Tag: 評価

援助と使役は裏表

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わからないのに
聴きもせずに
表面的にActovityを提供するということは
「あなたのためのActovity」ではなくて
私が困らないように何かやってほしいという意図を
暗黙のうちに、でも、明確に
対象者の方に伝えてしまっている
ということなのに。。。

どのレベルであったとしても
Actovityを提供する時には
自分の中で提供するに足る根拠を
明確に言語化できているということ。

最低限、援助として提供するならば。

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率直に聴く

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わからない時には
率直に聴けばよいのだと思う。

「あなたにとって
その場の何が大切なのですか?」

「あなたにとって
その場はどんな場なのですか?」

言葉にして聴くにしても
言葉にならない、もう1つの言葉で聴くにしても

理解したくて聴いたことには
必ず答えてもらえる。

答え方にはいろいろあるけれど。

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生活歴も希望も

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生活歴の聴取も
好きだったことの聴取も
その人を理解するための手段であって
提供する活動に直結するわけではない。

編み物を好きだったからといって
今編み物を提供することが
適切とはいえない。

散歩が好きだったからといって
今散歩を提供することが
適切とはいえない。

編み物のどんな面が
散歩のどんな面が
その人にとっての意味があったのか
その人にとっての意味は何だったのか

そのことをわからずに
見た目だけ提供したって意味は生まれない。

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当たり前のこと

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私たちは対象者を評価するけれど
同じように
いいえ、時にはそれ以上に
対象者自身によって評価されていることを
忘れてはいけないのだと思う。

そのことも含めて
私たちは自分のレベル以上のことは
わからない

その時その場のその関係性において
起こったことの意味を
どれだけ自分がわかるか

まずは、そっちが大事なんだと思う。

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「ねぇ!」

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言語表現力が限定していて
自分の気持ちや考えを伝える能力が限られている

つまり、「使える言葉」が限定していたとしたら

たとえば、
「使える言葉」が「ねぇ!」だけだったとしたら

「ねぇ」と呼びかけて即応してもらえなかったとしたら

呼びかけ続けようとして
「ねぇ」という言葉を
だんだん大きな声で
繰り返し言うことになってしまうのかも

他の言葉が使えないのであれば
できることは
より大きな声で
繰り返すことが表現手段になるのかも

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評価の進め方ー最初の挨拶

評価の進め方ー最初の挨拶認知症のある方に出会ったら…
「認知症」という診断名がすでにある方なら、まず最初にADLとコミュニケーションを評価しましょう。
ADLとコミュニケーションのそれぞれについて
何ができるか、できないか。
どこまでできて、どこからできないか。
どんな風にできて、どんな風にできないのか。
これで、その人の現状がおおまかに把握できると思います。

そこからさらに詳細に現状を把握するために個々の要素について絞り込んだ評価をしていけばよいと思います。
その過程で、診断疾患から生じる症状がどんな風に現れているか
診断疾患にはない症状の有無についても確認できればなお良いと思います。

ここで重要なことは、必ず状況とセットで評価する…ということです。
状況というのは自分を含めた環境のことです。
ここが臨床ではよく見落とされがちでそのために適切な評価ができずに困惑してしまうということが起こりがちなのです。

一番最初は、まず挨拶から始まりますよね?
最初の自己紹介とご挨拶で、言語的な意思疎通の可否と短期記憶の可否が確認できます。
「○○さんですね?リハビリのよっしーと申します。初めまして。」
「〇〇さんの下のお名前を教えていただけますか?」
「□□という下のお名前はどう書くんですか?」 
このように尋ねてどんな風に反応が返ってくるのか…それが評価の第一歩です。
最初の自己紹介と挨拶が同時にスクリーニングの場でもあります。
もしも、この時点で適切な答えが返ってこないのであれば、その後の評価を構成的面接(場面設定)で行うことは困難だという判断ができます。それは評価場面の選択ができるということで評価できないということではありません。観察主体の評価から始めてみようという判断ができるのです。
そして、適切な答えが言語的に返ってこなかったとしても何らかの「応答」があったはずです。
その「応答」を異なる場面でも確認します。

また、言語的な意思疎通と短期記憶が可であれば、直接尋ねることができます。
「○○さん調子はいかがですか?」
「○○さんの暮らしの困りごとを一緒に解決していくのが私の仕事なんです。」
「〇〇さんのことをいろいろと教えてください。」

そして相手が答えたことに対して、質問をふくらませていく。
相手が答えていないことを尋ねる時には、答えなくてもよいという留保をつけながら尋ねます。

これらの評価をすすめる過程でその方の対応のパターンというものが滲み出てきます。
そのパターンから生活歴を類推することが重要です。

最初の評価ですべてを確認しようなどと思わなくてよいのです。
評価をしぼりこんでいく、回を重ねるごとに評価を深めていく、評価の精度を高めていくという姿勢が重要なのだと考えています。

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全部求められる

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認知症のある方へのリハを提供するにあたって
身体的な知識も精神的な知識も発達の知識も
全部求められる。
鍛えられます。

リハの知識にとどまらず
「知」がどれだけ血肉となっているのか
滲み出てしまうし

こわくて、難しくて、おもしろくて、鍛えられる
そういう「場」です。

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伝えられてしまうもの

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もちろん、近年、実習地では合否判定をしない
という養成校だってあるけど
到達目標に対する達成度判断までなくなったわけじゃない。

「私は実習落とさないから」
と言ったということは
合否判定のある養成校の学生を受けていたということだし
そういう言葉でバイザーが本当に伝えたかったのは
緊張するな。リラックスして全力発揮しろ。
なのだとは思うのだけど
意図せずに、暗に、でも、明確に実習生に伝えてしまったのは
(自分自身にも表明してしまったのは)
私は、そこまで言わなければ実習生の緊張をほぐし能力発揮できるような指導はできません。
自分の指導能力不足をルールを曲解することでしのいでいます。
実習生に対しても
そこまで言わなければあなたはリラックスして能力発揮できないでしょう
って言ってるってことと同義なのに。。。

つまり、
表面的には良い言葉と受けとめられている言葉の真意は
バイザー自身に対しても
実習生に対しても
本当は「信頼」の欠如した言葉なのだということ。

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