Tag: コミュニケーション

共感のカン違い

共感する…ってことは
相手に引きづられることじゃない。

共感が目的じゃなくて
対象者にとってプラスになることをできるために
その一つの手段として共感がある

ただ単に相手に巻き込まれてるだけなのを
共感性が高いと認識してちゃマズイよ(^^;

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口角を上げて笑い顔を作る

ぶっちゃけ、働いていればいろいろあるでしょう?
時には、腹立たしいことも起こるでしょう?

そんな時に私が実行している方法です(^^;

まずは、口角を上げる。
声を出したい気分の時には口唇を閉じたまま。
気持ちが落ち着いてきたら
口唇を開いて笑い顔を作ります。

笑い顔に「なる」んじゃなくて「作る」んです。

人間、不思議なもので
笑い顔のまま怒ることって、できないんですよねー。
感情のコントロール云々とか深呼吸とかよりも
私にはこっちのほうが効くかな(^^;

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普通に考える

誰にだって
信頼する人はいると思うけど
顔見知りだからその人を信頼してるわけじゃないし
知ってる人だから、その人の言動を信用するわけじゃない。

人それぞれに
信頼のモノサシがあって判断してるんだと思う。
違うかな?

認知症があろうとなかろうと
その人のモノサシに叶うかどうかが問われているのであって
使われるモノサシは、その人の価値観そのものだから
相手の価値観を斟酌して体現することができて
あるいはその過程そのものの積み重ねが大事だと思う。

SDATアルツハイマー型認知症のある方は
その場の応答はかなり保たれる場合が多いし
DLBレビー小体型認知症やFTD前頭側頭型認知症のある方は
状態像の把握とそれに基づいた対応が問われる

その目的は、なじみの関係作りなんかじゃなくて
その人に対して適切に対応することができるようになるために
状態像を把握できるようになることなんだと思う。
その過程は、より深くより的確に…という意味では終わりはないよね。

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なじみの関係は結果としてできる

弁解するわけじゃないですけど
私はアマノジャクではありません(^^;

ただ、目の前に起こっていることがらを
できるだけありのままに見られるようでありたい
せめて自分色の色メガネの自覚を忘れないように
意思しているだけなんですが
結果として、 なんですけど
アマノジャクっぽいことを言うようになってしまって
いやはや。。。(^^;

たとえば
「なじみの関係を作る」
ってよく聞くでしょう?
でも
私は、「なじみの関係は結果としてできる」 のであって
目的化することはcontrolのおそれがあるんじゃないか
と思っているのです。

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修正しない!援助する!

私の考え方の基本です。

食事介助でも
移動介助でも
声かけでも

「修正しない・改善しないで援助する」

つまり、「直すな助けろ」

修正する・改善する…ということは
あるべき像から現状をマイナスで見る
今じゃいけない…という視点に立っていることです。

援助する…ということは
現状を否定しないという視点に立っています。
今でいい。
でも今よりラクにできたらもっといい。
今よりもっとできたらさらにいい。

極論に聞こえるかもですが
身体のはたらきには、その人の歴史が集約されていると考えています。
(後日、説明しますね)
そう考えたら、修正なんてできないです。

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言語化する視点

再現性を高めるためのトレーニングとして
日頃から言語化に努めています。
自分ひとりでもできる方法です(^^)

感覚的にできた方法を
一度言語化してみて
言語化のとおりに身体を動かしてみると
言い足りていない(明確化できていない)箇所がわかる。
さらに言語化してみて
身体がその通りに動くかどうか確認する。

それでもナントナクやってるところがあるのよね。。。

そういう意味でも
他の人に伝えるのってとても重要。
他者が再現できていないところが
私が言語化していなかったところだとはっきりわかる。
自分が見落としていた言語化する視点を教えてもらえる。
ということにもなります。

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オミアシヲアゲテクダサイ

オミアシヲアゲテクダサイ農家の90歳のAさん。
車いすに座っているけど移動するのでフットプレートに足をのせてほしい。
そこで職員が言った言葉が「オミアシヲアゲテクダサイ」
Aさんは足をあげることができませんでした。

接遇は、とても大事だと思います。
「オミアシヲアゲテクダサイ」と声をかけた人は「敬語で接しよう」「丁寧に対応しよう」と心がけていたのだと思います。
でも、相手に伝わってはじめて「言葉」なのではないでしょうか。
言語理解力が低下している方に、伝わる言葉を意図的に選択して使用する。
「足、上げて」
認知症のある方の対応について、子ども扱いされた…などの批判があり、現状改善のためにも接遇が重要視されていることは知っています。
けれど、丁寧な言葉遣いは、えてして長文になりやすく動詞が修飾されて使われているために、言語理解力が低下している認知症のある方には伝わりにくいという現実もあります。
だから、職員は無自覚のうちにも伝わりやすい言葉を使っていたという過去があるのではないでしょうか。
ただ無自覚だったので、子ども扱いされたという批判に対して的確に説明することができなかったのではないでしょうか。
だったら、私たちがすべきことは、マニュアル的に表面的に敬語を使うことではなくて、相手が理解しやすいシンプルな言葉を意図的に選択する。と同時に言葉をシンプルにした分、表情や口調、しぐさというノンバーバルの部分で丁寧さを補うことを意識して工夫するということではないでしょうか。

接遇や声かけの大切さについては、誰も異論がないと思います。
でも「大切大切」と言っているだけでは目の前の方に接遇や声かけの大切さという理念を具体化することはできないと考えています。
接遇や声かけの大切さがスローガンになってしまってはいないでしょうか?
自分がしたいことを実践するのではなくて、相手が困惑しないで受けとめられるように伝え方の工夫をする。
その時その場のその関係性において意図的に選択する。
自分がしている対応と言語化(概念化)を合致させていく努力を積み重ねていく。
その過程こそが接遇であって、敬語で話す、○○すべしというマニュアル化された言葉を使うことが接遇ではないと考えています。

善かれと思って導入された接遇の概念が現場の対応を混乱させてしまうことがないように…接遇の概念に振り回されるのではなくて接遇の概念を対応に活用できるようにという本来の趣旨が現場に活かされることを、地道にではあっても一歩一歩積み重ねられていくことを願っています。

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食べ方の問題

食事中に大声があって困る
どうしたらよいでしょうか?

という場合には
実は、食事中に何か不快などの原因があって
大声を出しているわけではなくて
食べ方の問題
ひいては、食べさせ方の問題
ということのほうが圧倒的に多いんです。

大声をどうしたら少なくできるのか
大声の原因は何か
…ではなくて
まず、食べ方をありのままに観ることが大切なんだと感じています。

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