Tag: コミュニケーション

会話の工夫

認知症のある方と会話する時に気をつけていることです。

それは、復唱すること

認知症のある方から
訴えというカタチで声をかけてくる時は
たいてい不安な気持ちを抱えておられるように感じています。

だから
認知症のある方の言葉を復唱してから答えるようにしています。

「便所、どこ?」
「便所ですね。ご案内します。」

「カバンがない」
「カバンのことが心配なんですね。どんなカバン?」

認知症のある方の言葉を受け止めました
ということを伝えるために、復唱するようにしています。

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検討の順序

認知症のある方の大声や不穏や訴えには必然がある。
(理由や原因ではなくて)

その必然を認知症のある方が語れるように援助するのではなくて
表面的にしなくなるように。という意図のもとに
褒めたり優しくしたり笑わせたりするのは
適切なことなのでしょうか?
すごく失礼なことなのではないでしょうか?

もちろん、その時その場の状況によっては
優先順位というものがあると思いますが
(そして暮らしに密着した場面であればあるほど
暮らしを円滑に回すということが要請されると思いますが)
それは別の話です。

混同して検討するから援助する人も認知症のある方も混乱してしまう。
そうすると悪循環になってしまいます。

いったんは
状況とは別個に
認知症のある方自身の能力と困難と特性とを把握した上で
大声や不穏や訴えというカタチの表現があった状況との相互作用について検討する。

そうすると、
認知症のある方に何が起こっているのか、
どう対応したら
認知症のある方の能力を合理的に発揮する援助ができるか
ということが観えてきます。

状況が要請する優先順位と
認知症のある方の能力発揮との兼ね合いについては
それを終えてから検討すれば整理しやすくなります。

「一生懸命優しくして褒めているのに効果がない」
と困っている人はきっとたくさんいると思います。
(私にしたら、「!」だし、だからなのよと言いたい気持ちもあるけど)

それは
あなたの優しさが足りないわけではないし
褒め方が足りないわけでもない。
検討の方向性と順位と、そもそもの前提が違う方向を向いていた
(向かされていた)だけ

だとしたら、違う前提のもとで、違う検討と対応をすればいいだけ
そうしたら
同じ認知症のある方なのに、今までとは全然違う現実が観えてくる
それは信頼をベースにした現実

安易な道ではないから
今までとは別の苦しさ辛さもあるけど
選んだ人には、今までの方法論との違いが明確に認識できるようになる

 

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「頭の中がスッキリする」

言葉だけ聞いていると、まったく意味不明なことを話すような
意思疎通困難な方の言葉です。

「あんたと話してると頭の中がスッキリする」

ずいぶん前の体験ですが
何重もの意味で、すごく嬉しかったです。

この方は、(あんたに優しくされて褒められて嬉しかった)とは言っていません。

優しくされたり褒められたりしたかったわけじゃない。

「あんたと話してると頭の中がスッキリする」ということは
私と話していない時に、頭の中がスッキリしない。と言っています。

そして言外に
頭の中がスッキリしなくて困っていた、
嫌だった、
スッキリさせたかったけどできなかった、
というニュアンスを伝えています。

ということは
この方自身の中で前提として
自分の頭はもっとスッキリしているはず
という認識を持っていることを意味しています。

つまり
この前提を共有できている
(あんたは私の頭がスッキリしているはずということをわかってくれてる)
という信頼を共有した上で
(助けようとしてくれた)
(しかも的確に助けてくれたから本来の私でいられる)
ということまで伝えてくれているのです。

 

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= 話すことを援助 ≠ 話を聞く

認知症のある方への対応の誤解というのは
ヤマほどありますが、そのひとつが
認知症のある方の話を聞くのではなくて
認知症のある方が話すことを援助するということ

同じように思われるかもですが
似て非なることです。

力点は、あくまでも認知症のある方
ということなんです。

「私たちが」認知症のある方の話を聞く
のではなくて
「認知症のある方が」話すことを援助する・促す

つまり
私たちが認知症のある方の話を聞くのは
認知症のある方が話すことを促す、援助する「手段・方法」であって「目的」ではない
ということの違いを明確に認識することが大切なんだと考えています。

認知症のある方のout putが重要で
私たちのin putが目的ではない

ところが、いつの間にか、すり変わってしまう。。。
手段が目的化してしまう。。。

認知症のある方が言いたいことを言えるように
抑圧したり、忖度したり、不安になったりしないように援助できると
話をしている過程で認知症のある方自身が
ご自分の困難を解決されていくことも多々あります。
その場での解決ができなくても
認知症のある方が混乱の中で何が辛いのか双方にとって明確になり
認知症のある方自身の助けになりますし
私たちの助けにもなります。

「あんたと話してると頭の中がスッキリする」

認知症のある方は、それだけの能力を持っている。

 

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食事介助はコミュニケーション

意思疎通困難な方で
食べることに困難を抱えていて
誤嚥性肺炎後のリカバリーに携わると
不思議なことに
食べられるようになるにつれ疎通も改善される
というケースを何例も経験しています。

それは本当に嬉しいことです。

食事を拒否していたり
口を開けてくれなかったり
言いたいことをうまく言葉にできなかった方の多くが
「どうもありがとう」
「気をつけて帰るんだよ」
と送り出していただいたことも何度もあります。
発語がみられるようになった
アイコンタクトがみられるようになった等は数知れず。

「食べる」という体験を協働するからこそ
そして、それらの過程が適切だったからこそ
プラスの方向に働いて能力発揮につながったのだと感じています。

食事介助は究極のノンバーバルコミュニケーション
食事介助の一連の過程はコミュニケーションそのもの

常々そう思っています。
私は食事介助の時には、基本的にはあんまり声をかけない。
声をかけるのは、必要と判断した最小限のことに留めています。

その分、言葉以外の
眼で観て、耳で聴いて、スプーン操作で問いかけています。

 

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チームワーク:使う場所に情報提示

例えば
ポジショニングなどは
写真に撮ってポイントを書き込んだものを
使う場所に提示しておくようにしています。

今は電子カルテになったので
申し送りの時にカーデックスを使用することはなくなりましたが
カーデックスを使用していた時には
そこに同じものを挟み込んで情報提供
この目的は「ポジショニング設定をした」ということの共有化で
設定方法ではありません。

これで終わってしまうと
いざ、看護介護スタッフがポジショニングしようとした時に
「あれ?どうだっけ?」となってしまいます。
忙しいスタッフがわざわざスタッフルームまで戻って確認するのは申し訳ないし
ポジショニングをしながら細部まで確認しながら設定してもらうためには
「使う場所」にも情報を提示しておくことが大切だと考えています。

例えば
ベッド上のポジショニングならベッド周りに
車椅子上のポジショニングなら車椅子のバックレストのポケットに

情報を発信することは、こちらの責務
活用してもらいやすいカタチで発信することが大切だと考えています。

 

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信頼に足る行為の結果信頼される

いまだに言われているようでビックリですけど
「認知症のある方には毎朝挨拶して信頼関係を作る」とか。

いくら毎朝挨拶しても、それだけでは信頼されません。
もっと他にやるべきこと、やらねばならないことがあります。

なんとなく
ケアやリハの常識として伝えられていることを
自己検証することなく、そのまま言ってしまえる人もいるのかもしれませんが。。。

自分に置き換えて考えてみて。

毎日顔を合わせている同僚や上司を信頼できる?
信頼に足る上司や同僚だからこそ、信頼しているのであって
毎日会って挨拶を交わすからじゃないよね?

認知症のある方だって
信頼する人、気の合う人は、人それぞれです。

認知症のある方に信頼してほしいと望むのであれば
(もっとも私はそんなことを考えたことはなくて自分ができるようにと必死でしたが)
まずは自分が目の前にいる方の
信頼に足る行為ができるようにならなければ。

この人はちゃんと話を聞いてくれる
この人だったらなんとかしてくれる
この人はちゃんと向き合ってくれる
少なくともそう在ろうと努めている人だ

認知症のある方に適切な対応ができるようになりたいと心の底から願えば
認知症のある方に今何が起こっているのかを把握できるようになりたいと願うものだし
コントロールではなくて援助の姿勢で関与するように心がけるようになるものです。

そのような一連の過程は紛れもなく、伝わる
そしてその逆も

 

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チームワーク:対象者が変える

たった1人でも
自分だけでも
認知症のある方に、本当に適切なことができれば
どんなに重度の認知症のある方でも「変化」が起こります。

鋭敏な人、観察している人にはすぐわかってもらえる。

小さな変化が積み重なって
大きな変化となれば
否応もなく誰もが認めざるを得なくなります。
(それでも否定する人は、その人に問題があるのであってこちらの問題ではない)

対人援助職の人は
基本的には優しい人が多いから
相手が変われば変わったなりの対応をするようになります。

「人は環境の生きもの」「人は環境の子」と言われていますが、まさしく。
認知症のある方にとっても
職員にとっても

だから
たった1人でも
自分ひとりだけでも変わることの意味はある。
自分自身が適切な対応ができるようになることの意味はとても大きい。

適切な対応ができる人が増えれば増えるだけ
もっと有意義になってくる。
そのための連携、チームワークなんだと考えています。

 

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