Category: よっしーの情報クリップ

声かけ再考:感覚ー判断ー行動

イメージ_紫陽花

認知症のある方に対してトイレ誘導をする時に
どんな声かけをしていますか?

「トイレに行きましょうか?」と尋ねた時に
認知症のあるAさんが「ううん、行かない」と答えたから
トイレ誘導しなかったのに
別の職員が「おしっこ出る?」と尋ねたら
Aさんが「出る」って答えて誘導されてた。
さっき尋ねた時には「行かない」って言ったじゃん。なんで?
みたいな経験をしたことはありませんか?

答えは
感覚ー判断ー行動  を踏まえた声かけの有無です。

認知症のある方によって、その時々によって
違和感を感じる ー 尿意と判断できる ー 尿意を解消するための手段としての行動
もぞもぞする  ー おしっこ     ー トイレに行く(連れて行って)
のどの段階で理解できるのか、表現できるのかが異なります。

その方が理解できる言葉の段階を踏まえて尋ねることが重要です。

その方が「もぞもぞする」ことしかわからないのに
トイレに行きましょうか?では理解できなくて断られて当然です。

この時に大切なことは
「よろしければお手洗いにご案内いたしましょうか?」
と敬語で丁寧な言葉使いで尋ねることではないのです。

そして多くの場合に
認知症のある方の言語理解力は変動します。
昨日は理解できていたことが今日は理解できなかったということもありますし
尿意を訴えなくなってしまった方が再び尿意を訴えるようになることもあります。

変動の幅、その方の最大能力と困難な時の能力とを踏まえて
イマ、ココでの能力を確認しながら声かけを選択する

その時その時で
声かけの理解の段階を把握した上で意図的に選択した言葉で尋ねる

ということができるかどうかが重要なのです。

認知症のある方に対して
声かけの重要性を否定する人はいないと思います。
ただ、声かけについては
接遇的な意味合いでしか捉えていないのではないでしょうか。

私は、接遇的な意味合いではなくて
(接遇を否定しているわけではありません)
障害と能力の観点から
声かけについて捉え直すこと
ここでは、概念の階層性を確認しながら対応する
ことを提案しています。

クリスティーン・ブライデン氏の言った
「私たちとあなた方の世界に橋をかける」
ということを
「あなた方の立場」からも
少しでも現実化・具現化していきたいと思っています。

 

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他部門連携:ポジショニングのちょっとした工夫

他職種に
ポジショニングを説明する時に
設定した時の写真をとって
設定方法を書いて
注意事項も書くのですが
お部屋に掲示しても複数のクッションがあると
設定部位を間違えられてしまいます。

そこで
「対象に工程を語らせる」

クッションに
「どの部位にどう設定するのか」
書いたものをテプラで貼付してみました。

臥床時は赤色のテプラ、離床時は青色のテプラ
と色も変えて混同しないように工夫しました。

これでも間違えられることはありますが
頻度は激減しました。

設定方法について
質問したり確認してくれる人は良いのですが
「設定を間違える」という時点で
設定とその人の実践とに乖離があることがわからない
もしくは
乖離がきたすマイナスがわからない

ことを意味しているので
間違えるなと、言うのではなく
間違えにくいように、方法を提示する

ようにしています。

以前に何かの記事で
「施錠を忘れないように気をつけましょう」と言うのではなく
「施錠を忘れないような仕組みを考える」

という記事を書きましたが、その一例です。
 
再現性の担保についての工夫を
ポジショニングを例に紹介しました。

さて、
お気づきの方もいると思いますが
「対象に工程を語らせる」とは
認知症のある方への対応と同じことをしています。

そのココロについては、別の記事でお伝えします。

 

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筋力低下廃用論に惑わされない

中核症状とBPSD

高齢→廃用・筋力低下 といった論調は
一見正当のように見えるので
リハやケアの分野ではよく聞く考え方ですが
疑問を抱いたことはありませんか?

高齢者に「筋力低下」と判断して
「立ち上がり」をリハプログラムとして提供している方は
とても多いと思います。
筋力低下の判断根拠として本当にMMTをしましたか?
MMTがどの段階であれば筋力低下で、
どの段階であれば筋力OKなのでしょうか?

私は過去に複数のALSの方を担当したことがありますが
筋力低下とは、まさしく力が入らない状態です。

CVA後遺症や認知症のある方など生活期にあって
「筋力低下」と判断された方々との状態は全く違います。

見た目、「立ちあがれない」からといって
「筋力低下」 とは限りません。

生活期にある方の場合
立ち上がり時に腰背部の筋肉が同時収縮を起こしてしまって
個々の筋力はあるのに総体として立てない身体
なっている例は枚挙にいとまがありません。

筋力が低下しているのではなくて
筋力の使い方、身体の働きが下手になっているのです。

以前、老健に勤務している時に
担当のPTが立ち上がりも含めた個別リハをやっていましたが
立ち上がりが自力で行えず、ずっと介助されていました。
その方に私が座る練習だけして、
立ち上がりは全介助で行うという

身体の使い方の再学習を行ったら
一人で立ち上がれるようになって
「あれ?立てた?」と驚かれたことがありました。
同じようなケースを多数経験しています。
 
老健ですから、個別リハの他にも生活リハとして
食事やおやつや排泄介助の時にも立ち上がれるように援助がなされます。
一日何回になるでしょう?
廃用ではないんです。

筋力強化や立ち上がりではなくて
身体の使い方の再学習を行って
立ち上がりができるようになったケースは枚挙にいとまがありません。
しかも、重度の認知症のある方でも可能です。

末梢の問題ではなくて
身体各部の協調性の問題、中枢の問題なんです。

立ち上がれない→筋力強化 という考え方は
身体協調性の低下を筋力で代償しようとさせるので
身体の使い方の再学習をせずに
立ち上がり100回なんて、効果がないどころか逆効果になってしまいます。

リハやケアの分野では
一見正当そうに見えて、その実不適切なことがたくさん流布しています。
「立ち上がり100回」もその一つです。
過剰な同時収縮によって
腰を痛めたり、身体が硬くなってADLが低下してしまいます。
今すぐにそんなことはやめて、
「座る練習」を取り入れていただきたいと思います。

立ち上がりができない方は
たいてい、座り方も上手にはできません。
どさっと後方にひっくり返るように座ります。

できないことを過剰努力させてやらせるのではなく
努力の方向を変えて、できることのでき方をよくしていく。

「座る練習」でのポイントは重心の移動方向を適切に導く ことです。
「立ち上がり」は全介助で
 力を入れない、踏ん張らない、身体の動きと重さを活用する ことがポイントです。
詳細はあちこちで記事にしていますから検索してみてください。

 

 

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私が行っている集団リハ@認知症治療病棟


 
私が集団を運営する時には
並行集団を活用しています。
同じ場所、時間を共有するけれど
人によって何をするかは違う。。。という集団です。

課題集団(全員が同じことをする)を用いる時には
参加形態に許容性のある体操や音楽鑑賞を行います。

認知症のある方に対して
レク的にゲーム的なActivityを導入しようと
することが多いようですが
ゲームって難しいんですよね。

どんな簡単なゲームでもゲームにはルールがあります。
ゲームを楽しむことができるためには
 1)ルールの説明を理解でき
 2)理解したルールを覚えておき
 3)覚えたルールに則って行動する
という能力が要請されます。
近時記憶障害が重度な認知症のある方には、実は最も苦手な課題なんです。
だから、私はゲームは行っていません。

今日は
精神科病院の認知症治療病棟で
2時間の精神科作業療法を重度の認知症のある方に対して
どのように組み立てて実践しているのか、お伝えします。

最初に音楽鑑賞を行います。
音楽鑑賞の導入では、誰もがよく知っている有名な懐メロを流して
私が主導権をとった進行をして集団凝集性を高めるようにしています。
その後、「私がしている音楽鑑賞の進行」で書いたように
参加者ごとにリクエストを尋ねていきます。

音楽鑑賞後には水分補給を行います。
水分摂取しながら鑑賞を継続できるように
オートで曲を流していきます。
この時に飲み物の準備や配膳・下膳を行います。
お一人お一人のペースで水分摂取していただきます。
それはメリットでもあるのですが、
どうしても集団凝集性が下がってしまうので
もう一度集団凝集性を高めるために体操をします。
手続き記憶を活用できるように
ラジオ体操第一とみんなの体操を行っています。

その後、後半は鑑賞とActivityを並行して行います。
Activityは個人ごとに提供しています。
(書字やスクラッチアート、塗り絵、ちぎり絵、毛糸モップ、指編み、間違い探し等)

  役割分担してみんなで大きな作品を作る
  ということは、考えがあってやっていません。
  いずれ別の機会に説明します。

16名の集団に対して
音楽鑑賞とActivityを並行して提供し
Activityも個人ごとに提供するという二重の並行集団を作っています。
(今は半数の8名の方がActivityを実施しています)
16名の中には帰宅要求で落ち着かない方や
注意散漫な方や訴えの多い方もいますし
立ち上がって歩き出したら転倒のリスクのある方もいますし
褥瘡予防のために途中で除圧を目的とした介助立位の機会を設けたりと
私にも同時並行課題、注意分散能力を要求されるので大変ではありますが
だいぶ鍛えられてきました (^^;

最後は今日の流れを振り返った後に
締めくくりとしていつも同じ曲を流しています。
毎回同じ曲を流すことで「終わり」を印象付けることもできますし
スーパーでレジが立て込んできたら
ビートルズの「Help」が流れるのと同じように
看護介護職員へ「終わったからお迎えお願い」という合図にもなっています。

個人ごとに異なるActivityを提供するという並行集団を
円滑に運営するためのポイントは、準備をきちんと行うということです。
「段取り8割」ってよく言いますけど
まさしくその通りで
その方が遂行しやすいように
Activityの遂行方法を言葉ではなく場面に語らせる・対象に語らせる
ように準備しておく
 ということです。
(詳細はあちこちで書いていますので検索してください)

人によっては、
1分前のことも忘れてしまう方や
HDS-R実施困難な方でも

遂行方法を場面に語らせるように準備をしておけば
介助や声掛けをせずとも一人でActivityに取り組めることは多々あります
というか、それを念頭に考えています。。。

現場あるあるの誤解は
「HDS-RやMMSEの得点が低いからゲームに参加してもらったけど
 ペットボトルボーリングや輪投げや風船バレーもできない
 やっぱり認知症が重度だからしょうがないね」
というものです。

重度の方にゲームをさせたら、できなくて当然です。
仮に、できたとしても
一つひとつ何をするか指示されて、
その通りにしただけで、意味がわからなければ
その場褒められたとしても本当に達成感があるものでしょうか?

近時記憶障害が重度でも
手続き記憶の活用や遂行機能障害を的確に評価することによって
自身で行えるような場面設定の工夫の余地は生まれます。

 もしも、マンツーマンで個別で対応できるのであれば
 選択肢はもっと広がります。

 このあたりは、老健に勤務していた時に身体面認知面それぞれの
 自主トレ立案・提供を頑張ってきたことが
 下地となって役立っていると感じています。
 
並行集団でActivityを行えば
他人と比べる、比べられることがないので
実施に際して不安感が少しは減るのも良いところじゃないかな
と感じています。

 そもそも、並行集団って社会そのものなんですよね。
 いろいろな人がいる。
 いろいろなことをしている。
 ひととき、同じ時間と同じ場を共有している

Activityを導入するときに
多くの方がおっしゃいます。
「難しいことはできない」「私はバカだから」「不器用だから」

そう感じるに足るだけの失敗体験を積み重ねてきているのです。
だからこそ、Activityの仕上がりの綺麗さには留意していますし
ましてや、幼稚な下絵の塗り絵や輪投げなど
見た目が幼児向けのような課題を提供することは決してありません。

なお、この記事は
精神科病院の認知症治療病棟に勤務している作業療法士が
たった一人でどうやって
「集団」で
「2時間」の間
「対象者の方に有意義な作業療法」を
実施・提供・運営するかという観点で書いたものです。

職場環境や施設特性や対象者の状態像が変われば
また異なる方法論の方が適切ということになります。

 

 

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視覚的手がかりを増やす:書字の工夫

歌詞を書き写すというActivityも行っています。

「読む」時には、黙読する人が多いと思います。
過去によく歌った歌や聴いたことのある歌なら
その記憶が読むことを助け、
書き写す時に歌詞を思い出し黙読を助けると考えています。

民謡や懐メロ、唱歌や演歌など
好きな歌は人それぞれなので
題材としては、無限のバリエーションを作ることができます。

また、段階づけも細かく設定できます。
白紙の紙でもきちんと行替えして書き写すことができる方もいれば
行だけはあったほうが書きやすい方もいますし
見本と全く同じマス目の方が書きやすい人もいます。

特に前頭側頭型認知症のある方の場合は
見本通りに模写することは得意です。
視覚的被影響性亢進という症状がプラスに機能しているのだと考えています。

  実際の作品をお示しできませんが
  塗り絵で本当に細かな模様まで見本通りに色を塗っていた方もいました。

症状が進行すると
上記のようなマス目でも書けなくなってしまいます。
字が書けないのではなくて
どこまで書き写しているのか
どこから書いたらいいのかわからなくなってしまうようです。

そのような時には
視覚的手がかりを増やすと効果的です。

文字以外を薄く塗りつぶしておくことで
どこまで書いてどこから書いたら良いのか
視覚的探索をする際のヒントになります。

他にも
行の一番上のマス目だけ色を変えていくとか、二重枠にするとか
状態に合わせて工夫をしてみると良いと思います。

 

 

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私がしている音楽鑑賞の進行

音楽鑑賞というActivityについて
個々の方それぞれの能力と特性を発揮できるような援助をするために
私がしている工夫をご紹介します。

歌はもちろん人それぞれ好き嫌いがありますし
歌の楽しみ方も人それぞれ
音楽の世界に浸ってしんみりと聴き入りたい方もいれば
ワイワイ盛り上がるのが好きな方もいます。

集団で音楽鑑賞をする場合には
進行する人の中で、ある一線を明確化しておくと
参加している認知症のある方もいろいろな歌とその楽しみ方を
お互い許容してもらえるように感じています。

それでは実際の進行ですが
まず最初は
こちらからいろいろな曲目を提示します。
だいたい有名どころの懐メロや流行歌を提示します。
そこで曲の聴き方に注目して観察します。
好きな曲や聞き覚えのある曲は
前のめりになって聞いたり、表情も違っています。

この段階では
集団の凝集性を高めることと
参加された方の心身の状態の確認をします。
(もちろん事前に情報収集してありますが、最新の状態確認をします)
私が主導権をとった進行をします。

次に、あらかじめ作っておいた歌手一覧を見せながら
この中だったら誰の歌を聴いてみたいですか?とお一人ずつ尋ねます。
具体的に選べるように視覚情報として提示しながら尋ねていきます。
この時に、進行を止めないように、いろいろな歌をオートで流すようにしています。
 
  今は私一人で最大16名の方を対象に
  精神科作業療法として集団活動を実施していますから
  歌を視聴する流れを止めて、一人ずつ尋ねると
  せっかく高めた集団凝集性がなくなってしまい
  注意集中も保たれず
  不安になって帰宅要求などの訴えが出てきて
  集団活動が成り立たなくなってしまいますから
  このような工夫をしています。

この時に
「聞きたい歌を教えてください」と言葉で尋ねても
思い出せないから答えられない方でも
歌手名を提示されれば、名前から歌手を想起できる方は大勢います。

つまり、再生ではなく再認に働きかけています。
なおかつ、聴覚情報ではなく視覚情報として提示しています。

曲は、歌手名から検索した3曲くらいを
言葉で提示してその中から選んでいただいています。
曲名を聞けばどんな歌かイメージできる
再認できる方が多くいらっしゃいます。

最初にこちらからランダムに提示した時に
特に聞き入っていた歌手や曲があればこの時に追加で提示することもあります。

人によっては
お気に入りの歌手のお気に入りの曲がありますから
そのような時には、こちらから歌手名や曲名を提示せずに
オープンクエスチョンで
「聞きたい歌手は誰ですか?」
「聞きたい歌があれば教えてください」
と尋ねるようにしています。
再生可能な方にはなるべく再生を促す尋ね方をしています。

毎回、同じ歌手の同じ歌を選ぶ方もいれば
その時々で違う歌手の違う歌を選んだり
90歳代の方がキャンディーズや松田聖子を知っていたり
70歳代の方がピンクレディーを毎回必ずリクエストされることもあります。

こちらの問いかけに答えていただくことで
自然に会話の機会を設けることもできます。
ただし、近時記憶が低下している方が多い場合には
会話で長く時間を取ってしまうと注意集中が途切れてしまうので
集団を構成する方たちの状態に応じて
問いかけの仕方や回数にも注意しています。

また近時記憶が低下していると
(当院では1分前のことも忘れてしまう方が大勢います)
画面に映った歌手の名前や曲名を聞いてはいても忘れてしまいますから
曲の間奏の時には必ず歌手名と曲名を伝えるようにしています。
「あ、そうそう、この歌手だった」「この歌だった」
と思い出していただけるように。
これも再認に働きかける工夫です。

歌手や曲にまつわるエピソードを伝えるか
どの程度どんな風に伝えるかも
その時に集団を構成する方たちの状態に応じて判断しています。
基本はあんまり余分に私が話さないようにしていますが
近時記憶がもう少し保たれている方や注意集中が可能な方が多ければ
曲のイントロや終了直後にエピソードを伝えると
再認できることの幅が増えたり
その方が知っているエピソードを語ってくれたり
思い出話をしてくれたりなどの良い面もあると思います。

場面設定の基本として
重度の認知症のある方でも注意集中が保ちやすいように
集団の中で症状や障害が目立ちにくいように
と考えています。

音楽鑑賞ですから、途中で集中が途切れても目立たないし
口ずさみながら聞いても不自然ではないし
参加形態に幅があり自由度があるのが良いなぁと思っています。

誘導する時にも
「リハビリ」「OT」「活動」という言葉は使わずに
「歌を聞く会」「五木ひろしの歌を聞く」「美空ひばりの歌を聞く」
というように具体的にイメージしやすいように声かけしています。
その方が大好きな歌手や曲があれば、その歌手名や曲名を言って誘導しています。

「歌の会」というと
「歌は好きだけど、人前で歌うのは絶対イヤ」と拒否されることも多々あります。
「歌わない、聞くだけ」と歌わなくて良いことを担保していますし
そのイメージが伝わるように、あえて前の席ではなく後方の席へ誘導することもあります。
もちろん、歌いたくなったら口ずさんでもいい
(今はコロナ渦なのでマイクをお渡しすることはなくなりましたが)
歌いたい方には前に出てきてマイクを持って歌っていただいていました。

同時に
訴えの多い方への対応や
歩行不安定な方の立ち上がりや
帰宅要求のある方への対応なども行いますが
できるだけ場の円滑な運営が行えるように
どうしたらその方たち一人一人が集中できるようになるのか
何かコトが起こってから対応するのではなく
コトが起こる前に、起こらないように、予防対応的に考えています。
(これについては、長くなるので別の記事でお伝えします)

同じ時間、同じ空間を共有するけれど
個々の方それぞれの能力と特性を発揮できるような援助をするために
私がしている工夫をご紹介しました。

  2時間の精神科作業療法を音楽鑑賞だけでなく
  他の要素も組み合わせ、個人ごとのActivity提供という
  並行集団としての展開もしていますが

  長くなるので、こちらも別の記事でお伝えしていきます。

私としては、こういった意図と配慮のもとに
音楽鑑賞の場面を運営・進行しているのですが
人によっては「ただ歌を聞かせてるだけ」「誰でもできる」と思うようで
実際、そう言われたことがあり
その時の態度がちょっとあんまりで
私もその時は若かったし、ちょうど良いきっかけもあったので
進行を変わってもらったことがあります。
そしたら、今まであんなに歌いまくっていた方たちが
(当時はコロナ渦ではないので)
まったく歌わなくなり、一気にシーンとしてしまって
その人は「あれ?あれ?」と言っていました。
 
前の記事「多訴の方への対応」で書いた通り、
実践している人には
「何をしているか」「何が起こっているのか」わかるけれど
実践していない人には
皆目わからないということが起こっているのです。

歌を聞かせるだけの人には
さまざまな配慮のもとに複数の意図を持って進行しているのを
目の前で見せてもらってもわからないのです。
  「OTの不安への答え」で書いたように
  紀伊克昌先生や古澤正道先生のデモンストレーションを見ても
  過去の私には何をしているのか、さっぱりわからなかったように
でも、実践している人には一目瞭然で何をしているのかわかる。

このことは、
生活期にある方への食事介助やポジショニング設定、立ち上がり・歩行介助
認知症のある方への対応全般について言えることです。
同じコトが違うカタチで、ありとあらゆるところで起こっているんです。

たかが音楽鑑賞、されど音楽鑑賞
その場をどれだけ豊かにできるかどうか
運営する人の意図によって全然違ってきます。

耳タコかもしれませんが
スティーブ・ジョブズの言うとおり
「意図こそが重要」なんです。

「歌わせる」「聞かせる」のか
歌を聞くことを通して能力発揮の援助をしたいのか
表面的には同じように見えて
その意図のベクトルは真逆です。
そしてその意図こそが伝わっているのです。

他のActivityでも、まったく同じことが違うカタチで起こっています。

どのActivityが良いのか、という問題ではないのです。
「何をやらせようか」という言葉が出た時点で答えは決まっています。
  (野村克也の言う「負けに不思議の負けなし」というわけです)
「何をしていただいたら良いかしら?」と言葉だけを丁寧な表現にしても
中身は同じですから答えも決まっています。

もちろん、悩む人は、日々のリハやActivityに困るから悩んでいるわけで
仕事に対して、いい加減な人ではないからこそ、出てくる悩みです。
でも、悩み方を間違えているんです。
 
対象者の状態像と特性が把握できれば
どんなActivityが適切なのか、それはなぜなのかが
明確に浮かび上がってきます。

浮かび上がってこない時には評価が曖昧なんです。
だから、評価に立ち戻れば良いのです。

でも、多くの人は
評価、状態把握に立ちもどることをせずに
「Aが良いか、Bはどうだろう?何が良いかしら?」と
悩むのです。。。
そこは本来悩むところではなくて、実行するところなんです。
状態把握、評価を。

認知症のある方のActivityの選択が難しいのではなくて
状態把握、評価が難しいと自身の現状に向き合うところなんです。

自身の評価困難という現状に向き合うことを回避して
認知症のある方のActivity提供の困難さに
問題設定をすり替えてしまう。。。OTの現場あるあるです。

評価と検査を混同する。
評価を状態像把握ではなくて、
MMSEやHDS-Rや立方体透視図模写テストなどのバッテリーをとる
検査をすることと混同・すり替えてしまうのも
OTの現場あるあるです。
 
「OTの不安への答え」にも書いたとおりで
こういったすり替えや問題設定の問題は
リハやケアの現場であらゆる場面で起こっています。
 

 

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ポジショニング設定の思考過程

生活期にある方に対して
ポジショニングを設定する場合に
どのように考え対応しているのか、お伝えします。

まず、最初にポジショニングを設定していない状態での
全身のアライメントを確認します。

そこで初めてポジショニングを設定する際の
優先事項が明確化される場合もあるし
最初に優先事項が決定していることもあります。

例えば
手指の拘縮が強くてハンドケアが行えないとか
頚部後屈が強くて誤嚥のリスクが高いとか
褥瘡治療のためとか

身体は解剖学的にも生理学的にも連続性があります。
身体は繋がっているので
必ず全身のアライメントを確認します。

その上で
判断・決定・合意・共有化された優先事項に則って
ポジショニングを行います。

現場あるあるなのが
設定する人が気になっているところだけ見てしまい
全身の関係性へ配慮なく設定してしまうことです。

  よくあるのが、
  膝関節の屈曲拘縮を予防しようとして
  頑張って過剰にクッションを入れて膝を伸ばしてしまうとか。
  あるいは、
  股関節の内転を予防しようとして両足の間に過剰にクッションを入れて
  足を広げてしまうとか。

  手指の拘縮が強いと、手指だけ見てなんとかしようとしてしまうとか。

クッションを外すと一気に元の姿勢以上に
手足がギューッと屈曲してしまうとか。

「だからクッションでちゃんと足を広げて伸ばさないと
 もっと拘縮がひどくなっちゃう」と誤認されていますが
事実は反対で私たちの対応がよくないのです。

誤ったポジショニングがなぜ漫然と行われてしまうのか。
原因は概念や知識の本質を理解した上で活用する
ということが為されていないと考えています。

筋の起始停止を思い出してください。

上肢も下肢も2関節筋はたくさんあります。
筋をリラックスさせずに
2関節筋の遠位部を無理やり伸ばせば近位部は逆に収縮するしかありません。

良肢位保持と唱えながら逆に関節拘縮を悪化させてしまうのです。
「身体が硬くてオムツ交換が大変」と言いながら
自分たちでオムツ交換が大変な身体にしているのです。

姿勢とは身体の働きが反映されています。
身体の働きが改善された結果として良い姿勢になるのであって
外力的に無理やり良い姿勢を作ると
効果がないどころか逆効果になってしまいます。 
(ポジショニングだけでなくROM訓練でも同じことが起こっています)
(目的と手段の混同、すり替えがここでも起こっています)

軽度の状態では、悪手の結果をすぐに見ることがないかもしれませんが
後になって悪手の蓄積のツケを対象者も周囲の人も払わされる。。。
食事介助の不適切なスプーン操作とまったく同じことが
違うカタチで起こっています。

介護老人福祉施設で働く人たちは
ものすごい拘縮を起こしてしまっている人たちを
たくさん見ているのではないでしょうか。

でも
私たちの対応が悪いのだとしたら
私たちの対応を変えれば良いだけです。
ここに希望もあります。

一見、強直かと思うような状態像でも
まだまだ筋の過剰収縮であって改善可能性がある方はたくさんいます。

手指の拘縮が強く、なかなか手指を広げることができず
上肢も下肢も伸展位で空中に突っ張ってしまうほど筋緊張亢進が顕著な方でも
全身のポジショニングをきちんと設定してから
手指にスポンジを装着すると上肢も下肢も手指も筋緊張が緩和され
股関節も膝関節の屈曲も容易になり
上腕を外転させることも容易となり
手指を開排させることも容易となった方がいらっしゃいます。

ポジショニングを設定する時には
必ず個々の対象者にとってのキーポイントがあります。
人によって
股関節の屈曲位確保だったり
側臥位設定だったり。。。
そこを明確化し、外さないようにします。

その上で
身体と身体、身体とベッドの隙間を無くすように
クッションや古タオルなどを設置します。
つまり、身体の姿勢・肢位保持する筋の機能を代償するのです。
そうすると筋の過剰収縮を防ぐことができ
結果としてリラックスした姿勢を設定できるようになります。

最後に手指にスポンジを装着すると
手指の筋緊張緩和も為され
そのことが同時に筋の近位部である上肢帯の筋緊張緩和にもなり
悪循環を脱却し、良循環が始まっていきます。

  ただし、全身のアライメントをきちんと観察することができないと
  適切なポジショニングは設定できません。
  ポジショニングが難しいのではなく
  アライメントを観察できていないのです。
  観察の眼を養うしかありません。
  近くに良い先達がいれば
  その人のワザをよく見て学んでください。
  良い先達がいなければ
  覚悟を決めて対象者の方から学んでください。

生活期の方のポジショニングとは
よく為されているように
良い姿勢を作るために
無理矢理足を広げたり伸ばしたりすることではありません。

その方の本来の可動域、本来の随意性が出現しやすいように
余分な筋緊張を緩和させること
ラクな姿勢を作ることなのです。

つまり
ここでも、改善・修正するのではなく援助する
という視点に依拠した対応をしています。

 

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多訴の方への対応

「認知症のある方の訴えが多くて困る」という声もよく聞きます。
 
確かに
認知症のある方の中には
同じ訴えを繰り返す方も少なくありません。

しかも、同じ訴えを繰り返す方の声は
たいてい、悲痛な声なので
「同じ訴えを繰り返す」という表現をしていますが
実は、あんな声を聞くのはイヤというのが本音だったりします。

職員だって人間ですから
ナマの感情として、そのように感じる
という現実を否定はできません。

だからといって
イヤイヤな内心をそのまま表現してしまったり
あるいは隠そうとはしても隠しきれずに
認知症のある方にぶっきらぼうに対応するのは
プロとしてどうなんだろう?とも思いますよね。

じゃあ、どうしたら良いのか
  
たいていの人は
「どうしたら訴えをなくせるのか」
と考えます。

   そのように問題設定を考える人は
   表面的に訴えをしないように説得したり抑圧しようとしがちです。
   言葉は丁寧でも口調は強く大きな声で
   従わざるを得ない雰囲気を醸し出しています。
   認知症のある方は空気を読み取る能力があるから
   従わざるを得ないという。。。
   そして「訴えなくなった→良い対応だった」と判断されるという。。。
   単に我慢を要請し、抑圧しているだけなのに。
   このような対応は、仮にその場は良くても長期的には逆効果になります。
   抑圧させているだけなので、
   抑圧しなくても良い場面あるいは
   抑圧することができなくなった時に一気に吹き出してきます。
   それを症状悪化と呼ぶという。。。
   現場あるあるです。
   こういったことは、同じコトが違うカタチでいろいろと起こっています。

ここがすでに問題設定の問題になっています。

「どうしたら訴えをなくせるのか」という問題設定は
誰にとっての問題を意味しているのでしょうか?

認知症のある方の困りごとの解決を援助するという立場に立てば
繰り返し同じ訴えをするという行動に
反映されているコトは何なのだろうか?
という問題設定になるのではないでしょうか?

たとえば
よくある訴えが排尿関係の訴えです。
「おしっこが出ちゃう」と言って頻回にトイレに行きたがります。
実際にトイレに行ってみても出ないか、あるいはごく少量しか出なかったり。。。
そのような方の場合には
実はしっかりと排尿しきれず残尿感があるために尿意を感じ続ける
というケースが少なくありません。
であれば「トイレに行きたい」と繰り返し同じ訴えをするのは
正当な訴えということになります。
だとすると考えるべきは
いかに「トイレの訴えを減らすか、なくすか」ではなくて
「どうしたら残尿を減らせるか」という技術的な問題になります。

あるいは
何か集中できるActivityをしている時にはトイレ希望がない
というケースもよくあります。
このようなケースに対しては表面的に
「何か気持ちをそらせることをやらせましょう」という対応になりがちです。
そのような場合によくあるのが
「おしっこが出たい」のではなくて
「おしっこで失敗したくない」
 →「失敗したくない気持ちの具体例がおしっこを漏らしたくない」
ということもよくあります。
つまり、尿意は本当の問題ではない。
根底にあるのは、自身の不全感への不安であって
その不安が排泄の訴えとして現れている場合です。
このような場合に単純に気持ちを紛らわせることばかり考えて
認知症のある方の能力よりも高度なActivityをやらせて
かえって不全感を強めてしまい
「トイレ」「トイレ」と訴えが増えてしまうこともよくあります。

  現場あるあるなのが
  認知症のある方の遂行機能や構成障害などの能力や障害が把握できていないのに
  「これなら簡単だからできるだろう」と提供する職員がとても多いことです。
  毛糸モップは段階付けが多様に行えるので
  幅広い状態の方に適用できるActivityではありますが
  決して遂行が容易ではなくて、
  構成障害のある認知症のある方にとっては
難しいこともよくあります。
  
自身の不全感への不安が根底にある場合に
達成感や安心感を内的に感受できるような体験が
Activityを通して体験できて、その体験を蓄積できるようになると
トイレの訴えがなくなったり、減ることはあり得ます。
ただし、近時記憶が低下しているので体験している場面ではよくても
体験以外の場面では難しいこともあります。
体験を忘れてしまうから日常生活全般への汎化は難しいのです。
 
逆に言えば、Activity以外でも達成感や安心感を感受できれば良い
ということになります。
  
  ちょっと話はそれますが
  特定の方に用事がある時に食堂やホールなど複数の方が集まる場所に出向く時には
  用事がない方にも必ずアイコンタクトをして会釈だけはするようにしています。
  「今はあなたに用事はないけど、あなたのことを気に留めています」
  ということを伝えるためです。
  用事のない方の前を見向きもせずに通り過ぎる人も多いけれど
  それって「あなたには用事も関心もない」と態度で言っているも同じです。

  また、この対応をしているおかげで
  実際に体調不良の方の早期発見をしたこともあります。

  このような対応をしている人って案外少ないんです。。。
  他の対応全般と同様に、実践している人にはわかっても
  実践していない人には「何をしているかわからない」「見れども観えず」
  となっていて、しかもその自覚がないのです。。。

  多くの人は、自分にとっての問題というカタチでモノゴトが表面化した時に
  どうしたら良いのか?と考えます。
  対応が後手に回っているし、視点が自己中心ということに無自覚なのです。
  だから的確な対応が浮かぶはずがないのです。。。

  リハ室に来た方が
  「あーここに来るとホッとする」と言われると私もホッとします。
  そういう場所を作れて良かったと思います。
   
  問題が起こってから対応を考えるのではなくて
  問題が起こる前に環境づくりの一環として
  お金もかけず、エネルギーも使わずに私たちができることはまだまだあります。
  
  施設方針として敬語を奨励するなら
  「用事のない方の前を黙って通り過ぎない」
  「用事のない方の前を通り過ぎる時には会釈する」
  ということを奨励した方がよっぽど建設的だと思っています。
   
達成感や安心感をイマ、ココで感受できるから結果として訴えが減る
こういった事象を表面的にしか捉えられない人は
「やっぱり気持ちをそらせるべき」という判断になりがちですが
似て異なるもの、それは違うのです。

  これは私の推測ですが。。。
  アルツハイマー型認知症のある方は
  今よりもずっと社会的規範が明確にあり
  それらに従うことを要請され
  躾の厳しい時代を過ごしてこられました。
  両親から厳しい躾をされたり
  あるいは自己防衛から自主的に内面化し
  不安感を抱えた幼少期を過ごした方が
  高齢になり、近時記憶障害があるために、

  今までは抑圧できていた不安が抑圧しきれなくなり
  現在の不安感というカタチで表現されている
  可能性もあるのではないかと考えています。
  現在の不安や心配を抱いた時に、
  それらの「感情」を抱いた過去の記憶が蘇り
  余計に不安になってしまうと考えています。

だからこそ
イマ、ポジティブな体験をすることに意義があります。
HDS-R3点の方でも、1分前のことを忘れてしまう方でも
再認することができる方もいます。
現在の安心感という「感情」をきっかけとして
過去の安心感を抱いた体験を想起することも起こり得ます。

再認は、ポジティブにもネガティブにも働きます。
イマ・ココでポジティブな体験をするために
体験構成の一因子である私たち職員の関与の質が問われます。

訴えが多い方に私がよくしていることは
ひとつには、不安や心配な気持ちの表出を促すことです。
不安や心配な気持ちを誤魔化したり気持ちをそらせるのではなくて
そう感じても良いのだと
何が心配なのか語ってもらいます。

  ここは バリデーション の出番です。
  (バリデーションのことは記事にしてありますから検索してみてください)

もう一つは、不安の表明があってから対応するのではなくて
不安の表明がない時でも常に大丈夫なのだと、よく頑張っているのを知っていると
最小限の言葉と、表情と声のトーンと態度という非言語の両面で伝え続けることです。

「どうしたら良いの?」「これで良いの?」と言葉で不安を訴える方には
訴えがあってから対応するのではなくて
訴えがない時から、アイコンタクトや笑顔、うなづきやハンドサインやジェスチャー
という非言語な表現を多用して、言葉以外で伝えます。
同じくアイコンタクトやうなづきやハンドサインでお返事をしてくれるようになれば
「悲痛な声」を聞かなくて済むこともあります。

「どうしたら良いの?」と悲痛な声で繰り返されると職員も疲弊してしまいますが
お茶目なハンドサインで表現が返ってくれば「悲痛な声」を聞くこともなくなるので
その方とのコミュニケーションをポジティブな気持ちで提供できるようになります。
その結果、情緒的に安定し、結果として訴えが減少することもあります。

  訴えが多い方に対して「依存的」と判断する職員は多いようですが
  若い時から困ったら自身で解決するのではなく誰かに助けてもらっていた
  内在する不安を誰かに分かち合ってもらってきた
  という行動パターンがもともとあった方かもしれません。
  であるならば、そのような基本的な行動パターンを変えるように要請しても
  困難なのではないでしょうか。
  むしろ、その行動パターンはそのままに
  応答手段としてのコミュニケーションを非言語に切り替えれば

  周囲も受け入れやすくなります。
  (余談ですが、不思議なもので
  「依存的」と判断したり、我慢を要請する職員に限って、
   受け入れやすい行動へ変容した時には
   打って変わって、ニコニコと接するようになります。。。)
  
ここでのポイントは
訴えの根底にある不安感からくる確認行動を否定せず
「多訴」「依存的」という行動を修正・改善することを考えるのではなくて

確認せざるを得ないというニーズに基づいた表現手段を
悲痛な声で表出する(つまりそれだけ切実なのです)言語から
周囲が受け入れやすい非言語へと行動変容を促すことにあります。

かつて
「ねぇ」と繰り返し発言する方がいました。
理由を尋ねても答えず(答えられず)ということが続くと
だんだん職員の対応も遠ざかってしまいます。
そうすると「ねぇ」だけが頻回に大きな声で繰り返されてしまいます。

大きな声で繰り返される「ねぇ」は本当に治療されるべきBPSDでしょうか?

私は、その方の真正面に座りました。
「ねぇ」と言われた時には「はい」と答えました。
そうすると真っ直ぐに私の顔を見てすぐにうつむきます。
しばらくするとまた「ねぇ」と言います。
「はい」と答えました。
しばらく繰り返していたら
その方は無言で顔を上げ、私の顔を見るとまたうつむくことを繰り返すようになりました。
その方の正面の席を立っても遠くからでもその方に視線を送るようにしました。
その方は私を探してちゃんとアイコンタクトをとります。
その後、アイコンタクトが担保されたことが確信できたのか
「ねぇ」という声を聞くことは無くなりました。

この方は、「ねぇ」以外の言葉を発することができなかったので
推測することしかできませんが
「ねぇ」以外に言語表現力がなければ
何かを伝えたい時には「ねぇ」と言うしかありません。
そして伝えたい気持ちが強ければ強いほど
唯一言える言葉である「ねぇ」を繰り返し大きな声で言うしかなかったのだと思います。
近時記憶障害が高度であれば、1分前のことも忘れてしまいますから
結果として同じ訴えを繰り返すように見えます。
 
  説得に走る人がよく使う「さっきも言いましたけれど」と言う言葉は
  効果がないどころか逆効果にしかなりません。
  そう言う職員は対応のネタ切れに陥っているのだと思いますが
 「さっきも言ったけれど」と言うことは
  暗に「もう言うなよ」と思っている
から言える言葉です。

  そして、その感情は確実に伝わっています
  認知症のある方は、この人に言ってもムダだと感受します。
  だから言わなくはなります。
  (忘れてしまって繰り返すことはありますが、すぐに引き下がります)

  職員は自分にとっての問題を解決はしましたが
  (だから、自分のとった方法が良いと主張します)
  認知症のある方にとっての問題は解決されてはいません。
  我慢、抑圧
させられただけです。

また、2−3分前のことも忘れてしまうくらい近時記憶が低下している別の方がいました。
この方が繰り返し痛みを訴えるような時には悲痛な表情で悲痛な声で訴えられます。
(痛みの原因はわかっていて対症療法しかできないケースです)
対応する職員の中には、言葉は丁寧でもぞんざいな口調と表情で対応する人もいます。
そのような人は無自覚であっても、
非言語な表出に反映されている本音はちゃんと伝わってしまいますから
認知症のある方は、なんとか自身の辛さをわかってもらおうとして
もっと悲痛な表情でもっと悲痛な声で痛みを訴えるようになります。
そうした悪循環を作っているのは職員の側なんです。

よくよく観察すれば
痛みを訴えない時間と場面があって
その方は自身でなんとか自制しようとしていることを意味していると感じています。

  (このようなケースでは往々にして
   構ってほしいアピールなんだと判断する職員もいますが
   そのような職員と対象者の方が善き関係性を築いているケースを
   見たことはありません)

痛いは痛いけれど、なんとか辛抱しようとしている
辛抱できる時もある
でも辛抱しきれない時もある

ここに可能性があります。
私には痛みを減らすことはできませんが
その方の自制しようとする気持ちを支え続けることならできます。
 
こちらも悲痛な表情で悲痛な声で痛みを受け止めようとしていることを伝えます。
2−3分ごとに繰り返される訴えに、こちらもその都度同じことを繰り返します。
同時にその方が自制しやすい場面を確認していきます。
他者との交流なのか
自身が達成感を抱けるActivityなのか
ヒトなのか、モノなのか、コトなのか、多くの場合は複合しているものです。
それらを提供することによって痛みの訴えはゼロにならなくても
痛みとともに暮らしていけるようになっていきます。

訴えの多い方に対して
どうしたら訴えをなくすことができるのか考える
という対応は現場あるあるですが
この問題設定は、誰のための問題なのでしょうか?

私たちの仕事は
認知症のある方の暮らしの支援のはずですが
いつの間にか、私たちの問題と認知症のある方が抱える困難とを混同していないでしょうか?
  
抽象的総論的に良いことを語る人たちが
具体的現実的に解決策を提案できないというのも現場あるあるです。

  具体的現実的に解決できないから
  過剰に抽象的総論的に語ることで補償する
  自己防衛しようとしているのではないかと考えています。
  無自覚でしょうけれど。
  理想は語るものでも唱えるものでもなく具現化していくものです。
  ところが、残念なことに
  理想と実践の乖離が進んでいる側面もあるのではないでしょうか。
  乖離に疑問を抱かざるをえない真摯に地道に働く職員が辛い思いを抱え
  認知症のある方も余分な困難を抱え
  本当の問題が表面化しにくくなっているのではないでしょうか?
  だからこそ、私が具体的現実的な考え方と具体例を提案する、表明することに
  意義があると考えています。

問題設定の問題

正しく聞くことができないから
正しい答えが返ってこない
だとしたら、検討すべきは聞き方であって答えではない。

食事介助で
「口を開けてくれない方がどうしたら口を開けて食べてくれるようになるか」
という問題設定と全く同じコトが違うカタチで
対応の工夫全般でも起こっているだけなんです。

それは、問題設定が悪いからなんです。
認知症のある方への支援に携わっている人たちの現場には
問題設定の問題が蔓延っていることに気がつければ
問題設定に意識的に取り組めるようになり、改善への道を模索できるようになります。
ここに未来への希望があります。

 

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