Tag: 臨床あるある

言葉の取り扱い

ちょっと待った

「アルツだから」

先日、こんな言葉を聞いてびっくりしました。
いわゆるギョーカイ用語のつもりなのでしょうか?

他にもよく聞くのが
「認知だから」
「認知の人」
「認知のある方」

その流れで「アルツ」なんだとは思いますが。

少なくとも
私の周囲でそんな言葉を使う人で
行動観察がしっかりしていて
知識もきちんともっていて
論理的に考えるような人には出会った試しがない。

当たり前だと思いますが (^^;
だって言葉は概念を表すものだもの。

言葉の取り扱いに気をつけるということは
概念の取り扱いにも気をつけているということだもの。

とりわけ
リハスタッフは
末梢からの情報入力に関与することによって
中枢の回路を組み替えるという仕事をしているわけだから
リハスタッフが一番言葉の取り扱いに鋭敏にならざるを得ないと思うのですが。

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臨床あるある(座る練習>立ち上がり)

我慢のしどころ

騙されたと思って、やってみてほしい。です。

ご自身で立ち上がりができない方に対して
立ち上がりの練習をする時に
まず、最初は
頑張って立ち上がりを練習するのではなくて
座る練習をする
立ち上がりは全介助で重心の移動方向に注意しておこなう
という方法です。

以前にこのブログのどこかに書きましたけれど
随分前なので、探すのも大変だと思います。
(そんなワケで今書いています ^^;)

この方法はいくつかポイントがあるのですが
肝心なことは、
過剰努力をさせるから
立ち上がりの練習をしているのに立ち上がれるようにはならないし
できるけれど腰痛を発症するとか回数を重ねるとできなくなってしまうので
過剰努力をさせないということと
できることのでき方を良くすると、できないことができるようになる
というところにあります。

(続く)

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臨床あるある(昔とった杵柄の意味)

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スティーブ・ジョブズは言いました。
「人は形にして見せてもらうまで自分のほしいものがわからない」

だから、アップルは他社とは違って
敢えて、商品開発のための事前の市場調査を行っていなかったんだそうです。
そのかわり、発売した製品の使い勝手などのモニタリングは徹底して行ったとのこと。

なるほどー。と思ったものです。

Mac OSやi Macやi Phoneが世に出て初めて
「こんなのがあったらいいなーと思ってたんだよ」とは言えても
商品化される前に具体的なイメージができていた人は圧倒的に少なかったと思います。

作業選択だって、そういう場面にはよく遭遇しています。
だって、重度の認知症のある方には
昔とった杵柄をそのまま適用はできませんもの。

「かつて」好きだった、得意だったことが
「今も」そのままできるとは限らない。からです。

でも、昔とった杵柄がそのままできないからといって
まるきり、意味がなくなるわけでは決してありません。

昔とった杵柄と同じ要素を違うカタチで提示するといいんです。

初めて行う作業であったとしても
集中して行えるし
綺麗にできるし
満足感も高いし
何よりも重度の認知症のある方自身が
自分で在ることの意義を言葉ではなくて体験を通して再確認できる。

Re-Habilis の体験をすることができる。

それら一連の過程を言葉ではなくて
体験を通して確認・恊働することができる。

その援助ができるのが、作業療法士の作業療法士たる所以なのだと感じています。

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「言ってくれなきゃわからない」

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私の大好きな「ゲド戦記」に
コケばばが語るこんな言葉があります。

「(略)
いいですかね、もしわしの顔にちゃんと目がありゃ、わしにはおかみさんに目があるのがわかる。
そうじゃないですかね。もし、おかみさんが目が見えなくても、わしにはそれとちゃんとわかる。
もし、おかみさんがあの子みたいにひとつしか目がなくても、反対に三つ目があっても、それもこっちにはわかる。
だけど、わしのほうに見る目がなかったら、相手に目があるかどうかは言ってくれなきゃわからない。
(略)」
ー ゲド戦記 最後の書 帰還 p.81より ー

相手に言葉にして尋ねることも言葉にして確認することも大切で必要だけれど
言葉だけに頼ったり強調されたりするのは、臨床的な意味でどうかと思う。

1つには言ってもらわないと、わからないのはどうかと思うし
もう1つは言葉以外の聴き方や確認をとりこぼしてしまうおそれがあると思います。

そういうことって
もう既に起こっているように感じられてなりません。

私たち作業療法士が扱う作業の本質としてのoccupationは
言葉によって分離されたものではない。
言葉も言葉以外のものもすべて包含した「場」のことです。

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臨床あるある(昔とった杵柄は要注意3)

ちょっと待った

もうひとつ、根本的に見落とされていることがあります。

人は明確に「やりたいこと」を希求して生きている人ばかりではない
ということです。

人によっては
「求められていること」をやることに重点を置くタイプの方もいますし
「生きること」「暮らすこと」に必死だった方も大勢おられます。

そういった方に
「やりたいことを尋ねる」だけでは、たとえこちらが意図していなかったとしても
その方の生き方を結果として否定してしまうことにもなりかねません。
少なくともそのように受けとめられる可能性については事前に十分に考慮しておく必要性があります。

こういうことを言うと
「認知症のある人は、そんなことわかんないでしょう」と言う人が出てくるものですが (^^;
そう言う人は認知症という病気の理解ができていないから、そんな風に言えるんです。

認知症のある方ご本人が「バカになった」という言い方をよくされますが
決して「バカ」になったのではありません。
あくまでも「障害」として、
新しいことが覚えられなくなったり、遂行機能障害が出てくるだけで
「判断力」の全てを喪失したわけではありません。

「やりたいことは何ですか?」と尋ねて答えられない方に対して
「やりたいこと」を想起しやすいような工夫は必要です。
そうすることによって答えられるようになる方もたくさんいるでしょう。

でも一方で
暗黙の前提要件となっている
「人は、やりたいことを明確に希求して生きるものだ」という命題は
本当に吟味されてきたのでしょうか?

この前提となっている命題は、本当に万人に当てはまるものなのでしょうか?

そもそも
「やりたいことをやる」のは何故なんでしょうか?
「作業をすることで元気になる」のは何故なんでしょうか?

「やりたいことができるようになって嬉しい」ということは
単に表面的な意味だけなのでしょうか?

活動・参加に大きく旗が振られるようになった今
「何をするのか」という根拠が求められています。
その1つに本人のやりたいことをもってくることは、よくわかります。
いろんな意味で。

でももう一歩深く考えてみれば、
目をつぶってきた本当には、わからないことがあったりするのではないでしょうか。

もしかしたら、必死になって「やりたいこと」を探すことによって
もう1つの本質的な問いかけを避けていたりはしないでしょうか。

「やりたいことはない」
この答えにその方の一端が現れてもいます。
それなのに、やりたいこと探しから始めるのでしょうか。。。

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臨床あるある(昔とった杵柄は要注意2)

ちょっと待った

臨床上、圧倒的に多いアルツハイマー型認知症のある方は記憶の連続性が低下していきます。
病状の進行に伴い、遠隔記憶が保たれていても近時記憶は低下していきます。
いわゆる、昔のことは覚えていても最近のことは覚えられないという状態像になります。

認知症のある方に
「何かやりたいことはありますか?」
「得意なこと、好きなこと、趣味は何ですか?」
そう尋ねられて答えるのが、かつて若い頃に得意だったこと、好きだったこと、趣味だったりしますし
「今は何もできないから」「今は何もしていないし」
そう答える認知症のある方に「かつて」のことを尋ねる作業療法士だっているでしょう。

こんな風に尋ねることそのものは悪いことではありません。
でもその答えをそのまま鵜呑みにしてActivityを提供するのは考えものです。

「かつて」は、好きだった、得意だった、趣味だったことが
「今」も、同じようにできるとは限らない。からです。

アルツハイマー型認知症のある方は
多くの場合、当初は記銘力低下が主体で構成障害や遂行機能障害は目立たないことがよくあります。
ある程度、病状が進行するとそれらの障害も進行してきます。
そうすると「かつて」できていたことも「今」できなくなる、混乱することになってしまいます。
基本的なADLが自立していても、このような状態像になってくることが少なくありません。
つまり日々それなりに内心不安を抱えながらも巧みに回避しながら暮らせていたのに
何か作る段になって明確に失敗体験に直面してびっくりしてしまう。ことになりかねません。

また、提供者側が構成障害や遂行機能障害について無頓着であると
こういった失敗体験の意味がわからないまま「優しく」「丁寧に」「怒らないで」対応しようとして
かえって傷を広げてしまうことにもなりかねません。

同じ脳の病気によって障害が起こる脳血管障害後遺症を考えるとおわかりいただけるかと思います。
動かない右手で、かつてしていた趣味を提供してみたら、できなかった方に対して
どんなに優しく、丁寧に、怒らないで接したとしても、できないという状況は何も変わりません。
こんな時にそのまま提供し続けるでしょうか?
方法を変えることが容易であれば、「異なる方法」で行うという選択肢もありますが
認知症が進行していると「新たな方法」つまり「同じことを違う方法で行う」ことを学習することは困難です。
このような状態でも、そのまま提供し続けられますか?

「やりたいことを尋ねる」ことは必要不可欠です。
でも、認知症のある方の場合に
その尋ね方が言葉に頼り過ぎていると、結果として逆効果になってしまうこともあります。
認知症という病態に起因することなので、十分に気をつけることが求められます。

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臨床あるある(折り紙は難しい:認知面)

作業に語らせる:輪くさり

昨日に引き続き
「折り紙はお年寄りには難しい」今日は認知面についてご説明します。

輪ぐさりのことについては、こちらでも随分前に書いていますが、
今日はちょっと違う側面から書いてみましょう。

折り紙の第一の特徴は、平面から立体に形作られていく。ということです。

私なんかは素朴にこの発想と思考に感嘆してしまいますが
本当に素晴らしいアイデアですよね。
風呂敷という布1枚で立体的な品物を包む。とか
同じ1つの部屋を、ある時にはお食事用、ある時には団らん用、ある時には寝室用と使い分ける
という発想と根底にどこかで繋がっているような気もします。

輪ぐさりは、工程そのものは少ないのですが
それでも認知症のある方には、なかなか難しいものです。
一番難しい要素が入っていると言ってもいいかもしれません。

作業に語らせる:輪くさり

作業に語らせる:輪くさり

目の前でやってみせても
見本をおいておいても難しい。
(こういう場合には、むしろ、そういうことをするから余計に難しくなると考えています)
輪ぐさりというイメージは残っているから
そのイメージ通りに作ろうとしても作れていないということはわかりますから
「あれ?」と首をかしげながらも、上2つの写真のようになってしまいます。

構成障害といって
空間の中での部分と全体の関係性および部分と部分との関係性を認識し再現することの障害があると
折り紙はとても難しくなってしまいます。
平面という二次元での認識・再現と立体という三次元での認識・再現をいったりきたりする能力が必要です。

それに加えて
遂行機能も必要になってきますから、「あれ?」と思った時に
構成能力と遂行機能が保たれていないと適切に修正することが非常に難しくなってしまいます。

輪ぐさりは折り紙の中でも工程数は少ないActivityですが
要求される能力は意外に複雑です。

鶴や奴さんになると
もっと工程数は増えてくるので
工程を身体で覚えている方はよいのですが
忘れてしまっていて構成障害が重度な方になると
隣目の前で一緒にやってみせても
認知症のある方は「同じように折れない」ということになってしまいます。

モチロン、このあたりに大きな障害のない方もいらっしゃいます。

私たち作業療法士は「作業のプロ」として作業分析ができることが強みです。
その方の障害と能力と特性が把握できる。
同時に、「ある作業」が要求する能力を分析できる。
それは、いろいろな疾患が呈する障害の種類と程度との関連性において視点を変えながらも分析できる。
ということをも意味します。

作業療法士という「人」だからこそ
瞬時に適切な「マッチング」をすることができるのだと考えています。

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臨床あるある(折り紙は難しい:身体面)

ちょっと待った

折り紙は、お年寄りには難しい

そう思ったことはありませんか?

昔とった杵柄。。。手続き記憶の活用
そうは思っても、身体がついていかないことって実はとても多いんです。

高齢になると
手先が思うとおりに動きにくくなることがよくあります。
手指の巧緻性が低下してくるんです。

「鶴を折ってみましょうか?」と言っても
鶴の折り方を頭ではイメージできていても実際に折るとなると話は別です。

折り紙が綺麗に仕上がるためには
紙の端と端をズレなく重ねることができる
折り目をぴしっとつけることができる
角をすっきりと鋭角に残して折ることができる
といった身体的な能力が必要です。

これらのことができないと、綺麗に折り紙が完成しません。

ぐにゃっとした完成品を目の前にして
「がんばってできましたね」といくら褒められたって嬉しくありませんよ (^^;
自分だったら、ガッカリするでしょう?
まして、昔は綺麗に仕上げていた方なら余計にそう思うと思います。

Activityは綺麗に仕上がらなければ意味がない。とは言いませんが
結果が明確なカタチとなって目の前に残ってしまうというActivityは用い方に細心の注意が必要です。

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