Tag: コミュニケーション

「一芸に秀でる人は多芸を理解する」

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世の中に
スゴイ人は本当にたくさんいる。

でも
有名だからスゴイというわけでも
資格をもってるからスゴイというわけでも
地位が上だからスゴイというわけでも
経験年数を重ねているからスゴイというわけでもない。

先日、とても嬉しいことがあったんです。

講演活動などで、リハスタッフ以外の方と
一緒にお仕事をする機会があるのですが
「認知症のある方」と私が意図的に使っている言葉を
説明することもあります。
その方にも説明したら、よくわかって受けとめてくださって
久しぶりにやりとりをした際に
その方が私以外の人に対しても
「認知症のある方」という言葉を使ってくださっていることを
知って、とても嬉しかったんです。
この方は
実際の臨床には直接には関係のないお仕事をしています。
にもかかわらず
私が言いたかったことを明確に理解してくださったんだと
そして
私に対して、ではなくて、ご自身のお仕事の上で
つまり、ご自身のこととして
この言葉を使ってくださっているんだということが
とても嬉しかったんです。

ところが
私はリハスタッフが企画する講演にもよく呼ばれますが
「なんでよっしーさんは
『認知症のある方』という言い方をしているんですか?」
とはあまり聞いてもらえない。。。 (^^;
とか
私が「認知症のある方」という言い方をしているのに
相手は「認知の人」や「認知症への対応」
って言い続けていたり。。。
とか
よくある。。。(^^;

その時に話してみて、その様子で
説明する場合も
説明しない場合もあるけれど
基本的には、あんまり期待しなくなっちゃたかも。。。

「一芸に秀でる人は多芸を理解する」

この言葉は、ソニーの元副社長の言葉ですが
本当にその通りだと思う。

何でもいいんだけど
何かを極めた、極めようとしている人というのは
「何か」という具体的な現れに秀でているだけじゃなくて
「何か」を通して「メタ」な感受・認識・表出を
鍛えようとし、また鍛えられているのだと思う。
だから
違う「何か」も感受・認識・表出を
自分は実践できなくても理解はできるのだと思う。

かつて、私は
一流は一流同士、違う分野でも話ができる。
一流と三流じゃ、同じ分野でもお話にならない。
と思っていたことがありました。
だから、自分がレベルアップするしかない。って。

「一芸に秀でる人は多芸を理解する」
元の記事はこちら
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/interview/16/031800001/053000008/?ST=print

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安易な食事介助は逆効果

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ときどき、ホントに哀しくなるようなことを聞きます。

食べられる機能、状態ではないのに
そこを的確に、障害と能力の把握ができない人たちが
とにかく「食べなさい」と叱咤激励したり。。。
無理矢理食べさせたり。。。

知識と技術がないから
できることがそれしかないのだろうとは思いますが
逆効果にしかならないことは
やめてほしいとすら、思ってしまいます。

ご本人は、ちゃんと食べにくさを感じているのだから
食べにくいのはわかる
でも、大丈夫
こうしたら食べやすくなる
という方法を具体的・現実的に探して提案できることが
私たち対人援助職の仕事だと考えています。

そういう私たちがすべき努力をしないで
「食べなさい」
「食べなきゃダメよ」と言うだけだったり
無理矢理食べさせたりするのは
あまりに安易だと思うし
そんなことをしても
単に食べられなくなるのを先延ばししてるだけだし
そんな介助を受け続けていると
誤介助による誤学習によって
どんどん食べられなくなってしまいます。

プラスがないだけなら、まだしも
マイナスになってしまうんです。
そのマイナスのつけをいったい誰が払うのか
次の施設や病院のスタッフとご本人が払うなんて
なんて不合理なんだろうと腹立たしく思うことすらあります。

でも、私がすべき仕事は腹を立てることではなくて
大変でしたね
でも大丈夫
もう一度がんばって
こうしたら食べやすくなりますから
という方法論をみつけて
具体的・現実的に実践して
食べやすくなるように援助すること

認知症のある方が
「あなたの介助では私は食べにくくてイヤ」
と言葉にしないからといって
そう感じていないわけではないのです。
そんな食べにくい介助でも
必死になって食べようと合わせてくれてるんです。
そんな報われない経過のあとですら
もう一度食べやすくなろうと挑戦しているんです。

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ブレてないこと:結果として起こることを求めない

ちょっと待った

結果として起こることの目的化
…って、案外多いんだなぁ
と感じています。

でも、これだって、最初から明確に意識化できていたわけじゃない。
ただ、方向性としては、最初から希求してたんだな
…って、後から思うだけで。

「ありがとう。と言われて嬉しくて」
という気持ちはわからなくはないけれど
それを求めるのは、どうかな?と思っちゃう。

その人が良くなっていく過程を恊働できるのは
とても嬉しい。
人間の能力の凄さの実感というのは
対人援助職として、すごく励まされます。

あ、良くなっていく。というのは、
目標達成に向かって変化している
という意味ですが

ただ、目標達成した時の笑顔が見たくて
とか、そういうのとはちょっと違うんだよなぁ。。。

笑顔で良かった…とは思いますが
笑顔を求めているのか…というと、それはちょっと違う。

もしも、そういう方向に舵を切ったとしたら
それは、すごく怖いことだと考えています。

こういうと
中には反感を感じる人がいるだろうなーというのも
よくわかります。

でも、逆に、そうなんだよ!って
心の中で「ひっそり」と同意してくださる人だって
きっといるだろうとも思っています。

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ブレてないこと:具体的に考える

我慢のしどころ

自分の中でブレてないんだ…と
後から思うことって、いくつかある。

最初は意識していたわけじゃないから
よくわかってはいなかったんだと思う。

でも、方向性としては今と変わらないんだ
…って、今はわかる (^^;

たとえば、具体的に考える。とか。
抽象化されたマジックワードは使わない。とか

QOLの向上って
今は殆ど聞かない言葉だけど
かつて、私が若い時には、よく使われていた言葉だった。

でも、私はそういう言葉を使わなかった。
正確に言うと、使えなかった。かな?

だって、よくわかんないんだもん。

私は本当に恵まれていた
ラッキーだったと思ってるけど
援助と使役について、よくよく考えさせられる機会が多かった。

だから、あんまり「良いことをしよう」とは思わない。
思えない。という方が正確かな。。。(^^;

悪いことをしないで済むように
できうるなら、具体的に現実的に困りごとが減るように。

そういうことを具体的に考えるようにすると
具体的に能力を見られるようになる。

たぶん、良いことをしようと思ってたら
具体的に能力を見られるようには
ならなかったんじゃないかと思ってる。

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情報発信の機会

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日々、いろいろなことは起こるけれど
やっぱり私はすごくラッキーなんだと思う。

今、この時代に生まれて
さまざまな情報発信の機会をいただけている。
そのことにも深く感謝。

かつて、私は本当にもがいて、あがいて、いました。
でも、その時になかなか自分の助けとなるような
情報を得ることができなかった。

言ってることはわかるけど
目の前の方にやってみると、ズレを感じる。

なんか、違う。
いつもそう感じてきました。

結局のところ、遠回りでも
自分なりに勉強と実践を積み重ねるしかなかった。
それは、本当に孤独な過程でもありました。
(今、思えば。。。
でも当時は必死だったから、わからなかった。)

だけど、一番困っているのは
目の前にいる方なんです。

それなりの確かさをもって
根拠とともに、明確に言語化できるようになったからこそ
今もきっとどこかにいる、
かつての私と同じような困難を抱えている人に届けたい。

そういう機会に
私は恵まれています m(_ _)m

こちらの神奈川県の県士会サイト。
POSTさんのサイト
(インタビューと連載記事が掲載されています)
(株)geneさんのセミナー
(今年度は東京・大阪・名古屋で開催予定です)
これらは、誰でもいつでも閲覧・参加できます。

おかげさまで、
その他にもいろいろな職場や団体からお声かけいただき
日頃の実践と今後への提案について
お話する機会をいただいています。

本当にありがたいことです m(_ _)m

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大声・暴言というカタチで表現されているコト

ちょっと待った

認知症のある方の
大声や暴言というカタチで表現されているコトに対して
多くの場合に
カタチを問題視して、
カタチを減らすために、
カタチへの対応の工夫を考える
という方向性で検討されがちです。

でも実は
大声や暴言というカタチでしか表現できないから
というケースが往々にしてあります。

不合理だけど能力でもある。

本当に私たちが考えるべきことは
大声や暴言をどう減らすか
ということではなくて
大声や暴言というカタチ以外のカタチで
表現してもらうには、どうしたらよいのか
つまり、何を表現したいと意図していたのか
確認・把握するということなんです。

だって、能力。なんですもの。

大声や暴言という
一見不合理に見えるけれど
能力の不合理な現れなんだから
大声や暴言を「減らす・改善する」という
「方向性」で考えることは
認知症のある方の能力を失わせるということになってしまう。
たとえ、結果としてであっても。
たとえ、意図していなくても。

こういうことをよくよく考えている人は
実は案外少ないものです。
「寄り添ったケアを」と言いながらも
180度違うことをやってしまっていたり。。。
自分がやっていることが何を意味しているのか
丁寧に考えて、丁寧に自らの実践を振り返る人は
残念なことに、本当に少ない。

私にできることは
日々の実践を通して自らを振り返り続けることと
可能な範囲で発信し続けること。

必ず
真っ正面から受けとめてくれる人の存在を信じて。

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認知症疾患治療病棟のOTの役割 4

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私は今、認知症疾患治療病棟に勤務していますが
大切な役割の1つとして
身体的な障害を評価できる
ということを挙げておきたいと思います。

認知症=アルツハイマー型認知症
というわけではありません。

認知症という状態像を引き起こすさまざまな疾患があります。

臨床的に多いのは、アルツハイマー型認知症ですが
ときどき、ちょっと変わった変性疾患の方も入院されます。

レビー小体型認知症や前頭側頭型認知症のある方は
かなりの頻度で入院されます。

その他にも
大脳基質基底核変性症やALSを合併した認知症
特定不能な認知症のある方も入院されます。
そのような場合には
身体的な障害を起こしている場合がとても多いものです。

また、どんな疾患であれ、症状が進行すると
皮質の萎縮による脱抑制によって原始反射が起こる場合もあります。

このあたり
知識がないと身体的な障害というのは
実はかなり見落とされがちなんです。

そして、「認知症」という先入観によって
知識がないがために
「乱暴」「意欲低下」「心気的」「性的逸脱行為」などと
誤った判断を下されがちです。

民間の単科の精神科病院では
「身体的な障害」を評価できるのは
作業療法士だけ。だったりすると
身体的な障害を身体的な障害だと伝えることができるのも
作業療法士だけ。ということになります。

認知症治療病棟に勤務する作業療法士の
大きな役割の1つだと考えています。

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食事介助が変われば他の介助も変わる

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食事介助が適切に行える方は
他の介助も適切に行える方です。

食べることの援助ではなく
ただ食べさせているだけの方は
申し訳ないですが、他の場面でも
援助ではなく「〇〇させる」のではないでしょうか。
その方法論が
乱暴なのか、優しげなのかの違いがあったとしても。

どんなに優しげに接したって
「〇〇することの援助」と「〇〇させている」ことは
天と地ほどの違いになってしまいます。

優しい=良い関わり
というわけではないのです。

食事介助において
「食べることの援助」を明確に自覚した上で実践できる人は
使役ではなく援助というメタ認識のもとにメタ実践を
ただ食事という場面で実践しているに過ぎないので
場面が変わっても共通するメタ認識のもとでメタ実践を
できるようになります。

食事は
最後まで残る
認知症のある方が「行為」として表出できる場面です。

しかも
比較的工程の少ない、シンプルな、繰り返しの多い場面です。

他の排泄や更衣、入浴という複雑な場面よりも
介助者が何が起こっているのかわかりやすいのです。

つまり、食事介助において
援助ができない人に
他の場面において援助ができると言えるでしょうか。

暮らしの場面において
もっというと私たちの在りようにおいて
100%の完璧性というものは存在しません。

けれど、私たちの関わり方において
「援助」なのか、「使役」なのか、ということは
180度方向性が異なってきます。
時には「使役」するしかない場面だってあるでしょう。
でもその時には「使役」しているんだという自覚が必要です。

その場で使役をしているのに援助のつもりになっている
その場は使役で、力技で「問題を解決」できたからといっても
今はよくても、その後に悪影響を与えてしまうということは
たくさんあります。
感情の記憶は残っていくと言われている所以です。

食事介助が適切に行えるようになる
ということは、
介助全般が適切に行えるようになることの
入口なのです。

 

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