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作業提供の考え方

作業提供の考え方以前にある研修会を聴講した時に、他職種の方から講師に対して「認知症のある方に作業選択をどのように考えたらいいのですか?」という質問がありました。
他職種でもこんなに真剣に本質を考えている人がいるのだということを知り、とても嬉しく思いました。
ただ、その時の講師の答えはおそらく質問者が納得するものではなかったように感じました。

私たちは作業療法士として、自分が提供している「作業療法」を説明することが求められています。
少なくとも「療法」をうたって報酬をいただいている以上は。
正解ではないかもしれない、多数の賛同を得られるものではないかもしれない、けれど自分が今何を考えて行っているのかくらいは説明責任があると考えています。

そこで私が認知症のある方に、作業提供するにあたっては、こんな風に考えていますよ。ということをご説明しようと思います。
どれだけ賛同をいただけるかはわかりませんが、少なくとも臨床的には役に立つ。学生や他職種に説明する時には役に立つ考え方だと思っています。

まず、認知症のある方の特性にそって、作業の傾向を選択します。
次に、今の能力で可能な能力にそって、作業の種目を選択します。
最後に、障害と困難に対しては、場面設定で配慮をします。

たとえば
作業を媒介にして他者との交流を楽しむ方には、工程が明確で反復する要素の高い手仕事系を選択します。
短期記憶も近時記憶も障害されているけれど手続き記憶が保持されているので、2工程で遂行可能で穴に糸を通す手続き記憶を活用できる毛糸モップを選択します。http://kana-ot.jp/wpm/tips/post/162
手仕事をしている他者との少人数グループを設定します。
高齢のため、視力が低下しているので作業をする時の机とハンガーと毛糸の色は同系色を使わずに明確に違いが認識できるように選択します。
また、高齢で手指の巧緻性も低下しているので、努力しなくても円滑に作業ができるように毛糸に一工夫をします。http://kana-ot.jp/wpm/tips/post/237
この方は、作業の手を休めることなく、同時にOTRともその場にいる他者とも笑顔で話しながら30分~40分ほど毛糸モップを行っていました。
「みんなと仲良く働かなくちゃね」とよくおっしゃっておられました。

たとえば
豊かで繊細な言語表現に秀でていた方であれば、言語表現の機会を提供します。
認知症が進行していて抽象思考力・言語操作能力は低下しているけれど、具体的な日常生活場面での感覚(視覚、触覚、温度感覚)なら言語化できる方の場合には、散歩という種目を選択します。
刺激が多すぎないように静かな場所を選び、マンツーマンで、OTRからの質問は短い文章で端的に行うようにします。
暴言暴力介護抵抗のある方ですが、散歩の場面では「一点の曇りもない青空」という言葉をスッと口に出されていました。
若い頃は国語と漢文が得意だったそうです。

もし、その方に対して不適切な作業提供を行えば、認知症のある方は作業を継続しようとはしません。
認知症のある方は日々の暮らしの中で、毎日毎日イヤというほど喪失体験・失敗体験に遭遇しているのです。
生きるだけでも精一杯なのに、何を好んで辛い思いをそれ以上にしなくてはいけないのでしょう。
そのかわり、適切な作業であれば、認知症のある方は没頭します。
「楽しかった」「おもしろかったわー」と満面の笑顔でおっしゃいます。
ただし、休息をとっていただいたり、途中で切り上げることが難しいので、疲労しないようにあらかじめ工夫が必要です。

作業体験(単に手工芸に限らず)は、認知症のある方にとって「私は私である」ことの再認識を体験を通してもたらすことができます。それが一番の強みであり、また認知症のある方から必要とされていることだと考えています。
認知症のある方は、記憶障害に伴い、本質的には「私が私でなくなっていく」ことへの不安を強く抱いています。
現段階では、慢性進行性の疾患である認知症という病気を治癒することはできません。
もちろん、進行を少しでも遅らせるための薬物療法や非薬物療法はありますが、「私が私でなくなっていく」不安に対して、実はあまりアプローチされていないのではないでしょうか。

認知症のある方に作業を提供することの意味は、何かさせることによって気を紛らわせ落ち着かせることではありません。
まったくその逆で、適切な作業があるから没頭できた結果として落ち着くのです。
没頭できる…日々の暮らしの中でさまざまな困難に遭遇しても「私は私である」ことを自分自身の体験を通して再確認できる…認知症のある方にとってその場がどれだけ貴重な場か想像に難くはありません。

ただし、本当にパワーのあるものは用い方を謝れば逆効果にもなるのは世の常です。
作業療法は、下手をすると効果がないならまだしも、単なる使役に陥り、認知症のある方にとってこれ以上ないほどの苦痛でしかない「場」を提供してしまうおそれを常に内在しています。
作業療法士は作業療法そのものが抱える両面性…光と闇に、誰よりも自覚的であってほしいと願っています。

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徘徊する人には気をそらせる?

現場ではよく使われている方法論だと思います。

徘徊する人には

なにか作業をしていただく。

(タオルをたたんでもらったり、雑巾を縫ってもらったり…)

徘徊する人には

お茶を飲んで気を紛らわすように話をする。

(笑わせるために アノ手コノ手を尽くしたり)

それがベストと信じて対応する人もいれば

なんだかなーと思いつつも

代替案がないために仕方なくしている人もいるかも。

 

ピック病の周回行動を

抑制するのが難しいことはよく知られています。

ですが、SDAT(アルツハイマー型認知症)の徘徊に対しては

バリデーションなどの実践によって

「結果として」

徘徊しなくなるということが知られてきています。

 

徘徊しないように

気をそらせることを意図して行われただけのサギョウでは

その場はよくても、 何ヶ月か後には

違うカタチで同じことがあらわれる…ということに

遭遇したことはありませんか?

 

作業療法士として

作業がそのようなカタチで扱われることに

疑問や違和感を抱いたことはありませんか?

 

徘徊しないように

気をそらすことを意図してできることをおこなわせる

ということと

その人が本当に

意味あることとして受けとめて

集中しておこなった結果として

徘徊しなくなった

ということとでは

見た目には全く同じように見えるかもしれないけれど

対象者の内面に作用する機序としては

正反対のはたらきをしてしまうということに

作業療法士はもっと鋭敏になってほしいと願っています。

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