Tag: 意識化

あるある注意(≠意思=行動)



現場でよくあるあるなのが
「ちゃんと〇〇するように気をつけましょう」
という注意喚起

ところが
こういった注意喚起で行動を修正できる人ばかりとは限らない

〇〇するように気をつける
とは、どういう行動に変更するのか
具体的に言語化して伝えることが必要だったりします。

気持ちの問題じゃなくて行動を変えることにポイントがあります。

私は当院に実習にくる学生さんに
施錠確認について
「ちゃんとカギをかけるように気をつけて」とは言いません。

「カギをかけたら
目で見て確かめて
次に手でドアを両方向に動かして確認するのよ」
と言っています。

「ちゃんと」という副詞を明確に言語化して伝えるようにしています。

どうでしょう?
あふれていませんか?
ケアやリハの現場で「ゆっくり」「丁寧に」「ちゃんと」「きちんと」という言葉

 

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暗黙の前提は自覚しにくい

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人の意見には必ず前提があります。

その前提が異なっていると結果として意見だって異なってきます。

その時に結果としての意見だけをすりあわせようとしても
それはなかなか難しい。
そういう時には意見の前提を確認しあうと良いと思います。

極端な例を出しますと
何か品物を作って出荷する作業において
Aさんはたくさん品物を出荷してたくさんの人に届けたいと考えている
Bさんはより良い品物を出荷して見る目のある人が納得できるようなものを届けたいと考えている
検討会の議題で
Aさんは「こうしてみたらどうだろう」とC案を出します。
Bさんは「こうしたらよいと思う」とD案を出します。

その時によくあるのが
AさんはD案では時間がかかりすぎる
BさんはC案では時間が足りない
とあたかも時間の過不足が焦点化されてしまいます。

でも肝心なのは何を優先と考えているのか
というところなんです。

Aさんの考えるC案は、どうしたらもっとたくさん出荷できるだろうか。
Bさんの考えるD案は、どうしたらもっと良いものを出荷できるだろうか。
C案、D案の依って立つ優先事項、前提がまったく異なっているのですから
本来は、どのくらいの量をどのくらいの品質で出荷するのか
ということについて確認をすることから始めないといつまでたっても
建設的な議論が始まらないのです。

これは極論ですからわかりやすい例を出しましたが
これに類似したことは、ヤマほど起きています。

自分の考えが実は何に依って立っている考えなのか
言っている本人が自覚していない。。。なんてことはザラにあります。

前提は暗黙に置かれている

今、認知症のある方への対応で言われていることの多くは
暗黙には認知症のある方の能力を否定しています。
「できない、わからない、難しい」
「だから、〇〇してあげる」
そのような暗黙の前提に立っていながら表面的にはいろいろなことを言っています。
「ひとりひとり違う」
「寄り添ったケア」
と言いながらも万人に通用するような万能の対応策が求められたり
ICFで障害構造を把握する時代なのに
「原因があるはずだから原因を探索・改善」等と言ったり。。。
総論賛成各論反対のような現象が透けて見えます。

だから
本当にモノゴトを考えるようなタイプの人には
言行不一致を明確には言語化して指摘できなくても
何かモヤモヤしたものを感じて
現行言われているようなコトに対して内心不満や納得できなさがあるのではありませんか。

生活障害やBPSDという困りごとにも、ちゃんと能力が投影されているのです。
ただ、能力の現れ方が不合理なだけなので能力とは見えずらいだけなのです。
認知症のある方は、快・不快しかわからないわけでは決してありません。
重度の認知症のある方だとしても。

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人ではなくて内容に耳を傾ける

ちょっと待った

ずいぶん前から違和感を感じていたのですが
このギョーカイだと
名前がよく知られている人の言っていることだと
無批判に「信奉」してしまう人が少なくないようです。

「誰が」言っているかということが
「何を」言っているかということよりも
優先されて判断根拠(?)になってしまっている。。。
ううん、判断ではなくて妄信になってしまっている。。。

気持ちよく、心地よく、
聞きたいことを言ってくれる「人」だからといって
「適切なコト」を言っているとは限らない。

“ 地獄への道は善意で敷き詰められている ”

そういう言葉もあるよね。

 

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対象は人

我慢のしどころ

ときどき
ものすごく基本的なところで
ものすごい誤解をしている人もいるんだ
と感じることがあります。

「作業療法」の対象は
障害のある(おそれの高い)「人」であって
「作業療法」は手段でしかない。

たとえば
「パイロットは素晴らしい」
と語りたがる人がいたとして
乗客たる私たちはどう感じるだろう?
「あなたがどう語ってもいいけど
とにかく安全にできれば快適にフライトしてください」
じゃないかな?

パイロットの仕事の対象は「乗客」であって
飛行機の操縦は手段だよね?
「乗客」の利便に寄与すること
少なくともマイナスにならないように
そのために操縦の腕を磨き
さまざまな部門とお互いを信頼し合って
チームとして仕事をしているのだと思う。

結果として
乗客が感動することがあったとしても
パイロットは感動を目的として仕事をしているわけじゃない。

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形容詞にせずに動詞で考える



認知症のある方に対して
形容詞にせずに、動詞で考えると良いと思う。

たとえば
大声で喚き立てるAさん
ではなくて
Aさんが大声で喚く

前者だと
「大声で喚き立てる」が焦点化されてしまい
Aさんは常に大声で喚く人
…というイメージになってしまいかねません。
Aさんは大声を出さない時だってあるのに
その時への意識化がなされにくくなってしまいます。

後者だと
Aさんという個人が焦点化され
Aさんは大声を出す時もあるけれどそうでない時もある
ということが意識化されやすくなります。

この違いを明確にわかる…ということは
すごく大きなことなんだと感じています。

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視覚情報 階段の怖さ



階段の怖さについては
当事者のクリスティーン・ブライデン氏も語っています。

下り階段を眼では見ていても
階段と認知しづらかったり
その逆に
上り階段を眼では見ていても
階段と認知しづらかったり

私たちが自覚できるのは
眼で見ている情報ではなくて
既に「階段」と認知した情報でしかない。

そんな時に写真に撮ってみるのもひとつのテ。

情報を取捨選択しないで
ありのままに録音し
ありのままに撮影する
機械を通してみてみると
私たちの「判断」というフィルターを
通さない環境を知ることに
ちょっと近づくことができるかもしれません。

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リスク回避としての意味

12/1(木)の記事の続きです。

なじみの関係というのは

言葉はきれいですけど

要するに相手の情に訴えるわけで(^^; 

それもいいですけど

でも、あんまり相手頼みじゃありません?

そういうことがモノを言う場面だってありますが

下手すると

無自覚であったとしても

「リハビリをやらせる」ために相手の情に訴えていた、利用した

…ということにもなりかねないわけで。

こちらが設定した枠組みしか使えないとなると

どうしたって避けては通れない課題となってしまいます。

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ふだんの会話の中での視点

HDS−Rをとってみて初めてわかることもある

HDS−Rをとらなくても、

ふだんの会話を意識することでわかることもある

記憶の連続性や時、場、人物の見当識など

会話のテーマによって

記憶の連続性が変わることもある

大切なことは

それらの情報をふだんの対応に活かすということ

そのための情報収集

現実には

順序が後先になってることが多いような気がするけど(^^;

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