Tag: リハビリテーション

すごく嬉しいこと

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講演をした後に
アンケートを拝見する機会もときどきあって
そんな時にすごく嬉しく思うことがあります。

それは
「もっと勉強しようと思った」
「頑張ろうと思った」
という記載を見た時。

頑張って準備をして良かった…と思う。
心底、嬉しい。
講師冥利に尽きます m(_ _)m

だって
もっと勉強する、もっと頑張るという言葉って
自分自身の可能性、そして認知症のある方の可能性を
みつめる言葉だもの。

 

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講演@愛知民医連リハ部会

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3月5日(土)に名古屋熱田区にある労働会館において
愛知民医連リハビリテーション部会さん主催の研修会が開催され
「認知症のある方へのリハビリテーションー障害と能力の把握」というタイトルでお話をしてきました。

お招きくださった担当のみなさま、どうもありがとうございました。
参加してくださったみなさま、お疲れさまでした。

目の前にいる認知症のある方に
何とかして良くなっていただきたいと強く感じていながら
現行の方法論では限界を感じて悩んでいる方が少なくないのは
本当にもったいないことだと感じています。

小澤勲医師の「ケアを感情労働から知的労働に切り替える」
斎藤正彦医師の「科学的で合理的なケア」
をどのように実践していくか…ということが
これから切実に求められるようになってくると考えています。

認知症のある方は
さまざまな脳の病気によって
慢性・進行性に認知症という状態像が引き起こされ
日々の暮らしの困難が起こってくるのだ
という根幹の認識に立ち戻れば
結果として起こっていることへの対応を考えるのではなくて
まず評価・状態把握から始めることの重要性を
実感できるのではないかと思います。

現れ方は、さまざまで
現れ方の意味も、さまざまで
それによっては、対応も全く異なってくるからです。

科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問です。

これから先の未来に向かって
認知症のある方とご家族の
余分な困難を少しでも減らせることが目的なのですから
修正を恐れずに
変化を恐れずに
できることを積み重ねていけたら
と考えています。

最後になりましたが
今回の講演の準備のやりとりにおいて
窓口となってくださったMさんが
いつもきめ細やかにご対応くださったので
何の心配も不安もなく当日伺うことができました。
また、当日の移動時におつきあいくださったSさん、Aさん
お忙しい時間帯なのにご足労いただきご配慮に感謝します。
本当にどうもありがとうございました。

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100%完食が本当に良いこと?

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ずいぶん前のことですが
食事介助をしながら
(お腹いっぱいですか?それとももっと食べられますか?)
って尋ねた時に
「そんなのわからないわよ」
って答えられたことがあって、すごく驚きました。

その方はもともと小食だったそうですが
記録上は、常に100%完食
朝100 昼100 夕100

後になって
他のところでお会いした時に同じように尋ねてみました。
(お腹いっぱいですか?それとももっと食べられますか?)
そうしたら
「そんなに食べられないわよ」
って答えられた。

私はもう一度驚いた。
満腹感を失うことも取り戻すこともできるのだと。

100%完食することが本当に良いことだろうか?
それって、誰にとっての良いことなのだろうか?

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流行り廃りに飲まれない

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私が子どもの頃には
買い物に同行するお父さん
ゴミ捨てするお父さん
運動会を見に来るお父さんは殆どいなかった。

でも、今お父さんでそういうことをしないという人は
少ないんじゃないでしょうか?
スーパーでは、若い男性だけでなく
家族連れや女性と一緒の中高年の男性も
よく見かけるようになりました。

私が若い時には
女性が一生働くのは当たり前のことじゃなかった。
結婚退職がまだ多い時代だった。
契約社員って
むしろ経済的に余裕がある女性が選べる働き方だった。

本当に時代は変わる。

リハの世界にだって、流行り廃りはある。
でも、その中で生き残るものって本質的なもの。

私が学生の時に主流だったもので
今はほとんど活用されていないものが複数ある。
今、主流となっているもので
将来も活用されているかどうかなんて、わからない。

逆に言えば
何十年か後の将来にも活用されているように
時代の吟味に耐えられるような
本質的な考え方と方法論を見いだして磨き上げていくことが
求められていることなんだと感じています。

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ツールは活用する

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世にさまざまな方法論がありますが
ツールはツールなのに
ツールが万能であるかのように喧伝されるのはどうかと思う。

世の中の多くの動きと同じように
リハの世界にも、流行り廃りがある。

ツールをツールとして活用できることは大切だけど
ツールを目の前の人に当てはめちゃいけない。

目の前にいる人の困難に遭遇した時に
自分の手にしているツールでは対応できないからといって
眼を背けていいのかな?

私は完全には困難の解消ができなくても
困難が少しでも少なくなるような方法を考えたいと思った。
そのツールで目の前にいる人の困難が軽減できないのであれば
軽減できるツールを求めたいと思った。
そして、その過程において
自分の目的としている在りようとの自己検証を繰り返した。

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できかたを良くする

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できることのできかたを良くする

認知症のある方の
さまざまな生活障害やBPSDへの対応の工夫を考える時に
私が重要視している視点です。

生きている限り、必ず能力はあるから
まず、能力を見いだす。
見いだした能力を活用できるように考える。
できることのできかたを良くしていくように考える。

認知症のある方の
手続き記憶を思い出し再学習する
その人自身の能力と特性を否定しない
使役ではなく援助
相互関係論であるICFと矛盾しない
等々の基本的な在りようと
具現化するための視点と方法論として
相互検証を繰り返して
耐え残ったものなのです。

単に良かった、結果が出た…ということではなくて
どこがどんな風に意義があったのか考え続けてきました。
自分はそうしたかった
もっと言うと
自分自身の在りようとして
納得した上で仕事をしたかったんです。

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食べさせても、食べられるようにはならない

我慢のしどころ

食べさせても
食べられるようにはならないどころか
逆効果にしかなりません。

無理矢理食べさせられたことによる
ネガティブな感情だけは積み重なっていくし
より一層誤った食べ方を身につけてしまいます。

今まで
さまざまな食べ方の困難を抱えた方に出会ってきました。

口を開けてくれない
ためこむ
吐き出す
口のまわりが食べこぼしで汚れる
うまく口の中に食塊を入れられない…etc.etc.

このような方に
どうやって「食べさせる」のかを考えても
「食べられる」ようにはなりません。

どうしたら「食べる」ことの援助ができるのかを考えれば
「食べられる」ようになります。

栄養をとっていただくために
脱水にならないように
そのための技術が
「食べさせる」「飲ませる」しかなければ
必死になってそうするしかないのだと思う。
「食べることの援助」「飲むことの援助」
という知識があれば
援助という知識と技術を求めることができる。

食事介助の困難改善の第一歩は
自分がどっちを向いているのか
軸足を、視点を、今一度明確に自覚する
…ことから始まります。

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正しさではなく適切に

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認知症のある方への対応で
誤解されていることは諸々あれど
たとえば
「正しいケア」「正しい介助」

正しい…って、いったい何に照らしての正しさなんだろう?

正義や常識は
時代によって場所によって
異なっているし変化もする。

正しいケアでも
目の前の人に不適切な対応になることって
幾らでもある。

たとえば
「おみ足を上げてくださいませ」
という言葉は丁寧な言葉で
敬語で接するという意味では正しいかもしれないけど
生活歴の中で「おみ足」という言葉を
聞いたことがなかった人にとって
その言葉は適切だったんだろうか?

大切なことは
目の前にいる方の役に立つことであって
スローガン通りに実践できるようになることとは違う。

正しい=適切
というケースだってあるだろうけど
教科書に書いてある、あるいは研修で言われた正しいケアを
目の前の人に当てはめることではない。

適切かどうかは
その時その場のその関係性において
関わっている人が判断するしかない。

それだけの厳しさを対人援助職は背負っている。

その厳しさから逃れるために
正しさというお題目にすがってはいけない。

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