Category: 教科書的基礎知識篇

結果から状態を観察し必然を洞察する:食事介助

非麻痺側のべた足歩き

私が他の人と違うところがあるとしたら観察の深度だと思う。

例えば
「ためこんで飲み込んでくれない」と質問する人は多いけれど
ためこみって、結果として起こっていることなんです。

食事をためこんでしまう方は
食べたくないからためこむ訳ではなくて
食べたくて食べようとして、でも食べられないケースが圧倒的に多いものです。

なぜ
ためこんでしまうのか、食べようとして食べられないのか
というと、圧倒的に多いのが舌の硬さです。
まるで、かまぼこ板のように舌がガチガチに硬くなっていることが多々あります。

舌が硬くなっているという状態の結果、
スムーズに送り込みができなくなり、ためこみという結果となって現れているのです。
じゃあ、なぜ、舌がそんなに硬くなってしまうのかというと
これは、十中八九、誤介助が理由です。
対象者の方に本質的な問題があるわけではないのです。
だとしたら、正の介助を行えば正の学習が生じます。
私たちが適正な介助を行えば良いだけなのです。
  
ところが、多くの人が「ためこみ」に困ると言いながら
「ためこみ」につながるようなスプーン操作、たとえば
スプーンを口の中に突っ込んだり、
上の歯でこそげ落としたり、
多すぎる1口量を口の中に「入れてあげる」等の誤介助をしているのです。

対象者の方は
食べにくさを感受しながらも必死になって食べようとした結果
過剰努力によって舌が硬くなり、
舌のしなやかな動きがなくなるので食塊再形成や送り込みができなくなる
食べたくても食べられず、結果としてためこんでいるのです。

誤解が生じないように敢えて書きますが
私は改訂水飲みテストを否定しているわけではありません。
実際、必要であれば改訂水飲みテストを行なっています。
でも、改訂水飲みテストはあくまでも「食べ方の評価」を構成する1検査に過ぎません。
同じ意味で嚥下造影や嚥下内視鏡も「食べ方の評価」の下位項目としての1検査に過ぎません。
検査は必要で意義もありますが、すべてではないのです。
(MMTをとっただけで歩行状態の評価ができるわけでないのと同じです)

その証拠に
上記の検査をしても、「どのように介助したら良いのか?」という問いが
解消されることはないのではありませんか? 

  「知は力なり」は真実だと思うけど
   こと、人に対しては「無知は力なり」じゃないの?って
   思ったことが何度もありましたっけ。。。
   でも、ちゃんと見ててくれる人もいたから救われました。

結果だけ見ているから、ハウツーを当てはめることしかできないし
結果を引き起こしている状態を観察できたとしても、知識がなければ
状態を引き起こす必然を洞察することはできないのです。

逆に言えば
状態を観察できるように知識を習得し
イマ、ナニが起こっているのかを洞察できるように観察すれば良いだけです。

食べようとして食べられずに困惑して
必死になって食べようとしているのに
その努力を不合理としか判断してもらえなかったり誤認されるだけで
的確に援助してもらえる人に出会えず苦しい思いをしている方が
今もまだたくさんいるだろうと思います。
そういう人が一人でも少なくなりますように。

そして、コトは食事介助に限らないのです。

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/5026

必要なのは過程における自己承認

イメージ_木立の陽射し

学ぶということは変わるということ
変わり方は人それぞれ、その時それぞれであっても

一人前のセラピストとは
過程において自己承認ができて
結果において目標達成できる

ことだと考えています。

だから極論すると
臨床経験1年目から一人前のセラピストになることも可能だし
臨床経験30年の人でも一人前のセラピストとは言えない人だっていると思います。

多くの場合に
私たちは過程において自己承認ができるようには教わっていないから
一時的に他者承認が必要な時期もあると思う。
でもそれは将来、自己承認ができるようになるための前段階として。

いつまで経っても自身の考え方や実践に
「見通しが持てないなかでやってる」
「これで本当に良いのか不安」
と言ってるようではプロとは言えないと思う。
それってカタチを変えれば
予算立案の際に
「このくらいの予算でいいんじゃないかと思うんだけど自信がない」
って言ってるのと同じだからです。

予算立案と目標設定の類似性については
_前の記事「見通しが立たないからこそ目標を設定する」_に記載しました。

漠然と根拠もなしに「このくらいかな?」では自信がなくて当たり前です。
自信がないのは、「予算の確かさ」ではなくて
「予算の根拠」なので、ある意味自信がなくて当たり前です。
テキトーな根拠に自信を持たれたら困ります。
一つ一つの事柄をきちんと調べて確認してから
必要経費を計上していれば
「このような活動をこれだけの人数で行えばこのくらいの予算が必要」
と明確に言えるものです。

自分の実践に見通しが持てなかったり、不安ばかり募るというのは
結果的に生じている
ことで
本来、フォーカスすべきは、状態像の把握ができていないということなんです。
  やるべきことをやっていないのですから、不安で当然です。
  やるべきことをやっていないのに自信を持てる人は傲慢であり
  そのようなあり方は科学的態度から最も遠い在り方です。
  不安や困難を自覚している人はまだ成長の可能性があります。
  自身の不安や困難を否認して自身が困らないことを優先する人は

  どうしようもありません。
つまり、論点のすり替えが起こっていることに無自覚なことが問題なんです。
だから、自己修正ができない。
問題設定の問題なのです。

予算を立案するために、一つ一つの事柄をきちんと調べて確認するのと同様に
対象者の状態像を把握するために、障害と能力を一つ一つ明確化していけば良いだけなのです。

ところが、
障害と能力の明確化という過程を
案外、ちゃんと教わってこなかった、学んでいなかった
 ということに
ここにきて初めて気がつく人もいるでしょう。
いくら、すべきと教わった検査をしても
それだけでは状態像の把握に結びつかないことに直面する
からです。
愕然とすると思います。
じゃあ、どうしたら良いのか?

障害に関する基礎知識を学び直し
今、できていないことがどんな風に困難なのか
今、できていることがどんな風にできているのかを
よく観察することです。
  状態像の把握ができていない人は十中八九、観察ができていません。
  できていると思っている人でも実はポイントほど見逃しているものです。
今は良いデバイスがありますから、
対象者と職場の許可を得て録画しましょう。
そして何回も繰り返し見直すのです。

本当は、ここでちゃんと教えてくれる人がいると良いのですが。。。
 この行為は、こういう能力があるからできる
 一方で、こういう障害を代償している側面もある
 この発言は、こういう能力があるからこそ出てくる
 一方で、こういった障害の恐れもある
などとちゃんと解説してくれる人がいると一番良いのですが
近くにいなければ、覚悟を決めて自分でやるしかありません。
「読書百遍義自ずから通ず」は、本当です。
繰り返し録画を見て観察しましょう。

最初は
「何を」「どこまで」観察するのか皆目見当もつかないかもしれません。
自分が何に困っているのかわからないから
観察のポイントもわからないのです。
そんな時に助けになるのが目標設定です。
目標を目標というカタチで設定できるまで観察します。
その過程において確認すべきポイント、
今まで自分が曖昧にしていたのに気がつけないでいたポイントに
自分で気がつけるようになります。

観察できるようになれば
目の前にいる対象者の方に「イマ」「ナニが」起こっているのかを
洞察することができるようになります。
障害がどのように現れ、その障害を代償しようとした結果
能力が不合理に発揮されていることが手に取るように分かるようになります。
だから、どうしたら良いのかが「結果として」浮かび上がってくるのです。
過程をすっ飛ばして「結果」が得られることはありません。
無意識には本当はわかっているからこそ、不安になるのではないでしょうか。

真摯に向き合っているからこそ
「対象者の方に」どうしたら良いのかという悩みが出てくると思います。
でも本当は
「自分が」どうしたら良いのか悩むべきなのです。
ここでも問題設定の問題が起こっているのです。

目標設定について
定義や自己トレーニングの方法について
こちらのサイトにまとめてあるので良かったらご参照ください。
 
遠回りになるかもしれませんが
逆に言えば、遠回りしたからこそ深く知見を習得することも可能と言えます。
逆に、教えてくれる人がいたとしても、
その人の技量が未熟であれば不適切な知見を得る恐れだってあります。

「ちゃんと教えられる人」って実はそうそういないのが現状でもあります。
もし身近に「ちゃんと教えてくれる人」がいたら
その人は本当に良い人です。
良い人に出会えたことを感謝して大切にしてください。

そうでない人は
「ちゃんと教えられる人」がいないのが通常だと思って
覚悟を決めて自分で自分をトレーニングしていきましょう!
そして自分自身が誰かに「ちゃんと教えられる人」になりましょう。

曖昧な部分を自分が自覚できるからこそ
曖昧な部分の明確化が可能になります。
(まさしく、予算立案と一緒です。)

一つ一つの明確化、地道な努力の積み重ねによって
根拠の確からしさを説明できるようになれば
結果として、過程における自己承認ができる
ようになってきます。

繰り返しますが
手段と結果として起こることを混同してはいけないのです。
自身の実践に見通しを持てなかったり、不安を抱いている場合に
実は問われるべきは実践の確からしさではなくて実践に至る過程での明確化なのです。

より良いOTになるために
より良いOTを育成するために
最も重要なメタ過程というべきこれらの過程を
卒前卒後でどのようにして連携しながら養成していくのか
私たちは大人ですから、個々の課題だとも言えますが
そうも言っていられない現状もあるのではないでしょうか?
  

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/5023

見通しが立たないからこそ目標を設定する

目標設定が難しいのは、
「対象者の状態像がよくわからない」とか
「やってることの見通しが立たない」から
と言う人もいるようですが、それはまったくの誤解です。
  
「よくわからない」
「確信が持てない」
だからこそ、目標を設定するのです。

目標こそが羅針盤なのですから

予算を立てるのと一緒なんです。

私はかつて
神奈川県作業療法士会の県学会の広報部長をしたことがあります。
そこで、まず最初に予算案を立案するように言われました。
それを聞いてまず思ったことは
「学会の仕事なんてやったこともないのに予算なんて立てられない」でした。
でも、それは間違いだったんです。
やったことがないからこそ、予算を立案するんです。
(別に記事にしますが、通常、納期と予算のない仕事はありません)
  
予算を立てるためには「このくらいかな?」というような当てずっぽうではなくて
ちゃんと正当性のある見立てが必要です。
学会そのものの目標として参加者数の設定がありましたから
それだけの方に来ていただくために
どんな広報活動を展開するか、
どこでどんなことをするか、
その活動に必要な人数と物品は何か
具体的に考えて、一つ一つを確認して
(例えば活動してくれる人の交通費を確認する)
具体的に明確化していく作業が必要です。
これって、カタチは違えど、まさに目標設定の過程そのものです。
突発的なこと、新たに新規活動を組み込む必要が生じた場合などは補正予算を組みます。
想定外で状態像や環境の変更が生じた場合には目標を設定しなおすのと同じです。

つまり
適切に目標を設定しようとする過程において
自分がするべきことが明確化され、実践することが要請される

ということなのです。

目標とは
その人に「必要」で「達成可能」であり「行動」で示される
ものです。

必要」なことを明確化することは難しくないと思いますし
(身体面なのか認知面なのか情緒面なのか環境設定の工夫なのか)
行動」で表現するということは明らかにセラピスト側の技術の問題ですので
これはセラピスト側がトレーニングによって解決すべき部分です。
問題は「達成可能」というところです。
ここは、『現在の』障害と能力を明確化できないと判断できません。

誤解している人が多いのですが
いくら検査をしてもそれだけでは『現在の』障害と能力を把握することはできません。
検査と評価は違うのです。
ところが、「検査=評価」と誤認している人はヤマほどいます。

適切に目標を設定しようと意図した時に
あるいは、目標を適切に設定できているかどうか確認しようとした時に
根拠となるのは目標の定義であり
目標というカタチになっているかということになります。

 
必要なことを行動で表現しようと意図すれば
達成可能かどうか、現在の障害と能力を把握する上で
自信が未確認な箇所や曖昧にしていた箇所が浮かび上がってきます。

予算を設定する時とまったく同じなのです。
あとは、浮かび上がってきた曖昧な箇所を明確にすれば良いだけです。

適切に目標設定することができないという場合
「なんとなくわかってるんだけど言葉にするのは難しくて」
という言い方をする人は多いのですが
本当は、「言葉にするのが難しい」のではなくて

「対象者の現在の障害と能力がなんとなくしかわかっていない」
「自身がわかっていない箇所がわかっていない」のです。
だから、先へ進めない。
だとしたら、曖昧な箇所を明確化すれば良いだけです。
その時に力になるのが、目標という『カタチ』で設定することなのです。

   このような現状を招いた一つとして
   皮肉なことに「やること」の知見が集積されてきたことの

   マイナスの側面があると思います。
   脳血管障害後遺症の方には、〇〇と△△をやる
   大腿骨頸部骨折術後の方には、〇〇と△△をやる
   廃用の方には、〇〇と△△をやる
   帰宅願望に対しては、気持ちを逸らす
   といったような言説は巷にあふれています。
   そしてまた、それらの結果、

   できなかったことができるようになったりするので
  「やってよかった」という判断になり、

   振り返りが為されにくいという状況が生まれます。
   だから、ハウツー的思考回路や方法論に対象者を当てはめるような思考回路
   評価と治療が乖離している現状が生まれるのだと思っています。

『現在の』障害と能力を明確化するところで
自身が行き詰まっているということがはっきりしたのだから
自身の行き詰まりを明確化する
わかっていることとわかっていないことを明確化し
わかっていないことをわかるようにすれば良いだけです。

   余談になりますが
   現在の実習指導CCSで最も欠けているのがこの過程です。
   臨床で最も重要なメタ過程とでもいうべき
   自身の思考過程の明確化という体験学習ができない
   という点が非常に大きな問題だと考えています。

ところが、多くの人はその過程に立ち戻ることをせずに
(実習で体験していないからできようはずがないとも言えます)
放置したり(目標と方針と治療内容が同じ文言)
対象者のせいにしたり(認知症のために目標の共有困難)
言い訳をするのです(そのうちわかるよ)

でも、本当は
そのような自分自身に内心忸怩たる思いを抱えているのではないでしょうか。
ただ、どうしたら良いのかわからなくて
次の一歩を踏み出せないのではないでしょうか。
モヤモヤした気持ちを抱えながら、なんちゃって目標を設定するというのは
相当辛いことだと思います。
辛いからこそ、今度は「目標なんて臨床ができさえすれば関係ない」とばかりに
表面的に為すとされたことだけしていく
現行流布している方法論にしがみつく
という在り方に舵を切るしかないのかもしれません。。。

だけど、それは砂上の楼閣なんです。
ことは目標設定にとどまらない。
セラピストとしての在り方の根幹に関わる
ことなんです。
困難に遭遇した時に
「そのような状態は対象ではない」
「認知症が重度だから無理」
「言動に迎合し再学習に向き合わない」
といった対応をするということと全く同じです。
概念の本質を理解しようとせずに表面的な対応に終始する。
「個性尊重」「その人らしさ」を声高に唱えながら
やってることはハウツーに当てはめてるだけ。。。
まさに、一事が万事というわけです。

目標設定そのものが適切に行えるということ自体、重要なのですが
その過程を通して、下支えしているメタ認識のトレーニングにもなっている
という二重の意味で重要なのです。

目標は「その人がやりたいこと」を設定すれば
目標設定の困難さが解消されるわけではありません。
(やりたいことを尋ねることには意義がありますが)
むしろ、問題の本質をすり替えられ抑圧され
短期的には問題が軽減したように見えて
長期的にはさらなる困難を作ってしまった
ように思えます。
  
事実、認知症のある方の場合に
「やりたいこと」を言語化できなかったり
「やりたいこと」ができなくなっているケースは多々あります。
   疾患特性から「同じコトを違うやり方でする」工夫は
   成立しないどころか更なる混乱を引き起こしますし
   表立った混乱がなかったとしても
   「セラピストの脳が認知症のある方の手を動かしている」という
   事態を引き起こすことは多々あります。

   結果として「できた」かもしれませんが
   本当に「意味のある」体験だと言えるでしょうか?

   
目標設定で悩んでいるセラピストは本当はたくさんいるはずなんです。

卒前の養成過程では提供すべきとされた知見が激増し
卒後の養成過程では報酬請求と書類記載と出席すべき会議の量に忙殺され
資格取得をゴールと考える人たちが増えてきている状況において
現状改善のためにどうしたら良いのか?
と真摯に悩む人もまた人知れずいるのだと思います。

目標設定で悩んでいる方は、_目標設定_ をご参照ください。
必要であれば、研修会講師をご依頼ください。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/5021

目標設定は技術である

目標設定は技術です。
技術なので、トレーニングが可能ですし、習得も可能です。

「目標設定をうまく教えられない」という人は
1)概念が理解できていない
2)技術をトレーニングするために必要な要素を明確に認識できていないのだと思います。
だとすれば、明確に認識するようになれば良いだけですし
自分でトレーニングしようとする人は意識すれば良いだけです。

1)については、_前の記事_で示したので
ここでは2)について記載していきます。

ポイントは、段階づけと反復学習です。

骨折術後の人に歩行練習をするに際して
いきなり、杖歩行を練習したりはしないと思います。
段階を踏んだ、リハプログラムを提供すると思います。
子どもに料理を教えようとして
いきなり、材料を提示して「ほら、作ってみな」とは言わないと思います。
まずは、工程の少ない献立を選んで
一緒に作るという場を共有し説明しながら作ると思います。

まず、最初に
「目標設定は思っていた以上に難しいものだ」
「自分はちゃんと設定できていない」
という事実に向き合うこと、認識を共有化する
ことから始めます。
 
次に、概念の理解を細かく段階づけしながら体験学習をしていきます。
判断の根拠は、目標の定義
です。

   「周囲の人がそう言うからそうだと思う」
   「以前に先輩がそう言っていたから」ではなくて
    自らが納得して判断できるように根拠としての定義を示すことが大切です。

 
その都度、目標の定義に立ち戻って体験学習を進めていきます。
教える過程において、細かく段階づけができるということは
教える側がどれだけ概念を明確に理解しているかということと関連
します。
概念の本質を理解するということは大切で大変なことだと認識している人は
これらの一連の過程を丁寧に提供することができると思います。
逆に、概念の本質を理解することをすっ飛ばして
手っ取り早く実際的な事例をもとに目標設定させようとする人は
教える側が「自分はよくわかっていない」と言っているも同然なのです。
そして、そういう人が目標と目的と方針と治療内容を混同させて設定したりするのです。
それを聞いた人は、頭の中が「?」マークでいっぱいになっても
どこをどう尋ねたら自身の疑問が解消されるのかがわからないから
質問することもできず、わからないからわかるように教えて欲しいと言えず
次のステップに進まされ表面的に課題をクリアすることを考えるようになってしまいます。
これが現状なのではないでしょうか?

  先日、とても面白いYouTubeを見ました。
  「バレーボールでレシーブの技術を磨く」
  「どうしたら素早くボールの下に入れるか」
  というテーマで、課題分析とトレーニング方法について説明していました。
  知識提供→できることのステップアップ→遂行困難→一つ前の課題をトレーニング
  という展開でとても納得できる説明でした。
  判断の基となる「見る」ことから始めて
  必要な能力の統合を丁寧に段階的に練習していく方法でした。
  新規事象の学習において、あるいは再学習において
  頭でわかったつもりでも実行できないということは必ず起こります。

  私たちは対象者の行動変容を促すことが仕事なので
  この過程を自身でも体験しておくことは有意義なことだと思います。
  知るー理解するーできる は違います。
  納得できたからといって、すぐに習得できるわけではなく
  地道な反復練習が必要ですが
  「そうだったのか!」「やってみよう」と希望を抱くことができる内容でした。
  コメント欄も「知らなかった」「すごくわかりやすかった」「やってみる」
  というコメントであふれていました。

  バリデーションを学んだ時にも反復練習の重要性を体感しました。
  課された課題を自身と対象者で実践、ビデオに撮ったものを
  受講生で観ながら講師のコメントを聞くという展開がありました。
  同じテーマを異なる対象者と異なる実践者で幾つものパターンを観ることで
  テーマの理解が深まることを実感しました。

 

目標設定のトレーニングも同じです。
概念を明確に言語化して提示
概念を知る→理解する→使える と段階づけて体験学習
していきます。
最初から、リハのケースを使ってトレーニングしない方が良いです。
概念を明確に理解できた後で、実際にリハでよく遭遇する事例をもとに体験学習していきます。
すると、この過程において、実際的な疑問が生じます。
実際的な疑問は、実は概念をより深く理解することと関連していますので
(例えば、基準と条件がどう違うのか?など)
その観点に立って、説明し体験学習するように促します。

詳細は、_目標設定_のページをご参照ください。

つまり、
目標設定を適切に行える
目標を目標というカタチで設定できる
ということは、徹頭徹尾、目標の概念理解ができているかどうか
が問われるので
段階づけてトレーニングすることが必要
ということを意味しています。

行動のカタチで表現できるようになるためには
行動とは何かという概念理解が必要で
その上で段階づけたトレーニングが必要
です。

言い換えれば
段階づけたトレーニングができるためには概念の明確な理解が必要で
概念を明確に理解するためには段階づけたトレーニングが必要なのに
現状では
これら一連の過程をすっ飛ばして
目標の定義を伝え
次に仮想事例で目標を設定させ
当然、的確なフィードバックがなされない。。。
これで「ちゃんと目標設定しろ」という方が無理でしょう。
問題の本質は、技術をどう習得させるか、という『トレーニングの問題』でもあります。
つまり、
対象者の行動変容の促し方」そのもの、
『リハの臨床能力そのものの土台』の問題
でもあります。

目標設定が適切にできるということは、二重の意味で重要なのです。

目標設定は本来「ちゃんとできる」人が教えるべきですが
残念なことに臨床家でも教育家でも
ちゃんと目標設定できる人は少ないのが現実です。
ですが、自己学習も可能です。
_目標設定_のページで自己学習の方法も展開していますし
第6回神奈川県臨床作業療法大会が12月8日(日)に開催されます。
そこで_「なんちゃって目標からの卒業ー自分自身に問い直すー」_
をテーマにお話をさせていただきます。
まずは、一度お話を聞いてみてください。
眼からウロコ、モヤモヤがスッキリすることが多々あると思います。
また、大会そのものが斬新な取り組みを多数検討されているようですし
ぜひ、ご参加をオススメします!
詳細は、公式ウェブサイトの他、XやInstagramをご確認ください。

さて、臨床家にとって大切な目標設定
対象者の状態の見通しがわからない、ということとは別問題
むしろ、わからないからこそ、目標設定することに意義があります。
これは次の記事で述べていきます。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/5016

かきこみ食べ→小さいスプーン?根底にある問題

かきこみ食べをする方ってよくいると思いますが
対応としてどうするかというと
たいていの場合に
かきこみ食べをしないようにと、箸や小さいスプーンが提供されるかと思います。
でも、それでかきこみ食べが解消されたかというと
小さいスプーンでもかきこみ食べをしてるんですよね。。。
当初の問題設定に対して実効的な対策となっていないのに
そこはスルーされるという。。。
そして、かきこみ食べも解消されないし
当初、なかった別の問題、例えば、吸い込み食べや誤嚥といった問題が
新たに出現してしまいます。
実際に、「かきこまずにすくって食べるトレー」で紹介した方は
かきこみ食べ→小さいスプーン→もっとかきこみ食べ→誤嚥性肺炎に至っていました。。。
現場あるあるです。。。

こういった、パターン化した対応ができるということは
〇〇という時には△△する、というパターン化した思考回路がベースにあるわけで
パターン化した方法論を単に当てはめているだけで
目の前にいる方の状態像を的確に把握できているわけではないのです。
根本的な問題はここにあります。

逆に言えば
先の記事で紹介したトレーだって万人に通用する方法論ではありません。
当然のことですが。
ただし、紹介した事例にはドンピシャ!的を射た対応だった、
つまり、事例の状態像を的確に把握できていたことの証左だったわけです。

蛇足ですけど
別のかきこみ食べをしていた方には
全介助で食塊のとりこみの練習をしたこともあります。
かきこみ食べをせざるを得ない必然が
上肢の操作能力にあるのか、口腔機能にあるのか、私はきちんと判断しています。
私は必ず、最初にその方の食べ方の総体を観察していますが
多くの人は、かきこみ食べをしているという判断が先にあって
その方の食べ方の総体を観察しないという現実があります。

多くの人は
自身の気になるところしか、見ていません。
観察が不十分なんです。
やることばかり考えるけれど、やる前に観なければ。
でも、観るに足る知識がないから観ることができない。
だから、やることで補償(防衛機制)してるんです。
これは、食事介助に限らず、
認知症のある方への声掛けやリハやポジショニング、Activityの提供などなど
対応全般に言えることです。

 
だからこそ、私たちが変われば対象者の方も変わるんです。

ここに、未来への希望があります。
私が情報発信する意義もここにあります。

つまり、養成の問題なんです。
 
私の話は具体的です。
聞いた人が汎化できるように思考過程を明確化しています。
自己努力を惜しまない人に必要な情報提供ができるレアな話です。
講演あるあるの
単なるハウツーではありませんし、
理想論・抽象論だけを語る(騙る)こともありません。
理想を具現化してきた事実をお伝えしています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4966

「認知・認知の人・認知のある方」

バリデーションセミナー2012

ギョーカイ用語のようになっていますよね。
「認知・認知の人・認知のある方」
文脈から認知症や認知症のある方のことを言っているのはわかりますが
これって、とってもヘンな言葉です。

私は地域の公民館に伺って講演をすることもありますが
ある時、講演終了後に一人の方が近寄ってきて
「すみません。質問があるんですけど」と言われました。
「認知とか認知の人、認知のある方っていう言葉がありますが
 これって変な言葉ですよね?」と尋ねられました。

まさに!まさに!

お気づきの方もいるかもですが
私はいつも「認知症のある方」という表現をしています。
だから、尋ねてくださったのだと思います。
この表現は、英語の「People with Dementia」「People who have Dementia」の直訳です。
英語表現のすごいところは、ちゃんと「人+認知症」として明確に区分けしているところです。
そもそも「人」がいて「認知症」になったということが明確に表現されています。

ところが、日本で一般的に使われる認知症高齢者という言葉だと
「人と病気が混在・一体化」「人が形容詞化」「病気に修飾された人」として
表現されています。

「認知・認知の人・認知のある方」って日本語としても成立していませんし。
認知という精神機能と生きている人間とを並列表現するのもおかしいし
認知があって良いじゃないですか。認知が無ければ困るじゃないですか。
英語にするともっとハッキリわかると思います。
「cognition・People of cognition・People with cognition」
もはや、何を言いたいのかわかりません。。。

言葉は概念を表すものなので
こういう言葉を使っていながら「人として接する」というのは論理矛盾しているんじゃないかしら。

言葉を大切にするということは、概念を大切に取り扱うということです。
医療・保健・福祉従事者が「認知・認知の人・認知のある方」と言うのは
「私は概念をきちんと取り扱えません」と公言しているも同然なんですけどね。。。

私たちは対人援助職のプロとして養成されてきましたが
質問した人だって、何かの職業のプロです。
だからこそ、「言葉と概念の食い違い」に気がついて質問されたんじゃないだろうか
と感じました。

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4940

体験送り@介助

ポジショニングや食事介助は
適切に行えれば効果がその場で出ることはもちろんですが
次の機会にも良い影響を与えるものです。

例えば
ポジショニングを朝適切に設定できれば
次に体位変換をする時にも身体はリラックスしていて
スムーズにポジショニングが設定できます。

逆に
ポジショニングを適切に設定できなければ
次に体位返還をする時に身体の筋緊張が亢進したままなので
余分な力を必要としたり
上手く設定できなくて修正も大変で時間がかかってしまいます。

食事介助や口腔ケアにおいても
適切な介助ができれば
対象者の持っている能力が発揮されるので
対象者も食べやすくなり
介助者も負担が減って楽になります。

その能力発揮は次の介助場面でも発揮されるので
どんどんと楽になっていくものです。
ポジティブな体験送りを認知症のある方とスタッフの協働で行えるようになります。

逆に言えば
無理矢理食べさせたり、歯ブラシをいきなり口の中に突っ込んだりするような
介助者の行為は、その場では仕方ないと言う人もいるかもしれませんが
感情記憶は蓄積していきますし
重度の認知症のある方でも再認できる方は大勢います。
(たとえ、言語表現力が限定していて言葉にしなくても
 感受している可能性は大いにあります。)
歯ブラシを口の中に入れるという特定の場面で
前回の苦痛な感情を伴う体験を再認できるからこそ拒否する
という方もいるのです。
この局面だけを切り取って、拒否するのは認知症で理解できないから仕方ない
拒否しても口腔ケアはせねばならないと考えて無理矢理口腔ケアをしていては
いつまで経っても口腔ケアに協力してもらえないどころか
ますます悪循環になって口を開けてくれなくなったり、
口腔ケアをしようとするスタッフの指を噛んでしまうことすら起こりえます。

ネガティブな体験送りをスタッフがしてしまっているのです。

その方それぞれに苦痛でない方法、受け入れやすい口腔ケアの模索を考えるべきです。

  「わかっちゃいるけど、時間がないからできないのよ」
  と言う人は時間があってもできない人です。
  その場の1分を惜しんで長期的に10分の時間を所用するように
  なっていることがわからずに「大変」「忙しい」と言う人です。
  適切なポジショニングを実現できて、
  その意義も実感できている人はきちんと実行しないではいられません。
  適切なポジショニングをできれば設定に必要な時間は短縮されます。
  どんどん短縮されるものなのです。
  食事介助でも口腔ケアでもまったく同じコトが違うカタチで起こっています。

次の人にマイナスの体験を送ってしまうことも起こり得ます。

対象者と次の人が大変な思いをしながらでも
もう一度食べる再学習を促すことができれば
プラスの良循環が起こります。
つまり適切な介助ができない人のツケを
対象者と適切に介助できる人が払わされるという構図になっているのです。

食事介助もポジショニングも生活期の初期にはさほど目立ちません。
対象者自身のレジリエンスが高いからです。
軽度の方が短期的に利用する施設ではなく
特養(介護老人福祉施設)や長期入院・入所・利用が可能な施設において
当初はそうでもなかったのにレジリエンスの低下とともに表面化してくることがわかると思います。

逆に言えば
「そんな人はいないから関係ないもん!」ではなくて
予防的に適切な対応ができるようにきちんと申し送りができることが大切です。
きちんと申し送る。。。というのは再現性を担保できる
ということです。

つまり、自分自身で常に適切に対応できるからこそ
対象者のポイントが把握できていて
なおかつ、他職員が対応し損ねてしまいがちなポイントも把握できている
そこを明確に言語化したり視覚化することができる
ということを意味しています。

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4906

その人らしさって何?

その人らしさって何?
そう尋ねられて端的に明確に言語化できる人は少ないものです。

その人らしさとは、特性のことです。
その人が繰り返し使ってきた行動のパターンのことです。

行動のパターンなので
パターンが良い結果となることも
そうでないこともあります。

認知症のある方の場合
前の記事で書いたように
特性が裏目に出ると生活障害というカタチに見えるので
単に判断力低下と職員が誤認してしまい適切に対応できない
しかも、職員がそのことを自覚できていない
認知症のある方が疑問を抑圧せざるを得ず
本当の問題が表面化しにくい
認知症のある方は表面的に職員の指示に従っても
本当の信頼関係が構築できにくい
というケースがかなりあります。

「その人らしさを大切に」と唱えている場合じゃありません。
繰り返し唱えることで事態が改善されることはありません。
唱える前に、まず概念の本質を理解することが大切です。
概念の本質を理解できれば観察・洞察への道が開けます。

 

・・・ さて、ここでお知らせです ・・・

今月と来月は
記事の更新を月1回とさせていただきます。
どうぞご了承ください。
 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4927