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Activityを拒否された時にどうするか:はじめに

先の記事で
「拒否は情報収集のチャンス」という記事を書きました。

認知症のある方が
拒否するには拒否するに値する必然があります。
(原因ではなくて必然です)

その中でも最も多いのが
「できない」
「わからない」
という予期不安から
Activity遂行を尻込みしてしまうというケースです。

私たち作業療法士が
認知症のある方に出会った時点で既に認知症のある方は
たくさんの失敗体験・喪失体験を蓄積してきています。

生活する、暮らすだけでも
失敗する。混乱する。不安になる。
どうするんだっけ?と朝起きてから夜寝るまでの間
考えながら暮らしていらっしゃいます。
 
私たちが考えなくても自動的に当たり前にできること
例えば、朝起きたら間違えることなくトイレに行き
パジャマの下衣を下げ、下着を下ろし、排泄し、清拭し、下着を上げ、下衣を上、手を洗い。。。

ある方は排尿後に
「ちゃんと出たね」とおっしゃいました。

私はトイレで「ちゃんと出た!」とは思いません。
ちゃんと出るかどうか迷ったり不安に思ったりしません。
確信を持って排尿しています。

また、ある方は
「カラオケ?私カラオケ好きよ。だって考えなくてもいいんだもの。」
とおっしゃいました。

あぁ、そうか。。。言葉にしなくても
暮らすだけでたくさんのことを考えながら暮らしているんだ
と思いました。

その都度その都度考えなくてはならないとしたら
「やる」ことに必死で楽しむどころじゃないでしょう。
「これ以上困ることなんてやりたくない」
と感じるのは当たり前なんじゃないかなと思います。

そう考えていくと
Activityへの導入も慎重にならざるを得なくなってくる

失敗体験、混乱体験、不安な体験とならないように
声かけや場面設定にも細心の配慮をしようと思うようになってくる

私たちの仕事は
「何かをさせる」ことではなくて
「何かをする」ことが目的でもなくて
「何かをした」ことは手段であって
「何かをした」ことで認知症のある方がプラスの体験ができる
ことにあると考えています。

「拒否されてどうしたら良いのかわからない」
という気持ちはわかりますが
これは問題設定の落とし穴なんです。

拒否されてどうしたら良いのかわからない
というのは私たちの側の問題であって認知症のある方の問題ではない。

私たちは認知症のある方の困難を改善するために仕事をしているので
解決すべきは私たちの困りごとではありません。
ここがいつの間にかすり替えられてしまうのが、臨床あるあるです。
問題設定が悪いから適切な答えが出てこないというのも、現場あるあるです。
だとしたら、適切に問題設定ができるようになれば良いだけなので
そこに立ち戻るべきなんです。
でも、なかなかそうはならない。。。

このあたりの混同・すり替えは、
いろいろなところでいろいろなカタチで起こっています。
あまりにも蔓延っているので、きちんと指摘できる人も少ないし
指摘した上で解決できる方策を示せる人もまた少ないので
善意はあってもモノゴトが解決できずに真摯な人ほど悩みまくる
という構図があちらこちらで散見されているのではないでしょうか。

認知症のある方の立場にたてば
何かをするより、しない方が自分にとってはプラスの時間
という意思表示なんです。

だとすると
目の前にいる方にとって
提案したActivityが

プラスの時間になると、
私たちが確信できるものを提案する

ということが前提条件となります。

  認知症のある方の場合
  「やりたいことをやる」というのが良い方向に作用しないことも多々あります。
  これも以前に書いていることですので検索してみてください。

ところが
この前提条件をクリアするよりも
「いろいろなことをやる方が良い」
「何もしないよりした方が良い」
「何かさせないと」
という思い込みがあって
「することのマイナス」については、あんまり検討されなくて
とにかく、できることを何でもいいから、させるように焦ってしまったり。。。
それで、塗り絵やら折り紙やらを提示したり。。。
しかも、幼稚な下絵で。。。
(この問題もすでにあちこちで指摘済みです。検索してみてください。)

  ちょっと話はズレますが
  認知症のある方の精神的疲労について
  あんまり検討されなくて、できるからって難易度を上げてしまったり。。。
  特に通所系の施設では、自宅での暮らしが豊かになることが本来の目的なので
  手段と目的を取り違えないように、
  質的にも量的にも頑張らせすぎないことが大切だと考えています。
 
なんとなく提供したActivityをやってもらえたりすると
あぁ良かったで終わってしまいがちですが
(本当は良い結果が出た時こそ、何がどう良かったのか検討する意義がある)
拒否されたら考えるようになるので
本当にチャンスなんです。

ただ、多くの場合に先輩に相談しても
「昔とった杵柄」や「毎朝の挨拶作戦」「なじみの関係づくり」「褒めてあげる」など
なんとなく継承されてきたことを言われるだけで
納得できたわけじゃないけど
自分では納得できる解決案が思いつかないのでそれ以外に術がなく
心の奥ではこんなんじゃいけないのに。。。と思いつつも
多忙な日々に流されていく。。。という人もいると思います。

4月からは先輩として後輩指導にあたることになって
内心ドキドキしている人もいると思います。

「破綻の危機は成長へのチャンス」
という中井久夫の言葉は、本来統合失調症のある方に向けた言葉だと思いますが
もっと広く一般化しても通用する言葉だと思います。

困ることは成長へのチャンスなんだからいいことなんです。
困ることすら、できない人になっちゃいけないんです。

作業療法士として
まずは、その方に有益だと確信できるActivityを選択できること
(具体的には、こちらでもたくさん記事を書いてきたので検索してください)
その努力から始めましょう。

その上で、提案したActivityを拒否された時にどうしたら良いのか
私がしているのは次の二つです。
 
1)戦略的に時間稼ぎをする
  :拒否なく応じていただける別のActivityに誘導して機会を待つ
2)マンツーマンで生活歴を聴取する
  :話をしやすいように事前の情報収集と聞き方に工夫をする

次からの記事でご説明していきます。

 

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ADLは再認を強化しやすい場面

ADLは
特定の場面で特定の行動を繰り返し行う
再認を強化しやすい場面でもあります。

また
食べる・立ち上がる・歩く
といった行動は、誰でも赤ちゃんの時から
繰り返し行ってきた究極の手続き記憶でもあります。

ここに
認知症のある方とリハビリテーションの可能性があります。

ただし、
再認は

ポジティブにもネガティブにも働きます。

立ち上がりや食事介助、口腔ケアなどの場面で拒否がある場合に
対象者にとっての必然として拒否があるのですが
その必然を観察・洞察せずに
表面的に、「拒否されないように介助しよう」という視点では
対象者のネガティブな再認を強化することになってしまいます。

「拒否されないように介助しよう」という視点は
私たち介助する側の視点であって
認知症のある方の視点ではないからです。

逆に言えば
強い拒否をする方でも
拒否の必然を洞察できれば
本来のその方の能力と特性を引き出し
結果として、拒否の改善・消失に結びつけられることが多々あります。

拒否の強い方は
過去の不適切な介助を再認した結果の意思表示
ということが多々あります。

だからこそ
今、適切な介助を、体験を通して
ポジティブな再認の蓄積を図る
意味があります。

ピンチはチャンス!

 

 

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ウソみたいなホントの話:食事介助編

声を大にして言いたいのは
重度の認知症のある方の食べ方も
介助を含めた環境との相互作用の結果であるということです。

だから
介助が変われば食べ方も変わる
 
喉頭完全挙上できなかった方ができるようになったり
頚部後屈して食べていた方が
頚部前屈を伴う上唇での取り込みができるようになったり
開口してくれなかった方が開口できるようになったり
ためこんでしまい食事に時間がかかっていた方が
スムーズに送り込めるようになり
結果として食事摂取時間が短縮されるようになったり
板のようにガチガチだった舌が柔らかくなったり
食べられるようになる(舌の動きが改善される)ことで発語ができたり

食事介助を変えるだけで
疎通困難な重度の認知症のある方でも
食べ方は変わります。

どれもみんな本当のことです。
日々、感動しています。
認知症のある方の能力に。
ここまでわかってるんだということに。

「食事介助」=「何を」✖️「どうやって」 食べていただくか

「何を」という食形態の工夫については、ものすごく発展してきたと思います。
一方で、「どうやって」という私たちの介助については
まだまだ発展の余地があるように感じています。

ムセの有無しか気に留めていない介助者はまだまだたくさんいるはずです。

特別に嚥下リハをしなくても食事介助だけで変わります
というか、むしろ認知症のある方には嚥下リハはせずに
(そもそもできない)
実際の食事場面での介助方法に気をつけた方が良いのです。

もちろん、できる方にはした方がより効果的です。
でも、嚥下リハをすることで混乱したり不安になったり
できなかったりする方には、しない方が良いのです。
「できない」「わからない」というネガティブな感情を惹起させる体験は
マイナスにしかなりません。

食べ方は介助者によって良くも悪くも変わります。
ものすっごく流動的です。

食事介助というのは、対象者と介助者との協働作業です。

全員が適切な介助ができなかったとしても
たった一人でも的確に介助ができれば確実に変わります。
自分一人がちゃんとしたって。。。と感じてしまうこともあるかもですが
絶対に効果はあるから諦めないでほしい。

認知症だから誤嚥性肺炎は仕方ない
なんてとんでもない誤解です。
確実に誤嚥性肺炎を減らすことができます。

ポイントは
対象者の食べ方を摂食・嚥下5相にそって観察することです。

そして
食べ方を修正しようとする、のではなくて
無理なく食べられるように援助する、という視点から介助することです。
この修正ではなく援助するという立ち位置が最も重要です。

なぜなら
先の記事で紹介した「立ち上がり」と同様に
「食べる」ことについても身体協調性の低下が起こっているからです。
 
認知症のある方の食べ方の困難の多くは
私たち介助者の不適切な介助に原因があり
不適切な介助にも適応しようとして誤学習が起こっています。

確かに
認知症のある方に、食べることに関するウイークポイントはあります。
歯がない、オーラルジスキネジアがある。。。
でも、それらを拡大再生産してしまっているのは私たちなんです。

それなのに
必死に食べようとしていることに気づかずに
「問題点」として状況を悪化させてしまっている。。。

だからこそ
認知症のある方の食べ方は変わる可能性があります。
たくさんの方が変わっていきます。

修正すべきは、むしろ、私たち介助者の側にあります。

 

 

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ウソみたいなホントの話:スポンジ解説編

 

手指の拘縮悪化予防のために
スポンジが絶大な効果があることを
前の記事「ウソみたいなホントの話」でお伝えしました。

スポンジは
100均でも入手できるし
加工は普通のハサミだけでできるし
失敗しても作成し直すことが容易です。
耐久性に欠けるのがやや難点ではありますが
すぐに作れる、安価、でも絶大な効果があるということで
費用対効果にとても優れています。

入手するスポンジは
フニャッと潰れてしまうものは向かないので
復元性、反発性の高いスポンジを選んでください。
使い勝手が良かったのは、ダイソーで購入したこちらのスポンジです。

私は100均のキッチンコーナーで選んでいますが
バスコーナーや車の洗車コーナーで販売されているスポンジも
選択肢に入れておくと良いかと思います。

さて
それでは、なぜスポンジという素材なのか
スプリントやタオルではなく
スポンジという素材を使う意味について説明していきます。

手には、縦・横・斜めのアーチがあります。
昔、学校で習ったでしょう?

力を抜いた状態でご自身の手指を見てみてください。
母指と示指、小指と手掌面が作っている空間の大きさに違いがありますよね?

次に、ギュウっと力を入れて手指を握ってみてください。
母指と示指、小指が作る円還の大きさにも違いがありますよね?

そして、いずれの場合でも
手指が作っている空間は円筒状ではなくて円錐に近い状態になっています。
縦・横・斜めの3つのアーチがあるからです。

よく、タオルやおしぼりを丸めて握ってもらっているかと思いますが
丸めた状態だと円筒形になっています。
円筒形のものを握らせるということは
小指側を過剰伸展させることになります。
 
小指に関与する筋といえば
小指対立筋・浅指屈筋・深指屈筋・総指伸筋・小指伸筋などで
多関節筋です。

  神奈川県作業療法士会>「いつでも何回でも再学習☆応援講座」
  >再学習・筋触診ー上肢編をご活用ください

多関節筋ですから
小指のMP・PIP・DIPの関節を過剰伸展させるということは
外力としてその時に強制的に伸展させることはできても
身体自身の必然として伸展していないので
代償として筋の近位部を収縮させることになります。

筋そのものがリラックスした結果として伸展しているのではなくて
他動的に強制的に筋の遠位部を伸展させれば
代償的に筋の近位部を収縮するしかない

伸展が過剰であればあるほど
代償としての収縮が強くなります。

その結果、善かれと思っての巻きタオルなのに
逆効果となり、拘縮をもっと悪化させてしまいます。

臥床時のポジショニングと
同じコトが違うカタチで起こっているだけです。

  臥床時には、股関節・膝関節を強制的に
  クッションで伸展・外転させて
  かえって骨盤の捻れを引き起こしたり
  屈曲拘縮を悪化させてしまいがちです。

強引でも伸展させないと拘縮がひどくなるという
知識のない善意による思い込みのために
結果として逆効果を招いてしまい
対象者の状態を悪化させてしまっているのです。

  「知は力なり」という言葉がありますが
  一時は「無知は力」だ。。。と思ったこともありました (^^;
  でも、やっぱり「知は力なり」なんだと考え直しました。

このような誤った対応の根幹にあるのは
「現状は悪いから、良くしてあげなければ」という
人体構造の解剖学的生理学的知識に基づいていない善意であり
因果関係論であるICIDHに依拠した考え方です。
そして、善意からなされているが故に
自覚・修正しにくいという問題があります。

現実には
人体というのは、解剖学的にも生理学的にも連続性があり
常に、環境との相互作用を営んでいます。

相互関係論であるICFに基づいたリハの実践をするというのは
人体の解剖学的生理学的可変性を良い方向に活用するということです。

  OTの人はよく理論が必要と言いますが
  理論を治療に活かすというのは、こういうことです。
  ICFという最も本質的な理論に依拠した実践なのかどうか
  どんなことでも常に
  理論と実践とを相互にフィードバックさせる、
  自身に問いかけながら実践を積み重ねるということです。

痙性の強い方でも
筋肉は常時一定の緊張度にあるわけではなく
その方なりの幅で筋緊張が変動しています。

スポンジは反発性がありますから
筋緊張が強い時には指尖と手掌面との接触を緩和し
筋緊張が弱まった時には本来の可動域に合わせてスポンジが広がってくれます。

つまり、スポンジは手指に合わせて収縮したり拡張したりしてくれる

ところが、巻きタオルやおしぼりやスプリント素材には反発性がありません。
巻きタオルは、人の手指がタオルに合わせることを要請しますが
スポンジは、人の手指にスポンジの方が合わせてくれる

多関節筋だから
手指にスポンジを握っているだけでも
手指の筋の緊張が緩和すれば
前腕や上腕の筋緊張も緩和して
結果として手指や手関節、肘や肩の可動域が拡大します。
というよりも、
その方本来の可動域を目にすることができるようになるのです。

理想論や本来の肢位を基準として想定し
そこから差し引きマイナスで現状を判断し
基準に到達すべく、近づけるべく、修正・改善しようという
視点はICIDHに基づいた考え方であり
急性期には必要かもしれませんが、生活期にある方には適切とはいえません。

現状を否定せず
その方なりの埋もれている本来の能力を発揮できるように
(その場合の多くは、誤介助誤学習由来のものです)
援助するという視点こそがもっとも重要です。

スポンジを作る時には
その方の手指の最大可動域に合わせてはいけません。

最大可動域よりも小さめに作ります。
だから、こんなに小さく細いスポンジでも効果があります。

スポンジを装着する時には
向きを間違えないようにすることが大切です。

作成者が装着・脱着するのであれば問題ありませんが
看護介護へ装着を依頼する場合には
(夜間に装着し昼間は装着せずに動きを引き出したい場合など)
向きが的確に装着できているのかどうか
間違えないように明確に説明することと同時に確認しておくことも必要です。

写真を撮って説明入りの取り扱い説明書を作成し
使用する場所、つまりお部屋に掲示しておくことだけではなく
使う対象そのもの、つまりスポンジにも目印をしておくことが必要です。

ここに努力を惜しむと
深く考えずに、単に「つければ良い」と考えている人に
反対向きに装着されて
その結果、効果がない、やっても仕方ない、やらなくて良いと
誤認されてしまいがちです。
(こういうことは本当にしばしばよくよく起こります)

本来は
共有すべき情報を作成・提供するまでが
OTの仕事、分掌範囲だと考えますが
職場の状況によっては
拡散・共有化までを担当した方が良いこともあります。

「なんで私がそこまで?」と思うかもしれませんが
仕事はやったもの勝ち
必ず自身の地肉となって底力がついてきます。
でも、永遠に繰り返すだけでは
賽の河原の石積みのような気持ちになって
「もう、やってられない!」となりますから
実践力のある他部門の人を見つけておくことです。

本当に効果のあることをしていれば
必ず一人は見ていてくれる(観ることができる)人がいるものです。

時間はかかっても、そこから広げていく道ができてきます。
その人の職位や状況にもよりますが、将来的な希望が見えれば
頑張り続けることができます。

関連してあと何点かお伝えしておきます。

装着したスポンジが外れないように
ひもやゴム紐をつけたりします。

認知症のある方の場合には
ひもやゴム紐など目につく素材があることで注意を引き寄せることになり
それらを引っ張ってしまったり
外してしまったり、異食してしまうこともあります。

ひもやゴム紐があった方が良いのか
ない方が良いのか、その方の状態に合わせて判断します。

スポンジは消耗品ですので
反発性が弱まってきたら作成し直すことが必要です。

装着によって最大可動域が拡大することもよくあります。
拡大した可動域に応じてスポンジを大きく作り直すことも必要です。

その方の状態像をよく把握して
適切な環境を提供する一環としてのスポンジ作成
ということなのです。

 

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技術職という強み

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作業療法士は技術職ですから
「やってみせる」ことができるのが強みです。

ポジショニングしかり
食事介助しかり
認知症のある方への対応しかり

関わる人が違えば
対象者の状態も変わるという
異なる現実を現前させることができます。

そうすると、必ず
どうしたらそうできるのか?と
聞いてくる人が出てきます。

その時にもう一度
意図と注意点と望ましい方法としてはいけない方法を
原則とともに対象者の個別性について
説明しながら実演すれば明確に伝わります。

中には現実を目の当たりにしても
なんだかんだとこちらを否定するような人もまたいるものですが
それはその人自身の問題であって
(そのような人は同じ問題を所属組織でも抱えているはずなので
 その人と所属組織の管理者の管理運営の問題でもあって
 こちらが抱え込む問題ではありません。)
こちらの問題ではないのでスルーすればいいだけのことです。
(若い頃はここを切り分けることができずに必死になりすぎていて
 自分も消耗したし、相手にもストレスだったと思います)

多くの作業療法士が
説明を優先しているようですが
説明は二の次、順序は逆です。
まずは、やってみせられるようになることです。

やってみせ、異なる現実を現前させることが第一に必要です。
自分がやってみせられる技術を磨くことが第一に必要です。
自分が何をしているのかを明確に認識・言語化できることの方が大事です。
ここにゴールはありません。

過剰に説明にこだわったり、語りたがるという行為は
自身の実践の不足や未熟を補償(防衛機制)しているじゃないかと思います。
作業療法の素晴らしさを熱弁する人を私があんまり信頼できない理由も同じです。

仮に
誰からも「どうしたらそんなことができるのか」と
問われることがなかったとしても
黙々と異なる現実を現前させ続けていけば良いのです。

本当のプラスの変化は
周囲の状況がどうであれ
必ず良い方向に蓄積していきます。
HDS-Rの得点がゼロ
意思疎通困難な重度の認知症のある方でも
プラスに変化していきます。

対象者の行動変容を本当に促すことができると
変化の兆しと変化とその意味とを
明確に観察・洞察できるようになり
より深くより広く、対象者の行動の必然が認識できるようになり
他の状態像の方へのアプローチも変わってきます。

生きている限り
どのような状態であっても
どのような環境であっても
自身の現存する心身の能力を活用しようとして
能力を発揮しているのだということの再確認ができます。

不合理な環境に対してすら適応しようとして
自身の能力を落としてしまう。。。

認知症のある方は確かに能力は低下していますが
決して能力低下だけしているわけではなく
残っている能力を使って何とかしようとしているものです。
 
能力を不合理に発揮させて困難を助長させてしまうのか
能力の合理的な発揮の援助ができるか
環境因子としての援助者の関与の質が問われるのだということを
明確に再確認・再体験し続けることになります。

ポジショニングでも
食事介助でも
認知症のある方への対応でも
やってみせられるのがプロなのだから
語るのではなくて
その場で変化を実現できるように
自身の実践力を高め深める
臨床能力を磨くことに尽きる

ここに異論はないと思います。

ただし、どうやって臨床能力を磨くのか
という点については、現行では本質からズレてしまっていると感じています。

理論や研究や海外の論文を読むことも学会発表も
しないよりはした方が良いでしょうけれど
実はそれらの方法論は臨床能力とは直結していませんし
理論などなくても臨床能力を磨くことは可能です。

幾多の理論はツールであり
ツールとは対象者利益のために活用するものであって
拘泥するものではないはずです。

むしろ
医学的知識を習得し活用できるという
基本的能力の方が重要ですが、さてどうなんでしょう?

構成障害という言葉を知っていても
構成障害とは何ぞや?ということを
明確に即答できる人は少ないのではないでしょうか?

だから
五角形模写課題や立方体透視図模写テストはしても
日常生活やリハ場面で構成障害を観察・洞察できる人もまた少ない。

遂行機能障害という言葉を知っていても
遂行機能障害とは何ぞや?ということを
明確に即答できる人は少ないのではないでしょうか?

だから
トレイルメイキングテストはしても
日常生活やリハ場面で遂行機能障害を観察・洞察できる人もまた少ない。

このような現実をおかしいとは思いませんか?
だから、評価と治療が乖離してしまう。。。
 
評価に基づいた治療ではなくて
評価は評価、治療は治療
になってしまうのではないでしょうか。。。

本来は評価に基づいた治療が実践できるように
評価を的確に実施できるような養成
評価に基づいた治療が必要だったのに
困難さのあまりに、すり替えが起こってしまった。。。

評価ではなく
検査・バッテリーをすることに
 
評価を深めるのではなく
検査・バッテリーをたくさん行うことが評価ができていると
理論や文献をたくさん知っている、読んでいることが優れていると

目の前にいる対象者の方から
どんどん遊離してしまった。。。

理論や研究や論文などよりも
まず最優先でしなくてはならないことがたくさんあるのではないでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・  臨床能力を磨く一番の方法論は      ・
・  目の前にいる対象者の方への実践と    ・
・  自身の実践の適切さに関して       ・
・  常に自分自身で問い続ける臨床姿勢です。 ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私たちは技術職ですから
まず、第一に結果を出すこと。

相手は人間ですから、
「あぁしたらこうなる」というハウツーはありません。
一般的に良いと言われていることでも
本当に目の前にいる方に対して効果があるのか、適切なことかは
確認してみないとわからない。

一般的に良いと言われていることや
流布していることを
単に当てはめている人も
心のどこかで「おかしい」「これはこの方には良くない」
ということを感じているはずなんです。

事実として目の前で起こっているんですから

ただ、そこを明確に自覚してしまうと
じゃあ、どうすれば?ということをも自覚せざるを得ないから
無自覚のうちに、そんな面倒なことを回避しようとして
本質へ向かう道を閉ざして
周囲、世間、雰囲気から否定されないようにしたこともあったんじゃないかな?

私はかつて本当に辛く苦しい日々を過ごしてきました。
良いと言われていることは全て実践しましたが
事実は事実
周囲の人や良いと言われ流布している方法論でも
目の前にいる方にとっては結果が出せていない。
良くないのは、
周囲の人が喧伝していることであり、流布していることであって
目の前にいる方ではない。
でも、どうしたら良いのかわからない。。。
本当に辛く苦しかったです。
でも、今は違う。

結果を出そうとしても出せない時に
そんな時こそ、どんなにつらくとも、自分を誤魔化すことなく
自身の実践の結果をきちんと見据え、自身の実践を修正し続けることです。

たぶん、今までは辛い時に
本当に役に立つ実践の在り方について示唆してくれる先達が
身の回りにほとんどいなかったんだと思う。
だから、辛さに耐えきれず、
語る方へ逃げたり、
理論武装しようとしたり、
権威的なものにすがったり、
自分自身を誤魔化したり、
するしかなかったんじゃないかな。。。
そういったことは、一時的には自分の心を守るためには仕方ないかもだけど
本末転倒になってしまったら技術職として成り立たなくなってしまいます。

私の実践はベストではないかもしれないけれど
対象者の行動変容をかなり促せる、ベターな在り方だとは言えます。

かつて
私が若くて本当に辛い時に
今の私と出会えていたら、こんなに遠回りをせずに済んだのに
と思っています。

今、本当に辛い思いをしている誰かに伝えたい。
技術とは、たった一人でも磨くことができるものです。
目の前にいる対象者の方から学ぶことができます。
一人ひとりの対象者の方が先生です。
その道標もあります。
だから、本質からズレないで努力を重ねてほしい。

技術職の強みとは
たった一人でも研鑽し続けられることであり
その研鑽の過程からこそ、支えと励ましを得られるものなのです。

 

 

 

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協調・協応低下への対応

認知症のある方の食事場面で
協調や協応の困難によって
介助が難しくなるケースは
案外多いものです。

そのような場合に
認知症のある方の食べ方に問題を限定してしまい
介助者側の問題を自覚できないと
あっという間に本当に食べられなくなってしまいます。

 そもそも
 食事介助の怖さ・奥深さが知られていなさすぎます。
 ぜひ、「スプーン操作を見直すべき兆候」ご確認ください。

身体協調性が低下していて
食具や介助者のスプーン操作にうまく協応できない方でも
感覚はちゃんと残っています。
全てを認知症のせいにしないで欲しいなと思います。

不適切なスプーン操作をされた時に
「食べにくい」と感受することはできます。

そして、必死になってなんとか食べようとするか
あまりにも食べにくいので食べられずにいるか
どちらかの行動を起こします。
 
それらは、多くの場合に
「変な食べ方」「ため込み」「吐き出し」「食事拒否」
という不適切行動として私たち介助者に目には映ります。
そして、ここだけを切り取って不適切行動の改善を目的に
対応を考える。。。というのが現場あるあるですが
そもそも、不適切なスプーン操作をしなければ
認知症のある方の不適切行動も起こらないのです。

起こってしまった不適切行動を
合理的な能力発揮に向けて
行動変容を促すのは大変なことですが、可能です。
ヤマほど経験しています。
 
HDS-Rが0点、意思疎通困難な重度の認知症のある方でも
行動変容は可能です。
そして、意思疎通も改善されていきます。

ある方は、
頚部前屈しながら上唇を丸めて取り込めるようになり
「なんだ、下を向けばいいんだな」とご自身から言って
嚥下する時に自身で頚部前屈の動きをした方もいます。

衝撃の言葉でした。
「なんだ、下を向けばいいんだな」
この言葉には
どうしたら良いかわからなかったことがわかった
というニュアンスが含まれているからです。

その方は
どうやって食べたら良いのかわからず
食べにくさを食事介助をされるたびにその都度違和感を感じ
この方なりに試行錯誤をしていたのだと思います。

食事介助は
いかに口の中に入れるか
ではありません。

その方がどうやって食べようとしているのかを観察・洞察し
より合理的に食べられるように的確に援助できるのが
食事介助の本質です。

食事介助を的確に行えるということは
同時に
食事という場面で起こっている
環境感受・認識・適応という一連の行為をも
援助することですから
意思疎通困難な方が食べられるようになると同時に
疎通も改善されるのです。

今までの私たちの問題設定が間違っていたのです。

認知症のある方の食べることに関する困難の多くは
ちょっとしたウィークポイントを
拡大再生産してしまった私たちの介助に起因しています。

逆に言えば
食べることの困難を劇的に減らすことは可能なのです。

認知症のある方の食事介助は難しい。
ためこみや吐き出しする人にどう介助したら良いのか?

このような間違った問いには、正しい答えは返ってきません。
今、私たちがすべきことは問いを正すことです。

私たち介助者と認知症のある方との協働作業である
「食べること」を
援助の原点に立ち返って
まず、私たち自身の介助を問い直すことです。

ぜひ、「スプーン操作を見直すべき兆候」をご覧ください。

スプーン操作を見直し
適切な操作を確実に実現することができるようになった時に
認知症のある方の食べ方が変わることを実感できるようになるでしょう。

「食べさせること」と「食べる援助」との違い
認識できるようになるでしょう。

「どうやって食べさせるか」
「飲ませるか」
という観点で為された対応によって
一時的には効果があるように見えることもあるでしょう。
 
けれど、短期的なその場の効果はあっても
それらは本当の能力発揮を援助するものではないので
必ず破綻して長期的には一層の困難というカタチで
ご本人にも介助者にもはね返ってくるものです。
 
それらは実際に現場で起こっているはずなんです。
見れども観えずになっているかもしれないけれど
気がついている人もいるはずなんです。

 

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観察力を磨くトレーニング

観察・洞察の重要性については
このサイトはもちろん、色々なところで繰り返し述べています。

でも「よし、わかった!観察力を磨こう!」と思っても
思うだけでは観察力を磨くことはできません。

小さな子どもが注意された時に
「これから気をつけます」
と答えるのと一緒です(苦笑)
気をつけようという気持ちはあっても
どこをどう修正するのか具体的に明確になっていないと
行動を修正することは難しい
ものです。

じゃあ、どうしたら良いのか

答えは日々の臨床にあります。
カルテにその日の記録をする時に
形容詞・副詞を使わずに記録するように心がけます。

転倒などのインシデント・アクシデントレポートを書くときに
転倒を発見した時の肢位を記載しようと思って
「あれ?どっちの手だっけ?」
「あれ?四肢はどんな風だっけ?」と
書けそうで書けない体験をしたことがあると思います。
「書けない」んじゃなくて「見れども観えず」だから
結果として書けない。
書くに値するほど観察できていないんです。

書くことで
観察できていないことを自覚し
具体的に観察し損ねていた部分を明確化できるので
結果として観察力を磨くことになります。

そして、この時にポイントがあります。

それは、形容詞・副詞は使わず
名詞と動詞中心に記録することです。

形容詞・副詞を使うと
なんとなくわかってるような、できてるような気分にはなっても
曖昧だから伝わらないし
現実問題として、自分自身が明確化できていない時に
形容詞・副詞を使いたくなるものなんです。
「きちんと記録できるようにしっかり観察します」とか。

現場あるあるなのが
「ムセないようにゆっくり食事介助する」
という文言です。

「気をつけて食事介助をします」という気持ちはわかりますが(苦笑)
ゆっくりとは何に照らしてゆっくりなのか
どのくらいのゆっくりさが適正なのか
どこをゆっくりするのが良いのか
全然わかりません(苦笑)

実際、そういう人は気持ちはあるのでしょうが
実践として、行動としては、適切な食事介助はできていないものです。

何を判断根拠とするのか明示されないと
どこをどう観察して判断するのかわからないから
自己判断・自己修正ができないからです。

「ムセないようにゆっくり食事介助する」
ではなくて
「2回目の喉頭挙上を確認してから次の食塊を介助する」
これなら、誰にでも観察すべきポイント、
どういう状態になったら次の介助をするのかということが明確に伝わります。

これって、カタチを変えていろいろなところで散見される状況ではないですか?
その他にも「優しく接する」「丁寧に接する」
ヤマほどありますよね?

明確化するのに
一番適しているのは言語化することです。
 
言語化する時に、形容詞・副詞を使わないように気をつけることで
抽象論・総論から脱却し、具体的・個別的に明確化するように
思考と観察力を磨くことができるようになります。

高いお金を払ってセミナーなんかに行かずとも
たった一人でも、今すぐに、始めることができます。

やってみると
今までいかに自分が
「わかったつもり」「やっているつもり」になっていたのか
わかるようになると思います。

私が実習生の時のデイリーノートには
対象者ごとに詳しく記録をするように求められていました。
主観と客観を区別して書くように指導されていました。

最近の実習では
デイリーノートの簡素化が進み
技術の体験に比重が置かれるようになりました。

実習の過剰な負担を減らすことは必要かもしれませんが
「書く」ことによって、「思考や観察の曖昧さを自覚させる」
というトレーニングにはなっていたと思います。
そのトレーニングの機会がなくなってしまいました。

臨床家として、最も基本的・本質的であり、かつ重要な資質なのに。

負担を減らすというメリットを得た代わりに
臨床家としての基本的・本質的・重要なトレーニングを代替させる場について
どれだけ議論と対応が為されてきたのか疑問に感じています。

「ちゃんと書く」「ちゃんと観察する」のは
誰でもできることではありません。
きちんとトレーニングが必要です。

「ちゃんと書く」「ちゃんと観察する」のは
願えば誰でもできるようになることではありません。
気をつけようと思えば、気をつけられるものではありません。
実践としてのトレーニングが必要です。

もしも指導者がそのことを身に染みてわかっていないのであれば
残念ながら、その人は抽象的総論的曖昧な実践しかしてこなかった
ということを意味しています。

だから
自身の未熟を対象者のせいにして
「認知症だから仕方ない」
「認知症だから希望は聞かない」
「認知症だから。。。云々」
と言えてしまうんじゃないでしょうか?

 

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開口したまま介助を待っている方

認知症のある方で
食事場面で口を開けたまま食塊を入れてもらうのを
待っているような方の場合
頚部後屈していることが多いものです。

このような時に
介助しにくいからといって
決して上の歯でこそげ落とすような介助をしてはいけません。

その場では
ムセることがないからと問題視することができないかもしれませんが
「カタチとハタラキ」の記事でも説明したように
食べ方というカタチには
食べる能力と困難というハタラキが反映されているものです。

  食事介助ではムセの有無しか気にしていない人も多いのですが
  ムセの有無しか気にしていないと
  食べ方というカタチすら見ていないので
  ハタラキも観ることができようはずもありません。

この時点で
ハタラキには大きな問題が生じています。
にもかかわらず、上の歯でこそげ落とすような介助をすれば
食べ方の問題を増悪させてしまいます。

たとえ、その場ではムセていないとしても。

開口したまま待っているような方というのは
その前段階として、必ずそのような食べ方を
引き起こしてしまう不適切な介助があったはずです。
つまり、
上の歯で食塊をこそげ落としたり
口の奥にスプーンを入れたり
斜め上に引き抜くようなスプーン操作をしたり。。。

誤介助誤学習が起こっているのです。
不適切な介助にすら、適応しようとして
自らの食べ方を低下させてしまったのです。

自らのスプーン操作を振り返る介助者は少ない。
ぜひ、「スプーン操作を見直すべき兆候」をご確認いただきたいと思います。

口を開けたまま食塊が入ってくるのを待っているような方に
「口を閉じて」と言葉でいくら言ったとしても
開口するしかない介助(例えば、上の歯でこそげ落とす)を
介助者が行動として行なっていれば
自身の身体に直接作用する介助者の行動に対する応答を優先し
口を閉じることはないでしょう。
 
その表面的な表れだけを見て
「口を閉じてって言っても認知症だから口を閉じて食べてくれない」
「どうしたら良いだろう?」
などと問題設定をするのは、本末転倒でしかありません。

じゃあ、どうしたら良いのか

今を否定せず
より良い食べ方を促します。

口を開けたまま待っている状態を否定せずに
口を開けたまま待っている状態でも
より安全に食べられるように
箸を使って食塊を歯もしくは歯ぐきの上に置きます。

そうすれば、自然と口唇閉鎖しますから
タイミングを見計らって頚部前屈を動作介助します。

食べるという一連の動作の中で
自然と頚部前屈を伴う口唇閉鎖を促します。

ここでのポイントは
頚部前屈というハタラキを促すことで
頚部前屈というカタチに至らなくても良いということです。

頚部前屈というハタラキが出てくれば
口唇閉鎖というカタチが容易に現れるようになります。

箸を使った介助で口唇閉鎖が出てくれば
食塊をとりこむ時に口唇閉鎖を促せる食具と介助方法を導入します。

ここは、その方のそれぞれの状態に応じることになります。
すぐに、スプーンで下唇や前舌を押すだけで口唇閉鎖を促せる方もいれば
いったん、ストローを使って口唇閉鎖の強調体験をした方が
次のスプーンへの適応がスムーズに進む方もいます。

そこはきちんと観察・洞察して決定します。

不適切な介助への合理的適応の結果としての
不適切な食べ方をしていた期間が短ければ短いほど
行動変容はより容易により短期間で起こります。

逆に言えば
そのような期間が長ければ長いほど
適切な介助ができる人と遭遇できなかった場合には
誤嚥性肺炎になってしまったり
食べ方がわからなくなってしまって
食べる能力を持っていながらも
本当に食べられなくなってしまうことも起こり得るのです。

食事介助は本当に怖い

 

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