2016年に放映されたNHKスペシャル
「私は家族を殺した ”介護殺人”当事者たちの告白」
を忘れたことはありません。
見るのは辛かったのですが
仕事だと思って最後まで視聴しました。
ショックだったのは
最後の一線を超えてしまった人たちの3/4が
何らかの介護保険サービスを利用していたということです。
介護保険が始まって
確かに良くなったところはたくさんあると感じています。
街に車椅子が当たり前のものとして見かけるようになりました。
従事するたくさんの人のおかげで
助かっている人たちは大勢いると思います。
それでも、どこか、何か、足りない部分がある
ということを示唆しています。
それはいったい何なのか。。。
調べてみるともっと以前から何冊もの本が出版されていたことを知り
そのうちの数冊を読んでみました。
そこに共通していたのは
決して孤立しているご家族だけが介護殺人を起こしてしまったわけではない。
近隣との交流もあり
介護保険も利用し
一生懸命介護している人たちでした。
読み進めていくと
ある本の中に
「認知症を理解したって私たち家族が楽になるわけじゃない」
というご家族の言葉が書かれていました。
認知症の啓蒙は確かに進んできたと思います。
そこで触れられるのは、抽象論・総論・理想論的なものが多いように感じています。
「認知症のある方の言動を否定してはいけない」
「怒ってはいけない」
「褒めてあげることが大事」
「なじみの関係を作る」
「帰宅要求には気をそらせる」
などといった、一見正当のようでいて、
よくよく考えるとおかしな言説が、紹介されることもあるのではないでしょうか。
一方で、
ご家族の相談ごとで最も多いのは、対応の工夫であり
専門家の研修会でテーマの希望で最も多いのも、対応の工夫です。
つまり、抽象論・総論・理想論では
暮らしの困りごとを解決するのは難しいという現実があるのです。
私は全国各地でさまざまな主催団体からの講演依頼を受けてきました。
何のテーマの講演であっても必ず質問されることは
「〇〇という状態の人がいるんですけど、どうしたら良いのでしょうか?」
というカタチの質問です。
それだけ困っているのだとも思いますが
講演の中で、そのようなカタチの質問・ハウツーを求める在りようへの
疑問を提示しているにもかかわらず
ハウツーを求める質問をされるということは
常日頃からハウツー的な対応しかしていないことの証左ではないかと思います。
例えば
食事介助において
常日頃から斜め上にスプーンを引き抜くような介助をしている人に
そのような介助はしてはいけない
〇〇という介助方法に切り替えるべきと伝えると
頭では「そうか。そうしよう。」と思っているのに
なかなか切り替えるのは難しい人は少なからずいるものです。
それとまったく同じコトが違うカタチで現れているのです。
養老孟司は
「人間に関することで、あぁすればこうなるなんてものはない」と述べ
河合隼雄は
「登校拒否を治すボタンがあればいいといった親御さんがいた」と述べていました。
だからこそ
専門家が求められているのだと思います。
理想を具現化できる知識と技術を携えている助力者として。
現実には
理想論はあって
「やってみたらよかった」というハウツーはあっても
その間をつなぐ「考え方」がない。
だから
一生懸命なご家族ほど消耗してしまうし
職員はハウツーを求めて研修会に参加する
という現実があるのではないでしょうか。
実際に、あるご家族から
「今までたくさんの相談機関を訪れて
そこで言われることはもっともなことばかりだったけれど
今、私が困っていることへ的確に答えてくれたところは
どこにもなかった。
ここにきて初めて納得のいく答えをもらえた。」
と言われたことがあります。
「認知症を理解したって私たち家族が楽になるわけじゃない」
こんなことをご家族に感じさせてしまうのは
やはりおかしなことだと思っています。
知識と技術は
人間の暮らしに役立てるように扱われるものでありこそすれ
決してそれらに縛られてしまうものではないと考えています。
本当の知識と技術は、
認知症のある方だけでなく
同じようにご家族や介助する人に必ず役に立つものです。
楽になるものです。
日々の暮らしの困難がゼロになるわけじゃないけれど
余分な困難を少なくすることはできます。
1手間はかかるけれど
その1手前のおかげで余分な困難がなくなり
いつか1手間が0.5手前になるものです。
ご家族を追い詰めるのではなくて
ご家族にも認知症のある方にも役立てるように
知識と技術をオーダーメイドで適用できるように
私自身の実践で努力するのはもちろん
必ずいるはずの、今困っている、現行への対応に違和感を抱いている
専門家への啓蒙として発信を続けていきたいと思っています。
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