Tag: リハビリテーション
当たり前のことだけど
自分や家族が病気になったり、ケガしたりした時には
評判の良いお医者さんのところに行くじゃない?
だけど
対象者の方は
リハスタッフを選べない。
このご時世だから
選べるシステムを作ってるところだってあるかも。ですが。
それでも
リハの世界は
美容院みたいに
TOPスタイリストさんとそうじゃない人との料金差があるわけでもない。
同じ時間で同じ料金を払って
だったら、腕の良い人に担当してもらいたいよね。
私が担当したが故に
良くなるものも良くならない。
それじゃあ、あんまり申し訳ない。
必死だった。
今は、少しはゆとりをもって勉強できるようになったけど。
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私たちは
私たちが意図したことがスムーズに行かなかった時に
つまり、私たちが生活障害やBPSDに直面させられた時に
初めて、どうしたものか
と対応の工夫を考えることが多いと思います。
でも
本当は、そうじゃない。
認知症のある方の困りごとが
生活障害やBPSDというカタチで現れるより前に
ふだんの何気ない会話や行動の中にこそ
近時記憶の程度や
再認の可否といった
能力と障害が反映されている。
その段階で
私たちが能力と障害を見いだし対応を工夫することができれば
後になって「イヤ」「拒否」というカタチでしか
伝えることができなかった能力と障害を
私たちが見誤ることがなくて済んだかもしれない。
そして
本当は、こういったことが
もっとたくさん、もっといろいろなカタチで現れているのじゃなかろうか
そんな風に感じています。
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前にも記事に書いたと思いますが
認知症のある方に誘導を拒否されない為に
「毎朝顔を見せて挨拶する」とか
そんな相手の善意にすがるような行動は
もう卒業しませんか?
言葉は悪いけれど
なんだか、相手の信頼を利用して
こちらの思い通りにするみたいで
内心イヤじゃないですか?
少なくとも、私はそういうのはイヤ。
目の前にいるAさんの
能力と障害を把握して
たとえば、前の記事のような部屋の入口の写真や
実際に懐メロを歌う時に眼にしている画面を
写真に撮って提示すると
「懐メロを聞きにいく」という言葉を視覚情報が補足して
どこに行くのか
どんなところなのか
再認を促す大きなヒントになりますので
再生ができなくてわからなくてイヤと言った方が
「それじゃあ行こうか」
となるケースがたくさんあります。
あくまでも
ひとつの例ですが。
( この続きもまた明日 )
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この写真は
懐メロを聞いたり歌ったりする部屋のドアを開けたところです。
認知症のある方をご案内してドアを開けた時に
「あぁ、ここね。」
「あぁ、この前も来たね。」
「そうだね。先週来たね。」
「何言ってんのよ。昨日も来たじゃないの。」
等という会話が飛び交います。
私は、そうだったのね。
と納得してます。
再生ができなくても
再認はできる方が多いのです。
そして近時記憶次第で細部を思い出せる程度が規定される。
逆に言えば
再認しかできないから
この部屋に到着するまでは
さぞかし不安だったろうと思います。
こういう能力と障害を踏まえて
声かけを工夫すると良いと考えています。
続きは明日 (^^)
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認知症のある方へのAct.として
懐メロをよく使っているのですが
移動時の声かけに拒否される方も少なくありません。
本当に「意思表示」として拒否されるのであれば
尊重されるべきです。
でも
認知症のある方の場合に
実は、意思表示ではなくて
わからないからイヤと言っているケースが少なくありません。
その証拠に
いざ、懐メロが流れれば
笑顔で手拍子しながら朗々と歌って
「あー楽しかった」
「明日への元気をもらいました」
「気持ちがスッキリしました」
って言われたりする。
歌いたくないわけじゃなかった
ということになります。
イヤ。なのは
歌うことではなくて
たとえば
どこに連れていかれるのかわからない
とか
説明が長くて丁寧すぎて、かえってわからない
こともあるし
言葉は聞こえてもイメージできないからわからない
場合だってあるのです。
その他にもetc.etc.
「イヤ」
という言葉に反映されている
目の前にいるAさんの能力と障害を把握すれば
じゃあ、どうしたらよいのか
自然と対応の工夫も思い浮かんできます。
( 明日に続く )
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イチローのインタビューがおもしろかったのは
インタビュアーの存在にも因ると思う。
稲葉という人がいたから
イチローも語ることができた。
私自身も過去にインタビューを受けたことが何回かありますが
その時に思ったことは
インタビューって恊働作業なんだな
ということ。
インタビュアーがインタビュイーに質問する。
インタビュアーの深みに応じて
インタビュイーが触発されて答えが発せられる。
だから
普段意識していなかったことが引き出されることもある。
言葉にして初めて
言った本人がそうそうその通りと思ったり (^^;
優秀なインタビュアーは
十分な準備をして、なおかつ
話を聴く時にはいったんその準備を頭の中から捨てる
って書かれていたのを読んだことがあります。
その時に、「あ、似てるな」って思いました。
認知症のある方と関わる時には
事前情報はちゃんと確認するし、
今までの経緯は頭の中に入ってる
でも、頭の半分は空っぽにして接するようにしてる。
(常にできてるとは言えないけれど)
じゃないと
見過ごしてしまうことがあるから。
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POSTさんのサイトでおもしろい記事が掲載されていました。
http://1post.jp
「療法士にも通じるイチローの考え方とは」
http://1post.jp/2016/03/21/choukanpost20160321/
先日テレビで放映されて大反響を呼んでるそうですが
確かにおもしろい。
そして、確かに療法士にも通じる部分があると感じました。
人によって、感じたことは違うところもあるとは思いますが
私がその通りと思ったのは
「目に見えてる部分しか言えない人が多い」
です。
「認知症は難しい」「よくわからない」
という療法士の声をよく聞きますが
「目に見えてる部分しか言えない」から
起こっているわけで
だとしたら「目に見えない部分を言える」ようになること
(することの援助)が必要だと考えています。
またイチローの言葉はすごく的確で
「目に見えてる部分しか言えない人が多い」
という言葉には
イチロー自身が説明してるように2つの意味があって
「目に見えてる」ということと「言う」ということの2つで
本来、療法士は「できるようになる」ことの援助が仕事なんだけど
つまり、行動変容の援助をすることなのに
「変えろ」って言うだけの人もいるという…
イチローの立場ではコーチが該当するのでしょうが
私たちの分野では療法士が該当する。
イチローが終始言ってるのは
「身体の使い方」「運動学習」
というリハの分野でも共通していること。
自分の身体だから
自分自身との対話が大切だし、その意味で遠回りこそ意味がある。
対話を大切に十分に行ってきたことになるから。
対象者の心身との
「直接の言葉」や「手を通した言葉」「行動というもう1つの言葉」
による対話。
そこをすっとばして語られる言葉に深みがないのは当然と思う。
異分野の一流の人が違う視点から違う言葉で語っているので
非常に勉強になりました。
記事掲載してくださったPOSTさん、
どうもありがとうございました m(_ _)m
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目の前にいる方の
可能性を確信しているから、待つことができる。
小さなことの積み重ねと
その意味を確信しているから
スモールステップを大切にできる。
「食べさせなきゃ食べられるようにならない」
「歩かせなきゃ歩けるようにならない」
「やらせなきゃできるようにならない」
目の前にいる方の可能性を確信できたら
こんな言葉を使わずにすむ。
確信とは、情緒的な盲信ではない。
行動という
もう1つの言葉によって語られている
言葉にならない声を聴くこと。
常識とか
パターンとか
そういう雑音に混じりながらも
消えずに語られている声を聴き分けること。
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