時に抱えつつ、なんとかそれなりの結果も出せてきた
(と自分で勝手に思ってる)
いろいろな方からお声かけいただき、南は鹿児島、北は北海道へお招きいただいて
ちょこっとだけでも観光気分を味わえたり、各地の名産をいただけたのも嬉しかったし
何よりも嬉しかったのは、
あちこちで対象者のために一生懸命働いているたくさんの方に出会うことができたこと。
それは私にとって一番の励みになりました。

本当にどうもありがとうございました。

私も今でこそ、それなりに多様なお仕事を抱えておりますが
臨床1年目のことを忘れることはありません。
「やるべきこと」を書き出して、たった3つ程度のことなのに
四苦八苦してなかなか達成できず、そのタスクメモを見るだけでも辛かったこと。。。
今でもはっきり思い出せます。

継続は力なり。
本当にそうだと強く感じます。

来る年がみなさまにとって
もう一段次のステップに進む年となりますように。。。

寒さも厳しくなってきました。
くれぐれもお身体をお大切になさっていただいて
どうぞ良いお年をお迎えください。

新年は1月4日(木)から更新を再開します。
引き続きどうぞよろしくお願い申し上げます m(_ _)m

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スローガンの先行に不安

プロなんだから実現できることが求められてくると思う。

「認知症があってもできることがある」
「認知症のある方に寄り添って」
それは本当にその通りだと強く思います。

一方で
今は、あまりにスローガンだけが先行しているように感じられて
先行きに不安を感じることもあります。

理念をどうやって具現化していくのか
そこが明確化されなければ
スローガンがご家族やご本人や関わる職員を
結果として追いつめてしまうことだってあるのではないでしょうか。
そして、そのような積み重なりの果てにスローガンが否定されてしまうことのないように願っています。

方法論を明確化しないために
実現できない人を追いつめたり
追い求める理念を否定してしまったり
そんなことが起こりませんように。。。

もう既に「ブーム」がいくつも生み出され消費されてきて
結果として沈黙が訪れるというパターンが続いています。

寝たきり老人ゼロ作戦
パワーリハ
学習療法
センター方式
バリデーション
ユマニチュード。。。

これらはすべてツールだから
ツールとして使いこなすべきだったのに
いつの間にか目的化してしまって
目の前にいる認知症のある方の利益に貢献できたか危うくなってしまったように感じています。

ツールとして適用する対象を明確にして
ツールとしてきちんと活用すれば認知症のある方に寄与できるものだと考えています。
ブームとして祭り上げちゃったからいけない。
つまり扱い方が不適切だったのではないかと。

だから
スローガンの扱い方に関しても同じようなことが起こらなければいいけれど
と思ってしまうのです。

スローガンを唱える立場に立つ人だって必要だと思うけれど
「願えば叶うわけではない」「唱えれば具現化できるわけではない」
ということをイヤというほど身に沁みて知っている私としては
興味は唱えることではなくて実現化する過程にあります。
まずは、自分がプロとして実現できるように
その精度も効果も高めていくことに
そして自分だけでなく他の人も実現できるように明確化・言語化していくこと

「認知症があってもできることがある」
ということを知らない人が減って、知る人が増えてきたら
必ず「どうしたら実現の援助ができるのか」求められる時が来る。
その時に明確な思考過程が示されないために
苦労と努力を重ねても実現できないとしたら
スローガンがその人を追いつめてしまいます。
追いつめられないとしたらスローガンの理念が口先だけだということになってしまいます。
理念と実践の乖離というよくあるパターンが増えるだけになってしまいます。
そんなのはイヤだと思うからこそ。

プロとして、理念を具現化するためには
強く願うことでも、大きな声で語ることでもなく
実現に向けての思考過程の明確化・言語化・共有化、知識と技術を磨くことだと考えています。

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コミュニケーションの二重性

他者とのやりとりとは
その時その場のその関係性において
為されるものではあるけれど
同時に
自分自身の世界への表明でもある。

だから
やりとりに際して
いろいろなことが起こるけれど

たとえば
理不尽な思いとか
相手の本心に触れて傷つくとか
真っ正面で受けとめてもらえた実感とか
それはさまざまな感情を自分の内に引き起こすけれど

その時にどうするか
ということに関して言うと
世界への表明なのだから
問われているのは自分の在りようそのもの
ということにもなってくる。

アンテナを高く張っている人はたくさんいる。
より善いものを求めている人はたくさんいる。
真贋を見分ける眼をもつ人はたくさんいる。
そうでない人や見せかけだけの人もたくさんいるけれど
それが世界だもの。

多様な世界に対して
自分がどう在るのか

その時その場のその関係性において何を優先するのか
自己保身に走る人もいるけれど
その人が世界に対してそういう表明をしているだけのこと。
でも、世界に対してそういう在りようの表明をしない人だってたくさんいる。

目の前にいる誰かとのやりとりは
見た目、目の前にいる人と為されるものだけれど
同時に世界への自己表明をしている。
自分がどう在るか、在りたいかの選択をしている。

目の前に立ち現れる日々の暮らしにおいて
最優先になるのは厳然として目に映ることだけど
起こっていることはそれだけじゃない。

人との出会いって本当に不思議なもので
必要な時に必要な出会いが起こるし、出会い直しも起こる。
世界が広がっていくし深まっていく。

この歳になって
わかり直すことがたくさんある。

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プラトーを味わう

一見すると伸び悩みのような
学習曲線が水平のような状態になっていることをプラトーと言います。

リハの世界でもよく言いますよね。

成長の過程においては
誰にでもプラトーって訪れる状態だと思う。
習得する過程において右肩上がり一直線なんてことはないもの。

右肩上がりに成長した後、必ずいったんは水平状態で大きな変化が見えない時がくる。

でも、
本当に停滞なのか、
本当は次へのステップとしての雌伏の時期なのか
どっちでも起こりうるけど、傍目には区別がつきにくいかも。
当の本人にだって、わかりにくいかも。

今回の自分自身のプラトーは長く感じました。
と言っても、対外的には(他者的には)あちこちで異なる活動をしていたから
他者にはそんな風には見えなかったかもしれないけれど
自分としては感じることが多々ありました。
現実の世界での実践は多面的で連続していても
内面での思考の深まりが実感できなかったりするとちょっとしんどい。
そういう時はOut Putしにくかったりします (^^;
自分の中で混沌としてるから。
とりわけ今思えばラストの時期がしんどかったかも。

でも、フッと抜けた気がする。

現実に自分が抱える困難のゴールが自分なりに納得のいくレベルで明確になった
そのとたん、いろんなことがクリアに見えて
同時に(だからこそ)現実的なやりとりが意味のある答えとして返ってくる
といったような。

年とったおかげで
プラトーで苦しい時にも味わいながら身を浸すことが少しはできるようになり
タイミングという、時の訪れを待つことができるようになった気がする。

年とったおかげで
過剰な(あるいは)余分な他者への期待をしなくてすむようになり
同時に、明確な現実的根拠がなくても揺るがない信頼感のようなものが生まれてくると感じています。
自分自身への
誰かという他者の存在への
生きるということへの

プラトーの時期はしんどいけど
内的に次への変化のステップの時期としても現れ得ると感じています。
組み上がったものを崩してもう一段組み上げ直すという。

準備が整ったら
なんらかのきっかけ(本当はきっと幾つものきっかけが連なっている)があって
それと知ることができるようになる。

焦らずにプラトーを味わう
それも一興だと思えるようになりました。

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