Tag: 評価

クローズアップ現代「“帰れない”認知症高齢者急増する精神科入院」見ました

今日の午後7時30分からのNHKクローズアップ現代
「“帰れない”認知症高齢者 急増する精神科入院」
を見ました。

NHK ONLINE  No.3278
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3278.html

スタッフの部屋
精神科病院の認知症高齢者の現実
http://www.nhk.or.jp/gendai-blog/100/138605.html

番組の中で紹介されていた取り組みが
厚生労働省がこれからやろうとしていることでもあるのだと思う。

「その場」に行かないとわからないことがある
…というのは本当にそのとおり。
このことについては、改めて書きたいことの1つです。

「作業療法士」が字幕で何度も紹介されていたのも
心強かったです。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/633

知識に裏付けられない対応の脆さ

優しく
丁寧に
尊重を

…などなど、認知症のある方への対応について
巷にあふれている言葉ですが
知識に基づかない、知識に裏付けられていない状態では
実践しきれないのと違うんじゃないのかな?

それらが如何に脆いものか

それは、働いている人自身が
一番身に染みて感じているんじゃないのかな?

「そりゃわかるけど…でも…」
そう思ってしまう時があるんじゃないかな?

何か違和感を感じつつ
辛い思いを押し殺しているんじゃないかな?

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/620

ただひたすらに観る

それが一番大事。

勝手な解釈もせず
勝手に原因をこさえず

状況と対にして
何が起こっているのか

ただひたすらに観ることが大事。

ひたすらに観るためには
知識が必要。

手の外科領域では
筋や神経の解剖をまず頭に叩き込むでしょう?
いきなり、その人に何をするかを考えたりせずに
まず、その人がどういう状態なのかを
きちんと把握しようとするでしょう?

それと同じだと思うんだけど。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/619

声かけの工夫 距離(ココロの巻)

昨日の記事の続き。
そのココロは…のココロの巻です (^^)

遠くから指し示した椅子に座れる
…ということは
たくさんのモノの中から
椅子に注意を焦点化することができ
それを覚えていられて
なおかつ、椅子にたどり着いた時に
「座る」という動作を遂行することができる
…という能力があることを表しています。

目的地まで歩く+座る
という同時並行課題ができる
目的地を明確化できる
目的地を忘れずに覚えていられる
…ということです。

目的地の椅子のところまでお連れして
その場で「座る」こと「だけ」を 説明する。
そうすればできる方も大勢いらっしゃいます。

物理的距離の遠近によって
必要とされる能力も異なってくる。

ご本人の能力は必ず任意の環境下で発揮されるものなのですから、環境とペアで語られるべき性質のものです。
そこにこそ、私たちの介入・対応の工夫の余地がある。
ところが、現実には、この部分が あまりにも自覚されていないように感じられてなりません。

「対応の工夫」というモノが
いろいろなところでいろいろに囁かれていますが
結局のところ、『ご本人の能力』と 『対応の工夫』とは、一対のものであって切り離しては語れない。

まず、評価があって、初めて工夫を語ることができるのだと感じています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/589

声かけの工夫 距離

指差しながら
「あそこの赤い椅子に座ってください」
で、赤い椅子に座ることができる方もいるけれど

赤い椅子のところまできて
「ここに座りましょう」と手で指し示して
ようやく座れる方もいる。

距離…って大事。

そのココロは…明日!

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/588

能力を把握するための評価を

私たちが用いる「テストバッテリー」は
通常は「障害」を明らかにするために用いられている。
そして「障害」を軽減するためにリハを行っている。

でも、認知症のある方に対して
「障害」を明らかにするためにテストをしても
効果的な援助には結びつかない。

臨床で必要なのは、
「能力」を把握するための「評価」だから。

その過程において
「障害」を把握することで
「能力」が把握できることはあっても

認知症という病気は
その定義上、不可逆的な進行性の疾患だから
今、既にある「障害」を軽減するためのトレーニングは
できない。

大切なことは
今ある能力を発揮すること。
埋もれていて活用されていない能力を見いだすこと。
そのための「評価」ができるようになること。
「検査」ではなくて。

「認知症は難しい」という言葉をよく聞くけれど
難しいのは「認知症」じゃなくて
「検査」以外の「評価」が難しいんじゃないのかな?

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/580

引き算で現状を指摘しない

もうひとつは…

現象をあるべき理想像から引き算で観ていろいろ指摘したって
対象者の方はよくはならない。

現象を対象者の方の目標にそって
足し算で積み重ねていく
今の次の状態をこちらが具体的にイメージできることが
対象者がよくなっていくことに結びついている。

次にどうなっていくのか
「具体的に」イメージできていないと
対象者の状態によらず
よくはならないと感じています。

昨日と今日の
この2つの問題は
とてもとても大きな根深い問題だと感じています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/570

現象に投影されているコトを観る

現象をみて
その現象にいくら言葉を当てはめてみても
それは評価にはならない。

その現象に投影されている
能力や障害を観ることで初めて評価に結びつく。

ここを誤解している人が多いと思う。

そしてもうひとつは…また明日☆

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/569