Tag: 対応

ケアの統一

ケアの統一よくよく聞くヘンな言葉 「ケアの統一をしましょう」

だって、お年寄りの状態がさまざまなのに ケアを統一して、どうしていいことができると思うんだろう?

その時その場のその関係性において 適切な関わり方ができるかどうかこそが問われているのに

たとえば トイレ動作の自立を目標にがんばっている方がいるとして その方が「おしっこもれそうだから手伝って」と言っているのに 「自分でできるように練習しているんだから手伝えないの」 「みんなでそう決めたのよ」 って、そんなのってどうかと思う。

論理のすりかえ。だよねー。 結果として、起こるはずのことを 方法論として、用いている

どんな時どんな場どんな関係性においても ステレオタイプな対応をするのではなくて その時その場のその関係性において 適切な対応をすることで 結果として、 どのような時どのような場どのような関係性においても 能力を発揮できるようになっていく…だよね。

「あの人は人を見るからさー」 いやいや…(^^; 人を見る能力があるのは、イイコトで…。

もしも、人を見て、ある動作をやったりやらなかったりするのだとしたら それは、依存的等という言葉でくくられるのではなくて その人にとっては、「やらされ感」があって 本当はやりたくない、やりづらい…ということを態度で示しているのではないでしょうか。

だとしたら、私たちが考えるべきことは 「やればできるんだから、がんばってやって!」 などという言葉で動作を「させる」のではなくて 「どうしたら、やりやすくなるのだろう」 「本人にとってのやることのメリットって何なのだろう」 ということなんじゃないのかしら。

日々の臨床の場では すぐに答えが出ないこともたくさんあります。 その時には、答えらしきものに飛びつくのではなくて お互いしんどくても 今は答えがない…でも、この方向性で考え続けよう という態度を持ち続けることなのではないでしょうか。

少なくとも 答えらしきものに飛びつくことで お年寄りをよぶんに傷つけることは避けられるのですから。

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箸を箸として扱える

箸を箸として扱える「あーなるほど!」と思ったことがあります。

Hさんの食事のしかたをみて
看護師さんが「箸が使えるね」と言いました。
でも、私はその時「箸が使えていない」と思っていたのです。

どういうことかというと
看護師は
Hさんが箸を使って食べこぼしなく介助もなく自分で食事していたから
「Hさんは箸を使える」と思ったのです。
私は
Hさんが握り箸で箸をスプーンのようにして食べていたので
「Hさんは箸を持って食べられるけれど箸を箸として扱えない」
と判断したのです。

こういうことって、ものすっごくたくさんあります。

視点の違いで同じ現実を見ているのに違う事実と認識する

でも、そのことに自覚のある人はそんなに多くいるわけではありません。
モノゴトの前提が違うのに
前提を抜きにして、結果だけをああだこうだ言ってる…(苦笑)

自分の視点とか前提って
自分にとっては、あまりにも自明のことだから自覚しにくいけれど
異なる前提を放置して
結果だけをすりあわせようとしても
うまくいくはずがない…(^^;

Hさんの例では
箸の使用可否について結果だけを議論しても平行線で終わってしまいます。
「箸は持ってこぼさず食べられるけれど握り箸で箸としての操作はできていない」
という起こったことそのままを共有すること
Hさんにとっての優先事項を確認しあって
それを根拠にして箸の扱いをどうするか
ということではないでしょうか。

 

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約束したでしょう

銀杏リアルの世界でも、ネットの世界でも、よく遭遇する言葉です。

「そういうことはしないって約束したでしょう」
この言葉に遭遇するたびに、ヘーンなの!…って思っちゃいます。

だって、ケアやリハの場面で「約束」する時って
たいてい、通常の対応でどうにもならないから使われることが多いと思う。
つまり、どうしようもないから最後の印籠として登場する(^^;
だけど、どうしようもないものだから
結局、約束は破られ、対象者の方は二重に叱られる。

「待ってるって約束したでしょう」
「そういうことはしないって約束したでしょう」
「どうして約束したのに守らないの」

おいおい…(^^;
できもしないことをさせてるのはどっちなんだい?
しかも、対象者の尊厳を二重に損なってしまっているのに…

そもそも、約束って、自分で自分に誓うもの。
誰かにさせられるものじゃない。

「○○様」とか何とか言うより先に
対象者の方に対して約束なんかを持ち出さずにすむように
対応の工夫を私たちが考えるほうが先なんじゃないのかなー?
と思うのであります。

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対応を考える

ムクドリ認知症のある方への対応に苦慮した時ってどうしていますか?

多くの場合、「どうしたらいいのか」カンファなどの話し合いをすることになると思います。

でも、
どうする…という方法論が話し合われても
何が起こっていたのか…という「場」についての振り返りがなされることは、あんまり多くはありません。
ほとんどないかも…ですね(^^;

けれど、モノゴトは関係性の中で起こります。

どのような状況で
どのような言動に対して
どのようなことが起こったのか

私たちは、「観察」という名目で
認知症のある方のあれこれを言いますが
物理的にも心理的にも環境因子の1つである自分自身の言動に対して
案外無自覚でいることが多いように感じています。

たとえば、こんなケース。
  「車いすを押しますよ」と声をかけてから押したのに
   Gさんたらいきなり怒り出してまったく最近怒りっぽいんだから!
   Gさんの易怒性に対してどう対応したらいいかしら?

確かに声はかけたかもしれませんが
Gさんは認知症があります。
もしも、Gさんが「車いすを押される=自分が動く」という言葉を結びつけて予測することが能力的に困難な方だとしたら
その声かけは適切だったと言えるのでしょうか?
「問題」なのは、Gさんの易怒性ではなくて
Gさんの能力に合わせた声かけができなかった職員のほうが「問題」なのではないでしょうか?
もしも、職員が「Gさん、動きますよ」と声をかけていたら、もしかしたらGさんは怒り出さずに済んだかもしれません。

「現実」は、さまざまなコトをあぶり出します。

認知症のある方の能力も困難も特性も
それだけではなくて
援助しようとする側の能力も困難も特性も

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そっと静かに

寝たきりで自発語のないような状態像の方には

そっと声かけを。

ささやくように。

暖かみのある声で。

ドアをノックする時やベッドのカーテンを開け閉めする時にも

乱暴にならないように気をつけて。

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声で雰囲気をつくる

大集団での体操の時などは、大きなハリのある声を出すようにしていますが

説明する時など集中してほしい時には

あえて、声量を落とします。

集団の集中の程度を感じとりながら

声量や話すテンポもコントロール。

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用事がない時ほど大事

 

声、まなざし、笑顔、うなづき

…言葉にならないものだけれど、私が大切にしているコト。

特別、用事がない時ほど大事だと思う。

他の人に用事があって

傍らを通り過ぎる時は、とりわけ気をつけてる。

 

 

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意図的に選択された声かけ

対象者の方の言語理解力や視覚的理解力を把握して、

1度に言う文章の長さや動詞の使い方や

声の調子や強さやジェスチャー、場の工夫などを意図的に選択して

「日々の暮らし」にそって

対象者が理解しやすいように

行為しやすいような声かけができるということ。

それが、評価を治療に活かすということでもあり

まず、第一に、優先して考えられるべき事柄だと思うんだけど

あんまり、検討されていないような気がする。

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