Category: ホントにあった体験談

Activityの提供:本当にあったこと3

近時記憶が著明に低下している方がいました。
毎日リハ室に来ているけれど
来室時には毎回「私こんなところ来るのは初めて」とおっしゃっていました。

その方には
集団でのリハで、終わりの挨拶をお願いしていました。

いつも遠慮なさるのですが
そこを是非にというと
皆さんの方を向き直り、ご挨拶してくださっていました。

近時記憶が低下してしまうと
同じ内容の話を同じ言語表現でお話される方が少なくありませんが
この方は毎回その都度違う内容を異なる言語表現でお話されていました。

なんてすごい方なんだろうと感じ入りました。

お若い頃には、ある活動のリーダーを為さっていたとのこと。
きっと毎回毎回参加者全員の様子をきめ細やかに確認しながら
為さっていたんだろうな。。。と思いました。

認知症のある方の場合
「ないものはない」
「してこなかったことは、できるようにはならない」
代わりに
「してきたことは明確に現れる」
「特性は明確に反映される」
ものです。

これだけ近時記憶が低下しているのに
一度も同じ内容でお話されたことはない。
その方の在りように感銘を受けたものです。

 

 

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Activityの提供:本当にあったこと2

ずいぶん昔の話ですけど
私が毛糸を巻き取っていたら
ある人に
「それならXさんでもできそうだから、やらせてみたら?」
と言われたことがあります。

Xさんは、90歳代の男性で長く農業を営んでいた方です。
確かにXさんなら動作的にはできそうです。
でも。。。

今でこそ、男女同権(に近い)。
夫婦揃ってお買い物したり
男性が出勤途中にゴミ出ししたり
家族のためにご飯を作ったり
といったことは珍しくありませんが
私が子供の頃には、ほぼありえないことでした。
(良いか悪いかはともかくとして)
「男子厨房に入るべからず」
という言葉だってあったくらいです。

毛糸を巻き取るという行為は
昔は女子供(昔はこの言葉が使われていました)の仕事でした。

Xさんが生きてきた時代と
今の若い人たちが生きている時代は
明らかに違っているのです。

Xさんは確かに認知症は進行していて
何かを作ることは難しそうです。
でも、できれば良い。毛糸の巻き取りで良い。
とは私は考えていませんでした。
尊厳の問題です。

「Xさんに毛糸巻きを提示する」
ということは
「あなたには、これがふさわしいと(私が)考えている」
ということを言葉にはしなくても伝えることを意味します。

私は
「できる」ことよりも「特性に合致しているか」
ということを重要視しています。
その理由と展開の仕方は「Activity選択の考え方」をご参照ください。

ちなみに
私がXさんに提供したのは
他の方がそれぞれ各自のAct.を行なっている並行集団に入ってもらい
「監督」の役割を担ってもらうことでした。

Xさんは、それぞれの方に
優しく労いの言葉をかけ
褒め称え
時には冗談を言って場を盛り上げ
お一人お一人の様子を気にかけ
優しく鷹揚に年長者として場を取りまとめてくださっていました。

お若い頃のちょっとした集まりの時にも
こんなふうに和やかな場づくりを意識されていたんじゃないかな
と感じました。

Activityを提供する時に
その方にとっての意義を第一に考えるということは
( 意味ではなくて意義 )
とても重要だと考えています。

 

 

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Activityの提供:本当にあったこと1

実際に私が遭遇したことです。

例えば
下記のような塗り絵の下絵を
認知症のある方に提供されていました。

これらの下絵のどこがマズイかというと。。。
1)幼稚な印象を与える
2)単純化されているので誤認しやすい

認知症のある方は
よくご自身のことを「頭がバカになった」と言われますが
決してそんなことはありません。

通常、作業療法士やその他の対人援助職が認知症のある方に出会った時点で
既に認知症のある方は普段の暮らしの中で
相当な困難、できなくなった、わからなくなった体験を積み重ねています。

そのような方に対して
幼稚な印象を受ける下絵を提供すれば
そんなつもりはなくても
やっぱり自分がバカだからこんな程度しかできないと思われているんだ
と感じさせてしまう恐れがあります。

かつて
デイの利用を拒否していた方が
「『あんなところに行ったって
 チーチーパッパ幼稚園みたいなことさせられるんだろう?』
と思っていたけど
全然違った。こんなことならもっと早く来れば良かった」
と言われたことがあります。

その方の誤解もあったかもしれませんが
まったく何もなければ誤解も生まれません。

現に、このような塗り絵の下絵には
私自身が異なる複数の場で遭遇しています。

塗り絵に限らずですけれど
「あなたの両親、学校の校長先生、病院・施設のトップに
 自信をもって提供できるActivityなのか?」
と自問することは大切なんじゃないかと思っています。

また
提供者側がこのような幼稚な下絵を提供するには
それなりの理由があるからとも考えています。
それは「単純化された下絵の方がわかりやすいだろう」
という誤解があるのではないかということです。

でも
それはまったくの誤解で
単純化された下絵はかえって誤認を生じさせやすいのです。

例えば
左側の下絵では
私たちは「ウサギが雪空を見上げている」と認識しますが
認知症のある方は
ウサギの顔を赤く塗り、背景を青く塗りました。
ウサギの顔だけに注意が固着されてしまい
ウサギを金魚、雪を水の中の空気の泡と誤認したのです。

真ん中の下絵は
私たちは「クリスマスのチキンがお皿に載っている」と認識しますが
認知症のある方は
チキンとお皿を黄色やピンクで塗り
添え物の野菜と持ち手の飾りを赤く塗りました。
チキンと野菜とお皿を「帽子」と誤認したようです。

右側の下絵は
私たちは「節分の時に玄関に飾るもの」
「鰯の頭をヒイラギに刺したもの」と認識しますが
認知症のある方は
鰯の頭を赤で塗り、ヒイラギの葉を緑で塗りました。
チューリップと誤認したようです。

「認知症だから変な色を塗る」
「認知症だからこんなこともわからない」
のではなくて
構成障害があったり、図と地の判別がしにくい方もいるし
近時記憶障害があれば、最初に塗り絵のテーマを説明しても
時間が経てば説明されたテーマも忘れてしまいます。

そういった病状特性を踏まえて
誤認しやすい下絵を回避するのは
作業療法士として大切なリスク管理の一つだと考えています。

ヒポクラテスの誓いは
「まず第一に患者を傷つけないこと」
で始まると日野原重明氏の本で読んだことがあります。

幼稚な下絵を提供することもリスク管理の一環として
回避する必要があると考えています。

シンプルな下絵の場合には
ちょっとひと工夫すると幼稚に見えなくなります。
「塗り絵の工夫:幼稚に見せない」をご参照ください。

 

 

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観察・洞察から始める対応の工夫

ほとんど休眠状態だったこちらのサイトに
こんなにもたくさんのアクセスをいただき
ありがたく思うと同時に
再開への誓いを新たにしました。

個人のサイト(OT佐藤良枝のDcゼミナール)を立ち上げたこともあり
どのように使い分けをしていくかは
走りながら考えていこうと思っています。

ただ
再開にあたり考えたこともあります。
それは事実に即して記述していくということです。

そんなの、当たり前じゃん。って思われるかもしれませんが
多くの場合に、常識とされている慣習的対応や視点、考え方に
無自覚のうちに支配されていることって多々あります。

  例えば
  老年期のリハ場面で立ち上がりの練習をするセラピストは
  大勢いると思いますが
  同時に座る練習をするセラピストは多くありません。

  私は立ち上がりの練習をするよりも座る練習をした方が
  より安全に円滑に立ち上がれるようになると考えており
  第12回神奈川県作業療法学会のワークショップで発表もしましたし
  こちらのサイトでも「立ち上がり」で検索していただければ
  多数の記事がヒットすると思います。

「できることのでき方をよくしていく」
という考え方が私の根幹にあります。

実は
できていることにも
できていないことにも
同じように能力も障害も困難も反映されています。

セラピストは
表面的な「できていること」「できていないこと」を見るのではなくて
表面的な事象に反映されている
impairmentの能力・障害・困難を観ることが重要で
(ここまでは、当たり前と思われると思います)
「できていること」の中には、かなり代償を使って
特に粗大なPowerを使って代償している面があります。

  立ち上がりを例にとれば
  腰背部の筋力があるからこそ立ち上がれてしまう。
  疾患によって筋力が以前のように発揮できない状態に陥ると
  立ち上がれなくなる。 
 
  そこで、筋力強化→立ち上がりの練習
  というのが今の一般的な方法論だと思いますが
  そうではなくて
  せっかく筋力が発揮できない状態になることができたので
  本来の身体協調性を発揮して立ち上がれるように再学習する

  そのためには、立ち上がりの練習をすると
  どうしても脳内にインプットされている過去の回路が起動してしまうので
  新しい回路を作るために、座る練習という体験を通して
  筋力を過剰に使わずとも身体協調性を再学習し能力発揮する
  このような方法論で多数の老年期の方が立ち上がれるようになる
  という体験をしてきました。

  私に言わせれば
  立ち上がり100回!とか、大腿四頭筋の筋力増強訓練!とか
  生活期にある方に対してはとんでもない話で
  せっかくの再学習の機会を奪ってしまっているとしか思えません。

  抵抗と防衛のために
  慣習的視点、対応、方法論にセラピストも支配され
  脱却が困難になってしまっています。

「できることのでき方をよくしていく」
というのは、代償を使わず本来の能力発揮を援助する
能力がより合理的に発揮できるように援助する
という意味なのです。

同じコトが違うカタチで現れていることは
ヤマほどあります。

認知症のある方への食事介助しかり
対応の工夫しかり
「褒めてあげる」「なじみの関係」etc.
(こちらも過去の記事にありますので、検索してみてください)

「事実の子たれよ。
 理論の奴隷たるなかれ。」

この言葉は
内村鑑三の言葉で
私が大切にしている言葉でもあります。

理論というのは
まさしく〇〇理論、〇〇法も該当しますが
常識、慣習的対応という言葉に置き換えても該当すると考えています。

「事実の子たれよ。
 理論の奴隷たるなかれ。
 事実はことごとくこれを信ぜよ。
 その時には相衝突するがごとくに見ゆることあるとも、
 あえて心を痛ましむるなかれ。
 事実はついに相調和すべし。
 その宗教的なると科学的なると、
 哲学的なると事実的なるとにかかわらず、
 すべての事実はついに一大事実となりてあらわるべし。」 

後半のくだりは、まさしくその通りで
実際に認知症のある方と接していて何回膝を打ったことか。。。

科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問であり
まして作業療法は実践の科学です。
実践の科学であるからこそ
解剖学・運動学・症候学などの基礎知識を習得し、
知識を活用して観察・洞察できるようになることが
未来の作業療法に貢献することに他ならないと考えています。

「観察の重要性を知った」
「評価しているつもりだったが、まだまだだと思った」
私の講演を聞いた方から、そのような感想をいただくと本当に嬉しく思います。

ハウツー的思考回路から脱却し
uniqeな目の前の対象者の困りごとの場面そのものを
自身も含めた環境因子の中で
明確に観察・洞察・対処できるようになる人が
一人でも多くなることを願って
このサイトを再開させたいと思います。

 

 

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11時30分になるところ…ということは

11時30分になるところ…ということはいわゆる暴言、介護抵抗があるAさんとお散歩に行きました。
そろそろ昼食の時間になるので
(Aさん、もうじき11時30分になるところですから、そろそろ戻りましょうか?)
と私が尋ねた時のAさんのお答えが
「11時30分になるところ…ということは、まだ少し余裕があるということですよね」
私が(そうですね。それじゃあもう少しここにいましょうか)と言うと
Aさんは間髪置かずに「ええ」と答えたのです。

Aさんは、暴言や介護抵抗というBPSDがあり、HDSーRをとればおそらく5点以下と推測される方です。
それでも、婉曲な言語表現を理解し、婉曲で細やかな言語表現で応答する。
重度なBPSDがあっても中核症状が重度だったとしても
Aさんがこれほどの言語能力をもっているという現実も変わらない。
Aさんは、お散歩の時に自ら周囲の景色を見渡して
風にそよぐ緑の綺麗な若葉を見れば
「青々としている」
「押したり引いたりしているみたい」
と観察したことを言葉にして現すこともできる方です。
もしかしたら、これだけ細やかな観察力と言語能力があるから「こそ」
周囲のいろいろな状況を見て、聞いていることを敏感に受けとめていたかもしれない。

私たちがよくしてしまうことの1つに言葉と行動の乖離があります。
例えば、食事が終わった方の食器を下げようとして
「お下げしてもよろしいですか?」と言葉では言っているけれど、手はすでに食器を持ち上げているという… (^^;
言葉は質問のカタチをとってはいるけれど、実はほんとうの意味では相手に尋ねてはいないという。。。

職員が慌ただしく動いている中では場面はあっという間に過ぎ去ってしまいます。
その場で違和感を感じたことに対して表明しようとしても、場面の切り替わりが早すぎれば違和感だけが積み重なって言葉にできなかった感情がBPSDというカタチをとって表現されているかもしれません。

冒頭のAさんの言葉はもう少しこの場にいたい…という気持ちを間接的に表現しています。
認知症の中核症状が進行している方でもこのような言葉がすっと出てくる方というのは
長い人生、多分にそのような対応をしてこられた方だという推測が成り立ちます。
繊細で豊かな言語表現をする方には、私たちも同等の対応ができるようになって初めてAさんと同じ土俵に立つことができます。

暴言、介護抵抗がある方に対しては「どうしたら抵抗少なく介護に応じてもらえるだろうか」という観点で対応が話し合われることはあっても、その暴言や介護抵抗が示している認知症のある方の能力の適切な把握やそのような状況を結果として引き起こしてしまったかもしれない私たちの言葉遣いや動作そのものについての検討が少ないように感じています。

もしかしたら
Aさんの暴言、介護抵抗というカタチで現れていることの少なくない部分に、私たちが扱う語彙の貧弱さや対応への嘆きが含まれていたのかもしれません。

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オミアシヲアゲテクダサイ

オミアシヲアゲテクダサイ農家の90歳のAさん。
車いすに座っているけど移動するのでフットプレートに足をのせてほしい。
そこで職員が言った言葉が「オミアシヲアゲテクダサイ」
Aさんは足をあげることができませんでした。

接遇は、とても大事だと思います。
「オミアシヲアゲテクダサイ」と声をかけた人は「敬語で接しよう」「丁寧に対応しよう」と心がけていたのだと思います。
でも、相手に伝わってはじめて「言葉」なのではないでしょうか。
言語理解力が低下している方に、伝わる言葉を意図的に選択して使用する。
「足、上げて」
認知症のある方の対応について、子ども扱いされた…などの批判があり、現状改善のためにも接遇が重要視されていることは知っています。
けれど、丁寧な言葉遣いは、えてして長文になりやすく動詞が修飾されて使われているために、言語理解力が低下している認知症のある方には伝わりにくいという現実もあります。
だから、職員は無自覚のうちにも伝わりやすい言葉を使っていたという過去があるのではないでしょうか。
ただ無自覚だったので、子ども扱いされたという批判に対して的確に説明することができなかったのではないでしょうか。
だったら、私たちがすべきことは、マニュアル的に表面的に敬語を使うことではなくて、相手が理解しやすいシンプルな言葉を意図的に選択する。と同時に言葉をシンプルにした分、表情や口調、しぐさというノンバーバルの部分で丁寧さを補うことを意識して工夫するということではないでしょうか。

接遇や声かけの大切さについては、誰も異論がないと思います。
でも「大切大切」と言っているだけでは目の前の方に接遇や声かけの大切さという理念を具体化することはできないと考えています。
接遇や声かけの大切さがスローガンになってしまってはいないでしょうか?
自分がしたいことを実践するのではなくて、相手が困惑しないで受けとめられるように伝え方の工夫をする。
その時その場のその関係性において意図的に選択する。
自分がしている対応と言語化(概念化)を合致させていく努力を積み重ねていく。
その過程こそが接遇であって、敬語で話す、○○すべしというマニュアル化された言葉を使うことが接遇ではないと考えています。

善かれと思って導入された接遇の概念が現場の対応を混乱させてしまうことがないように…接遇の概念に振り回されるのではなくて接遇の概念を対応に活用できるようにという本来の趣旨が現場に活かされることを、地道にではあっても一歩一歩積み重ねられていくことを願っています。

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自分の偏見に自分が苦しむ

自分の偏見に自分が苦しむ実際に私が聞いたことのある言葉です。

「認知症=わからんちん」
「認知症=どうしようもない」

そう言っていた人が
実際に認知症になると
非常に強い不安感を示し
情緒不安定に陥り
他者を強く非難する
…という傾向が多いように感じています。

自分が否定しいていた
(多くの場合、蔑んでもいた)
状態に自分がなってしまった…
本当の自分は今の自分ではない…
今の自分にさせている周りがおかしい…

その姿は痛々しいくらいです。

自分の偏見に自分が苦しむ

実際問題として
これだけ「認知症」という言葉が
病気として認知されている今の時代においても
自分が認知症になるかもしれないとは思っていない人のほうが
圧倒的に多いのです。

「将来、自分もあんなになるかと思うと嫌」
「だから一緒にいるのは嫌」
そう言う人は実は少なくありません。

でも、元気なうちから
認知症になったとしても
できることもある
その人らしさが残っている
対等に接してもらえる
という現実を身近で実際に見聞きできれば
余分な不安感は少しは減るのではないかと考えています。

私たちが今、対応していることは
目の前の対象者の方だけでなく
将来、対象者になるかもしれない方にとっても
大切なことなんだと感じています。

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記憶のトレーニングが逆効果

記憶のトレーニングが逆効果認知症というのは、一言で言うなら「覚えられない」という状態像でもあります。
ですが、よく遭遇するのが、認知症によって著明に短期記憶が低下している状態の方に、記憶のトレーニングをさせたりするというケースです。
そんなことされたら、苦しいだけです。イヤになっちゃいます。情緒不安定になってしまいます。

介護保険の認知症短期集中加算の対象の幅がとても広いことが、加算の目的からの逸脱や実施方法の混乱を招いている一因になっているようにも感じています。加算を「上手に」活用できればよいのですが、表面的に実施しようとして対象者の方に苦痛や困難を強いたり、実施する職員が混乱してしまうようでは本末転倒なのにな…と思ってしまいます。

HDS-Rで20/30点と言えば、日常生活の場では既に「同じことを繰り返し話す、聞く」という状態像にあることが多いように感じています。場合によっては「同じことを同じ表現で繰り返し話す」方も決して少なくありません。(てにおは、まで同じだったりします)
その他にも日常生活で薬の管理ができないとか、伝言ができない…等といった困った事柄が複数生じているような状態だと推測されます。

既に、日々の暮らしの中で「できなくなった」「覚えられなくなった」という喪失体験を重ねているのです。
そのような状態像の方に、トレーニングと称して困難なことを実施するのは、喪失体験の反復、強調体験になりかねません。

一概に言い切ることはできないにしても、基本的には、そのような状態の方には、記憶のトレーニングではなくて、生活能力を保っていくための工夫や能力発揮していくための工夫が必要だと考えています。

記憶のトレーニングが必要なのは、もっと軽度の方です。
トレーニングに耐えられるような脳のはたらきが保たれている方です。
実際にはそのような方が見落とされていて、トレーニングに対応できる状態の時にトレーニングが為されず、日常生活にはっきりと「問題」が表面化して、トレーニングに対応困難な時期になってからトレーニングが検討される…というように、対応が後手にまわっているような印象を強く抱いています。

良かれと思って、善意からの対応であったとしても、結果的に対象者の方に不利益を招くことのないように、提供する課題には慎重であってほしいな…と感じています。
少なくとも、PDCAサイクルをまわす意識を持っていれば防げることがたくさんあるように感じています。

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