Tag: リハビリテーション

結果なのか原因なのか関連なのか
本当はわからないことなのに
あたかも認知症のある方の「せい」ー「原因」
にされてしまっていることって
とても多いように感じています。
私は基本的に「原因」という言葉を使わないようにしています。
いわく
BPSDは、それを引き起こす不安や不快などの
何らかの原因があるから、それを探索して改善する。。。etc.
原因探索改善というのは
因果関係論としてのICIDHの考え方で
ICFには、なじみません。
ICFになじむ言葉ーつまり概念として
私は「必然」という言葉を使っています。
そうなる必然があって現状がある
自分で使っていて自分で言うのも、何ですが
私はこの言葉ー考え方がすごく好き
自分の実践にぴったり合うんです。
今を否定しない
治療的態度、治療的関係性を駆使して
結果として行動変容を援助する
結果なのか原因なのか関連なのか
わからないけど
わからないことはテキトーに判断はせずに
わかるときまでは、わからないままに
思考を停止せずに関与していく
そうすると
日々の臨床の中で
いろいろな発見があって
それは、まさしく
「大事なのは…まだ誰も見ていないものを見ることではなく、
誰もが見ていることについて、
誰も考えたことのないことを考えることだ」
(エルヴィン・シュレディンガー)
というような見方ができるようになって
結果として、認知症のある方のあれこれが改善されていく
それは本当に私自身が励まされる過程でもあるのです。
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巷にあふれる
「こんな時にはこうしたらいい」という手合いの本。
ある意味、購読者のニーズにはマッチしているんだろうなー。
とは思う。
でも、そういうことをやるから悪循環になっちゃう
悪循環に結果として関与してしまっている
ということをどんな風に考えているんだろう?
パターンに当てはめるだけなら
専門家はいらない。
パターンに当てはめるって
対人援助の対極にある態度なんだけど。
今から20年以上前から
専門家と素人の垣根が低くなってきた
って言ってきたけど
ネットの定着もあってどんどん拍車がかかってきてると思う。
良くも悪くも。
その一方で
本物のプロは
必ずどこかにれっきとして存在してる。
本物のプロは凄いです。
専門家と素人の垣根が低くなった分
本物のプロとその他との垣根が
相当高くなりつつあるんじゃなかろうか。
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ときどき、ホントに哀しくなるようなことを聞きます。
食べられる機能、状態ではないのに
そこを的確に、障害と能力の把握ができない人たちが
とにかく「食べなさい」と叱咤激励したり。。。
無理矢理食べさせたり。。。
知識と技術がないから
できることがそれしかないのだろうとは思いますが
逆効果にしかならないことは
やめてほしいとすら、思ってしまいます。
ご本人は、ちゃんと食べにくさを感じているのだから
食べにくいのはわかる
でも、大丈夫
こうしたら食べやすくなる
という方法を具体的・現実的に探して提案できることが
私たち対人援助職の仕事だと考えています。
そういう私たちがすべき努力をしないで
「食べなさい」
「食べなきゃダメよ」と言うだけだったり
無理矢理食べさせたりするのは
あまりに安易だと思うし
そんなことをしても
単に食べられなくなるのを先延ばししてるだけだし
そんな介助を受け続けていると
誤介助による誤学習によって
どんどん食べられなくなってしまいます。
プラスがないだけなら、まだしも
マイナスになってしまうんです。
そのマイナスのつけをいったい誰が払うのか
次の施設や病院のスタッフとご本人が払うなんて
なんて不合理なんだろうと腹立たしく思うことすらあります。
でも、私がすべき仕事は腹を立てることではなくて
大変でしたね
でも大丈夫
もう一度がんばって
こうしたら食べやすくなりますから
という方法論をみつけて
具体的・現実的に実践して
食べやすくなるように援助すること
認知症のある方が
「あなたの介助では私は食べにくくてイヤ」
と言葉にしないからといって
そう感じていないわけではないのです。
そんな食べにくい介助でも
必死になって食べようと合わせてくれてるんです。
そんな報われない経過のあとですら
もう一度食べやすくなろうと挑戦しているんです。
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結果として起こることの目的化
…って、案外多いんだなぁ
と感じています。
でも、これだって、最初から明確に意識化できていたわけじゃない。
ただ、方向性としては、最初から希求してたんだな
…って、後から思うだけで。
「ありがとう。と言われて嬉しくて」
という気持ちはわからなくはないけれど
それを求めるのは、どうかな?と思っちゃう。
その人が良くなっていく過程を恊働できるのは
とても嬉しい。
人間の能力の凄さの実感というのは
対人援助職として、すごく励まされます。
あ、良くなっていく。というのは、
目標達成に向かって変化している
という意味ですが
ただ、目標達成した時の笑顔が見たくて
とか、そういうのとはちょっと違うんだよなぁ。。。
笑顔で良かった…とは思いますが
笑顔を求めているのか…というと、それはちょっと違う。
もしも、そういう方向に舵を切ったとしたら
それは、すごく怖いことだと考えています。
こういうと
中には反感を感じる人がいるだろうなーというのも
よくわかります。
でも、逆に、そうなんだよ!って
心の中で「ひっそり」と同意してくださる人だって
きっといるだろうとも思っています。
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自分の中でブレてないんだ…と
後から思うことって、いくつかある。
最初は意識していたわけじゃないから
よくわかってはいなかったんだと思う。
でも、方向性としては今と変わらないんだ
…って、今はわかる (^^;
たとえば、具体的に考える。とか。
抽象化されたマジックワードは使わない。とか
QOLの向上って
今は殆ど聞かない言葉だけど
かつて、私が若い時には、よく使われていた言葉だった。
でも、私はそういう言葉を使わなかった。
正確に言うと、使えなかった。かな?
だって、よくわかんないんだもん。
私は本当に恵まれていた
ラッキーだったと思ってるけど
援助と使役について、よくよく考えさせられる機会が多かった。
だから、あんまり「良いことをしよう」とは思わない。
思えない。という方が正確かな。。。(^^;
悪いことをしないで済むように
できうるなら、具体的に現実的に困りごとが減るように。
そういうことを具体的に考えるようにすると
具体的に能力を見られるようになる。
たぶん、良いことをしようと思ってたら
具体的に能力を見られるようには
ならなかったんじゃないかと思ってる。
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6月11日(土)に再放送で見ました。
ETV特集「らいは不治にあらず〜ハンセン病 隔離に抗った医師の記録」
http://www4.nhk.or.jp/etv21c/x/2016-04-23/31/18163/2259533/
ハンセン病対策の歴史について
きちんと自分で認識したのは
「らい予防法」が廃止された時に
朝日新聞に掲載された大谷藤朗先生の記事を読んだ時だと思います。
その記事には衝撃的なことが書かれていました。
当時まだ100年も経っていない(大昔のことではない時期に)
学会という場で論理的な話をヤジや怒号で制止・中断・退場されるような
非民主的なやり方が行われていたこと
そして亡き師がどんな思いで今を見つめておられるだろうかという言葉で
しめくくられていたこと
それから本を読み、もう少し詳しく知ることができました。
「やがて私の時代が来るー小笠原登伝」皓星社
大谷藤朗先生は、実はリハスタッフにとって大恩人に当たる方です。
私はその一端を教えていただけたに過ぎませんが
リハの黎明期に養成校や宿舎を見学され
その状態を改善するようにしてくださったり
養成校の教員が留学して学べる環境を整備して
日本のリハ教育が進歩していくようにバックアップしてくださったとのこと
今回の放送でも
大谷先生が登場され、過去の自分を振り返りつつ
らい予防法廃止に向けて活動を続けてこられたとのことが
取り上げられていました。
らい予防法と対応の変遷について
全然自分とは関係ない、過去のことと切り捨てるのではなくて
かつてこの日本で起こったことは
カタチを変えて今自分の周囲でも起こりえることだということ
自分がもしかしたら「良かれと思って」
「らい予防法」推進派が為したことと同じことを違うカタチで
してしまうかもしれないこととして受けとめて
じゃあどうしたら少なくとも
そうならないように
万一そうなったとしても
そうなっているという認識をもてるようになるのか
考えることは大切だと思っています。
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仕事の報酬は仕事
だと思っているので
お仕事が増えるのは、しんどく思うことはあっても苦にはならない。
新しいお仕事で
今まで接点がなかったような方と出会えるのも楽しい。
そこで出会った方から教えていただけることもたくさんあるし
自分としては当たり前にしていたことでも
当たり前じゃないって伝えられて嬉しくなることもある。
モチロン
労働としての対価をきちんと受け取ることができているから
こういう感想を抱けるのだと思いますが
(もうちょっと頂ければもっと嬉しいですが)
どこで誰と誰がどうつながっているか、わからないし
1回のお仕事がきっかけとなって
どんな風に展開していくかなんて、わからない。
誠実にお仕事を通しての主張が
たとえ、現在は主流じゃなくて異端と思われるようなことでも
中身が本質を突くものであれば
絶対に耳を傾けてくれる人は存在する。
ごく少数だけど
必ず存在する。
そういうことって
洋の東西を問わず
古今を問わず
起こっていることなんだということも
よくわかってきた (^^;
仕事の報酬は仕事
だから、本当にありがたい。
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私は今、認知症疾患治療病棟に勤務していますが
大切な役割の1つとして
身体的な障害を評価できる
ということを挙げておきたいと思います。
認知症=アルツハイマー型認知症
というわけではありません。
認知症という状態像を引き起こすさまざまな疾患があります。
臨床的に多いのは、アルツハイマー型認知症ですが
ときどき、ちょっと変わった変性疾患の方も入院されます。
レビー小体型認知症や前頭側頭型認知症のある方は
かなりの頻度で入院されます。
その他にも
大脳基質基底核変性症やALSを合併した認知症
特定不能な認知症のある方も入院されます。
そのような場合には
身体的な障害を起こしている場合がとても多いものです。
また、どんな疾患であれ、症状が進行すると
皮質の萎縮による脱抑制によって原始反射が起こる場合もあります。
このあたり
知識がないと身体的な障害というのは
実はかなり見落とされがちなんです。
そして、「認知症」という先入観によって
知識がないがために
「乱暴」「意欲低下」「心気的」「性的逸脱行為」などと
誤った判断を下されがちです。
民間の単科の精神科病院では
「身体的な障害」を評価できるのは
作業療法士だけ。だったりすると
身体的な障害を身体的な障害だと伝えることができるのも
作業療法士だけ。ということになります。
認知症治療病棟に勤務する作業療法士の
大きな役割の1つだと考えています。
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