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声かけ再考:感覚ー判断ー行動

イメージ_紫陽花

認知症のある方に対してトイレ誘導をする時に
どんな声かけをしていますか?

「トイレに行きましょうか?」と尋ねた時に
認知症のあるAさんが「ううん、行かない」と答えたから
トイレ誘導しなかったのに
別の職員が「おしっこ出る?」と尋ねたら
Aさんが「出る」って答えて誘導されてた。
さっき尋ねた時には「行かない」って言ったじゃん。なんで?
みたいな経験をしたことはありませんか?

答えは
感覚ー判断ー行動  を踏まえた声かけの有無です。

認知症のある方によって、その時々によって
違和感を感じる ー 尿意と判断できる ー 尿意を解消するための手段としての行動
もぞもぞする  ー おしっこ     ー トイレに行く(連れて行って)
のどの段階で理解できるのか、表現できるのかが異なります。

その方が理解できる言葉の段階を踏まえて尋ねることが重要です。

その方が「もぞもぞする」ことしかわからないのに
トイレに行きましょうか?では理解できなくて断られて当然です。

この時に大切なことは
「よろしければお手洗いにご案内いたしましょうか?」
と敬語で丁寧な言葉使いで尋ねることではないのです。

そして多くの場合に
認知症のある方の言語理解力は変動します。
昨日は理解できていたことが今日は理解できなかったということもありますし
尿意を訴えなくなってしまった方が再び尿意を訴えるようになることもあります。

変動の幅、その方の最大能力と困難な時の能力とを踏まえて
イマ、ココでの能力を確認しながら声かけを選択する

その時その時で
声かけの理解の段階を把握した上で意図的に選択した言葉で尋ねる

ということができるかどうかが重要なのです。

認知症のある方に対して
声かけの重要性を否定する人はいないと思います。
ただ、声かけについては
接遇的な意味合いでしか捉えていないのではないでしょうか。

私は、接遇的な意味合いではなくて
(接遇を否定しているわけではありません)
障害と能力の観点から
声かけについて捉え直すこと
ここでは、概念の階層性を確認しながら対応する
ことを提案しています。

クリスティーン・ブライデン氏の言った
「私たちとあなた方の世界に橋をかける」
ということを
「あなた方の立場」からも
少しでも現実化・具現化していきたいと思っています。

 

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他部門連携:ポジショニングのちょっとした工夫

他職種に
ポジショニングを説明する時に
設定した時の写真をとって
設定方法を書いて
注意事項も書くのですが
お部屋に掲示しても複数のクッションがあると
設定部位を間違えられてしまいます。

そこで
「対象に工程を語らせる」

クッションに
「どの部位にどう設定するのか」
書いたものをテプラで貼付してみました。

臥床時は赤色のテプラ、離床時は青色のテプラ
と色も変えて混同しないように工夫しました。

これでも間違えられることはありますが
頻度は激減しました。

設定方法について
質問したり確認してくれる人は良いのですが
「設定を間違える」という時点で
設定とその人の実践とに乖離があることがわからない
もしくは
乖離がきたすマイナスがわからない

ことを意味しているので
間違えるなと、言うのではなく
間違えにくいように、方法を提示する

ようにしています。

以前に何かの記事で
「施錠を忘れないように気をつけましょう」と言うのではなく
「施錠を忘れないような仕組みを考える」

という記事を書きましたが、その一例です。
 
再現性の担保についての工夫を
ポジショニングを例に紹介しました。

さて、
お気づきの方もいると思いますが
「対象に工程を語らせる」とは
認知症のある方への対応と同じことをしています。

そのココロについては、別の記事でお伝えします。

 

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ポジショニング設定の思考過程

生活期にある方に対して
ポジショニングを設定する場合に
どのように考え対応しているのか、お伝えします。

まず、最初にポジショニングを設定していない状態での
全身のアライメントを確認します。

そこで初めてポジショニングを設定する際の
優先事項が明確化される場合もあるし
最初に優先事項が決定していることもあります。

例えば
手指の拘縮が強くてハンドケアが行えないとか
頚部後屈が強くて誤嚥のリスクが高いとか
褥瘡治療のためとか

身体は解剖学的にも生理学的にも連続性があります。
身体は繋がっているので
必ず全身のアライメントを確認します。

その上で
判断・決定・合意・共有化された優先事項に則って
ポジショニングを行います。

現場あるあるなのが
設定する人が気になっているところだけ見てしまい
全身の関係性へ配慮なく設定してしまうことです。

  よくあるのが、
  膝関節の屈曲拘縮を予防しようとして
  頑張って過剰にクッションを入れて膝を伸ばしてしまうとか。
  あるいは、
  股関節の内転を予防しようとして両足の間に過剰にクッションを入れて
  足を広げてしまうとか。

  手指の拘縮が強いと、手指だけ見てなんとかしようとしてしまうとか。

クッションを外すと一気に元の姿勢以上に
手足がギューッと屈曲してしまうとか。

「だからクッションでちゃんと足を広げて伸ばさないと
 もっと拘縮がひどくなっちゃう」と誤認されていますが
事実は反対で私たちの対応がよくないのです。

誤ったポジショニングがなぜ漫然と行われてしまうのか。
原因は概念や知識の本質を理解した上で活用する
ということが為されていないと考えています。

筋の起始停止を思い出してください。

上肢も下肢も2関節筋はたくさんあります。
筋をリラックスさせずに
2関節筋の遠位部を無理やり伸ばせば近位部は逆に収縮するしかありません。

良肢位保持と唱えながら逆に関節拘縮を悪化させてしまうのです。
「身体が硬くてオムツ交換が大変」と言いながら
自分たちでオムツ交換が大変な身体にしているのです。

姿勢とは身体の働きが反映されています。
身体の働きが改善された結果として良い姿勢になるのであって
外力的に無理やり良い姿勢を作ると
効果がないどころか逆効果になってしまいます。 
(ポジショニングだけでなくROM訓練でも同じことが起こっています)
(目的と手段の混同、すり替えがここでも起こっています)

軽度の状態では、悪手の結果をすぐに見ることがないかもしれませんが
後になって悪手の蓄積のツケを対象者も周囲の人も払わされる。。。
食事介助の不適切なスプーン操作とまったく同じことが
違うカタチで起こっています。

介護老人福祉施設で働く人たちは
ものすごい拘縮を起こしてしまっている人たちを
たくさん見ているのではないでしょうか。

でも
私たちの対応が悪いのだとしたら
私たちの対応を変えれば良いだけです。
ここに希望もあります。

一見、強直かと思うような状態像でも
まだまだ筋の過剰収縮であって改善可能性がある方はたくさんいます。

手指の拘縮が強く、なかなか手指を広げることができず
上肢も下肢も伸展位で空中に突っ張ってしまうほど筋緊張亢進が顕著な方でも
全身のポジショニングをきちんと設定してから
手指にスポンジを装着すると上肢も下肢も手指も筋緊張が緩和され
股関節も膝関節の屈曲も容易になり
上腕を外転させることも容易となり
手指を開排させることも容易となった方がいらっしゃいます。

ポジショニングを設定する時には
必ず個々の対象者にとってのキーポイントがあります。
人によって
股関節の屈曲位確保だったり
側臥位設定だったり。。。
そこを明確化し、外さないようにします。

その上で
身体と身体、身体とベッドの隙間を無くすように
クッションや古タオルなどを設置します。
つまり、身体の姿勢・肢位保持する筋の機能を代償するのです。
そうすると筋の過剰収縮を防ぐことができ
結果としてリラックスした姿勢を設定できるようになります。

最後に手指にスポンジを装着すると
手指の筋緊張緩和も為され
そのことが同時に筋の近位部である上肢帯の筋緊張緩和にもなり
悪循環を脱却し、良循環が始まっていきます。

  ただし、全身のアライメントをきちんと観察することができないと
  適切なポジショニングは設定できません。
  ポジショニングが難しいのではなく
  アライメントを観察できていないのです。
  観察の眼を養うしかありません。
  近くに良い先達がいれば
  その人のワザをよく見て学んでください。
  良い先達がいなければ
  覚悟を決めて対象者の方から学んでください。

生活期の方のポジショニングとは
よく為されているように
良い姿勢を作るために
無理矢理足を広げたり伸ばしたりすることではありません。

その方の本来の可動域、本来の随意性が出現しやすいように
余分な筋緊張を緩和させること
ラクな姿勢を作ることなのです。

つまり
ここでも、改善・修正するのではなく援助する
という視点に依拠した対応をしています。

 

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多訴の方への対応

「認知症のある方の訴えが多くて困る」という声もよく聞きます。
 
確かに
認知症のある方の中には
同じ訴えを繰り返す方も少なくありません。

しかも、同じ訴えを繰り返す方の声は
たいてい、悲痛な声なので
「同じ訴えを繰り返す」という表現をしていますが
実は、あんな声を聞くのはイヤというのが本音だったりします。

職員だって人間ですから
ナマの感情として、そのように感じる
という現実を否定はできません。

だからといって
イヤイヤな内心をそのまま表現してしまったり
あるいは隠そうとはしても隠しきれずに
認知症のある方にぶっきらぼうに対応するのは
プロとしてどうなんだろう?とも思いますよね。

じゃあ、どうしたら良いのか
  
たいていの人は
「どうしたら訴えをなくせるのか」
と考えます。

   そのように問題設定を考える人は
   表面的に訴えをしないように説得したり抑圧しようとしがちです。
   言葉は丁寧でも口調は強く大きな声で
   従わざるを得ない雰囲気を醸し出しています。
   認知症のある方は空気を読み取る能力があるから
   従わざるを得ないという。。。
   そして「訴えなくなった→良い対応だった」と判断されるという。。。
   単に我慢を要請し、抑圧しているだけなのに。
   このような対応は、仮にその場は良くても長期的には逆効果になります。
   抑圧させているだけなので、
   抑圧しなくても良い場面あるいは
   抑圧することができなくなった時に一気に吹き出してきます。
   それを症状悪化と呼ぶという。。。
   現場あるあるです。
   こういったことは、同じコトが違うカタチでいろいろと起こっています。

ここがすでに問題設定の問題になっています。

「どうしたら訴えをなくせるのか」という問題設定は
誰にとっての問題を意味しているのでしょうか?

認知症のある方の困りごとの解決を援助するという立場に立てば
繰り返し同じ訴えをするという行動に
反映されているコトは何なのだろうか?
という問題設定になるのではないでしょうか?

たとえば
よくある訴えが排尿関係の訴えです。
「おしっこが出ちゃう」と言って頻回にトイレに行きたがります。
実際にトイレに行ってみても出ないか、あるいはごく少量しか出なかったり。。。
そのような方の場合には
実はしっかりと排尿しきれず残尿感があるために尿意を感じ続ける
というケースが少なくありません。
であれば「トイレに行きたい」と繰り返し同じ訴えをするのは
正当な訴えということになります。
だとすると考えるべきは
いかに「トイレの訴えを減らすか、なくすか」ではなくて
「どうしたら残尿を減らせるか」という技術的な問題になります。

あるいは
何か集中できるActivityをしている時にはトイレ希望がない
というケースもよくあります。
このようなケースに対しては表面的に
「何か気持ちをそらせることをやらせましょう」という対応になりがちです。
そのような場合によくあるのが
「おしっこが出たい」のではなくて
「おしっこで失敗したくない」
 →「失敗したくない気持ちの具体例がおしっこを漏らしたくない」
ということもよくあります。
つまり、尿意は本当の問題ではない。
根底にあるのは、自身の不全感への不安であって
その不安が排泄の訴えとして現れている場合です。
このような場合に単純に気持ちを紛らわせることばかり考えて
認知症のある方の能力よりも高度なActivityをやらせて
かえって不全感を強めてしまい
「トイレ」「トイレ」と訴えが増えてしまうこともよくあります。

  現場あるあるなのが
  認知症のある方の遂行機能や構成障害などの能力や障害が把握できていないのに
  「これなら簡単だからできるだろう」と提供する職員がとても多いことです。
  毛糸モップは段階付けが多様に行えるので
  幅広い状態の方に適用できるActivityではありますが
  決して遂行が容易ではなくて、
  構成障害のある認知症のある方にとっては
難しいこともよくあります。
  
自身の不全感への不安が根底にある場合に
達成感や安心感を内的に感受できるような体験が
Activityを通して体験できて、その体験を蓄積できるようになると
トイレの訴えがなくなったり、減ることはあり得ます。
ただし、近時記憶が低下しているので体験している場面ではよくても
体験以外の場面では難しいこともあります。
体験を忘れてしまうから日常生活全般への汎化は難しいのです。
 
逆に言えば、Activity以外でも達成感や安心感を感受できれば良い
ということになります。
  
  ちょっと話はそれますが
  特定の方に用事がある時に食堂やホールなど複数の方が集まる場所に出向く時には
  用事がない方にも必ずアイコンタクトをして会釈だけはするようにしています。
  「今はあなたに用事はないけど、あなたのことを気に留めています」
  ということを伝えるためです。
  用事のない方の前を見向きもせずに通り過ぎる人も多いけれど
  それって「あなたには用事も関心もない」と態度で言っているも同じです。

  また、この対応をしているおかげで
  実際に体調不良の方の早期発見をしたこともあります。

  このような対応をしている人って案外少ないんです。。。
  他の対応全般と同様に、実践している人にはわかっても
  実践していない人には「何をしているかわからない」「見れども観えず」
  となっていて、しかもその自覚がないのです。。。

  多くの人は、自分にとっての問題というカタチでモノゴトが表面化した時に
  どうしたら良いのか?と考えます。
  対応が後手に回っているし、視点が自己中心ということに無自覚なのです。
  だから的確な対応が浮かぶはずがないのです。。。

  リハ室に来た方が
  「あーここに来るとホッとする」と言われると私もホッとします。
  そういう場所を作れて良かったと思います。
   
  問題が起こってから対応を考えるのではなくて
  問題が起こる前に環境づくりの一環として
  お金もかけず、エネルギーも使わずに私たちができることはまだまだあります。
  
  施設方針として敬語を奨励するなら
  「用事のない方の前を黙って通り過ぎない」
  「用事のない方の前を通り過ぎる時には会釈する」
  ということを奨励した方がよっぽど建設的だと思っています。
   
達成感や安心感をイマ、ココで感受できるから結果として訴えが減る
こういった事象を表面的にしか捉えられない人は
「やっぱり気持ちをそらせるべき」という判断になりがちですが
似て異なるもの、それは違うのです。

  これは私の推測ですが。。。
  アルツハイマー型認知症のある方は
  今よりもずっと社会的規範が明確にあり
  それらに従うことを要請され
  躾の厳しい時代を過ごしてこられました。
  両親から厳しい躾をされたり
  あるいは自己防衛から自主的に内面化し
  不安感を抱えた幼少期を過ごした方が
  高齢になり、近時記憶障害があるために、

  今までは抑圧できていた不安が抑圧しきれなくなり
  現在の不安感というカタチで表現されている
  可能性もあるのではないかと考えています。
  現在の不安や心配を抱いた時に、
  それらの「感情」を抱いた過去の記憶が蘇り
  余計に不安になってしまうと考えています。

だからこそ
イマ、ポジティブな体験をすることに意義があります。
HDS-R3点の方でも、1分前のことを忘れてしまう方でも
再認することができる方もいます。
現在の安心感という「感情」をきっかけとして
過去の安心感を抱いた体験を想起することも起こり得ます。

再認は、ポジティブにもネガティブにも働きます。
イマ・ココでポジティブな体験をするために
体験構成の一因子である私たち職員の関与の質が問われます。

訴えが多い方に私がよくしていることは
ひとつには、不安や心配な気持ちの表出を促すことです。
不安や心配な気持ちを誤魔化したり気持ちをそらせるのではなくて
そう感じても良いのだと
何が心配なのか語ってもらいます。

  ここは バリデーション の出番です。
  (バリデーションのことは記事にしてありますから検索してみてください)

もう一つは、不安の表明があってから対応するのではなくて
不安の表明がない時でも常に大丈夫なのだと、よく頑張っているのを知っていると
最小限の言葉と、表情と声のトーンと態度という非言語の両面で伝え続けることです。

「どうしたら良いの?」「これで良いの?」と言葉で不安を訴える方には
訴えがあってから対応するのではなくて
訴えがない時から、アイコンタクトや笑顔、うなづきやハンドサインやジェスチャー
という非言語な表現を多用して、言葉以外で伝えます。
同じくアイコンタクトやうなづきやハンドサインでお返事をしてくれるようになれば
「悲痛な声」を聞かなくて済むこともあります。

「どうしたら良いの?」と悲痛な声で繰り返されると職員も疲弊してしまいますが
お茶目なハンドサインで表現が返ってくれば「悲痛な声」を聞くこともなくなるので
その方とのコミュニケーションをポジティブな気持ちで提供できるようになります。
その結果、情緒的に安定し、結果として訴えが減少することもあります。

  訴えが多い方に対して「依存的」と判断する職員は多いようですが
  若い時から困ったら自身で解決するのではなく誰かに助けてもらっていた
  内在する不安を誰かに分かち合ってもらってきた
  という行動パターンがもともとあった方かもしれません。
  であるならば、そのような基本的な行動パターンを変えるように要請しても
  困難なのではないでしょうか。
  むしろ、その行動パターンはそのままに
  応答手段としてのコミュニケーションを非言語に切り替えれば

  周囲も受け入れやすくなります。
  (余談ですが、不思議なもので
  「依存的」と判断したり、我慢を要請する職員に限って、
   受け入れやすい行動へ変容した時には
   打って変わって、ニコニコと接するようになります。。。)
  
ここでのポイントは
訴えの根底にある不安感からくる確認行動を否定せず
「多訴」「依存的」という行動を修正・改善することを考えるのではなくて

確認せざるを得ないというニーズに基づいた表現手段を
悲痛な声で表出する(つまりそれだけ切実なのです)言語から
周囲が受け入れやすい非言語へと行動変容を促すことにあります。

かつて
「ねぇ」と繰り返し発言する方がいました。
理由を尋ねても答えず(答えられず)ということが続くと
だんだん職員の対応も遠ざかってしまいます。
そうすると「ねぇ」だけが頻回に大きな声で繰り返されてしまいます。

大きな声で繰り返される「ねぇ」は本当に治療されるべきBPSDでしょうか?

私は、その方の真正面に座りました。
「ねぇ」と言われた時には「はい」と答えました。
そうすると真っ直ぐに私の顔を見てすぐにうつむきます。
しばらくするとまた「ねぇ」と言います。
「はい」と答えました。
しばらく繰り返していたら
その方は無言で顔を上げ、私の顔を見るとまたうつむくことを繰り返すようになりました。
その方の正面の席を立っても遠くからでもその方に視線を送るようにしました。
その方は私を探してちゃんとアイコンタクトをとります。
その後、アイコンタクトが担保されたことが確信できたのか
「ねぇ」という声を聞くことは無くなりました。

この方は、「ねぇ」以外の言葉を発することができなかったので
推測することしかできませんが
「ねぇ」以外に言語表現力がなければ
何かを伝えたい時には「ねぇ」と言うしかありません。
そして伝えたい気持ちが強ければ強いほど
唯一言える言葉である「ねぇ」を繰り返し大きな声で言うしかなかったのだと思います。
近時記憶障害が高度であれば、1分前のことも忘れてしまいますから
結果として同じ訴えを繰り返すように見えます。
 
  説得に走る人がよく使う「さっきも言いましたけれど」と言う言葉は
  効果がないどころか逆効果にしかなりません。
  そう言う職員は対応のネタ切れに陥っているのだと思いますが
 「さっきも言ったけれど」と言うことは
  暗に「もう言うなよ」と思っている
から言える言葉です。

  そして、その感情は確実に伝わっています
  認知症のある方は、この人に言ってもムダだと感受します。
  だから言わなくはなります。
  (忘れてしまって繰り返すことはありますが、すぐに引き下がります)

  職員は自分にとっての問題を解決はしましたが
  (だから、自分のとった方法が良いと主張します)
  認知症のある方にとっての問題は解決されてはいません。
  我慢、抑圧
させられただけです。

また、2−3分前のことも忘れてしまうくらい近時記憶が低下している別の方がいました。
この方が繰り返し痛みを訴えるような時には悲痛な表情で悲痛な声で訴えられます。
(痛みの原因はわかっていて対症療法しかできないケースです)
対応する職員の中には、言葉は丁寧でもぞんざいな口調と表情で対応する人もいます。
そのような人は無自覚であっても、
非言語な表出に反映されている本音はちゃんと伝わってしまいますから
認知症のある方は、なんとか自身の辛さをわかってもらおうとして
もっと悲痛な表情でもっと悲痛な声で痛みを訴えるようになります。
そうした悪循環を作っているのは職員の側なんです。

よくよく観察すれば
痛みを訴えない時間と場面があって
その方は自身でなんとか自制しようとしていることを意味していると感じています。

  (このようなケースでは往々にして
   構ってほしいアピールなんだと判断する職員もいますが
   そのような職員と対象者の方が善き関係性を築いているケースを
   見たことはありません)

痛いは痛いけれど、なんとか辛抱しようとしている
辛抱できる時もある
でも辛抱しきれない時もある

ここに可能性があります。
私には痛みを減らすことはできませんが
その方の自制しようとする気持ちを支え続けることならできます。
 
こちらも悲痛な表情で悲痛な声で痛みを受け止めようとしていることを伝えます。
2−3分ごとに繰り返される訴えに、こちらもその都度同じことを繰り返します。
同時にその方が自制しやすい場面を確認していきます。
他者との交流なのか
自身が達成感を抱けるActivityなのか
ヒトなのか、モノなのか、コトなのか、多くの場合は複合しているものです。
それらを提供することによって痛みの訴えはゼロにならなくても
痛みとともに暮らしていけるようになっていきます。

訴えの多い方に対して
どうしたら訴えをなくすことができるのか考える
という対応は現場あるあるですが
この問題設定は、誰のための問題なのでしょうか?

私たちの仕事は
認知症のある方の暮らしの支援のはずですが
いつの間にか、私たちの問題と認知症のある方が抱える困難とを混同していないでしょうか?
  
抽象的総論的に良いことを語る人たちが
具体的現実的に解決策を提案できないというのも現場あるあるです。

  具体的現実的に解決できないから
  過剰に抽象的総論的に語ることで補償する
  自己防衛しようとしているのではないかと考えています。
  無自覚でしょうけれど。
  理想は語るものでも唱えるものでもなく具現化していくものです。
  ところが、残念なことに
  理想と実践の乖離が進んでいる側面もあるのではないでしょうか。
  乖離に疑問を抱かざるをえない真摯に地道に働く職員が辛い思いを抱え
  認知症のある方も余分な困難を抱え
  本当の問題が表面化しにくくなっているのではないでしょうか?
  だからこそ、私が具体的現実的な考え方と具体例を提案する、表明することに
  意義があると考えています。

問題設定の問題

正しく聞くことができないから
正しい答えが返ってこない
だとしたら、検討すべきは聞き方であって答えではない。

食事介助で
「口を開けてくれない方がどうしたら口を開けて食べてくれるようになるか」
という問題設定と全く同じコトが違うカタチで
対応の工夫全般でも起こっているだけなんです。

それは、問題設定が悪いからなんです。
認知症のある方への支援に携わっている人たちの現場には
問題設定の問題が蔓延っていることに気がつければ
問題設定に意識的に取り組めるようになり、改善への道を模索できるようになります。
ここに未来への希望があります。

 

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工程はActivityに語らせる


重度の認知症のある方でも
Activityを行える方はたくさんいます。

初めて行うActivityを紹介する時には
まず最初に完成品を見ていただき
完成品の用途を説明します。

ここで興味を持った方には
作り方の説明を実演しながら行います。
実演する時は通常通りに最初から行います。


 
例えば
幅広い状態像の方に適用可能なのが毛糸モップ
毛糸モップを例にとって説明していきます。

 

1)ハンガーの下に毛糸をくぐらせる

2)糸先を輪っかの中に入れる

3)糸先を引いて毛糸をハンガーに結びつける

 ここの工程をあえて省くことも多々あります。
 認知機能が低下している場合には省いたようが理解しやすいケースが多いです。
 自分がやることだけを覚える、余分なことは説明しないという意味です。
 ここを誤解している職員が大勢います。
 丁寧に説明しようと思って説明しすぎてしまうと
 認知症のある方に入力刺激が多すぎて混乱させてしまいます。

 認知症のある方へのわかりやすい説明とは接遇を尽くすことではないのです。

 

 

認知症のある方に実際にやってもらうことを通して
工程を説明していきます。
ここで最も重要なことは工程の最後から体験学習するということです。

 

1)糸先を輪っかの中にいれておき、糸先を引き絞る動作をしてもらう

まず、この工程を繰り返し体験してもらいます。
迷うことなく糸先を引き絞る動作ができるようになったことを確認してから
次の工程にうつります。

 

2)毛糸の糸先をハンガーの下からくぐらせてから
  糸先を輪っかの中に入れ引き絞るという2工程の動作をしてもらう

 

この2工程を迷うことなく行えることを確認したら
ひとつ遡って、毛糸をとるという工程を追加します。

3)毛糸をとる、ハンガーの下をくぐらせる、輪の中に糸先をいれ引き絞る
  という3工程を行なってもらいます。

この3工程を繰り返し行なってもらい
迷うことなく行えることを確認したら
次に糸先をそろえるという工程を追加します。

4)毛糸を取る、糸先をそろえる、ハンガーの下を潜らせる、輪の中に糸先を入れ引き絞る
  という4工程を行なってもらいます。

 * ここは細かく段階づけをしていきます。

 

   まず、糸先はそろえて、隙間を開けて置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   糸先をズラして、糸の隙間も開けて、置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   毛糸を少し丸めた状態で置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   毛糸を一本そのままの状態で置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   3本ほどの毛糸をまとめて置いておき
   そこから1本取って行えることを確認します。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   毛糸をまとめた状態にして置いておきます。
   ここまでできたら、困っていないか時々確認する程度の見守りをします。

 

 

  ちなみに
  アクリル毛糸同士ではなくて
  モヘアや綿とアクリル毛糸の異素材の組み合わせも素敵です。

  ただし、モヘアは軽くて細くてつまんでいる感覚が分かりにくいので
  そのあたり大丈夫な方が対象となります。

認知症のある方あるあるなのが
最初はできていたのに
途中で混乱してわからなくなってしまうケースです。
  
  その方にとって、何か注意をそらせるようなことがあった時に起こりやすい
  なので、私はあまりAct.中には話しかけないようにしています。
  一般的に「楽しく!」という思い込みによって
  「わいわいした雰囲気」を作り出そうとしたり
  おしゃべりをするケースも散見されますが
  そのような場面は実は注意集中を妨げやすい場面設定でもあります。
  もちろん、そのような場面設定でも注意集中が可能であれば良いのですが
  重度の認知症のある方の場合には周囲の環境という場面設定によって
  本来の能力発揮が妨げられることのないようにしたいものです。

途中で混乱してしまったり
トイレなどでいったん手を止めた後で
できなくなってしまった場合には
迷いなくできる工程まで戻ります。
この時に工程の最初に戻るのではなくて
工程の最後から確認していくことがポイントです。

工程の最後から
「こうしたらできる」
「こうやってできた」
という体験を繰り返し行うことで
できる、できた、という再認をすることが可能となります。

その上で1工程ずつ増やしていきます。
増やす工程そのものは「くぐらせる」「手にする」「そろえる」などの
かつて必ずどこかで行なってきた手続き記憶です。
その手続き記憶を新たな体験に統合する作業をしてもらうことを意味しています。

だから、段階づけは細かく行いますし
混乱したり、不安になったり、わからなくなってしまった時には
「できる」工程に戻って再認してもらっています。

ここまで、1回のリハの時間に行えたとしても
次に来る時には忘れてしまうことも現場あるあるです。

なぜなら、時間経過という時間干渉と
その間、さまざまな動作をしていたという動作干渉という二重の意味で
認知症のある方が忘れやすい状況に置かれるからです。

つまり、忘れてしまうのは仕方ないことなのです。

むしろ、初めてのActivityの工程を覚えているということ自体
素晴らしい能力発揮なのです。

手工芸をしていた方は、このような体験の統合が容易なことが多くあります。
たとえ、1−2分前の会話を忘れてしまう方でも
Activityの工程を覚えられることは本当にたくさんあります。

仮に、せっかく工程を教えたのに
忘れられてしまったからとがっかりする必要は全くありません。

忘れてしまったとしても
その方の行動パターンはこちらが把握できているので
工程のどこまで戻ったら良いのかの判断基準は手にしています。

もちろん、認知症のある方の体調変動によって多少の誤差はありますが
判断基準があるので提供するこちらの負担は初回ほど多くありません。

 

私は、Activityの工程を丁寧に言葉で説明を尽くし
「一緒にやるから大丈夫」とつきっきりで
安心させるような場面設定はしていません。
 
Activityの工程はActivityそのものに語らせるような場面設定をする工夫をして
認知症のある方が安心できるような場面設定をしています。
手も口も出しませんが、目だけは離さずにいる場面設定をする方が
認知症のある方自身の達成感を促しやすく
また、メタ認知やメタ体験としての達成感も得やすくなります。
そしてそのような体験ができるリハ場面そのものが
ポジティブな再認の場となるのでリハやActivityへの拒否が少なくなります。
 

 

もし良かったら是非お試しください。

ポイントは
・言葉だけに頼らず視覚的説明を活用する
・工程は最後から体験を通して理解してもらう
ということです。

認知症のある方への介助、援助、支援とは
接遇を尽くすということとは異なるのだと考えています。

  蛇足になりますが
  こう書くと必ず「接遇を否定した」と誤読する人がいるので念の為。
  私は接遇そのものは対人援助職として必要だと考えてはいますが
  接遇を尽くすことで認知症のある方の生活障害やBPSDが
  改善されることにはならない。
  私の主張は評価に基づいて対応を判断すべきということです。

 

 

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敬語奨励では解決できない問題

問題設定の問題、手段の目的化、手段と目的の混同って
リハやケアの分野で往々にして起こっていることです。

その一つが敬語問題だと感じています。
先の記事に絡めて少し補足を。

声かけの工夫について講演で説明すると
「よっしーさんのお話はその通りだと思うんですけど
 敬語を使わないと叱られるんです」という声をよく聞きます。

そのたびに
あぁ、またか。。。とガッカリします。

敬語を使うのは手段であって
敬意を示す、伝えることが本来の目的ですよね?

  もちろん、そういう方針の施設は
  「良かれ」と思っての善意からの方針なのだと思います。
  ですが!
  「地獄への道は善意で敷き詰められている」
  「地獄には善意が満ちているが、天国には善行が満ちている」
  という言葉がある通りに善意ほど恐ろしいものはありません。。。

認知症のある方に対して、
幼児に対するような声掛けをしないために
敬語を使いましょうという考え方はわからなくはありません。

でも、問題は2つあります。

ひとつは
幼児のような声掛けは確かに失礼なことではありますが
もしかしたら無自覚のうちに認知症のある方の言語理解力の低下を感受した職員が
分かりやすいように単語中心の声掛けを重ねていた
ただし、無自覚に行なっていたことなので説明できなかった可能性について
検討したことのある施設がどれだけあるのかという問題

もうひとつは
確かに敬語を使うように指導するのは
今すぐにできることの一つなのでしょうけれど
敬語を使うことを奨励するのではなく
敬意を自然と抱けるように職員を養成することについて
検討したことのある施設がどれだけあるのかという問題です。

問題設定を的確に行えないと
得てして解決策も表面的になりがちです。
そして、解決策が有効でないという結果になりがちです。
ここできちんと現実を観察・洞察できなければ
すでに起こっている問題を見逃してしまうことすら起こり得ます。

敬語を使うように奨励するだけでは問題の本質的な解決につながらない
という事象がすでに起こっているはずだと思います。
つまり、声かけが有効に機能しない、意思疎通困難な事例が増えたように見える
という事象です。
優秀な人は、この現実に気がついていると思いますが、
敬語使用によって問題が惹起されてしまうこともあるのだとは
認識できていないのではないでしょうか?

敬語の特徴として
婉曲な表現、長い文章表現という特徴
があります。

  「御御足を上げてくださいませ」という声掛けで理解できなかった方が
  「足、上げて」でちゃんと足を上げられた
   というケースがありました。
 
   丁寧に長い文章で伝えたのに
  「そんなに長ったらしく言われたってわかんないんだよ!」
   と怒鳴られたことがありましたって教えてくださったご家族もいました。

敬語は認知症のある方に理解しにくい言葉となってしまうこともあるのです。
(もちろん、理解できる認知症のある方も大勢いらっしゃいます)

また、
言葉としては確かに敬語を使ってはいても
強い口調で早口で大声で話す職員もいます。
当然、認知症のある方は怒りますが
 
  言葉ではなく、口調や早さや声量が伝えてしまう
  本当の感情、本音に対して怒り、理不尽さを感じているのです。
  言葉が伝えるコトとノンバーバルが伝えてしまうコトとの乖離に
  混乱する方だっているでしょう。

 
当の職員は(敬語を使っているが故に)
自身のノンバーバルな表現のマズさを自覚せず
認知症だからわからないという自身の誤認を強めてしまう。。。
現場あるあるではないでしょうか?

言葉は伝わって初めて言葉として機能します。
敬意を伝えるどころか
伝わらない敬語に、
言葉としての意味、声かけとしての意味が
どれだけあるのでしょうか。

真に検討すべきは
普通だったら幼児に対するような声掛けをするはずのない大人が
なぜそんな声掛けをしたのかについて
ひとつひとつの場面で具体的に本当は何が起こっていたのかを
事実を事実として振り返り検証する作業だったのではないでしょうか。

私の実践と提案です。

敬意は敬語を使わなくても伝わります。
敬意は言葉以外のノンバーバルな表現で伝えます。

  ノンバーバルな表現の伝える影響力については
  メラビアンの法則ですでに言われていることです。

 
その代わり、明確に伝えたい事柄はその方の理解力に応じて
必要であれば単語中心で伝えます。

もっというと
敬意の伝え方を意識するよりも
認知症のある方の能力を見出せるようになれば
どれほど頑張っているのかがわかり

自然に敬意を抱けるようになり
幼児扱いなんてできなくなります。
こちらの方が本来の在り方ではないでしょうか?

遠回りのようでいて
一番確実な方法だと思います。

認知症のある方への話しかける時の姿勢や距離の取り方や
間合い、声量、口調、早さ、表情。。。
ノンバーバルな表出には
敬意もそうでない感情も滲み出てしまいます。
そして、その感情は確実に認知症のある方に伝わっています。

逆に言えば
表面的に敬語にこだわりすぎる人は
肝腎要の敬意を抱いていないという本音を覆い隠そうとしているのでは?
という疑念を抱いてしまいます。
どこまで自覚的かはともかくとして。

そういう意味で考えると
施設の責任者が「敬語を使いなさい」と指導するのもわからなくはありません。
施設としての最低ラインを担保しようとしている表明にはなります。

ただし
働いている職員が敬意を抱けないのに表面的に敬語を使うのは
抑圧であり矛盾です。
現行不一致を要請しても長続きはせずに必ず感情が滲み出てしまいます。

敬語を奨励するのは対人援助職としての入り口としては良いと思いますが
敬語を使えばそれでよし。となってしまうとおかしなことになってしまいます。

誤解を避けるために敢えて書きますが
私は敬語を使うなと言っているわけではありません。
理解できる方には敬語を使っていますし
分離礼を用いて挨拶することもあります。
ただし、敬語を使えば問題が解決するわけではないし
敬語を使うことによって本質的な問題の抑圧・隠蔽につながりはしないか?
敬意を伝えるカタチを指導するのではなくて
敬意を抱けるような養成が先ではないのか?という指摘です。
 
諸般の事情で
敬意を抱けるような養成が先送りになっている場合に
施設としての最低ラインを担保するための敬語指導であったとしたら
ゴールではなくスタートとして課題設定する
次の課題として将来的に敬意を抱けるような養成について考えていて欲しいものです。

管理者が話を聞いてくれる人であれば
率直にそのあたりを提案してみるのも良いのではないでしょうか。

問題設定の問題、手段と目的の混同とすり替え
いろいろなカタチで現れています。

その具体例が
「なじみの関係を作って誘導に応じてもらう」という考え方・実践であり
「敬語を奨励する」という考え方・実践だと感じています。
「褒めてあげることが大事」というのもそうですね。

おかしいなと感じた時には
問題設定の問題に立ち返る
手段と目的を明確にすることで
問題の本質を把握し、真の解決への道を見つけられると考えています。

プロフェッショナリズムは実践でしか身につかない

プロフェッショナリズムは実践によって磨かれる

 

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Activity導入や誘導への工夫

アルツハイマー型認知症のある方は
どれだけ集中してどれだけ綺麗にActivityを遂行していたとしても
次の時には忘れてしまうことがよくあります。

言葉で具体的なエピソードを伝えても
再認できないことも多々あります。

そのような場合には
前回行っていた作りかけの作品や以前に仕上げた作品を持参して
「続きをやりましょう」と誘導するようにしています。

作品を見る、視覚情報として提示することで
過去の体験を思い出していただく試みです。

病状が進行すると視覚的な再認も困難になってきますが
少なくとも今目にしている、これをやるんだということは伝わります。
何をどうするのかわからない状態で誘導するのではなくて
これから行うことは今見ていることなのだと
視覚的に理解していただくことで
余分な不安を減らすことができます。

認知症のある方の誘導というのは難しいものです。
病棟からリハ室への誘導は、
リハスタッフ自身が行うところと看護介護職が行うところがあると思います。
リハスタッフ自ら行うところで働いている人は
誘導の大変さを実感していると思います。

逆に、看護介護職が誘導しているところでは
感謝の気持ちを忘れてはいけないと思います。
現場あるあるなのが
「誘導には拒否を示すけど
 行ってしまえば抵抗どころかノリノリで楽しむことができる」
というケースです。
入浴などでもよく見られることです。
「今いるところと異なる場所へ行く」ことへの不安を抱く認知症のある方はたくさんいます。
言葉での説明が説明にならず、言われたことが理解できない方や
言われても再認できないから自分ごとと思えずに拒否する方は大勢います。

認知症の症状や障害について
例えば近時記憶障害やエピソード記憶の低下、場の見当識障害、視空間認知障害といった言葉を知っているだけでは十分ではありません。
暮らしの中の場面場面においてどんな風に反映されているのかを観察することができて初めて知識が知識としての意味を持ちます。

そうでないと
「OT室でこんなに楽しそうにしているのに誘導に拒否を示すのは誘導の仕方が良くないからでは?」と誤認してしまいます。
そういうこともあるかもしれませんが、もし誘導の仕方が良くないのだとしたら
良い誘導をやって見せなくては。
やって見せてから
「〇〇という誘導のここが良くない。△△という誘導のここが良い。」
ということを説明できなければ。

なにごとも事実に基づくことが大事
認知症のある方へのリハやケアの分野では
旧態依然とした思い込みによって「今まで為されてきたことを検証することなく漫然と行う」ことが多々あります。
漫然とした対応から脱却するためには、事実を観察・洞察することと、それらが行えるようになるためには知識の習得が必須です。
ここで言う習得とは聞いたことがある、と言う意味ではありません。
概念の意味理解をきちんとできていると言うことが肝要です。
 (たとえば、幻視と錯視を混同している作業療法士はたくさんいます。
  そのような人の話はたいてい説得力がありません。
  私が尊敬する岩崎清隆先生は用語の定義をきちっとされています。
  細部をおろそかにしない人の話は説得力があります。)
概念の意味理解ができなければ見れども観えず、になってしまい
観察・洞察し損ね、その方の状態像把握をし損ね、適切な対応ができないどころか不利益になってしまうことすら起こり得ます。
臨床では、とても大切なことなのに疎かにしている人が多くて残念に思っています。

概念を理解した知識があれば
今目の前にいる方が誘導を拒否する必然を洞察できるようになります。
そうすると、
「無理矢理誘導する」ことも
「誉めておだてて言いくるめて誘導する」ことも、できなくなります。

  昨今の状況から、さすがに無理矢理誘導するような人は
  少なくなっていると思いますが
  その逆に褒めておだてて言いくるめるような方法はまだまだ多いと思います。
  やっていることは真逆のようでいて、その実ふたつの対応は
  「認知症=わからない」と思っている点ではどちらも同じです。

誘導に限りませんが
認知症のある方に言葉だけで対応の工夫をしようとすることには限界があります。
視覚的理解に働きかけることはかなり有効ですが、
あまり取り入れられていないようで本当にもったいないなと感じています。

  また、選んでいただく という時にも視覚情報を提示するようにしています。
  言葉だけで尋ねると
  「なんでもいいわ」「あなたが選んでよ」となってしまいがちです。

  毛糸モップの仕上げに使うリボンの色を選んでいただくときに
  「何色が良いですか?」と言葉で聞くのではなくて
  実際に複数のリボンを提示して毛糸モップの毛糸に合わせながら
  どの色が良いですか?と尋ねると
  「考える」「迷う」「判断する」ことができるようになります。

  考えてみれば当たり前ですよね。
  同じピンクでも緑でも、色の明度や彩度が違えば
  見た目の印象は全く変わってきます。

  選んでいただく時には、具体的に選べるようにしています。

誘導する際に再認に働きかける方法が有効であるためには
リハ室やOT室での体験をその方にとって有意義なものにする必要があります。

ちょっと痛い思いはしたけど終わったら身体がとてもラクになったとか
Activityに集中できて心地よい充実感を感じられたとか
なんだか居心地が良かったとか

再認は、ポジティブにもネガティブにも働きますので
ネガティブな体験しかできないリハ室やOT室であったとすると
導入する際に拒否するのは正当な意思表示でしかありません。

認知症だから忘れるだろう・忘れてるだろう・わからないだろう
なんてたかをくくっている人がいるかもしれませんが
とんでもないことです。
感情記憶は蓄積していきます。
体験を通して再認できる方もたくさんいます。
HDS-R3点の方でも視覚的情報の提示で再認できることもありました。

認知症のある方の能力低下なのか
能力を観ることのできない私たち職員の側の問題なのか

現場では、混同され、すり替えられ、思い込みによって誤認されがちです。

目の前で起こっていることを事実として観察する
「曇りなき眼で見定め」ることができれば
混同することも、すり替えることもなく
認知症のある方の能力を困難とともに目にすることができるようになります。

 

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観察から始まる「寄り添ったケア」

認知症のある方の食事介助でも生活障害でもBPSDでも
困った時に「どうしたら良いのか」を考えることって
たぶんたくさんあると思います。

ケースカンファをしたり
誰かに相談したり

本当は
対応を話し合って考えることをしてはいけないんです。
どうしたら良いのかは考えることではなくて
今、そこで、その方に何が起こっているのか 」
ということを確認し合う
べきなんです。

例えば
私の本の中
食事中の大声という状態像の方が3人出てきます。

「食事中の大声がある方にどうしたら良いのか」
を考えても不毛です。
大声というのは、結果として起こっているに過ぎない
表面的な事象なので
大声に反映されている本質的な課題=何が起こっているのか
大声に反映されている能力と困難について
確認することが課題解決のスタートラインに立つことなんです。

実際問題として
三者三様の状態像があって
それぞれにまったく異なる取り組みをして
3人とも大声が改善
して退院できたのです。

状態像が異なるのですから
対応が異なって当たり前です。

状態像=その時その場をどう感受し認識し対応しようとしていたのか
そこをこそ、きちんと観察することが大事で
観察に基づいて、どのような能力とどのような障害・困難が反映されているのか
そこをこそ、洞察すれば
どうしたら良いのかは自ずから浮かび上がってきます。
まさしく、その方それぞれに、オーダーメイドで対応の工夫をすることになるのです。

詳細は
「 認知症のある方でも食べられるようになるスプーンテクニック 」
をご参照いただければと思います。
そうすれば、
「観察するとはこういうことか」
「観察しているつもりだったけど全然足りていなかった」
ということがはっきりとお分かりいただけると思います。

そして、食事介助の場面で起こっていることは
他の生活障害やBPSDの場面でも
カタチこそ違えど、まったく同じコトが起こっているんです。

困った時には、
どうしたら良いのかを考えるのではなくて
まず、その時その場でその方に起こっていることを観察します。
 
多くの場合、「見れども観えず」になっていて観察し損ねています。
自身が見たいように見ているだけの人も少なくありません。
「この病気は〇〇という症状が出るから」
「前に似た状態の人にこうしてみたらうまくいったから」
「優しくすれば言うことを聞いてくれるから」etc.etc.

そうではなくて
まず虚心に観察することです。
判断を留保して観察します。

その時に、援助の視点を揺るがせにしないことが最も肝要です。
認知症のある方に
言い聞かせようとする、コントロールしようとするような意思があると
その意思は、必ず自身の言動に反映されるものです。
そして、認知症のある方に感受されています。

  その上で、こちらに合わせてくれたり、
  従わざるをえなかったということもあり得ます。
  短期的には表面的に問題行動は修正されたように見えて

  その実、長期的には一層大きな問題となって表面化します。

表面的にどうしたら良いのかを考えるということは
寄り添ったケアという理念から遊離してしまいます。
そして、援助と強制、使役のすり替えに陥るリスクを増大させてしまうのです。

もし、私が他の人より優れている面があるとしたら、
援助と強制、使役のすり替えに自覚的であることと
観察・洞察の力だと思います。

その時その場において、観察・洞察するということが
寄り添ったケアという理念の実践のスタートラインです。

「あなた、どうしてそんなに私のことがわかるの?」
そう問われたこともありました。

私がわかるんじゃなくて
その方がちゃんと表現しているということなんです。

言葉にならない、行動というもう一つの言葉で。

 

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