Tag: コミュニケーション

ムセって何?

認知症施策

食事介助の現場の多くで
ムセは、指標のひとつになっています。

食べる能力の指標だったり
食べることを中止すべきかどうかの指標だったり

現場あるあるなのが
食事中に強く激しくムセこんだら
「あー!ダメダメ!その人、もう食べさせないで!」
という声が飛ぶこともよくありますよね?

食事介助中も
ムセの有無を気にしている人は多くいますが
さて、「ムセって何?」って尋ねられて
きちんと答えられる人は圧倒的に少ないのが現実です。

  構成障害重度とか遂行機能障害があるとか
  言う人は多いけれど
  構成障害とはなんぞや?遂行機能障害とは何?
  って尋ねられて明確に答えられる人は案外少ないものです。
  専門用語として言葉は知っていても概念の本質を理解していない
  だから観察できないし、何が起こっているのかの洞察もできないから
  BPSDや生活障害に対して適切な対応ができないのと
  まったく同じコトが違うカタチで
  食事介助の場面でも起こっているのです。
  だからどうしたら良いのかわからない。。。
  でも、これらは私たちの側の問題なので
  私たちが変われば違う現実が現前する可能性があるのです。

ムセは誤嚥のサインですと言うかもですが
身体のどこがどう機能してるから誤嚥のサインだと説明できますか?

もう一度、お尋ねします。

ムセって何?

 

 

 

 

 

 

答えです。

ムセとは、
気管に食塊などの異物が侵入した時に
声帯を激しく内外転させ
呼気のパワーで喀出させようという働きです。

誤嚥のサインであると同時に異物喀出作用でもあるのです。

現場あるあるの誤解が
「強く激しいムセ=誤嚥の酷さ」という誤解です。
これはもうホントに根深い誤解です。

強く激しいムセ=異物喀出能力の高さ なので
強く激しくムセる方がいたら、ムセを手助けして
しっかりとムセ切っていただくことが大切です。
ムセ切った後に声の清明さを確認できれば食事を再開できます。

ムセにおいて
最も怖いのが、サイレントアスピレーション ムセのない誤嚥です。
運動もしくは感覚の障害でムセることができない状態です。
ムセないのと、ムセることができないのとは、まったく違うのです。

ムセの激しさと誤嚥のひどさが比例しているわけではないのです。

ムセの激しい方よりも、気をつけなくてはいけないのは
弱々しくしかムセられない方のほうなんです。
弱々しいムセとは、異物喀出作用の弱さを示しています。
 
「弱々しいムセ=大したことのない誤嚥」という誤った認識で
食事介助を続けてしまう人は大勢いますが
異物をきちんと喀出しきれていない状態のまま食べさせている 
というとても危険な状態を作ってしまっていますし
そのことに自覚がないという二重の意味でとてもリスキーなんです。。。

言い換えれば
食事介助において
あまりにもムセの有無が過大視させられていて
もっと観察しなければならないことが見逃されてしまっているのです。

ムセは結果として起こっているので
どのような食べ方をしている結果としてムセたのか
というところをこそ、観察する必要があります。
(ところが、そうしていない人の方が圧倒的に多いのです)

  観察し損ねているから
  何が起こっているのか、わからない。
  だから、「ムセないようにゆっくり介助しましょう」
  と言うことしかできず、安全に食べてほしいと願いながら
  ムセをなくす介助ができなかったりします。
  私は「ゆっくり」ではなくて、
  たとえば
  「2回の喉頭完全挙上で完全嚥下しているから
  必ず2回目の挙上を目で見て確認してください」
  のように伝えています。

  ゆっくり介助すると言われても
  どこをどう介助するのがゆっくりなのかわかりませんよね?
  副詞を使った言語化では気持ちを込めることはできても
  状態や行動の明確化がされにくいので
  再現性の担保をすることは難しいのです。
  私は基本、副詞を使わずに
  名詞と動詞を使って言語化するようにしています。
  名詞と動詞で言語化できない時には
  観察できていないのです。

ムセは、
喉頭挙上の能力低下で起こることも確かにありますが
生活期の臨床現場で最も多いのは
咽頭期の本来の能力は保たれているのに
口腔期の能力低下によって二次的に咽頭期の能力低下が起こる場合であり
しかも、この場合の口腔期の能力低下が
誤介助誤学習によって引き起こされるケースが圧倒的に多い
ということはほとんど知られていません。

CVA後遺症急性期などのケースでは摂食・嚥下リハは必須ですが
高齢者や生活期にいる方にとっては
摂食・嚥下リハよりも食事介助と介助中の観察の方が重要です。
そして、食事介助に気をつけるだけで食べ方が改善されるケースは
日常茶飯事、枚挙にいとまがありません。
もっと言うと、摂食・嚥下リハをいくら頑張っても
漫然とした食事介助が為されれば、
効果が出ないどころか逆効果になってしまうことすら起こり得ます。

古くて新しい食事介助の問題について
問題は多数あって、しかも錯綜している現実を
これからの記事で解きほぐしていきます。

 

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忘れられがちな1手間:視覚障害

目が見えない認知症のある方に対して
声をかける時には、毎回必ず名乗るようにしています。

「〇〇さん、こんにちは。
 リハビリのよっしーです。
 ラジオ体操の時間です。」
「〇〇さん、こんにちは。
 リハビリのよっしーです。
 そろそろお食事の時間です。」

トイレや着替えや食事など
何を介助されるにしても
誰だかわからない人にされるのは不安だと思います。

視覚障害がなければ
名乗らなくても「こんにちは」だけでも
相手は私を見て「私→どんな人」を察知します。
認知症が重度だと私の名前を覚えられなくても
「私→どんな人」というのは覚えられることが多いようです。
曰く、体操の先生、歌の先生、(毛糸)モップの先生etc.。。。

でも、視覚障害があると、その手がかりがない。。。
だから、名乗ります。
名前を伝えるだけではなくて、
伝える過程を通して「声」と「話し方」を伝えます。

大声を出したり介護抵抗のある方でも
「俺は顔がわかんないからさ、わかるのは声だけだから」
とおっしゃっていたことがあります。

BPSDが激しいと
「認知機能が相当低下している」と誤認されやすいようですが
これらに相関はありません。
むしろ、認知機能障害が軽度の時ほど不安感が強いのでBPSDが激しくなる
ということはよくあります。

BPSDや生活障害が重度だと
職員の側がつい、「大声がひどい〇〇さん」のように
BPSDや生活障害を形容詞化してしまいがちですが
そうすると〇〇さんの能力やBPSDや生活障害を起こしていない状態を
見落としてしまいがちです。

  言葉には無自覚の意識も反映されます。
  例えば食事介助で
 「Aさんは100%入りました」という言葉を聞いたことがあります。
  入った。。。なるほど、口の中にどう入れるかという観点で介助していれば
 「100%入った」「食事が入りません」という言葉が口をついて出てくるのも
  うなづけます。。。
  「大声がひどい〇〇さん」という言葉を使ってしまうことで
  〇〇さんが大声を出さずに過ごせている場面を見落としたり
  大声は出すけれど
  発揮している能力に目が向きにくくなってしまう恐れがあります。

言葉と概念は密接に結びついています。

視覚障害を持つ認知症のある方に
毎回その都度、名乗ることは確かに1手間かもしれませんが
たった3秒でこちらの配慮を伝えることができ
その方の安心感につながるとしたら
その3秒を惜しむ理由が他にあるとは思えません。

ちなみに
「声しかわからない」とおっしゃった方は
大声や介護拒否もある方ですが
ラジオ体操や個別リハ、食事介助など何かすると
必ず「どうもありがとう」「お疲れさま」
私が名乗ると「はい、よっしーさん」と必ず復唱。

声かけの工夫、対応の工夫は大切です。
大切さを否定する人はいないと思う。
でも、それらの根幹にある視点が
認知症のある方がどのように受け取るか ではなくて
こちらのモットーやスローガンの実践になっていたり
表面的に生活障害やBPSDをいかになくすかという考えだったり
してるんじゃないかと思います。
だから、うまくいかない。。。
あるいは、短期的にうまくいったように見えても
長期的には、逆効果になっている。。。
本当にもったいないと思います。

 

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忘れられがちな1手間:帰宅要求

「対応に困った時にすべきこと」
ポイントほど見落としたり見間違える
と書きましたが
実際の対応についても
ポイントほど忘れられがち、実践され損なうものです。

認知症のある方が
「家に帰りたいんです。帰してください。」
と言った時に
私は基本的には復唱しています。
「家に帰りたいんですね」
復唱することで、あなたの気持ちを確かに受け止めました
と伝えることができます。

復唱するための所要時間は3秒ほどですが
復唱しないですぐに話を逸らそうとして
話題を切り替える人の方が圧倒的に多いと思います。

「家に帰りたいんです。帰してください。」
(でも外は雨が降りそうだし)
(もう遅いから明日にしませんか?)
(ちょっと待ってて。今お茶を入れますから。)
(タオルを畳んでいただけますか?)

文字にされたものを見ると
話を逸らされた、誤魔化された
訴えたことを聞いてもらえない。。。
という印象を持ちませんか?

認知症のある方は
ただでさえ、不安になって困惑して必死になって帰宅要求をしています。
そこで話題を切り替えられたら
もっとちゃんと聞いてもらおうと思って
言語能力が高ければ、
あの手この手で帰らなければならない理由を訴えるでしょうし
言語能力が低下していれば、
もっと大きな声で繰り返し訴えるようになるでしょう。

つまり
帰宅要求のある方に対して
すぐに話題を切り替える対応は
火に油を注ぐようなものなのです。
そして
無自覚にしているから自身の対応が油を注いでいるとは考えられず
もっと上手に話をそらせようと必死になって油を注ぎ続けるのです。。。

その上
自身の対応の結果として起こっていることがわからない職員は
「帰宅要求がひどい」「執拗な帰宅要求」とレッテルを貼るのです。。。

悪循環になっています。。。

認知症のある方も職員も
どちらにとってもストレスにしかならず辛いだけで良いことがありません。

「家に帰りたいんです。帰してください。」と言われたら、
(家に帰りたいんですね?)
まず、復唱してみてください。

この一言で
「あ、自分の話を聞こうとしてくれてる」
ということが伝わります。

その方にとっての
「帰りたいと思った」必然を聴く入り口に立つことができます。

その方の障害や困難、能力と特性を踏まえて
その時のその方の感情を観察・洞察しながら
「何を」「どんな風に」尋ねようかその都度判断していきます。

  ハンス・オフトの言う「状況把握・判断・行動」の実践です。

気をそらせる対応というのは
帰りたい必然を聴く入り口から遠ざけているのです。
認知症のある方だけでなく、自分自身をも。

帰りたいと思った必然を聴く
中がどうなっているのかわからない入り口のドアを開けるのは
勇気がいることです。
心身のエネルギーも使います。
そして何よりも難しい。。。
だから、回避したり否定したりして
その代替としての気をそらせる対応が
ケアの常識のように継承されてしまったのでしょう。
以前の記事 で書いたように、気をそらせる対応が必要な場面はあるでしょう。
でも、本質的な対応ではあり得ません。

本質的な対応ができるようになるためには
時間がかかります。
技術ですから。
でも、技術であれば習得可能です。

まずは、復唱してみませんか?
そこから観察の道が始まります。

 

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技術のトレーニング

NHKの奇跡のレッスン「ハンス・オフト 答えはすべて基礎の中に」 を見ました。

以下、オフト語録です。

「シンプルにパスを出したらすぐフォロー」
「トライアングルを意識しながらフォロー」

「シンプルなプレー?わかっているよ。と言いつつも
本当は基礎の大切さをわかっていないことがある。」

  そうなんだよ〜
  「評価してるに決まってるじゃん」
  「観察だってちゃんとやってるし」
  と言う人は、もっと広くて深い評価や観察があることを
  知らないのです。

  私の講演を聞いたことのある人から
  「自分ではちゃんと評価してるつもりだったけど
   まだまだだと思った」
  という感想を寄せられることがよくあります。

  その度に
  伝えることができて良かったと思います。
  かつて、中井久夫は
  「医者が治せない病気はあるが、看護できない病気はない」
  という言葉を残しました。

  認知症は治すことができない病気ですが
  リ・ハビリス(再び適する)できない病気ではありません。

オフトの指導は、とても参考になりました。

サッカー以外のトランプでも特性を確認したり
基礎を説明した後に、実際に活用させる場面設定の工夫
狭い空間の中でのパス回しから広い場所、大人数でのパス回しへという段階づけ
混乱したら前の場面設定へ戻って再体験

意図が明確で子供たちをよく観てる。
場面設定に工夫があるから、
短時間でも頭と身体を使うハードトレーニングになってる。

常に状況を把握する。
状況を把握した上で判断・行動する。
ボールコントロールの技術があれば、それだけ注意を状況把握に向けることができる。
フェイントとかドリブルとか華麗なテクニックは注目されやすいけれど
基礎があってこそ有効に発揮される。
動きのある場面で発揮することが要請される能力は
動きのある場面でトレーニングしていく。
要素を分割して行うのではなく
実践の中で基礎能力を高められるように行う
そのための場面設定の工夫が本当に細やか。

状況は常に流動的だからこそ
状況を把握・判断・行動することをセットでトレーニングしていく。

変化が大前提になっているし
自らが変化の構成因子となることで局面を変化させていく
認知症のある方への対応にも通底すると感じました。

「時間がかかるでしょう。でもそれで良いのです。」
「自分で考えることが明日につながる。」
「シュートはパスと一緒なんだ。」

確かに「習得」には時間がかかるし
自分で考えなければ行動変容は起こらない。

  私がバリデーションを学んだのは
  ビッキー・デクラーク・ラビンというオランダ人だったけど
  (オフトもオランダ人だとのこと)
  受講者全員のバリデーションの実践をビデオで見あうという機会もあった。
  任意のテーマを異なる対象者に対して異なる受講者が実践するから
  現れ方は違ってもテーマの意味や目的を繰り返し観察することによって
  理解が深まることを体験学習したことを思い出しました。

卒業試験?としての意味もあったのでしょう。
番組では昨年負けた強豪校との試合が設定されていました。
前半で2得点。
後半は押されたけれど辛抱してもう一度自分たちのリズムを取り返していました。

たった1週間でもこんなに変わる。
そして、これからも変わり続けるのでしょう。
自分自身で常に状況判断・行動という基礎を体験学習できたのだから。。。

指導者によってこんなにも子供たちが変わるんだ。。。

  かつて、肢体不自由児施設で紀伊先生や古澤先生のデモンストレーションを
  見た時のことを思い出しました。

すごい技術とかすごい指導を見ると
本当に勇気づけられます。

 

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対応に困った時にすべきこと

認知症のある方の言動のあれこれに対して
どう対応したら良いのか
困ってしまうことってあると思います。

そんな時にどうしていますか?

ここって、ものすごく誤解が多いところです。

ひとつは
どうしたら良いのか、考えたり話し合ったりすること

  きちんと観察・洞察ができていれば
  どうしたら良いのかは自然と浮かび上がってくるものです。

もうひとつは
認知症のある方の困りごとではなく
私たちスタッフの困りごとを改善しようとすること

  根本的なところで、すり替えが起こっているのです。

私は
認知症のある方が困っている場面そのものの観察に立ち返ります。
自身の関与も観察しなおします。

 自身の観察に自信がなければ言語化・文章化する
 いったん、自分の頭の中を外に出して(まさしく)見える化すると
 良いと思います。

不思議なもので(まさにだからこそ、と言うべきか)
一から観察し直してみると、見落としていた箇所に気がつけて
そこからブレークスルーの道が開けてきます。
後になってわかるのですが
実は、ポイントほど見落としていたり、見間違えているものなのです。。。

認知症のある方のBPSDや生活障害は
認知症のある方ご自身にとっても
ご家族やスタッフにとっても困りごとではありますが
同時にその困りごとそのものに解決へのヒントが存在しています。

一見、困りごとというカタチで表れる事象には
障害や症状や困難だけではなくて、同時に、能力も反映されているからです。

反映されている障害、症状、困難と能力を観察するのです。
(そのために知識の習得・概念の本質の理解が必要なのです)

そうすると
私の言語・非言語の関与も含めた環境に対して
認知症のある方がどのように感受し、判断し、応じていたのかを洞察することができます。

ここまでできれば
じゃあ、どうしたら認知症のある方と私たちが
お互いに困ることなく
能力を発揮しあって
イマ、ココという「場」で過ごせるのか
ということは自然と浮かび上がってくるものなのです。

対応の工夫は、考えることではないのです。

イマ、ココで何がその方に起こっているのか は
同じ方でもその時々で異なります。
言葉にして聞いてみないとわからないこともある一方で
言葉では表せないことや
言葉によって迎合や追従を無自覚に要請してしまうこともあります。

観察って
カンタンに思われているし
科学的ではないと思われていて
蔑ろにされがちですが
観察ほど、観察者の能力が求められるものはありません。
観察者の静かでかつ能動的な関与が求められるからです。
知識がなければ、見落としたり見間違えたりしてしまいます。
自身の言動に無自覚であったりコントロールできなければ
認知症のある方の能力を引き出すことは難しくなります。

同じ場面でも観察者が異なれば、得られる情報の量も深みも異なります。

観察は「客観性に欠ける」「科学的ではない」と言われがちですが
本当にそうでしょうか?
認知症のある方の状態はその時々で変動します。

検査やバッテリーをとった時といつも同じ状態ではありません。
検査やバッテリーは、確かに施行時の障害を明確に示してはいますが
施行時以外の状態像の異なる他の場面に検査結果を適用・援用することのほうが
現実的な根拠に欠けるのではありませんか?
 

実際には、検査・バッテリーは実施はしても、
その結果を対応に活用することは少ない。
検査・バッテリーはすべきことだからしているだけで
検査は検査、実践は実践と乖離している。
実践に活かすための検査とはなっていない。
例えば、
HDS-Rはとっても
その結果を対応に活かしてはいない
五角形模写課題はしたけれど
その結果をどう対応に活かすかは考えていない
というパターンだって多いのではありませんか?

私たちは評論家ではない
援助職なのに。。。

おそらく
無自覚には本当は感じている、わかっているのだと思います。
観察・洞察の有効性と実践の困難さを。
だからこそ否定する。

きちんと観察することの重要性や
観察するに値する知識の習得、本質の理解の必要性
自身の言動が無自覚に伝えてしまうことの意識化の重要性も
そのためには日々の地道な努力の蓄積が必要なことも

本当はわかっているけれど
大変なことだから、努力が必要なことだから、無意識に回避しているのでは?

観察が客観性や科学性に欠けるのではなく
欠けると言っている人の観察力が客観性や科学性に劣っているのであって
観察そのものが客観性や科学性に劣るものではないのです。
精度の高い観察を知らなかったり実践できない人が否定しているのです。

  いわゆる、抵抗と防衛です。

人文科学としての作業療法は
検査やバッテリーをとることで科学的であろうとするのではなくて
長い職業人生を賭けて
観察・洞察の確かさ、客観性、科学性を磨いていくのが本筋なのではないでしょうか?

そういった本当に地道な努力の蓄積よりも
各種の検査やバッテリーを数多く行うことのほうが
簡単だし、カッコ良いし、最先端をいってるように見えるし。。。
とか。。。?

認知症のある方の対応に困った時
結果として、表面的に現れる生活障害やBPSD
例えば、「歩けないのに立ち上がる」「帰宅要求が激しい」といった表現では
観察しているとは言えないのです。

観察とは
「歩けないのに立ち上がる」「帰宅要求が激しい」のは
どのような環境で
何をしようとしているのか
スタッフの関与はどのような非言語で
どういった言葉で関与したのか
を踏まえて
それらの言動に反映されている、
記憶や見当識やコミュニケーション能力、遂行機能などの障害や能力や特性を
まさしく観て察することです。

多くの人は、この過程をすっ飛ばしています。

表面的な事象への対処、つまり、
「どうしたら、立ち上がらなくなるか、帰宅要求がなくなるのか」を
考えています。

その時、その場での、その関係性の中での認知症のある方 を観察せずに
スタッフの困りごとをなくそうとして考えるのです。
だから、ハウツー的対処がはびこります。。。

「帰宅要求があったら、タオルたたみをさせる」
「お茶を飲ませる」etc。。。

これらは、気をそらせる対処にすぎません。
確かに、気をそらせた結果、帰宅要求を忘れてしまい、帰宅要求がなくなる
というケースはあるでしょう。

でも、こういった方法論に走ると
「いかに気をそらせるか」ということを
無自覚のうちに目的とするようになり
どれだけ上手に気をそらせるかを考えるようになり
上手に相手を騙すことや言いくるめることが良いケアということになってしまいます。
そんなバカなことがあるはずがありません。

認知症のある方に寄り添ったケアという理念の真逆の対応を追求することになり
非常に大きな矛盾した働き方をスタッフに要請することになります。
誠実で良心的なスタッフほど、辛い日々を送ることになります。。。

あちこちの現場で起こっていることではありませんか?

このような対応は
リハやケアの本質ではありません。
ただし、暮らしに近い場面ほど
時間稼ぎとして、その場しのぎとして
一時的に用いざるを得ない場面は出てきます。
時間稼ぎ、その場しのぎの引き出しを多く持っているにこしたことはありません。
ただ、やる方が
「今は本質的な対応はできない」
「時間稼ぎとして、お茶をにごすことをしている」
「本質的な対応ではなく、しのいでいる」
という自覚を持ってその場しのぎをすべきです。

ところが
いつの間にか、その場しのぎと本質とを混同したりすり替えている。。。
関与するスタッフ自身が何をしているのかわからなくなってしまっているのが
1番の問題だと思います。

ピンチはチャンス

対応に困った時ほど
実は、自らの成長の機会でもあります。

今までの自分の在り方をもう一段高め深めるチャンスなんです。

観察・洞察は技術です。
技術であれば習得可能です。
技術であるから「感受」が関与しますが、

「伝達」も可能ですし「指導」もすべきです。
ただし、その技術が凄ければ凄いほど、習得には時間がかかります。
習得までの過程でイヤというほど自身のできなさに直面させられるでしょう。
でも、その先があるのです。

生活障害やBPSDというカタチの現れを
認知症のある方が
能力をより合理的に発揮できるようになった結果として解消されていく時には
認知症のある方だけでなく
必ず、スタッフの側にも行動変容が起こります。

そうやって、職業人として鍛えられ、高められていきます。

 

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グループワークの功罪

グループワークには、グループワークの良さがあるし
「三人寄れば文殊の知恵」もあるとは思います。

他者の視点や考え方を知り
自身の思考を再構築することにもなりますし
協働作業を通して課題を達成するという体験も貴重です。

でも、それはベースに
参加メンバーに知識が教授・共有されているという前提があってこそ
成り立つ話だと思います。

以前にあるところで
認知症に関する一般の入門者向けの研修で
徘徊している方への対応をグループワークで検討させるように
みたいなほんわかとした依頼があって
その時は、依頼先におかしなことだと意見提出したことがあります。

一般の入門者向けの研修なんだから
きちんとした知識を提供することが最優先だということ
「徘徊している方」といっても、その方なりの徘徊する必然は千差万別で
話しかけ方とかも千差万別でひとくくりにはできないこと
適切な対応は自然と浮かび上がってくるもの
どうしたら良いのかは本来考えるものではない。
どうしたら良いのかわからない時は観察に立ち戻る
こちらが勝手に「あぁなのかな?」「こうなのかな?」と
勝手に推測するのは一番やってはいけないことだと。

グループワークって、偽の達成感を味あわせることもできてしまうんですよね。

達成すべき課題が明確で
ファシリテーターが優秀であれば
有意義なグループワークも可能
ですが
やってみたらわかるけど、案外難しいものです。
そうでないことも多々あります。。。

ましてや入門者同士が何を話し合えるというのでしょう?
知らない人同士が楽しく会話できてなんとなく達成感があって。とか
日頃の愚痴や不安を共有できた。とか
というパターンもあるのか、グループワークは楽しい!なんて人もいますが
達成すべき課題の達成度はどうだったのでしょう?
成果物は抽象論にとどまり明確には出せなかったけど
いろんな人と話せて楽しかったなんて本末転倒です。

たぶん、根本的な問題は
教えるべきことを教えられないという現状があるのだと思う。

そこには、二つの問題があって
認知症は脳の病気なんだから、
本来は、まず知識と技術で解決すべきことを解決しなければ
その人に寄り添うなんて大それたことはできないということが理解できていない。
だから、心意気、真心、優しさなんて
よくわからない、曖昧な、でも耳障りの良いことで対応できると思われている。
 
もう一つは
普段、現場でハウツー的対応しかしていないから
抽象化・言語化できないので他者に的確に伝達できないし
その自覚もできていないこと

徘徊している見知らぬ人に遭遇したら
警察通報の一択です。
警察官が来るまでの間、安全なところで待っていただけるように
余計な不安感を抱かせないように
してはいけないことは明確にあります。
望ましい対応は、その方その方によって異なりますから
それは会話をしながら探らなくちゃいけない。
その探り方は、基本の実践ができた次の段階で学ぶものです。
よく知りもしない人同士が話し合うようなことではないんです。。。
例えて言うならば、
道路で倒れている人がいました。
どうしたら良いのかを教えるのではなくて
どうしたら良いのかを考えましょうというグループワークを
救命救急の初心者コースを受講しにきた人にやらせるようなものです。
怖い、怖い。。。

対人援助職を養成する立場にいる人が監修していた部分でしたが
こういう人に教えてもらうんじゃ、学生も本質を理解することができなくて当然
現場に出てから困るだろうな。。。と思いました。

ずいぶん昔ですが
老健に実習に来た介護学生に
学校で認知症のことをどんな風に教わったのか尋ねたところ
「否定しちゃいけないって教わりました」と言われました。
そのほかは?って尋ねたけど
「それだけです」って。 
  
(まぁ、学生の言うことですから教えてもらっても
 咄嗟には答えられなかったということもあるかも知れませんので
 いくつか確認しました。)
近時記憶障害とは?
4大認知症とは?
ということも教えてもらっていなかったということがありました。
それじゃあ、現場に出てから困るよね。
どうして良いかわからなくて当然だと思いました。

OTだけじゃなくて、
ポジショニングも、食事介助もそうですけど
対人援助職の養成・教育・伝達の問題って本当に大きいと思います。

このことに関連して最近見つけたサイト
ふくしま国語塾の「指導」には
はっきりと書かれています。

  昨今の教育界では、「教えない教育」なるものが流行っています。
  知識・技術を与えない。しかし個性は求める。
  その結果、たとえば感想文を書かせれば、
  面白かったです、悲しかったです、など
  没個性の文章ばかりになる。
 
  知識・常識。型・技術・方法。
  これがあればこそ、
  自己表現と他者理解が可能になります。
  表現力や読解力を身につけさせたければ、
  まず、知識・技術を与えること。
  与えることをためらわない。
  その先でこそ、個性は輝きだすのです。

分野は違えど
知識・技術を教えることの必要性は共通しています。
知識と技術がないのに、どうやってちゃんと対応しろと言えるのか
本当に理解できません。。。

「認知症のある方に少しでも力になりたい」と
願うならば、その願いを支えるに足る知識と技術がなければ
役に立てるどころか、逆効果や迷惑になることすら起こり得ます。

  昔だったら
  実習の時に、
  「気持ちだけじゃダメなんだ」「知識と技術がなければダメなんだ」
  と自分の未熟さを痛切に体験・実感させられたものです。
  今は学生に成功体験を求められ求めさせるから
  学生はかりそめの成功体験を学んでしまう。。。
  就職して社会人として、一人の職業人として
  初めて自身の未熟さに向き合うことになり
  それはその人にとっても、周囲にとっても大変なことだと思います。

脳卒中後遺症のある方に少しでも力になりたいと
願う人がいくら願ったとしても、知識と技術がなければ逆効果になります。
かつては、過剰に安静をとらせて寝たきりになってしまった。
その反動もあって、過剰にがんばらせすぎて今度は痛みや拘縮を起こしてしまった。
寝たきりがいけないからと離床が推奨され、今度は座らせきりという問題が起きた。
それらを踏まえて、適切なリハが提供できるように
専門家としてのリハ職が要請されるようになった。

同じ脳の病気である認知症にも同様のことが起こっています。
昔は「恍惚の人」が代表するような時代もあった。
その反省も踏まえて、反動のように、優しく否定しないような対応が推奨された。
それだけでは対応しきれないということがわかってきていて
適切な対応とは何か?ということが問われるようになってきている。
 
今はまだ水面下での動きに留まっていて表面化してはいないけれど
「優しい対応をしてもそれだけでは認知症の問題は解決できない」
ことが誰の目にも明らかになってきているのではないでしょうか?
本当の専門家としての対応が要請されるようになってきている。

歴史から学ぶことって、とても大切なのではないでしょうか?

 

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「帰りたい」と言われたご家族は

認知症のある方に
「帰りたい」と言われたご家族は
「まだ帰れないのよ!」と答えることが多いようです。

ご家族も困ってしまって、
あるいは病院や施設に迷惑をかけないようにと慮ってか
なんとか言って聞かせようと思ってのことなのかもしれません。

私はそんな時には
「まだ帰れないんだって」と答えてください
と伝えています。

「まだ帰れないのよ」という言葉は
認知症のある方の立場に立ってみると
ご家族が施設・病院職員の側に立ってしまったように感じられて
認知症のある方VS施設・病院職員+ご家族みたいな構図として受け取られて
疎外感を感じてしまうんじゃないかなーと思っています。
言い方によっては
「まだ帰れるわけないじゃないの。
 どうしてそれがわからないの?」
というニュアンスを伝えてしまうかもしれません。

「まだ帰れないんだって」という言葉は
ご家族の判断ではなく、帰れないのは施設・病院の判断なのだ
というニュアンス
を伝えることができます。
(実際に判断するのは施設・病院の側ですし)

認知症のある方が「ご家族は自分の味方」だと感じられるように
現実問題としてはご自宅に帰るのが難しかったとしても
「まだ帰れないんだって」と言うことで
気持ちは認知症のある方の側にあるのだと
暗黙のうちに伝えてほしいと思います。

 

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声かけ再考:感覚ー判断ー行動

イメージ_紫陽花

認知症のある方に対してトイレ誘導をする時に
どんな声かけをしていますか?

「トイレに行きましょうか?」と尋ねた時に
認知症のあるAさんが「ううん、行かない」と答えたから
トイレ誘導しなかったのに
別の職員が「おしっこ出る?」と尋ねたら
Aさんが「出る」って答えて誘導されてた。
さっき尋ねた時には「行かない」って言ったじゃん。なんで?
みたいな経験をしたことはありませんか?

答えは
感覚ー判断ー行動  を踏まえた声かけの有無です。

認知症のある方によって、その時々によって
違和感を感じる ー 尿意と判断できる ー 尿意を解消するための手段としての行動
もぞもぞする  ー おしっこ     ー トイレに行く(連れて行って)
のどの段階で理解できるのか、表現できるのかが異なります。

その方が理解できる言葉の段階を踏まえて尋ねることが重要です。

その方が「もぞもぞする」ことしかわからないのに
トイレに行きましょうか?では理解できなくて断られて当然です。

この時に大切なことは
「よろしければお手洗いにご案内いたしましょうか?」
と敬語で丁寧な言葉使いで尋ねることではないのです。

そして多くの場合に
認知症のある方の言語理解力は変動します。
昨日は理解できていたことが今日は理解できなかったということもありますし
尿意を訴えなくなってしまった方が再び尿意を訴えるようになることもあります。

変動の幅、その方の最大能力と困難な時の能力とを踏まえて
イマ、ココでの能力を確認しながら声かけを選択する

その時その時で
声かけの理解の段階を把握した上で意図的に選択した言葉で尋ねる

ということができるかどうかが重要なのです。

認知症のある方に対して
声かけの重要性を否定する人はいないと思います。
ただ、声かけについては
接遇的な意味合いでしか捉えていないのではないでしょうか。

私は、接遇的な意味合いではなくて
(接遇を否定しているわけではありません)
障害と能力の観点から
声かけについて捉え直すこと
ここでは、概念の階層性を確認しながら対応する
ことを提案しています。

クリスティーン・ブライデン氏の言った
「私たちとあなた方の世界に橋をかける」
ということを
「あなた方の立場」からも
少しでも現実化・具現化していきたいと思っています。

 

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