今年も「バリデーションセミナー」が
5月下旬に名古屋・大阪・東京・福岡の4会場にて開催されます。
今年は、ビッキー・デクラーク氏が来日されるそうです。
詳細は公認日本バリデーション協会のサイトでご確認ください。
http://www.clc-japan.com/validation/seminar.html
過去のセミナーの様子や参加者の感想を見られます (^^)
1月 14 2016
今年も「バリデーションセミナー」が
5月下旬に名古屋・大阪・東京・福岡の4会場にて開催されます。
今年は、ビッキー・デクラーク氏が来日されるそうです。
詳細は公認日本バリデーション協会のサイトでご確認ください。
http://www.clc-japan.com/validation/seminar.html
過去のセミナーの様子や参加者の感想を見られます (^^)
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1月 13 2016
株式会社gene(旧:合同会社gene)さんの主催で
認知症関連のセミナーが下記のとおり開催されます。
1月24日(日)に大阪で
「リハスタッフのための認知症のある方への対応入門
〜評価のすすめ方〜」
http://www.gene-llc.jp/seminar_info/?id=1441940291-056336
2月7日(日)に同じく大阪で
「リハスタッフのための認知症のある方への評価から対応まで」
http://www.gene-llc.jp/seminar_info/?id=1441940522-714229
今年度のgeneさん主催のセミナーで私がお話しするのは
こちらのふたつ限りとなっています。
リハスタッフのための〜という冠言葉がついていますが
リハスタッフでない他の職種の方でもご参加いただけます。
会場でお会いできたら嬉しいです (^^)
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1月 12 2016
「POST 現役理学療法士によるリハビリ職者のためのサイト」に
私の連載記事vol.2が掲載されています。
http://1post.jp/2016/01/04/interview_ot_dementia_colum02/
今後の記事の導入となる内容になっています。
よかったらお立ち寄りください。
POSTさんのFacebookに
私の食事介助のセミナーに参加した方が
コメントを寄せてくださっていて
職場で実践したら、食べ方が変わった、ムセが減った
って記載されていて本当に嬉しかった。
一度の体験で自分の介助方法を変える
ということは実は案外難しいことですが
その方は、まず自ら行動変容することができたから
対象者の行動変容も援助することができたのだと思います。
その過程は本当にすごいことだと思いますし
そのきっかけになれたとしたら、私は本当に嬉しく思います。
こんな風にして
認知症のある方が
1人でも多く、より安全によりラクに
食べられるようになったら、いいな。
そして
その過程において
援助する人たちが
認知症のある方の能力と脳の可塑性に眼を向けて
他の場面にも展開していってくださることを
心から願っています。
あー私も負けていられない!
がんばるぞー p(^^)q
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1月 08 2016
周囲がわかってくれない
連携がとれない
その辛さは、本当によくわかります。
イヤというほど、経験してきましたもの。
だけど
だからこそ
あなたがガンバル価値がある。
「関わり方を統一する」
そんな必要性は本当はない。
結果としてそうなることはあるだけで。
方向性を統一することは必要だけど。
人は、その時その場のその関係性の中で生きている。
あなたも私も認知症のある方も。
「職員が違う関わり方をして混乱しないだろうか?」
職員の対応を、環境・入力刺激として位置づければ
対応の違いからこそ、学べることだってある。
少なくとも
人によって自分の行動(たとえば食べやすさ)が変わるんだ
ということを明確に体感することができる。
認知症のある方は、何もわからない
という視点に立つのではなくて
認知症のある方は、難しいことも
失ってしまって取り戻すことが困難なこともあるけど
「イマ、ココ」のことはわかっている、感じている
という視点に立てば
異なる問いを立てることができる。
今までは、私たちが立てた
問いのカタチが適切でなかったから
コタエが見つからなかっただけということもある。
認知症のある方の
ケアやリハの分野で常識的に言われていることの中には
たくさんの誤解があります。
一見正しそうにみえる、でも、よくよく考えてみるとおかしなことを
盲信してはいけない。
目の前にいる人こそが最前線。
「自分ひとりが頑張ったって仕方がない」
そんな風に感じることだってあるかも。ですが。
そんなことは決してない。
たった1人でも正当な関わりができるのであれば
それは間違いなく目の前にいる方に伝わり
目の前の方に必ず行動変容が起こる。
そして、その時に、
その行動変容に気がつく人が必ず出てくる。
その1人の存在に、どれだけ励まされるか。
1人が変わる
ひとりでも変わる
そのチカラは、本当に大きな一歩なんです。
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1月 07 2016
人は
今居る場での関係性の中に在るから
時には、周囲によって
自己信頼のチカラをそがれてしまうことだって起こりうる。
それって
私たちのギョーカイでも、対象者の方に対しても起こりうる。
認知症のある方に
不適切な30%程度の食事介助しかできない環境であれば
食べにくいのは認知症のある自分のせいかも。
と思わせてしまうかもしれない。
(現に、そう思ってる職員は少なくない)
そこに、もしも90%の適切な食事介助ができる職員がいれば
認知症のある方は、食べやすい!って感じることができる。
そして、食べにくかったのは自分のせいじゃないんだ
本当の私は、こんな風に食べられるんだ
って、自己信頼のチカラを感じることだってできるかもしれない。
少なくとも
その時その場において
90%の適切な食事介助ができる職員は
今のあなたは、これだけ食べられる能力を持っているんですよ。
私にはそのことがよくわかっていますよ。
頑張りましょうね。
というメッセージを無言のうちに
でも、はっきりと伝えることができる。
自分で自分のチカラを信頼できること。
そして、自分の他に信頼してくれる人がいるということ。
それは、暗闇の中で灯された灯
たとえ、どんなに小さな灯でも
周囲の暗闇が深ければ深いほど
その灯の明るさは、一層明確に目に映る。
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1月 06 2016
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12月 29 2015
たったひとりでいいから
心底信頼できる人がいれば
世界は全く異なって見えてくる。
個人的なことに置き換えてもそうだし
リハの世界だってそうだと思う。
時々聞かれる…というか
相談というカタチでグチをこぼされるのが
「自分はそう思うけど、他の職種が…」とか
「チームワークがとれないから患者さんもよくならない」とか
というパターンがすっごく多いんだけど
その人がそう言ってる時点で
対象者のチカラを本当には信頼してない
って言ってるのと同じように私には聞こえる。
連携するのは
より早くより適切により効果的に
対象者の方が良くなるためだから
連携そのものが目的じゃない
本当は。
連携できるに越したことはないけど
でも、連携できないから対象者の方が良くならない
というのは手段・方法の目的化による誤解・すり替え
だと考えています。
自分1人でも
今、60%のことができているんだったら
80%のことができるように
そっちのが先
そして
当たり前のことだけど
他者は
60%のことしかできない人よりも
80%のことを為してる人の話に耳を傾けるし
60%のことしかできない人よりも
80%のことを為せる人に担当してもらいたいよね。
目の前にいる方から
信頼されるに足る自分で在るように
そっちのが先なんだと考えています。
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12月 17 2015
ここにこれから書くことは
すごくおせっかいなコトだけど
物語を読むのって
物語の世界との対話であり
著者との対話であり
自分自身との対話でもあるから
その時々の自分で読み取れることしか読み取れない。
その時その場のその関係性においての対話という
唯一の関係性が成立してる。
逆に言えば
そういう「関係性」の中に
自分自身の身を浸すことだから
作業療法士として
あるいは他の職種でも
ナラティブとかSDM(Shared Decision-Making)とか
もしも、本当にそういった方向性を目指したいなら
あるいは、Act.選択の適切性に悩んでいるなら
知識やツールの習得ではなくて
自分自身が「物語」を「読む体験」をするといいと思う。
リハに関わる世界にいる人で
「物語」を読んでる人って
そんなに多くない印象を抱いています。
だから
対象者の方の物語も読みにくいんじゃないかなぁ。
だから
SDMの扱われ方が
単なるツールに堕してしまうんじゃないかと
目の前にカタチとして提示されてる物語が読めないのに
目の前に存在している人の
カタチとしては提示されていない物語が読めるのか?
… それは、難しいよね (^^;
本気でそう思っています。
おせっかいなコトだけど。
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