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工程はActivityに語らせる


重度の認知症のある方でも
Activityを行える方はたくさんいます。

初めて行うActivityを紹介する時には
まず最初に完成品を見ていただき
完成品の用途を説明します。

ここで興味を持った方には
作り方の説明を実演しながら行います。
実演する時は通常通りに最初から行います。


 
例えば
幅広い状態像の方に適用可能なのが毛糸モップ
毛糸モップを例にとって説明していきます。

 

1)ハンガーの下に毛糸をくぐらせる

2)糸先を輪っかの中に入れる

3)糸先を引いて毛糸をハンガーに結びつける

 ここの工程をあえて省くことも多々あります。
 認知機能が低下している場合には省いたようが理解しやすいケースが多いです。
 自分がやることだけを覚える、余分なことは説明しないという意味です。
 ここを誤解している職員が大勢います。
 丁寧に説明しようと思って説明しすぎてしまうと
 認知症のある方に入力刺激が多すぎて混乱させてしまいます。

 認知症のある方へのわかりやすい説明とは接遇を尽くすことではないのです。

 

 

認知症のある方に実際にやってもらうことを通して
工程を説明していきます。
ここで最も重要なことは工程の最後から体験学習するということです。

 

1)糸先を輪っかの中にいれておき、糸先を引き絞る動作をしてもらう

まず、この工程を繰り返し体験してもらいます。
迷うことなく糸先を引き絞る動作ができるようになったことを確認してから
次の工程にうつります。

 

2)毛糸の糸先をハンガーの下からくぐらせてから
  糸先を輪っかの中に入れ引き絞るという2工程の動作をしてもらう

 

この2工程を迷うことなく行えることを確認したら
ひとつ遡って、毛糸をとるという工程を追加します。

3)毛糸をとる、ハンガーの下をくぐらせる、輪の中に糸先をいれ引き絞る
  という3工程を行なってもらいます。

この3工程を繰り返し行なってもらい
迷うことなく行えることを確認したら
次に糸先をそろえるという工程を追加します。

4)毛糸を取る、糸先をそろえる、ハンガーの下を潜らせる、輪の中に糸先を入れ引き絞る
  という4工程を行なってもらいます。

 * ここは細かく段階づけをしていきます。

 

   まず、糸先はそろえて、隙間を開けて置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   糸先をズラして、糸の隙間も開けて、置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   毛糸を少し丸めた状態で置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   毛糸を一本そのままの状態で置いておきます。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   3本ほどの毛糸をまとめて置いておき
   そこから1本取って行えることを確認します。
   こちらで迷いなくできることを確認したら

   毛糸をまとめた状態にして置いておきます。
   ここまでできたら、困っていないか時々確認する程度の見守りをします。

 

 

  ちなみに
  アクリル毛糸同士ではなくて
  モヘアや綿とアクリル毛糸の異素材の組み合わせも素敵です。

  ただし、モヘアは軽くて細くてつまんでいる感覚が分かりにくいので
  そのあたり大丈夫な方が対象となります。

認知症のある方あるあるなのが
最初はできていたのに
途中で混乱してわからなくなってしまうケースです。
  
  その方にとって、何か注意をそらせるようなことがあった時に起こりやすい
  なので、私はあまりAct.中には話しかけないようにしています。
  一般的に「楽しく!」という思い込みによって
  「わいわいした雰囲気」を作り出そうとしたり
  おしゃべりをするケースも散見されますが
  そのような場面は実は注意集中を妨げやすい場面設定でもあります。
  もちろん、そのような場面設定でも注意集中が可能であれば良いのですが
  重度の認知症のある方の場合には周囲の環境という場面設定によって
  本来の能力発揮が妨げられることのないようにしたいものです。

途中で混乱してしまったり
トイレなどでいったん手を止めた後で
できなくなってしまった場合には
迷いなくできる工程まで戻ります。
この時に工程の最初に戻るのではなくて
工程の最後から確認していくことがポイントです。

工程の最後から
「こうしたらできる」
「こうやってできた」
という体験を繰り返し行うことで
できる、できた、という再認をすることが可能となります。

その上で1工程ずつ増やしていきます。
増やす工程そのものは「くぐらせる」「手にする」「そろえる」などの
かつて必ずどこかで行なってきた手続き記憶です。
その手続き記憶を新たな体験に統合する作業をしてもらうことを意味しています。

だから、段階づけは細かく行いますし
混乱したり、不安になったり、わからなくなってしまった時には
「できる」工程に戻って再認してもらっています。

ここまで、1回のリハの時間に行えたとしても
次に来る時には忘れてしまうことも現場あるあるです。

なぜなら、時間経過という時間干渉と
その間、さまざまな動作をしていたという動作干渉という二重の意味で
認知症のある方が忘れやすい状況に置かれるからです。

つまり、忘れてしまうのは仕方ないことなのです。

むしろ、初めてのActivityの工程を覚えているということ自体
素晴らしい能力発揮なのです。

手工芸をしていた方は、このような体験の統合が容易なことが多くあります。
たとえ、1−2分前の会話を忘れてしまう方でも
Activityの工程を覚えられることは本当にたくさんあります。

仮に、せっかく工程を教えたのに
忘れられてしまったからとがっかりする必要は全くありません。

忘れてしまったとしても
その方の行動パターンはこちらが把握できているので
工程のどこまで戻ったら良いのかの判断基準は手にしています。

もちろん、認知症のある方の体調変動によって多少の誤差はありますが
判断基準があるので提供するこちらの負担は初回ほど多くありません。

 

私は、Activityの工程を丁寧に言葉で説明を尽くし
「一緒にやるから大丈夫」とつきっきりで
安心させるような場面設定はしていません。
 
Activityの工程はActivityそのものに語らせるような場面設定をする工夫をして
認知症のある方が安心できるような場面設定をしています。
手も口も出しませんが、目だけは離さずにいる場面設定をする方が
認知症のある方自身の達成感を促しやすく
また、メタ認知やメタ体験としての達成感も得やすくなります。
そしてそのような体験ができるリハ場面そのものが
ポジティブな再認の場となるのでリハやActivityへの拒否が少なくなります。
 

 

もし良かったら是非お試しください。

ポイントは
・言葉だけに頼らず視覚的説明を活用する
・工程は最後から体験を通して理解してもらう
ということです。

認知症のある方への介助、援助、支援とは
接遇を尽くすということとは異なるのだと考えています。

  蛇足になりますが
  こう書くと必ず「接遇を否定した」と誤読する人がいるので念の為。
  私は接遇そのものは対人援助職として必要だと考えてはいますが
  接遇を尽くすことで認知症のある方の生活障害やBPSDが
  改善されることにはならない。
  私の主張は評価に基づいて対応を判断すべきということです。

 

 

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敬語奨励では解決できない問題

問題設定の問題、手段の目的化、手段と目的の混同って
リハやケアの分野で往々にして起こっていることです。

その一つが敬語問題だと感じています。
先の記事に絡めて少し補足を。

声かけの工夫について講演で説明すると
「よっしーさんのお話はその通りだと思うんですけど
 敬語を使わないと叱られるんです」という声をよく聞きます。

そのたびに
あぁ、またか。。。とガッカリします。

敬語を使うのは手段であって
敬意を示す、伝えることが本来の目的ですよね?

  もちろん、そういう方針の施設は
  「良かれ」と思っての善意からの方針なのだと思います。
  ですが!
  「地獄への道は善意で敷き詰められている」
  「地獄には善意が満ちているが、天国には善行が満ちている」
  という言葉がある通りに善意ほど恐ろしいものはありません。。。

認知症のある方に対して、
幼児に対するような声掛けをしないために
敬語を使いましょうという考え方はわからなくはありません。

でも、問題は2つあります。

ひとつは
幼児のような声掛けは確かに失礼なことではありますが
もしかしたら無自覚のうちに認知症のある方の言語理解力の低下を感受した職員が
分かりやすいように単語中心の声掛けを重ねていた
ただし、無自覚に行なっていたことなので説明できなかった可能性について
検討したことのある施設がどれだけあるのかという問題

もうひとつは
確かに敬語を使うように指導するのは
今すぐにできることの一つなのでしょうけれど
敬語を使うことを奨励するのではなく
敬意を自然と抱けるように職員を養成することについて
検討したことのある施設がどれだけあるのかという問題です。

問題設定を的確に行えないと
得てして解決策も表面的になりがちです。
そして、解決策が有効でないという結果になりがちです。
ここできちんと現実を観察・洞察できなければ
すでに起こっている問題を見逃してしまうことすら起こり得ます。

敬語を使うように奨励するだけでは問題の本質的な解決につながらない
という事象がすでに起こっているはずだと思います。
つまり、声かけが有効に機能しない、意思疎通困難な事例が増えたように見える
という事象です。
優秀な人は、この現実に気がついていると思いますが、
敬語使用によって問題が惹起されてしまうこともあるのだとは
認識できていないのではないでしょうか?

敬語の特徴として
婉曲な表現、長い文章表現という特徴
があります。

  「御御足を上げてくださいませ」という声掛けで理解できなかった方が
  「足、上げて」でちゃんと足を上げられた
   というケースがありました。
 
   丁寧に長い文章で伝えたのに
  「そんなに長ったらしく言われたってわかんないんだよ!」
   と怒鳴られたことがありましたって教えてくださったご家族もいました。

敬語は認知症のある方に理解しにくい言葉となってしまうこともあるのです。
(もちろん、理解できる認知症のある方も大勢いらっしゃいます)

また、
言葉としては確かに敬語を使ってはいても
強い口調で早口で大声で話す職員もいます。
当然、認知症のある方は怒りますが
 
  言葉ではなく、口調や早さや声量が伝えてしまう
  本当の感情、本音に対して怒り、理不尽さを感じているのです。
  言葉が伝えるコトとノンバーバルが伝えてしまうコトとの乖離に
  混乱する方だっているでしょう。

 
当の職員は(敬語を使っているが故に)
自身のノンバーバルな表現のマズさを自覚せず
認知症だからわからないという自身の誤認を強めてしまう。。。
現場あるあるではないでしょうか?

言葉は伝わって初めて言葉として機能します。
敬意を伝えるどころか
伝わらない敬語に、
言葉としての意味、声かけとしての意味が
どれだけあるのでしょうか。

真に検討すべきは
普通だったら幼児に対するような声掛けをするはずのない大人が
なぜそんな声掛けをしたのかについて
ひとつひとつの場面で具体的に本当は何が起こっていたのかを
事実を事実として振り返り検証する作業だったのではないでしょうか。

私の実践と提案です。

敬意は敬語を使わなくても伝わります。
敬意は言葉以外のノンバーバルな表現で伝えます。

  ノンバーバルな表現の伝える影響力については
  メラビアンの法則ですでに言われていることです。

 
その代わり、明確に伝えたい事柄はその方の理解力に応じて
必要であれば単語中心で伝えます。

もっというと
敬意の伝え方を意識するよりも
認知症のある方の能力を見出せるようになれば
どれほど頑張っているのかがわかり

自然に敬意を抱けるようになり
幼児扱いなんてできなくなります。
こちらの方が本来の在り方ではないでしょうか?

遠回りのようでいて
一番確実な方法だと思います。

認知症のある方への話しかける時の姿勢や距離の取り方や
間合い、声量、口調、早さ、表情。。。
ノンバーバルな表出には
敬意もそうでない感情も滲み出てしまいます。
そして、その感情は確実に認知症のある方に伝わっています。

逆に言えば
表面的に敬語にこだわりすぎる人は
肝腎要の敬意を抱いていないという本音を覆い隠そうとしているのでは?
という疑念を抱いてしまいます。
どこまで自覚的かはともかくとして。

そういう意味で考えると
施設の責任者が「敬語を使いなさい」と指導するのもわからなくはありません。
施設としての最低ラインを担保しようとしている表明にはなります。

ただし
働いている職員が敬意を抱けないのに表面的に敬語を使うのは
抑圧であり矛盾です。
現行不一致を要請しても長続きはせずに必ず感情が滲み出てしまいます。

敬語を奨励するのは対人援助職としての入り口としては良いと思いますが
敬語を使えばそれでよし。となってしまうとおかしなことになってしまいます。

誤解を避けるために敢えて書きますが
私は敬語を使うなと言っているわけではありません。
理解できる方には敬語を使っていますし
分離礼を用いて挨拶することもあります。
ただし、敬語を使えば問題が解決するわけではないし
敬語を使うことによって本質的な問題の抑圧・隠蔽につながりはしないか?
敬意を伝えるカタチを指導するのではなくて
敬意を抱けるような養成が先ではないのか?という指摘です。
 
諸般の事情で
敬意を抱けるような養成が先送りになっている場合に
施設としての最低ラインを担保するための敬語指導であったとしたら
ゴールではなくスタートとして課題設定する
次の課題として将来的に敬意を抱けるような養成について考えていて欲しいものです。

管理者が話を聞いてくれる人であれば
率直にそのあたりを提案してみるのも良いのではないでしょうか。

問題設定の問題、手段と目的の混同とすり替え
いろいろなカタチで現れています。

その具体例が
「なじみの関係を作って誘導に応じてもらう」という考え方・実践であり
「敬語を奨励する」という考え方・実践だと感じています。
「褒めてあげることが大事」というのもそうですね。

おかしいなと感じた時には
問題設定の問題に立ち返る
手段と目的を明確にすることで
問題の本質を把握し、真の解決への道を見つけられると考えています。

プロフェッショナリズムは実践でしか身につかない

プロフェッショナリズムは実践によって磨かれる

 

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Activity導入や誘導への工夫

アルツハイマー型認知症のある方は
どれだけ集中してどれだけ綺麗にActivityを遂行していたとしても
次の時には忘れてしまうことがよくあります。

言葉で具体的なエピソードを伝えても
再認できないことも多々あります。

そのような場合には
前回行っていた作りかけの作品や以前に仕上げた作品を持参して
「続きをやりましょう」と誘導するようにしています。

作品を見る、視覚情報として提示することで
過去の体験を思い出していただく試みです。

病状が進行すると視覚的な再認も困難になってきますが
少なくとも今目にしている、これをやるんだということは伝わります。
何をどうするのかわからない状態で誘導するのではなくて
これから行うことは今見ていることなのだと
視覚的に理解していただくことで
余分な不安を減らすことができます。

認知症のある方の誘導というのは難しいものです。
病棟からリハ室への誘導は、
リハスタッフ自身が行うところと看護介護職が行うところがあると思います。
リハスタッフ自ら行うところで働いている人は
誘導の大変さを実感していると思います。

逆に、看護介護職が誘導しているところでは
感謝の気持ちを忘れてはいけないと思います。
現場あるあるなのが
「誘導には拒否を示すけど
 行ってしまえば抵抗どころかノリノリで楽しむことができる」
というケースです。
入浴などでもよく見られることです。
「今いるところと異なる場所へ行く」ことへの不安を抱く認知症のある方はたくさんいます。
言葉での説明が説明にならず、言われたことが理解できない方や
言われても再認できないから自分ごとと思えずに拒否する方は大勢います。

認知症の症状や障害について
例えば近時記憶障害やエピソード記憶の低下、場の見当識障害、視空間認知障害といった言葉を知っているだけでは十分ではありません。
暮らしの中の場面場面においてどんな風に反映されているのかを観察することができて初めて知識が知識としての意味を持ちます。

そうでないと
「OT室でこんなに楽しそうにしているのに誘導に拒否を示すのは誘導の仕方が良くないからでは?」と誤認してしまいます。
そういうこともあるかもしれませんが、もし誘導の仕方が良くないのだとしたら
良い誘導をやって見せなくては。
やって見せてから
「〇〇という誘導のここが良くない。△△という誘導のここが良い。」
ということを説明できなければ。

なにごとも事実に基づくことが大事
認知症のある方へのリハやケアの分野では
旧態依然とした思い込みによって「今まで為されてきたことを検証することなく漫然と行う」ことが多々あります。
漫然とした対応から脱却するためには、事実を観察・洞察することと、それらが行えるようになるためには知識の習得が必須です。
ここで言う習得とは聞いたことがある、と言う意味ではありません。
概念の意味理解をきちんとできていると言うことが肝要です。
 (たとえば、幻視と錯視を混同している作業療法士はたくさんいます。
  そのような人の話はたいてい説得力がありません。
  私が尊敬する岩崎清隆先生は用語の定義をきちっとされています。
  細部をおろそかにしない人の話は説得力があります。)
概念の意味理解ができなければ見れども観えず、になってしまい
観察・洞察し損ね、その方の状態像把握をし損ね、適切な対応ができないどころか不利益になってしまうことすら起こり得ます。
臨床では、とても大切なことなのに疎かにしている人が多くて残念に思っています。

概念を理解した知識があれば
今目の前にいる方が誘導を拒否する必然を洞察できるようになります。
そうすると、
「無理矢理誘導する」ことも
「誉めておだてて言いくるめて誘導する」ことも、できなくなります。

  昨今の状況から、さすがに無理矢理誘導するような人は
  少なくなっていると思いますが
  その逆に褒めておだてて言いくるめるような方法はまだまだ多いと思います。
  やっていることは真逆のようでいて、その実ふたつの対応は
  「認知症=わからない」と思っている点ではどちらも同じです。

誘導に限りませんが
認知症のある方に言葉だけで対応の工夫をしようとすることには限界があります。
視覚的理解に働きかけることはかなり有効ですが、
あまり取り入れられていないようで本当にもったいないなと感じています。

  また、選んでいただく という時にも視覚情報を提示するようにしています。
  言葉だけで尋ねると
  「なんでもいいわ」「あなたが選んでよ」となってしまいがちです。

  毛糸モップの仕上げに使うリボンの色を選んでいただくときに
  「何色が良いですか?」と言葉で聞くのではなくて
  実際に複数のリボンを提示して毛糸モップの毛糸に合わせながら
  どの色が良いですか?と尋ねると
  「考える」「迷う」「判断する」ことができるようになります。

  考えてみれば当たり前ですよね。
  同じピンクでも緑でも、色の明度や彩度が違えば
  見た目の印象は全く変わってきます。

  選んでいただく時には、具体的に選べるようにしています。

誘導する際に再認に働きかける方法が有効であるためには
リハ室やOT室での体験をその方にとって有意義なものにする必要があります。

ちょっと痛い思いはしたけど終わったら身体がとてもラクになったとか
Activityに集中できて心地よい充実感を感じられたとか
なんだか居心地が良かったとか

再認は、ポジティブにもネガティブにも働きますので
ネガティブな体験しかできないリハ室やOT室であったとすると
導入する際に拒否するのは正当な意思表示でしかありません。

認知症だから忘れるだろう・忘れてるだろう・わからないだろう
なんてたかをくくっている人がいるかもしれませんが
とんでもないことです。
感情記憶は蓄積していきます。
体験を通して再認できる方もたくさんいます。
HDS-R3点の方でも視覚的情報の提示で再認できることもありました。

認知症のある方の能力低下なのか
能力を観ることのできない私たち職員の側の問題なのか

現場では、混同され、すり替えられ、思い込みによって誤認されがちです。

目の前で起こっていることを事実として観察する
「曇りなき眼で見定め」ることができれば
混同することも、すり替えることもなく
認知症のある方の能力を困難とともに目にすることができるようになります。

 

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観察から始まる「寄り添ったケア」

認知症のある方の食事介助でも生活障害でもBPSDでも
困った時に「どうしたら良いのか」を考えることって
たぶんたくさんあると思います。

ケースカンファをしたり
誰かに相談したり

本当は
対応を話し合って考えることをしてはいけないんです。
どうしたら良いのかは考えることではなくて
今、そこで、その方に何が起こっているのか 」
ということを確認し合う
べきなんです。

例えば
私の本の中
食事中の大声という状態像の方が3人出てきます。

「食事中の大声がある方にどうしたら良いのか」
を考えても不毛です。
大声というのは、結果として起こっているに過ぎない
表面的な事象なので
大声に反映されている本質的な課題=何が起こっているのか
大声に反映されている能力と困難について
確認することが課題解決のスタートラインに立つことなんです。

実際問題として
三者三様の状態像があって
それぞれにまったく異なる取り組みをして
3人とも大声が改善
して退院できたのです。

状態像が異なるのですから
対応が異なって当たり前です。

状態像=その時その場をどう感受し認識し対応しようとしていたのか
そこをこそ、きちんと観察することが大事で
観察に基づいて、どのような能力とどのような障害・困難が反映されているのか
そこをこそ、洞察すれば
どうしたら良いのかは自ずから浮かび上がってきます。
まさしく、その方それぞれに、オーダーメイドで対応の工夫をすることになるのです。

詳細は
「 認知症のある方でも食べられるようになるスプーンテクニック 」
をご参照いただければと思います。
そうすれば、
「観察するとはこういうことか」
「観察しているつもりだったけど全然足りていなかった」
ということがはっきりとお分かりいただけると思います。

そして、食事介助の場面で起こっていることは
他の生活障害やBPSDの場面でも
カタチこそ違えど、まったく同じコトが起こっているんです。

困った時には、
どうしたら良いのかを考えるのではなくて
まず、その時その場でその方に起こっていることを観察します。
 
多くの場合、「見れども観えず」になっていて観察し損ねています。
自身が見たいように見ているだけの人も少なくありません。
「この病気は〇〇という症状が出るから」
「前に似た状態の人にこうしてみたらうまくいったから」
「優しくすれば言うことを聞いてくれるから」etc.etc.

そうではなくて
まず虚心に観察することです。
判断を留保して観察します。

その時に、援助の視点を揺るがせにしないことが最も肝要です。
認知症のある方に
言い聞かせようとする、コントロールしようとするような意思があると
その意思は、必ず自身の言動に反映されるものです。
そして、認知症のある方に感受されています。

  その上で、こちらに合わせてくれたり、
  従わざるをえなかったということもあり得ます。
  短期的には表面的に問題行動は修正されたように見えて

  その実、長期的には一層大きな問題となって表面化します。

表面的にどうしたら良いのかを考えるということは
寄り添ったケアという理念から遊離してしまいます。
そして、援助と強制、使役のすり替えに陥るリスクを増大させてしまうのです。

もし、私が他の人より優れている面があるとしたら、
援助と強制、使役のすり替えに自覚的であることと
観察・洞察の力だと思います。

その時その場において、観察・洞察するということが
寄り添ったケアという理念の実践のスタートラインです。

「あなた、どうしてそんなに私のことがわかるの?」
そう問われたこともありました。

私がわかるんじゃなくて
その方がちゃんと表現しているということなんです。

言葉にならない、行動というもう一つの言葉で。

 

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「現場で本当に役立つ認知症研修会第2回」受付開始

「現場で本当に役立つ認知症研修会第2回」をオンラインで開催します。

作業療法士でなくても
学生さんでもどちらにお住まいの方でもご参加いただけます。

日時は
2022年5月14日(土)19:00〜20:30

テーマは
「認知症のある方への声かけの工夫〜眼からウロコの視点〜」

参加費は無料

事前申込制で
申込締切は4月30日ですが、
定員超過の場合には期日前でも申込を締切ますので
ご了承ください。

お申込は下記のURLにアクセスしてください。
https://forms.gle/HsStN3K2786zKAhD9

研修会の詳細は こちら をご参照ください。

お問い合わせは こちら からどうぞ。

 

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概念の明確な理解

認知症のある方の
生活障害やBPSDといった困りごとの改善や
能力と特性の発揮のためには
評価、アセスメント、状態把握ができることが重要です。

評価、アセスメント、状態把握とは
決して、検査やバッテリーをとることではありません。
その時その状況を事実に即して、観察・洞察できることを意味しています。

観察・洞察というと
客観的ではない、科学的ではない、根拠に乏しい
といった批判もあるようですが
批判されるべきは、未熟な観察・洞察であって
観察・洞察そのものではありません。

観察の解像度を上げるためには
知識の習得が必要です。

知識の習得とは
単に知っている。ということではありません。

概念を明確に理解することです。

曖昧な理解しかできないから観察し損ねている人がたくさんいます。
その代表例が、「短期記憶」です。
この言葉、概念の誤認と誤用については
「現場で役立つ認知症研修会ー観察力を磨く」において説明します。

他にも、遂行機能障害、構成障害という
認知症のある方の生活障害に大きく関わっている障害について
言葉は学校で聞いたことはあっても
意味を明確に説明できない人はたくさんいます。

「わかっちゃいるけど言葉にできない」
と言う人もたくさんいますが
本当にわかっていれば明確に言語化できます。

  明確な言語化を突き詰めた先に
  どうしても言葉にできない領域がありますが
  突き詰めてもいない人にはそこまで到達できません。

遂行機能障害や構成障害とは何ぞや
という言葉の意味を言語化できないから観察できないのです。
観察できないから、当然、障害も能力も洞察できない。
結果、検査やバッテリーを活用するのではなく
検査やバッテリーにすがるしかなくなってしまう。。。
そのような人には観察・洞察とはどういうことか見当もつかないことだから、
観察・洞察を批判する。。。
最も大きな瑕疵は、自身が観察し損なっていることの自覚がないことです。

  本当は無自覚に意識下では、気がついていると思う。
  でも自覚してしまうと困るのは自身だから
  困らないように自覚することを回避しているんじゃないかな。。。?

けれど
観察し損なっているという自覚さえ芽生えれば
観察できるようになるチャンスがある
ということでもあります。

答えは常に目の前にあります。

そのためには
概念を明確に理解することが最初の一歩です。

ピンチはチャンス

 

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どうしたら良いのか考えてはいけない

大声や帰宅要求、更衣困難などのBPSDや生活障害に対して
「どうしたら良いのか」考えたり話し合ったりする人は多いけど
そのような在り方が、
的確な評価、アセスメント、状態把握から
ますます遠ざかっていくと感じています。

もちろん、ご家族だけでなく、職員同士も
辛いことや悲しいことを語り合う場は必要だと思います。

でも
「〇〇という状態の方に、どのような対応が良いのか」
ということは、考えたり話し合うことではないと
強く感じ、また考えてもいます。

なぜなら
その時その場にいる人にしか
状態把握できるチャンスはないからです。

BPSDや生活障害に反映されている能力と障害を
的確に観察・洞察することができるのは
その時その場にいる人だけです。

認知症のある方にきちんと向き合ってきたなら
発揮される能力と障害が日によって時間帯によっても異なる
ということを実感する場面にたくさん遭遇しているのではないでしょうか?

能力や障害が異なれば
対応の工夫だって異なるはずです。

その場にいない、状態像を把握できない人が
「こうしてみたら?」
「ああしてみたら?」
と言うことができるということは
普段から、その時その場にいる人が
今、認知症のある方に起こっていることを観察・洞察した上で
即応しているわけではないということを暗に示しています。

Aさんに〇〇してみたら上手くいったから〇〇するのはどう?
Bさんに△△してみたらよかったから△△してみたら?

これでは、表面的なハウツーを当てはめているだけです。

どう対応したら良いのか
答えは、BPSDや生活障害という場面にこそあります。

大切なことは
どうしたら良いのかという
表面的なハウツーを増やしたり考えたりすることではなく
任意の場面での言動に反映されている能力や障害を
的確に観察・洞察できるようになること

観察・洞察ができれば
どうしたら困りごとを改善できるのかという
答えが自然と浮かび上がってきます。

浮かび上がってこない時は
観察・洞察できていないことがどこかにあるということ

  もちろん、能力によっては対応困難なことはあります。
  それは認知症ではなく、他の疾患や障害でも
  できること、できないことがあるのと全く同じです。

何よりも大切なことは
観察の解像度を上げること
だと考えています。

世にグループワークは花盛りです。
認知症の研修会で
「どうしたら良いのか」話合わせるような研修会も散見しますが
そのような場面設定をすることで
話し合いの結果だけではなくて
どうして良いかわからない時→人に聞く、話合う
というメタ認識をも誤認させてしまい
ますます、自身の観察力を磨くこと
そのために知識・概念を明確に認識することから遠ざかり
ますます、観察・洞察ができなくなり
ますます、人に聞いたり、話合うことに注力させ
ますます、今、その時その場に反映されている能力と障害に基づいた対応ができず
結果、「一生懸命やっているのに効果が得られない」
という状態の悪循環になってしまいます。

グループワークで
「悩んでいるのは自分だけじゃないとわかって安心した」
という感想を散見しますが
苦しさ・つらさを分かち合った後こそが大切
そこからどうするか?が問われています。

グループワークにはグループワークの良さがあります。
けれど知識と技術の伝授は然るべき人からきちんと伝授されるべきです。

 

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適切さ//目標

唯一絶対の、万人に効果的な方法などない。

ハウツーを当てはめるようなやり方では
目の前にいる固有のAさんの役に立つことは難しい。

その時その場のその状況において
「適切な」対応をとれること

私がずっと追い求めてきたこと

そして
「適切さ」の根拠は
誰かの承認、誰かの同意なんかではなくて
目の前にいる固有のAさんの目標に置いています。

 

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