Tag: 状態把握

潜在する課題「口を開けてくれない」

タイトルを見て気がつきましたか?

「口腔ケアの時に口を開けてくれない」
「食事介助の時に口を開けてくれない」
といって質問されることは多々あります。

私は常々
問いの中に答えがある
答えが出ない時には問いを問い直す
ことが大切だと考えています。

「開けてくれない」という相談事の根底には
無自覚ではあっても、前提として
「開けてくれて当然なのに」
という相談者の気持ちが反映されています。
相談するくらいですから
真摯に業務に向き合っていることは伝わります。
相談者の善意を疑うものではありませんが
相談者の心のどこかに主客転倒が生じているから
「くれない」という言葉が発せられるのです。
言葉には発する人の意思が反映されてしまうものです。

「開けてくれない」という言葉は
前提として相手が自分の介助に「合わせる」ことを要請しているから
出てきてしまう言葉です。
本来であれば
自分の方が対人援助のプロとして
相手に合わせられるはずなのに。

  ヨーロッパの諺に
  「地獄には善意が満ちているが、天国には善行が満ちている」
  という言葉があるそうです。
 
自分の方が相手に合わせようと思えば
「口を開けようとしない」のか
「口を開けられないのか」を観察・洞察しようとします。
そして
「開けようとしない」のであれば、
開けようとしない相手にとっての必然がありますから
その必然を観察・洞察します。
「開けられない」のであれば、
開けられない必然を観察・洞察します。
どうしたら良いのかは、その次の話です。

口を開けてくれない
口を開こうとしない
口を開けることができない

文章で書かれたものを読めば違いがあることがわかると思います。
でも、現場では多くの場合に、これらを一緒くたにして、ひっくるめて
「口を開けてくれない」と問題設定しているのです。

「(口を開けてくれて当然なのに)口を開けてくれない」
と問題設定した段階で
自身の介助の正当性について
疑問や不安を抱いていない
ことを表明しているも同然です。
自身の介助の正当性に疑問や不安を抱いていないということは
認知症のある方の「口を開けてくれなさ」そのものを観察していないとも言えます。

これは本当に現場あるあるの主客転倒です。
二重の意味での主客転倒です。
介助に協力させることを心のどこかで考えている
観察せずに対応を考える
これでは効果が出る方法論を提供できるはずがありません。

多様な対象者の状態にあわせて、介助の多様性を提供するのではなく
対象者の方が、多様な介助者の多様な介助方法に適応してくれている。。。
対象者の状態の多様性を観察することで何が起こっているのかを洞察するのではなくて
介助者の推測に対象者を当てはめようとする。。。

多様性を失っているのはいったいどちらなのでしょう?

でも
このような現状が生じてしまうことにも理由があって
対人援助職という職業そのものが抱える業(ごう)の様なものがあるのです。

この問題については次の記事で。
  

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口を開けてくれない方への口腔ケア

口腔ケアを嫌がる方は案外多くいらっしゃいます。
「認知症だから口腔ケアを嫌がる」というのは安易な考え方です。
認知症のある方それぞれに嫌がる必然があります。

最も多いものは、過去の不適切な口腔ケアを再認して拒否するというケースです。
それって当然ですよね?
口の中というデリケートな部分に対して侵襲的な刺激があれば防御するのは当然です。

だとすると、
侵襲的でない口腔ケアをどうしたら良いかと考えることになります。
ここでよくある誤解が
〇〇さんの口腔ケアへの拒否や抵抗をどうしたらなくせるか
ということを考えたり話し合ったりしがちなことです。
まず最初にすべきことは
〇〇さんが嫌がっている口腔ケアの場面そのものを観察し直すことです。

そうすると
実は言語理解力が低下していて
声かけだけでは
「歯磨きをしてもらうために口を開ける」ということを認識できない
でも
歯ブラシを見てもらう、
あるいは歯ブラシを横に動かす動きを見てもらうことで
「歯磨きをしてもらうために口を開ける」ことを認識できることに
私たちが気がつくことができます。

現場あるあるの誤解は
強引で無理矢理といった侵襲的でない、適切なケアを提供しようと考えて
懇切丁寧な声かけという言葉に頼った対応をする
声かけは丁寧でも、いきなり歯ブラシを口の中に突っ込む

というものです。
声かけを理解したかどうかの確認もしていません。
それではびっくりして嫌がって当たり前です。
視覚情報の提示によって口腔ケアに協力していただけるようになる方は大勢います。

まず、歯ブラシを認知症のある方の目の前に提示して、見たことを確認します。
その後に、歯ブラシを左右に動かしながら「歯磨きしましょう」と声をかけます。
これだけで嫌がっていた方が大きく開口してくださることは多々あります。

大きく開口してくれない場合でも
少しでも開口してくれるなら、開口してもらえたところから可能な範囲で
歯をブラッシングします。
そうするとだんだんと開口が大きくなるので、ブラッシングの範囲を広げていきます。
奥歯を上からブラッシングすることができるようになれば
奥歯の裏側をブラッシングすることも可能になります。
奥歯の裏側をブラッシングできれば、手前に戻ってくることで
前歯の裏側もブラッシングが可能となります。

それでもやっぱり開口してくれない方もいます。
口輪筋が硬くなっていたり力が入ってしまっている場合です。
そのような場合はいきなりブラッシングをするのではなく、
自身の指に歯磨きティッシュを巻きつけ
口唇を小さく丸く円を描くようにマッサージします。
するとだんだんと口輪筋の緊張が緩んできます。
一番多いのが下唇の下あたりが硬くなってしまっているケースが多いので
下唇と歯の間に指を入れることができたら、そのまま指を左右に動かします。
ここまでできれば次第に開口できるようになります。

もう一つ
「口を開けてくれない方への口腔ケアをどうしたら良いか」
という命題に潜在する本質的な課題があります。
それは次回に。
  

 

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かきこまずにすくって食べるトレー

認知症のある方で
ご飯をかきこむようにして食べる方っているでしょう?

そのような時に
小さなスプーンを提供するのは現場あるあるですが
それでは効果がないどころか、逆効果になっていることってありませんか?

認知症のある方は
「これでは1口量が少ない」とちゃんとわかって
1口量を増やそうとして、ますますかきこみ食べをするという。。。

かきこみたべをする方には
その方にとっての必然がありますから
まずは、そこをちゃんと観察・洞察すべきです。

スプーンを使って食塊をすくう動作というのは難しいものです。
すくいあげることができるだけでなく
1口量の調整ができなければなりません。

ところが、上肢操作能力が低下していると
こぼさないように食べようとした代償として
食器を口元へ持っていき、口で取り込むようにして食べようとします。
ある意味、自身の上肢操作能力の不十分さを感受しているからこそ
上記のような代償をするわけです。
能力がないからかきこみ食べをするのではなくて
能力を不合理に発揮した結果のかきこみ食べなのです。
だとしたら、能力を合理的に発揮してもらえるようにするには
「楽に食べられた!」という体験が必要です。

ところが
たいていの人は「ちゃんとスプーンで食べてね」と言います。
そしてスプーンで食べられないと「認知症だから」と諦めてしまいます。
私たちの仕事は「スプーンで食べて」と言うのではなく
「スプーンで食べられるように」援助するのが仕事です。

そこで、写真のトレーを作ってみました!

食器は手に持たずに置いたまま食べるように対象に語らせる。
食器は置いておくのだということが視覚的に伝わるような設定です。

自助食器がすっぽり収まるようにお菓子の空き箱をくり抜きます。
箱は防水加工されている包装紙(ダイソーで購入しました)で包みます。
多少の食べこぼしがあってもおしぼりで拭きとれば綺麗になります。
箱が潰れないように、裏側はスポンジで固定しました。

これで
「すくって食べる」という体験学習を重ねることができます。
すくう動作が改善すればするほど、食器を持ち上げる必要はなくなります。
結果として、かきこみ食べが防止できます。

口腔機能が保たれている方であれば
全粥の方が1口量の調整がしやすいのですが
そうでなければミキサー粥を選択します。
ミキサー粥は塊となっているので
そのまま提供するとすくうことができずに
塊のままこぼれてしまいます。
そこで提供前にミキサー粥を細かくクラッシュしてから提供します。
これで多すぎるミキサー粥をすくっても
スプーンからミキサー粥がこぼれてくれます。
おかずはペースト食にすると1口量を調整しやすいものです。

食形態は
口腔機能だけで選択するのではなくて
上肢操作能力も含めて選択するようにしています。

ちなみに
食具の提供の順番にも気をつけています。
最初にスプーンを右手に持っていただきます。
スプーンを右手に持ったのを確認してから
食事を乗せたこのトレーを提供すると持ち上げようがありませんから
まず、スプーンですくう動作を引き出すことができます。

「トレーを持ち上げないで」と言うのではなく
トレーを持ち上げずにスプーンですくう動作を促すように
場面設定に語らせます。

 

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体験送り@介助

ポジショニングや食事介助は
適切に行えれば効果がその場で出ることはもちろんですが
次の機会にも良い影響を与えるものです。

例えば
ポジショニングを朝適切に設定できれば
次に体位変換をする時にも身体はリラックスしていて
スムーズにポジショニングが設定できます。

逆に
ポジショニングを適切に設定できなければ
次に体位返還をする時に身体の筋緊張が亢進したままなので
余分な力を必要としたり
上手く設定できなくて修正も大変で時間がかかってしまいます。

食事介助や口腔ケアにおいても
適切な介助ができれば
対象者の持っている能力が発揮されるので
対象者も食べやすくなり
介助者も負担が減って楽になります。

その能力発揮は次の介助場面でも発揮されるので
どんどんと楽になっていくものです。
ポジティブな体験送りを認知症のある方とスタッフの協働で行えるようになります。

逆に言えば
無理矢理食べさせたり、歯ブラシをいきなり口の中に突っ込んだりするような
介助者の行為は、その場では仕方ないと言う人もいるかもしれませんが
感情記憶は蓄積していきますし
重度の認知症のある方でも再認できる方は大勢います。
(たとえ、言語表現力が限定していて言葉にしなくても
 感受している可能性は大いにあります。)
歯ブラシを口の中に入れるという特定の場面で
前回の苦痛な感情を伴う体験を再認できるからこそ拒否する
という方もいるのです。
この局面だけを切り取って、拒否するのは認知症で理解できないから仕方ない
拒否しても口腔ケアはせねばならないと考えて無理矢理口腔ケアをしていては
いつまで経っても口腔ケアに協力してもらえないどころか
ますます悪循環になって口を開けてくれなくなったり、
口腔ケアをしようとするスタッフの指を噛んでしまうことすら起こりえます。

ネガティブな体験送りをスタッフがしてしまっているのです。

その方それぞれに苦痛でない方法、受け入れやすい口腔ケアの模索を考えるべきです。

  「わかっちゃいるけど、時間がないからできないのよ」
  と言う人は時間があってもできない人です。
  その場の1分を惜しんで長期的に10分の時間を所用するように
  なっていることがわからずに「大変」「忙しい」と言う人です。
  適切なポジショニングを実現できて、
  その意義も実感できている人はきちんと実行しないではいられません。
  適切なポジショニングをできれば設定に必要な時間は短縮されます。
  どんどん短縮されるものなのです。
  食事介助でも口腔ケアでもまったく同じコトが違うカタチで起こっています。

次の人にマイナスの体験を送ってしまうことも起こり得ます。

対象者と次の人が大変な思いをしながらでも
もう一度食べる再学習を促すことができれば
プラスの良循環が起こります。
つまり適切な介助ができない人のツケを
対象者と適切に介助できる人が払わされるという構図になっているのです。

食事介助もポジショニングも生活期の初期にはさほど目立ちません。
対象者自身のレジリエンスが高いからです。
軽度の方が短期的に利用する施設ではなく
特養(介護老人福祉施設)や長期入院・入所・利用が可能な施設において
当初はそうでもなかったのにレジリエンスの低下とともに表面化してくることがわかると思います。

逆に言えば
「そんな人はいないから関係ないもん!」ではなくて
予防的に適切な対応ができるようにきちんと申し送りができることが大切です。
きちんと申し送る。。。というのは再現性を担保できる
ということです。

つまり、自分自身で常に適切に対応できるからこそ
対象者のポイントが把握できていて
なおかつ、他職員が対応し損ねてしまいがちなポイントも把握できている
そこを明確に言語化したり視覚化することができる
ということを意味しています。

 

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その人らしさって何?

その人らしさって何?
そう尋ねられて端的に明確に言語化できる人は少ないものです。

その人らしさとは、特性のことです。
その人が繰り返し使ってきた行動のパターンのことです。

行動のパターンなので
パターンが良い結果となることも
そうでないこともあります。

認知症のある方の場合
前の記事で書いたように
特性が裏目に出ると生活障害というカタチに見えるので
単に判断力低下と職員が誤認してしまい適切に対応できない
しかも、職員がそのことを自覚できていない
認知症のある方が疑問を抑圧せざるを得ず
本当の問題が表面化しにくい
認知症のある方は表面的に職員の指示に従っても
本当の信頼関係が構築できにくい
というケースがかなりあります。

「その人らしさを大切に」と唱えている場合じゃありません。
繰り返し唱えることで事態が改善されることはありません。
唱える前に、まず概念の本質を理解することが大切です。
概念の本質を理解できれば観察・洞察への道が開けます。

 

・・・ さて、ここでお知らせです ・・・

今月と来月は
記事の更新を月1回とさせていただきます。
どうぞご了承ください。
 

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その人らしさは両刃の剣

リハやケアの分野で
「その人らしさ」という言葉を聞いて
プラスのイメージを抱く人は多いと思いますが
さて、「その人らしさ」って何ですか?

「その人らしさを大切にする」「その人らしさを尊重する」
とは、リハやケアの分野でよく聞く言葉ではありますが
私たちのどういう言動がその人らしさを大切にすることで、
どういう言動がその人らしさを尊重していないことなのでしょう?

リハやケアの分野あるあるなのは
なんとなく喧伝されていることに乗っかってしまいがちなことです。
具現化する努力よりも唱え合うことで満足してしまいがちなことです。

本来、「その人らしさ」にプラスもマイナスもありません。
「その人らしさ」がプラスに働くかマイナスに働くのかを
決定づけるのは、その時の状況です。

認知症のある方の場合に
物事をきっちり遂行するタイプの方が
きっちり遂行するよりも優先すべきことを判断できずに
周囲にとってちょっと困った行動に見えることもあります。
 
例えば、集団でのActivityの後に
自身が座っていた椅子をきちんと机の中に入れてくださり
その隣の椅子も同様に片付け、さらにその隣の椅子も。。。と
「きちんと片付ける」ことに集中してしまい
なかなかお部屋に戻れなくなってしまったり。

例えば、他者への気遣いを行動で示すタイプの方が
自分が座るように促された席に職員を座らせようと思って
違うところに移動して何をどうするのかわからなくなってしまったり。

その人らしさがあるがために
動作干渉となってしまい、近時記憶の低下によって
そもそもの目的、何をする予定だったのかがわからなくなってしまう
他者に助けを求めることができなかったり
周囲に誰もいなければ自分でなんとかしようとしてドツボにハマってしまう
。。。ということもよくあることです。

その人らしさは諸刃の剣となって現れる

「その人らしさを大切にする」
「その人らしさを尊重する」
と言う人は多いですが
私には具体的に現実的に何をどうすることを意味しているのかがわかりません。
だから私はこれらの言葉を使ったことはありません。

そのかわり、その方自身が大切にしていることは何なのか
普段の場面から観察・洞察するようにしています。
長年大切にしてきたであろうことがプラスに働くようにActivityを選択したり
長年大切にしてきたであろうことがどのように生活障害というマイナスのカタチで
反映されているのかを観察するようにしています。
そうすれば、生活障害を援助するにあたり
より適切な介助を、より適切な言葉を選び、より円滑に
大切にしてきたこととイマ、ココですべきことを両立させる働きかけが可能となります。

さて、あなたに質問です。
「その人らしさって何ですか?」
端的に明確に答えられますか?

 

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すぐ怒る方への対応その2

私が大好きな「ゲド戦記」
(映画じゃなくて原作の方です)
なかでも「帰還 ゲド戦記最後の書」は何回も繰り返し読んでいます。

ファンタジーなんだけど
驚くくらい現実を反映してもいます。
臨床心理学者の河合隼雄の本で紹介されていて
それから読み始めたのですが、もっと早く出会えていたら。。。と思った本です。

テナーとコケばばとのやりとりがものすごく深くて鋭くて。。。
テナーという女性は昔ある国の女王として奉られ深い闇の世界に暮らしていました。
コケばばは魔法使いではなく女まじない師として暮らしています。
この本では「知と力」の暗喩として「魔法」が登場します。
ちょっとコケばばの言葉を引用します。
 
・・・・・・・・・・・・・
p.81より
「(前略)
もし、わしの顔にちゃんと目がありゃ、わしにはおかみさんに目があるのがわかる。そうじゃないですかね。もし、おかみさんが目が見えなくても、わしにはそれとちゃんとわかる。もし、おかみさんがあの子みたいに一つしか目がなくても、反対に三つ目があっても、それもこっちにはわかる。だけど、わしの方に見る目がなかったら、相手に目があるかどうかは言ってくれなきゃわからない。
(後略)」
・・・・・・・・・・・・・

言ってくれなきゃわからない

まさしく、まさしく!
見る目があるから相手のことがわかる。
見る目がなかったら相手に言ってもらわないとわからない。

認知症のある方のほうから
何を怒っているのか解説してくれることはありません。

認知症のある方のほうから
食事介助ではここが食べにくいのでこうしてくれたら食べやすくなると
解説してくれることもありません。

こちらに見る目があれば
何を怒っているのかがわかるし
どこが食べにくくなるかもわかるし
だから、どうしたら良いのかもわかるのです。

臨床能力を高めるうえで最も大切なことは、見る目を涵養することなんです。
検査やバッテリーや理論や論文の読み書きは観察の視点を増やすことはあっても
観察力を磨くことに直結はしていません。
観察力を磨くことに直結するのは基本的な知識の習得です。
ここで怠られがちなのが、概念の本質を理解する力です。

「構成障害って何?」と尋ねられて
端的に明確に即答できる人がどれだけいるでしょうか?
「遂行機能障害って何?」と尋ねられて
端的に明確に即答できる人がどれだけいるでしょうか?
「目標って何?」と尋ねられて
端的に明確に即答できる人がどれだけいるでしょうか?

往々にして、専門用語を使ってはいるけれど
専門用語の概念の本質を理解していなかったりします。
だから、日頃の臨床場面で
五角形模写テストや立方体透視図模写テストをしたり
トレイルメイキングテストをしているのに
端的に明確に即答できなかったりするのです。
目標を目標というカタチで設定できずに方針や治療内容を目標として設定してしまうのです。
HDS-RやMMSEをとっても
日頃の臨床場面で記憶の連続性がどの程度あるのかを根拠にした声かけができなかったりするのです。

端的に明確に答えられないということは
わかっていないということなので
わかっていないから目の前で起こっている事象からそれらの障害を観察することができないのです。
(時々、わかってはいるけど言葉にできないだけ。と言う人もいますが、それはあり得ません。
 わかった気になっているだけなので言葉にできないのです。)

目の前で怒っている方が何に怒っているのかを
観察できないのは、こちらの能力不足のせいで
認知症のある方が怒るには怒る必然性があって怒っています。
その必然性は、その時その場のその関係性の中にいるあなたにしかわからない。
私たちは専門家としてそれだけの責務があるのです。

「あの人はすぐに怒る」
確かにそうかもしれません。
でもそれって専門家でなくてもその程度のことはわかりますよね?
怒りという形で表現しているもの、怒りに反映されている能力と困難と特性を把握できるから専門家なのではないでしょうか?

認知症だから
能力が低下しているからすぐに怒る。とは限りません。
むしろ能力があるからこそ、すぐに怒る方だっています。
見当識と記憶が曖昧になると
現実の体験・感情と、過去の体験・感情が混同されてしまうことも起こり得ます。
そこを解きほぐさないと。
どうしたら良いのかは、その次の話です。

たいていの場合に
専門家としてすべきことをすっ飛ばして
「どうしたら良いのか」悩んでいるわけです。。。
だから、適切な解を見出せるわけがない。

私は生活障害の場面から
反映されている能力と障害と特性を観察しています。

障害を観察するには認知症固有の知識も必要ですが
臨床家としての基本的な臨床態度は
どの障害・疾患・分野でも共通しているものだと考えています。

認知症に関する質問を受けて
私が危機意識を抱いているのは
これって本当に認知症限定のことなんでしょうか?ということです。
認知症はOTが対象としてから、まだまだ蓄積が少ない分野です。
だから表面化しているに過ぎないのではないでしょうか?

 

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すぐ怒る方への対応

「すぐに怒る方がいてどうしたら良いのかわからない」
という質問をたくさんいただきます。

いくら専門家といっても
怒られたら嫌だし怖いですよね。
人として当たり前の感情は否定せずに受け止める。

でも、同時に、貴重な情報収集の機会として活用すべきです。

「怒る人がいる→怒らないようにするにはどうしよう」
というような表面的な対応を考えるのは、もう卒業しましょう。

怒る人は、いったい何に怒っているのかを情報収集することから始めます。

ここでいう情報収集とは
「〇〇に怒っていたのかも」
「△△に怒っていたのかも」
と勝手に考えるのではなくて
認知症のある方が怒った場面を振り返ります。

認知症のある方と自分がいる場面、周囲の環境は
どんな状態だったのか
認知症のある方が感受したであろう視覚情報や聴覚情報は何だったのか
自分は何をどんな口調でどんな風に伝えたのか
その時の距離や身体の動きはどのようだったのか

次に
認知症のある方の
記憶の連続性や見当識、言語理解力や言語表現力を把握できていれば
上記の環境情報をどのように感受し認識したのか推測できます。

そうすれば
回避すべき言葉や口調、表情や態度、場面設定が
自然と一本道のように浮かび上がってきます。

多くの場合に
認知症のある方の記憶の連続性や
言語理解力や言語表現力を把握できていないことが多々あります。

その方の特性も把握できていないので
踏んではいけない地雷を無自覚に踏んでいることもあります。

認知症のある方が怒りっぽいのではなくて
実はこちらの声かけを理解できないから起こっていることも多々あります。
身体的な疾患、つまり具合が悪くて自身の状態を的確に伝えられなくて
怒ってしまうことも多々あります。

怒らせないようにする方法がわからないのではなくて
認知症のある方が何に怒っているのかわからない
どうしたらよいのかわからないのではなくて
何が起こっているのかわからない
つまり、対応の問題ではなくて評価の問題であり
問題設定の問題なのです。

認知症のある方の困りごとを解決しようとするのではなくて
自分が認知症のある方に困らされていると無自覚に判断している
自分の困難を認知症のある方の問題として投影しているのです。

こういった専門家と呼ばれる人たちの現実は
潜在していて表面化していませんが
実は、いろいろな場面でカタチを変えてたくさん起こっています。

まずは
問題設定を変えてみましょう。
そうすれば、情報収集しようと自然と思えます。

 

 

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