「認知症のある方の訴えが多くて困る」という声もよく聞きます。
確かに
認知症のある方の中には
同じ訴えを繰り返す方も少なくありません。
しかも、同じ訴えを繰り返す方の声は
たいてい、悲痛な声なので
「同じ訴えを繰り返す」という表現をしていますが
実は、あんな声を聞くのはイヤというのが本音だったりします。
職員だって人間ですから
ナマの感情として、そのように感じる
という現実を否定はできません。
だからといって
イヤイヤな内心をそのまま表現してしまったり
あるいは隠そうとはしても隠しきれずに
認知症のある方にぶっきらぼうに対応するのは
プロとしてどうなんだろう?とも思いますよね。
じゃあ、どうしたら良いのか
たいていの人は
「どうしたら訴えをなくせるのか」
と考えます。
そのように問題設定を考える人は
表面的に訴えをしないように説得したり抑圧しようとしがちです。
言葉は丁寧でも口調は強く大きな声で
従わざるを得ない雰囲気を醸し出しています。
認知症のある方は空気を読み取る能力があるから
従わざるを得ないという。。。
そして「訴えなくなった→良い対応だった」と判断されるという。。。
単に我慢を要請し、抑圧しているだけなのに。
このような対応は、仮にその場は良くても長期的には逆効果になります。
抑圧させているだけなので、
抑圧しなくても良い場面あるいは
抑圧することができなくなった時に一気に吹き出してきます。
それを症状悪化と呼ぶという。。。
現場あるあるです。
こういったことは、同じコトが違うカタチでいろいろと起こっています。
ここがすでに問題設定の問題になっています。
「どうしたら訴えをなくせるのか」という問題設定は
誰にとっての問題を意味しているのでしょうか?
認知症のある方の困りごとの解決を援助するという立場に立てば
繰り返し同じ訴えをするという行動に
反映されているコトは何なのだろうか?
という問題設定になるのではないでしょうか?
たとえば
よくある訴えが排尿関係の訴えです。
「おしっこが出ちゃう」と言って頻回にトイレに行きたがります。
実際にトイレに行ってみても出ないか、あるいはごく少量しか出なかったり。。。
そのような方の場合には
実はしっかりと排尿しきれず残尿感があるために尿意を感じ続ける
というケースが少なくありません。
であれば「トイレに行きたい」と繰り返し同じ訴えをするのは
正当な訴えということになります。
だとすると考えるべきは
いかに「トイレの訴えを減らすか、なくすか」ではなくて
「どうしたら残尿を減らせるか」という技術的な問題になります。
あるいは
何か集中できるActivityをしている時にはトイレ希望がない
というケースもよくあります。
このようなケースに対しては表面的に
「何か気持ちをそらせることをやらせましょう」という対応になりがちです。
そのような場合によくあるのが
「おしっこが出たい」のではなくて
「おしっこで失敗したくない」
→「失敗したくない気持ちの具体例がおしっこを漏らしたくない」
ということもよくあります。
つまり、尿意は本当の問題ではない。
根底にあるのは、自身の不全感への不安であって
その不安が排泄の訴えとして現れている場合です。
このような場合に単純に気持ちを紛らわせることばかり考えて
認知症のある方の能力よりも高度なActivityをやらせて
かえって不全感を強めてしまい
「トイレ」「トイレ」と訴えが増えてしまうこともよくあります。
現場あるあるなのが
認知症のある方の遂行機能や構成障害などの能力や障害が把握できていないのに
「これなら簡単だからできるだろう」と提供する職員がとても多いことです。
毛糸モップは段階付けが多様に行えるので
幅広い状態の方に適用できるActivityではありますが
決して遂行が容易ではなくて、
構成障害のある認知症のある方にとっては難しいこともよくあります。
自身の不全感への不安が根底にある場合に
達成感や安心感を内的に感受できるような体験が
Activityを通して体験できて、その体験を蓄積できるようになると
トイレの訴えがなくなったり、減ることはあり得ます。
ただし、近時記憶が低下しているので体験している場面ではよくても
体験以外の場面では難しいこともあります。
体験を忘れてしまうから日常生活全般への汎化は難しいのです。
逆に言えば、Activity以外でも達成感や安心感を感受できれば良い
ということになります。
ちょっと話はそれますが
特定の方に用事がある時に食堂やホールなど複数の方が集まる場所に出向く時には
用事がない方にも必ずアイコンタクトをして会釈だけはするようにしています。
「今はあなたに用事はないけど、あなたのことを気に留めています」
ということを伝えるためです。
用事のない方の前を見向きもせずに通り過ぎる人も多いけれど
それって「あなたには用事も関心もない」と態度で言っているも同じです。
また、この対応をしているおかげで
実際に体調不良の方の早期発見をしたこともあります。
このような対応をしている人って案外少ないんです。。。
他の対応全般と同様に、実践している人にはわかっても
実践していない人には「何をしているかわからない」「見れども観えず」
となっていて、しかもその自覚がないのです。。。
多くの人は、自分にとっての問題というカタチでモノゴトが表面化した時に
どうしたら良いのか?と考えます。
対応が後手に回っているし、視点が自己中心ということに無自覚なのです。
だから的確な対応が浮かぶはずがないのです。。。
リハ室に来た方が
「あーここに来るとホッとする」と言われると私もホッとします。
そういう場所を作れて良かったと思います。
問題が起こってから対応を考えるのではなくて
問題が起こる前に、環境づくりの一環として
お金もかけず、エネルギーも使わずに私たちができることはまだまだあります。
施設方針として敬語を奨励するなら
「用事のない方の前を黙って通り過ぎない」
「用事のない方の前を通り過ぎる時には会釈する」
ということを奨励した方がよっぽど建設的だと思っています。
達成感や安心感をイマ、ココで感受できるから結果として訴えが減る
こういった事象を表面的にしか捉えられない人は
「やっぱり気持ちをそらせるべき」という判断になりがちですが
似て異なるもの、それは違うのです。
これは私の推測ですが。。。
アルツハイマー型認知症のある方は
今よりもずっと社会的規範が明確にあり
それらに従うことを要請され
躾の厳しい時代を過ごしてこられました。
両親から厳しい躾をされたり
あるいは自己防衛から自主的に内面化し
不安感を抱えた幼少期を過ごした方が
高齢になり、近時記憶障害があるために、
今までは抑圧できていた不安が抑圧しきれなくなり
現在の不安感というカタチで表現されている
可能性もあるのではないかと考えています。
現在の不安や心配を抱いた時に、
それらの「感情」を抱いた過去の記憶が蘇り
余計に不安になってしまうと考えています。
だからこそ
イマ、ポジティブな体験をすることに意義があります。
HDS-R3点の方でも、1分前のことを忘れてしまう方でも
再認することができる方もいます。
現在の安心感という「感情」をきっかけとして
過去の安心感を抱いた体験を想起することも起こり得ます。
再認は、ポジティブにもネガティブにも働きます。
イマ・ココでポジティブな体験をするために
体験構成の一因子である私たち職員の関与の質が問われます。
訴えが多い方に私がよくしていることは
ひとつには、不安や心配な気持ちの表出を促すことです。
不安や心配な気持ちを誤魔化したり気持ちをそらせるのではなくて
そう感じても良いのだと
何が心配なのか語ってもらいます。
ここは バリデーション の出番です。
(バリデーションのことは記事にしてありますから検索してみてください)
もう一つは、不安の表明があってから対応するのではなくて
不安の表明がない時でも常に大丈夫なのだと、よく頑張っているのを知っていると
最小限の言葉と、表情と声のトーンと態度という非言語の両面で伝え続けることです。
「どうしたら良いの?」「これで良いの?」と言葉で不安を訴える方には
訴えがあってから対応するのではなくて
訴えがない時から、アイコンタクトや笑顔、うなづきやハンドサインやジェスチャー
という非言語な表現を多用して、言葉以外で伝えます。
同じくアイコンタクトやうなづきやハンドサインでお返事をしてくれるようになれば
「悲痛な声」を聞かなくて済むこともあります。
「どうしたら良いの?」と悲痛な声で繰り返されると職員も疲弊してしまいますが
お茶目なハンドサインで表現が返ってくれば「悲痛な声」を聞くこともなくなるので
その方とのコミュニケーションをポジティブな気持ちで提供できるようになります。
その結果、情緒的に安定し、結果として訴えが減少することもあります。
訴えが多い方に対して「依存的」と判断する職員は多いようですが
若い時から困ったら自身で解決するのではなく誰かに助けてもらっていた
内在する不安を誰かに分かち合ってもらってきた
という行動パターンがもともとあった方かもしれません。
であるならば、そのような基本的な行動パターンを変えるように要請しても
困難なのではないでしょうか。
むしろ、その行動パターンはそのままに
応答手段としてのコミュニケーションを非言語に切り替えれば
周囲も受け入れやすくなります。
(余談ですが、不思議なもので
「依存的」と判断したり、我慢を要請する職員に限って、
受け入れやすい行動へ変容した時には
打って変わって、ニコニコと接するようになります。。。)
ここでのポイントは
訴えの根底にある不安感からくる確認行動を否定せず
「多訴」「依存的」という行動を修正・改善することを考えるのではなくて
確認せざるを得ないというニーズに基づいた表現手段を
悲痛な声で表出する(つまりそれだけ切実なのです)言語から
周囲が受け入れやすい非言語へと行動変容を促すことにあります。
かつて
「ねぇ」と繰り返し発言する方がいました。
理由を尋ねても答えず(答えられず)ということが続くと
だんだん職員の対応も遠ざかってしまいます。
そうすると「ねぇ」だけが頻回に大きな声で繰り返されてしまいます。
大きな声で繰り返される「ねぇ」は本当に治療されるべきBPSDでしょうか?
私は、その方の真正面に座りました。
「ねぇ」と言われた時には「はい」と答えました。
そうすると真っ直ぐに私の顔を見てすぐにうつむきます。
しばらくするとまた「ねぇ」と言います。
「はい」と答えました。
しばらく繰り返していたら
その方は無言で顔を上げ、私の顔を見るとまたうつむくことを繰り返すようになりました。
その方の正面の席を立っても遠くからでもその方に視線を送るようにしました。
その方は私を探してちゃんとアイコンタクトをとります。
その後、アイコンタクトが担保されたことが確信できたのか
「ねぇ」という声を聞くことは無くなりました。
この方は、「ねぇ」以外の言葉を発することができなかったので
推測することしかできませんが
「ねぇ」以外に言語表現力がなければ
何かを伝えたい時には「ねぇ」と言うしかありません。
そして伝えたい気持ちが強ければ強いほど
唯一言える言葉である「ねぇ」を繰り返し大きな声で言うしかなかったのだと思います。
近時記憶障害が高度であれば、1分前のことも忘れてしまいますから
結果として同じ訴えを繰り返すように見えます。
説得に走る人がよく使う「さっきも言いましたけれど」と言う言葉は
効果がないどころか逆効果にしかなりません。
そう言う職員は対応のネタ切れに陥っているのだと思いますが
「さっきも言ったけれど」と言うことは
暗に「もう言うなよ」と思っているから言える言葉です。
そして、その感情は確実に伝わっています。
認知症のある方は、この人に言ってもムダだと感受します。
だから言わなくはなります。
(忘れてしまって繰り返すことはありますが、すぐに引き下がります)
職員は自分にとっての問題を解決はしましたが
(だから、自分のとった方法が良いと主張します)
認知症のある方にとっての問題は解決されてはいません。
我慢、抑圧させられただけです。
また、2−3分前のことも忘れてしまうくらい近時記憶が低下している別の方がいました。
この方が繰り返し痛みを訴えるような時には悲痛な表情で悲痛な声で訴えられます。
(痛みの原因はわかっていて対症療法しかできないケースです)
対応する職員の中には、言葉は丁寧でもぞんざいな口調と表情で対応する人もいます。
そのような人は無自覚であっても、
非言語な表出に反映されている本音はちゃんと伝わってしまいますから
認知症のある方は、なんとか自身の辛さをわかってもらおうとして
もっと悲痛な表情でもっと悲痛な声で痛みを訴えるようになります。
そうした悪循環を作っているのは職員の側なんです。
よくよく観察すれば
痛みを訴えない時間と場面があって
その方は自身でなんとか自制しようとしていることを意味していると感じています。
(このようなケースでは往々にして
構ってほしいアピールなんだと判断する職員もいますが
そのような職員と対象者の方が善き関係性を築いているケースを
見たことはありません)
痛いは痛いけれど、なんとか辛抱しようとしている
辛抱できる時もある
でも辛抱しきれない時もある
ここに可能性があります。
私には痛みを減らすことはできませんが
その方の自制しようとする気持ちを支え続けることならできます。
こちらも悲痛な表情で悲痛な声で痛みを受け止めようとしていることを伝えます。
2−3分ごとに繰り返される訴えに、こちらもその都度同じことを繰り返します。
同時にその方が自制しやすい場面を確認していきます。
他者との交流なのか
自身が達成感を抱けるActivityなのか
ヒトなのか、モノなのか、コトなのか、多くの場合は複合しているものです。
それらを提供することによって痛みの訴えはゼロにならなくても
痛みとともに暮らしていけるようになっていきます。
訴えの多い方に対して
どうしたら訴えをなくすことができるのか考える
という対応は現場あるあるですが
この問題設定は、誰のための問題なのでしょうか?
私たちの仕事は
認知症のある方の暮らしの支援のはずですが
いつの間にか、私たちの問題と認知症のある方が抱える困難とを混同していないでしょうか?
抽象的総論的に良いことを語る人たちが
具体的現実的に解決策を提案できないというのも現場あるあるです。
具体的現実的に解決できないから
過剰に抽象的総論的に語ることで補償する
自己防衛しようとしているのではないかと考えています。
無自覚でしょうけれど。
理想は語るものでも唱えるものでもなく具現化していくものです。
ところが、残念なことに
理想と実践の乖離が進んでいる側面もあるのではないでしょうか。
乖離に疑問を抱かざるをえない真摯に地道に働く職員が辛い思いを抱え
認知症のある方も余分な困難を抱え
本当の問題が表面化しにくくなっているのではないでしょうか?
だからこそ、私が具体的現実的な考え方と具体例を提案する、表明することに
意義があると考えています。
問題設定の問題
正しく聞くことができないから
正しい答えが返ってこない
だとしたら、検討すべきは聞き方であって答えではない。
食事介助で
「口を開けてくれない方がどうしたら口を開けて食べてくれるようになるか」
という問題設定と全く同じコトが違うカタチで
対応の工夫全般でも起こっているだけなんです。
それは、問題設定が悪いからなんです。
認知症のある方への支援に携わっている人たちの現場には
問題設定の問題が蔓延っていることに気がつければ
問題設定に意識的に取り組めるようになり、改善への道を模索できるようになります。
ここに未来への希望があります。
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