Category: 教科書的基礎知識篇

すぐ怒る方への対応その2

私が大好きな「ゲド戦記」
(映画じゃなくて原作の方です)
なかでも「帰還 ゲド戦記最後の書」は何回も繰り返し読んでいます。

ファンタジーなんだけど
驚くくらい現実を反映してもいます。
臨床心理学者の河合隼雄の本で紹介されていて
それから読み始めたのですが、もっと早く出会えていたら。。。と思った本です。

テナーとコケばばとのやりとりがものすごく深くて鋭くて。。。
テナーという女性は昔ある国の女王として奉られ深い闇の世界に暮らしていました。
コケばばは魔法使いではなく女まじない師として暮らしています。
この本では「知と力」の暗喩として「魔法」が登場します。
ちょっとコケばばの言葉を引用します。
 
・・・・・・・・・・・・・
p.81より
「(前略)
もし、わしの顔にちゃんと目がありゃ、わしにはおかみさんに目があるのがわかる。そうじゃないですかね。もし、おかみさんが目が見えなくても、わしにはそれとちゃんとわかる。もし、おかみさんがあの子みたいに一つしか目がなくても、反対に三つ目があっても、それもこっちにはわかる。だけど、わしの方に見る目がなかったら、相手に目があるかどうかは言ってくれなきゃわからない。
(後略)」
・・・・・・・・・・・・・

言ってくれなきゃわからない

まさしく、まさしく!
見る目があるから相手のことがわかる。
見る目がなかったら相手に言ってもらわないとわからない。

認知症のある方のほうから
何を怒っているのか解説してくれることはありません。

認知症のある方のほうから
食事介助ではここが食べにくいのでこうしてくれたら食べやすくなると
解説してくれることもありません。

こちらに見る目があれば
何を怒っているのかがわかるし
どこが食べにくくなるかもわかるし
だから、どうしたら良いのかもわかるのです。

臨床能力を高めるうえで最も大切なことは、見る目を涵養することなんです。
検査やバッテリーや理論や論文の読み書きは観察の視点を増やすことはあっても
観察力を磨くことに直結はしていません。
観察力を磨くことに直結するのは基本的な知識の習得です。
ここで怠られがちなのが、概念の本質を理解する力です。

「構成障害って何?」と尋ねられて
端的に明確に即答できる人がどれだけいるでしょうか?
「遂行機能障害って何?」と尋ねられて
端的に明確に即答できる人がどれだけいるでしょうか?
「目標って何?」と尋ねられて
端的に明確に即答できる人がどれだけいるでしょうか?

往々にして、専門用語を使ってはいるけれど
専門用語の概念の本質を理解していなかったりします。
だから、日頃の臨床場面で
五角形模写テストや立方体透視図模写テストをしたり
トレイルメイキングテストをしているのに
端的に明確に即答できなかったりするのです。
目標を目標というカタチで設定できずに方針や治療内容を目標として設定してしまうのです。
HDS-RやMMSEをとっても
日頃の臨床場面で記憶の連続性がどの程度あるのかを根拠にした声かけができなかったりするのです。

端的に明確に答えられないということは
わかっていないということなので
わかっていないから目の前で起こっている事象からそれらの障害を観察することができないのです。
(時々、わかってはいるけど言葉にできないだけ。と言う人もいますが、それはあり得ません。
 わかった気になっているだけなので言葉にできないのです。)

目の前で怒っている方が何に怒っているのかを
観察できないのは、こちらの能力不足のせいで
認知症のある方が怒るには怒る必然性があって怒っています。
その必然性は、その時その場のその関係性の中にいるあなたにしかわからない。
私たちは専門家としてそれだけの責務があるのです。

「あの人はすぐに怒る」
確かにそうかもしれません。
でもそれって専門家でなくてもその程度のことはわかりますよね?
怒りという形で表現しているもの、怒りに反映されている能力と困難と特性を把握できるから専門家なのではないでしょうか?

認知症だから
能力が低下しているからすぐに怒る。とは限りません。
むしろ能力があるからこそ、すぐに怒る方だっています。
見当識と記憶が曖昧になると
現実の体験・感情と、過去の体験・感情が混同されてしまうことも起こり得ます。
そこを解きほぐさないと。
どうしたら良いのかは、その次の話です。

たいていの場合に
専門家としてすべきことをすっ飛ばして
「どうしたら良いのか」悩んでいるわけです。。。
だから、適切な解を見出せるわけがない。

私は生活障害の場面から
反映されている能力と障害と特性を観察しています。

障害を観察するには認知症固有の知識も必要ですが
臨床家としての基本的な臨床態度は
どの障害・疾患・分野でも共通しているものだと考えています。

認知症に関する質問を受けて
私が危機意識を抱いているのは
これって本当に認知症限定のことなんでしょうか?ということです。
認知症はOTが対象としてから、まだまだ蓄積が少ない分野です。
だから表面化しているに過ぎないのではないでしょうか?

 

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すぐ怒る方への対応

「すぐに怒る方がいてどうしたら良いのかわからない」
という質問をたくさんいただきます。

いくら専門家といっても
怒られたら嫌だし怖いですよね。
人として当たり前の感情は否定せずに受け止める。

でも、同時に、貴重な情報収集の機会として活用すべきです。

「怒る人がいる→怒らないようにするにはどうしよう」
というような表面的な対応を考えるのは、もう卒業しましょう。

怒る人は、いったい何に怒っているのかを情報収集することから始めます。

ここでいう情報収集とは
「〇〇に怒っていたのかも」
「△△に怒っていたのかも」
と勝手に考えるのではなくて
認知症のある方が怒った場面を振り返ります。

認知症のある方と自分がいる場面、周囲の環境は
どんな状態だったのか
認知症のある方が感受したであろう視覚情報や聴覚情報は何だったのか
自分は何をどんな口調でどんな風に伝えたのか
その時の距離や身体の動きはどのようだったのか

次に
認知症のある方の
記憶の連続性や見当識、言語理解力や言語表現力を把握できていれば
上記の環境情報をどのように感受し認識したのか推測できます。

そうすれば
回避すべき言葉や口調、表情や態度、場面設定が
自然と一本道のように浮かび上がってきます。

多くの場合に
認知症のある方の記憶の連続性や
言語理解力や言語表現力を把握できていないことが多々あります。

その方の特性も把握できていないので
踏んではいけない地雷を無自覚に踏んでいることもあります。

認知症のある方が怒りっぽいのではなくて
実はこちらの声かけを理解できないから起こっていることも多々あります。
身体的な疾患、つまり具合が悪くて自身の状態を的確に伝えられなくて
怒ってしまうことも多々あります。

怒らせないようにする方法がわからないのではなくて
認知症のある方が何に怒っているのかわからない
どうしたらよいのかわからないのではなくて
何が起こっているのかわからない
つまり、対応の問題ではなくて評価の問題であり
問題設定の問題なのです。

認知症のある方の困りごとを解決しようとするのではなくて
自分が認知症のある方に困らされていると無自覚に判断している
自分の困難を認知症のある方の問題として投影しているのです。

こういった専門家と呼ばれる人たちの現実は
潜在していて表面化していませんが
実は、いろいろな場面でカタチを変えてたくさん起こっています。

まずは
問題設定を変えてみましょう。
そうすれば、情報収集しようと自然と思えます。

 

 

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臨床能力を高める

働いていれば
「どうしたら良いのだろう?」と悩むことはたくさんあります。

そのような時には
考えるのではなく
誰かに聞くのでもなく
観察に立ち戻ります。

食事介助でも
ポジショニングでも
BPSDへの対応でも
Act.の選択でも
どうしたら良いのか。。。ということは
評価さえできていれば、一本道のようにスーッと浮かび上がってくるものです。

〇〇という困難はあるけれど
△△という能力がある。
⬜︎⬜︎という状況を☆☆と認識しているだろうから
**という対応をする。というように

浮かび上がってこない時には
評価ができていないから
そして、そういう時にはたいてい観察ができていないんです。

認知症のある方の言動を見落としているか
自身の非言語を含めた言動を見落としているか
それらを見誤っているかのどれか、もしくは重複です。

じゃあ、どうしたら
見落としなく見誤ることなく観察力を磨くことができるのか
了解をもらって録画しましょう。
そして繰り返し繰り返し見返しましょう。
虚心に見返すことがポイントです。
「読書百遍義自ずから通ず」と同じことが起こります。
「じっと見る」「隈なく見る」「何回も同じ場面を見る」
ことで気づけることがあります。
知識がなくても違和感を覚える場面があるはずです。
知識があればハッと気がつくことができます。
意図していなかった自身の言動の不適切さに気づくこともあるでしょう。

観るということは、事実をありのままに観るということです。

専門家と呼ばれる人たちが陥りやすい罠は
事実をありのままに見るのではなくて
あらかじめよく耳にする言葉ですぐにくくってしまうことです。

よく使われているギョーカイ用語(専門用語ではない)でくくる
ということは
事実をありのままに観るのではなく
判断を交えて見ている、つまり思い込みをもって見ている
ということを表しています。

こういう人たちは本当に多いです。
OTも多いですけど他の職種の人たちも多い。
というか、事実をありのまま観察できる人の方が少ないんじゃないかな?

考えてみれば
卒前卒後の養成過程において
観察をさせ言語化させる機会ってあんまりないんじゃないでしょうか。

専門家としての観察力ってとても重要な能力なのに
検査やバッテリーや論文や理論の重要性が語られることはあっても
観察の重要性って何故かあまり語られていません。
(その理由はここには書きませんけど)

養成に関しては
卒前でも卒後でもグループワークの導入が進んでいますが
認知症のある方への対応を考えさせるようなグループワークは
百害あって一利なし。です。
観察よりも勝手な思い込みを助長させてしまうから。
 
もしも、グループワークをするなら
ある場面を見させて、観察・言語化しあう体験の方が有意義です。
そして最後にきちんと解説できる人が解説する。
というような体験が必要だと思います。
(解説者が専門家としての観察力を持っていることが必須ですが)

養成の問題は養成の問題としてありますが
臨床での問題は待ったなしです。
誰かの助けを待つよりも自分で自分を育てる方が
手っ取り早いし確実でもあります。

先に挙げた観察力を磨く方法は
今すぐに自分一人でもできる方法です。

臨床能力を高めたいなら観察力を磨くべきです。
観察の解像度を上げることができれば
より細かくより明確に状態像が把握でき
より精密により適切な場面設定を含めた対応ができるようになります。
そのことは確実に認知症のある方に伝わります。
その結果、認知症のある方の本来の能力を目にすることになり
挫けそうな時に自身の努力を支えられることにもなります。

 

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「ムセたらトロミ」はやめましょう!

対象者の方が
飲み物を飲んでいてムセたら
すぐにトロミをつけている人はとても多いですよね?
それはもうやめましょう!

やめるべき理由は
1)その方がどのように飲んでいるのか観察していない
  その方の飲食の能力も困難も把握していない
2)ムセる人にはトロミをつけるべしと
  教わったことを漫然と実行しているだけ
3)トロミという粘性の高いものを摂取させられると
  かえってその方の摂取能力を阻害してしまう場合が多い
です。

確かに
トロミをつけた方が良い状態の方もいますが
トロミをつけるよりも先に修正すべき介助者の対応が
為されていないこともあります。

例えば
覚醒不良のまま摂取させている
口腔内が汚染されたまま介助している
痰がらみのまま摂取させている
頸部後屈位のまま摂取させている
足底設地為されていない
注意散漫な状態のまま介助している
不適切なコップ介助をしている
不適切な1口量を摂取させている
オーラルジスキネジアの自己抑制のタイミングを見ずに介助している
などなど。。。

上記状態を改善させずに
ムセたらトロミ、さらにムセたらもっとトロミをつける。。。
現場あるあるではありませんか?

かつて
200ccのお茶にトロミ剤を大さじ2杯つけている場面に
遭遇したことがありますが
飲めませんよ?
同じ粘性で飲めるかどうか、飲んだ時の感覚を知るためにも
ぜひ、試していただきたいものです。

おくりこみにパワーはいるわ、
咽頭のあたりにこびりついた感覚がするわ、
嚥下した後も違和感がずっと続きます。

私たちは
その違和感を解消しようとして
唾液を繰り返し飲み込むことで解消することができますが
さて、該当する対象者の方々はそこまで実行できるのでしょうか?

寝たきりに近いと
口唇や舌、口腔内が乾燥してしまいがちです。
そのような方の咽頭付近にトロミのついた飲み物が
貯留し続けることで細菌感染の温床となる危険性はないのでしょうか?

誤解を招きたくないのではっきり言いますが
トロミ剤が悪いと言っているわけではありません。
必要な方には必要なトロミをつけた飲み物を提供すべきです。
悪いのは
「ムセたらトロミ」
「うまく飲み込めない方にはトロミ」
という漫然とした対応・パターン化した対応です。

例えば、認知症のある方は
睡眠導入剤や抗不安薬、抗精神科薬を処方されることも多々あって
オーラルジスキネジアのある方は少なくありません。
 
オーラルジスキネジアのある方の飲食介助は、実はとても難しいものです。
準備期や口腔期に問題が生じていますが、
咽頭期には問題がないことの方が圧倒的に多いのです。

ところが、オーラルジスキネジアがあることにすら気づかずに
「なんか食べにくそうだから、トロミをつけてみようか」
とトロミがつけられてしまい
口腔期に一層の負担をかけて、結果、
おくりこみができずにため込んでしまうというのは現場あるあるです。

  講演などの質疑応答で
  「ため込んでしまって飲み込んでくれない人がいるのですが
   どうしたら良いのでしょうか?」
  という質問をいただくことはよくあります。

  ためこむというのは、おくりこみ困難の結果として起こっていることですから
  本来は「送り込むのに時間がかかる」という事象として観察・判断すべきです。
  そのような問題設定ができれば
  「現在の食形態は口腔期に負担をかけている」
  「楽に送り込める食形態を選択しよう」と考え直すことができます。

  対象者自身の食べ方そのものを観察・洞察するのではなく
  介助者にとっての介助困難を対象者の問題と認識してしまう傾向がある
  という根本的な大きな問題が現場には存在しているのですが
  明確に把握し危機意識を抱いている人がどれだけいるのでしょうか。

ムセ→トロミ
という漫然とした根拠のないパターン化した対応は、もう卒業しましょう。

立ち上がれない→筋力強化
という漫然とした根拠のない対応と、同じコトが違うカタチで起こっています。

大切なことは
その時々の対象者の方の状態をきちんと観察・洞察することです。

 

 

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心身の使い方は重度の認知症でも改善できる

人は生き物ですから
どうしても老化は起こります。

老化の一環として量的低下も起こります。
若い頃は記憶力が良かったのに
年をとるとめっきり落ちてしまったとか。
かく言う私も高校生の頃は部活の先輩も後輩も含めて
みんなのお誕生日と電話番号を覚えていたものですが
今は、とっても無理!
覚えることは選択肢にもあがりません。
まず、スマホを取り出しています。

老化は生き物としての宿命です。

アンチエイジングも一つの考え方ですが
それにしたって不老不死というわけにはいかないので
限界があるものです。

であるならば
なるべく心身の機能を維持できるように考えるだけでなく
衰えていく心身と上手に付き合う方策を考えても良いのではないでしょうか。

流動性知能が衰えても、結晶性知能は維持されやすい
とはよく言われていることです。

流動性知能をトレーニングするのではなく
結晶性知能を活用できるようにする

今や覚えていなくても
PCやスマホを開けば情報を得ることは容易です。
人に要請されるのは、情報の真偽や適否を見定めることです。

結晶性知能を活用する
まさしく、智慧や叡智が求められている。
その点において(背景は真逆であったとしても)
認知機能が低下しても暮らしていくことと
情報の海に溺れずに仕事をする、生きていくことに
大きな変わりはないように感じています。

鶴見俊輔は
「耄碌を濾過器として考える。
 大事なことだけ残してあとは忘れていく。」(要旨)
と言っていましたっけ。

それと同じことが身体にだって言えると思うのです。

筋力という量的低下はあっても
身体協調性を高めて対応力を維持していく

食べることに関しての協調性を維持できるような食事介助を意識する

喉頭挙上能は、介助によって相当変わります。
もちろん、対象者固有の病態による場合もありますが
生活期にある方の場合には多くは不適切な介助による誤学習が原因です。
だからこそ、介助を変えると食べ方が変わる
喉頭挙上できなかった方でも完全挙上できるようになります。

立ち上がりに関しても
なかなか立ち上がれずに生活が不便になってきたら
腰背部の同時収縮を使わない立ち上がり方に変えていく

もちろん、重力に負けない+体重を支えられるだけの筋力は必要ですが。
ボディビルダーにならないと暮らせないわけではありません。
MMTで5ないから立ち上がれないわけではありません。
どこまで筋力を鍛えなければいけないのか
その根拠もなしに、立ち上がり100回なんてやっていると
「漫然としたリハ」と言われちゃうんじゃないでしょうか?

結果として起こっていることだけを見て
老化、筋力低下と判断するのではなくて
年老いたとしたら、その年老いた状態なりに、その時々に応じて
リ・ハビリス(再び適する)の援助となるように

高齢期において
筋力低下・廃用論が吹聴され流布していますが
本当にそうなんでしょうか?

立ち上がりにおいても
食事介助においても
筋力強化をしなくても
立ち上がれるようになる
喉頭挙上が改善するということに当たり前のように遭遇しています。

impairmentは治せないが、disabilityは改善できる。

身体はつながっている
解剖学的にも生理学的にも連続性があります。

連続性があるという身体の働きのメリットを活用できるような
リハビリテーションの実践が求められていると考えています。

 

 

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口腔期のリハ:2項関係で実施

認知症のある方は
介助に対して適応することが難しい方もいるので
介助方法をいろいろと工夫するよりも
自力摂取を目指す方が良い方もいますし
自力摂取を目指すべき方もいます。
 
特に
前頭側頭型認知症のある方や
オーラルジスキネジアのある方や
性格的に意思表示がきっぱりしていて
自主独立の生き方をしてこられた方は
介助というカタチで他者の介入をすることを嫌がったり
介助にうまく協力することが難しかったりします。

  特性の判断についても
  介助していればわかるものです。
  食べるという行動に特性が反映されるからです。
 
  「もしかしてお若い頃からご自身の考えを明確に持った
   すごくしっかりした方でしたか?」
  「もしかして慎重な方でしたか?」
  とご家族に確認すると
  「えぇ、そうなんです」「その通りです」と驚かれることもよくあります。

  こちらの介助への反応の仕方
  例えば口腔ケアへの拒否の仕方も評価の根拠となる大切な情報です。
  「拒否=問題」として捉えたり
  「拒否=辛い、困った、嫌」としてしか受け止められないと
  大切な情報を取りこぼしてしまいます。
  拒否されるのは自身にとっては辛いことではありますが
  対人援助職だからこそ、自身の辛さは辛さとして受け止めた上で
  貴重な情報収集の機会として活用できるようになると
  結果として拒否されることもなくなってくるものです。

そのような場合には介助を工夫するのではなくて
食環境調整として、
イマ、ラクに、食べられる対象(食形態)を適切に選択することが大切です。

認知症が進行すると
impairment面への直接的な抽象的なリハは難しくなります。
例えば、舌の突き出しや左右へ動かすなどの個別の動きを
セラピストの指示通りに動かすことが難しくなります。
だからといって、リハができないわけではありません。
disability面へのアプローチなら可能なのです。
結果として、舌の多様な動きが担保できるようになれば良いのです。

セラピストは直接介入せず
食べる対象を適切に選択することで
認知症のある方が対象に適切に対応することを促す
つまり、2項関係でのリハを行っているのです。
認知症のある方の身体を対象化させないということです。

食べるというのは
究極の手続き記憶です。
誰でも赤ちゃんの頃から
一日3食プラスα、毎日毎日繰り返し行ってきた手続き記憶であり
現在進行形で
一日3食プラスα、毎日毎日繰り返し行われるADLなので
再認の可能性の機会がたくさんあります。

食事介助というのは
どんなに重度の認知症のある方でも
食事介助によって食べ方が良くなる可能性も
悪くなる恐れも同時に存在する場面なのです。

手続き記憶とは非陳述記憶のひとつです。
非陳述記憶とは記銘ー保持ー想起の過程に意識が関与しない記憶です。
手続き記憶を賦活できるようにするためには
意識を関与させず
身体のことは身体に任せるという関与の仕方が有効です。

 

 

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ムセの起こるパターン スプーンテクニックで予防・改善

スプーン操作を見直すべき兆候をまとめました。
もしも、対象者の方が下記のような食べ方をしていたら
介助者側の不適切なスプーン操作の結果ですから
ぜひ、ご自身のスプーン操作を見直していただきたいと思います。

・・・ スプーン操作を見直すべき兆候 ・・・・・・・・・・・

 
  <開口した時>
  ・舌が奥に引っ込んでいる
  ・舌が硬くなっている


  <食塊をとりこむ時>
  ・顎が上がっている
  ・上唇を丸めずに閉じている
  ・口角から食塊がこぼれ落ちる
  ・引き抜いたスプーンに食塊が残っている
  ・正面ではなく介助者の側に頭部を回旋している


  <食塊が口腔内にある時>
  ・咀嚼・送り込みに時間がかかる


  <食塊を嚥下する時>
  ・喉頭が完全挙上しない
  ・喉頭が複数回挙上する

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  

食事介助はカンタンだと思われているのか
卒前卒後を問わず、してはいけないスプーン操作について
そしてその理由についてもきちんと教えてもらっていないがために
美味しく食べていただきたいと願いながらも
結果として不適切なスプーン操作をしてしまい
対象者が食べづらそうにしていると漠然と思っても
どこがどうなっているのか、なぜそう感じたのかを言葉にできず
悶々とした日々を送っている人も多いのではないでしょうか?

舌が後方へ引っ込んだり、板のように硬くなってしまうのは
介助者がスプーンを口の奥の方に突っ込んだり
上の歯や歯茎で食塊をこそげ落としたり
口の中に食塊を入れたり
嚥下しきっていないのに次の食塊を介助するような
スプーン操作を行うことで引き起こされます。

介助する側は
その場でムセることがないと
自身の不適切な介助方法を自覚することができず自己修正もできません。

生活期にある方は、食べにくいと感じても
その食べにくい介助に適応しなければなりません。
一日3回の食事+午前午後の水分補給と
必死になって食べているのです。

舌が板のように硬くなっている方でも
前舌をしっかりと押してあげる操作を
食事介助の場面で毎回毎回繰り返し行うことで
しなやかさを取り戻すことができます。

前舌をしっかり押すと
作用反作用の法則で、押された反作用として舌尖の跳ね返りが起こります。
板状となってしまった舌にもう一度「動きの再学習」を伝えるのです。

喉頭挙上のタイミングが良い方で完全挙上ができる方であれば
自分自身のペースで摂取できるように
ストローで飲み物を摂取していただくと
綺麗に送り込みができて、ムセもなく喉頭完全挙上しながら
飲める場面を目にすることができるでしょう。

介助が必要であれば
口腔期の負担を減らせるように
ツルンとしたテクスチャーのゼリーなどを少量提供すると
スムーズに送りこめて、喉頭も完全挙上できる場面を目にすることができるでしょう。

このあたりの判断は
その方の口腔期と咽頭期の能力と困難の兼ね合いとなるので
一概にどうすべきかは言えません。
目の前にいる方の食べ方をきちんと観察し
食べ方に反映されている能力と困難を洞察すれば
適切な食形態と介助方法が自然と浮かび上がってくるものなのです。

咽頭期の問題、例えば
喉頭挙上のタイミングのズレ、遅延、挙上の可動域の少なさ
が咽頭期本来の問題のことは実は非常に少ないのです。
この辺り、現行の摂食・嚥下の知見が嚥下反射に囚われすぎていると思います。
おそらく、もともとはCVA後遺症をベースに知見が蓄積されてきたことに
関係していると思っています。
喉頭が不完全挙上しかできない方でも
適切なスプーン操作を繰り返すことで完全挙上できるようになったり
バラバラのタイミングで複数回挙上してようやく完全嚥下していた方の
タイミングが整ってきて〇〇秒ごとに〇〇回の挙上が起こって完全嚥下
と明確化できるようになったりします。

この時に大切なことは
相手の食べ方を尊重して、決して修正しようなどとはせずに
(相手の食べ方は今までの介助方法に対する誤学習なので
 誤介助にすら適応してきたという家庭を尊重します)
まずこちらの介助を適正化して反応の変化を待ちます。
 
適正化できるということは
冒頭に記載したような食べ方を引き起こさないことを最低限担保したうえで
その方固有の食べ方に合致させた介助ができるということです。

多くの場合に、食事介助をカンタンに考え過ぎなんです。
自分の介助に根拠不明な自信がある(苦笑)から介助したがる(苦笑)
「私の介助が下手なせいで食べにくい思いをさせたらどうしよう」
ともっと不安に思ってほしいと思います。

ためこみや吐き出し、ムセなどの食べることの問題が生じた時に
ちゃんと観察もせずに、自身の介助を振り返ることもせずに、まず介助する
介助してうまくいかないことを体験して初めて
「どうしたらいいんだろう?」と考える。。。
そりゃーうまくいくわけない(苦笑)

逆に言えば、ここに未来への希望があります。
ちゃんと観察する
自身の介助の適・非適を振り返る
これらができれば
今まで見えなかったもう一つの現実を目にすることができます。

「何がいいんだろう?」「どうしたらいいんだろう?」
と考えなくてはならないとしたら
それはまだ観察・洞察が不足しているということを示しているので
もう一度観察に立ち返れば良いのです。
というか、観察に立ち返るしかないのです。

  側臥位での食事介助も提唱されていますが
  確かに側臥位は、舌の送り込みに関しても喉頭挙上に関しても
  除重力位となるので負担を減らすことができますから
  その面では効果的だと言えますが
  介助における誤学習誤介助の側面を解決できなければ片手落ちとなりかねません。

多くの場合に
食環境や介助方法を変えることによって
もう一度安全に食べられるようになりますが
本来のその方の能力発揮を促しているので当たり前のことです。
適切に対処できれば、舌が硬くなることもないのに
適切に対応できないために、舌が硬くなり結果として喉頭の動きが悪くなり
低栄養や脱水を回避するために必死になって
介助者が口の中に飲食物を「入れよう」とした結果
喉頭不完全挙上やタイミングのズレによって誤嚥性肺炎のリスクは甚大になります。

善意に基づく行動であったとしても
知識と技術の伴わない行動によって真逆の事態を引き起こしてしまいかねません。

  地獄には善意が満ちているが
  天国は善行が満ちている

ムセの有無しか確認しない食事介助というのは本当に恐ろしいものなのです。

 

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ムセの起こるパターン 舌の硬さ

ムセの起こるパターンは2つあります。
1つは、咽頭期そのものの働きの低下で
もう1つは、口腔期の働きの低下によって二次的に咽頭期の低下が起こる
ことの2つです。

生活期にある方の場合に
圧倒的に多いのが、2つ目の口腔期の働きの低下によって
二次的に咽頭期の低下が引き起こされているというケースです。

前の記事で書いたように
舌が板のように硬くなったり、後方へ引っ込んだりしていれば
(ひどい時には舌が硬く丸まった状態で
 上後方へ引っ込んでいるケースに遭遇したこともあります)
舌のしなやかな動きができなために
食塊の再形成や送り込みが困難になってしまいます。

ここで誤解が多いのが
重度の認知症のある方でも常に自身でなんとかしようとしている
ということを私たちが忘れてしまいがちなことです。
口腔期の低下があっても何とか食べようとすれば
協調性の低下をパワーで補う、力任せに過剰に頑張って飲み込もうとするしかありません。
最初はそうやって飲み込めていても
舌が硬いということは、内舌筋(固有舌筋群)だけでなく外舌筋群も硬くなっています。
その状態に加えて、さらに過剰な努力を要請されることで
頚部の筋も硬くなってしまいます。
その結果、喉頭が円滑に動けなくなってしまう。
そして、喉頭挙上に遅延が生じたりタイミングがズレたりしてしまう。
こんなに食べにくい状態でもムセがないから見落とされています。

ムセるようになって初めて食べ方に着目され
ようやく喉頭の不完全挙上を目にしても
口腔期や経過について見落とされているので言及されない。
その結果、老化による筋力低下によって喉頭挙上困難と判断されてしまいます。

  生活期にある方の立ち上がり困難という事象に対して
      筋力低下論が提唱されています。

  ですが、私は筋力低下は結果として起こる。
  身体協調性低下のために立ち上がり困難が生じる
  立ち上がり困難な方に対しては立ち上がりや筋力強化をするのではなくて
  身体協調性を高めるために座る練習をすることを提唱しています。
  「座る練習」をすることでたくさんの方が立ち上がれるようになりました。
  詳細は検索してみてください。
  カタチは違えど全く同じコトが食べることに関しても起こっているのです。

舌の硬さが主問題であって咽頭期の問題は二次的に起こる。
多くの人が見落としている、食事介助の現場で起こっていることです。
咽頭期そのものに問題があるというケースは実は少ないのです。
「認知症だから食べ方を忘れる」と言う人もいますが
認知症のある方は「今食べている」ことを忘れることはあっても
食べ方はちゃんと身体が覚えています。

  大雑把な言い方をする人は
  ちゃんと観察していないから
  その方固有の困難が見出せずに
  じゅっぱ一絡げの言い方をするし
  じゅっぱ一絡げの介助をして
  じゅっぱ一絡げのレッテルを貼ることができるのです。

じゃあ、なぜ、舌そのものに病変があるわけでもないのに
舌が硬くなってしまうのか?

それは誤介助誤学習が起こっているのです。

誤介助、つまり、そうとは知らずにおこなってしまっている
不適切なスプーン操作のせいであり
不適切なスプーン操作という誤介助に対して、適切に対応しようとした結果
生活期にある方が自らの能力を落としてしまう誤学習が生じているのです。

適切なスプーン操作ができていれば
上記のような状態を予防することができますし
板のように硬くなっていても適切なスプーン操作によって
(特別のリハをしなくても)
もう一度柔らかい舌を取り戻すことができ、
結果として本来の咽頭期の働きも発揮できるようになります。

  もしも、本当に老化による筋力低下や
  認知症の重篤度のせいだとしたら

  改善されないですよね?

不適切なスプーン操作?

スプーンテクニックという言葉が定着するようになりましたが
ちょっとしたスプーンの扱い方によって
食べやすさ、食べにくさは大きく変わります。
次の記事でご説明します。

 

 

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