Category: よっしーずボイス(ブログ)

評価から遠ざかる見方・考え方

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ときどき精神科の作業療法士から聞く言葉
「あぁも考えられる、こうも考えられる」
なぜか、得意げに語る人が多くて
本当に不思議です。

だって、それって評価と真反対の姿勢です。

評価というのは
これは確実に違う
これは考えられない
と、除外していく過程の積み重ね

同じコトが認知症のある方の食事介助についても言えます。

「想像力を働かせて」
「その人の好きな食べ物で」
「その人らしさ、その人の物語を探る」
などなど、よくよく聞く言葉です。

でも、それはあんまり関係ない。
まったく関係ないわけじゃないけど
食べやすくなるにはどうしたらよいか…を考えるうえでは
そういう心理社会的アプローチは役に立たないコトの方が
圧倒的に多い。

なぜなら、障害のために
食べにくい、食べたがらない、必然性を抱えているからです。

認知症のある方の食事介助の場面で
心理社会的なアプローチをとる…というのは
脳血管障害後遺症で運動麻痺が重度で上肢操作が困難な状態の方に
どうしたら麻痺側の手で操作しようと思ってもらえるのか
その人の興味を引くことは?
その人の好きな品物は?
その人らしさ、その人の物語を探る
というアプローチをしているのと全く同じことです。

そんなことを言う人はいないと思います。

どうして同じ脳の病気なのに
脳血管障害後遺症では考えもしないことを
こと、認知症となると
こんな方法論がまかり通るのか
本当に不思議です。

どこかで
認知症のある方の日々の暮らしの困難は
心理社会的な要因と誤解しているとしか思えません。
つまり、寂しい病、構ってほしい病、好きなことしかしない病

そうではないんだ。ということを明確に
私たちが認識するための近道が
食事介助を適切に行うということだと感じています。

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安易な食事介助は逆効果

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ときどき、ホントに哀しくなるようなことを聞きます。

食べられる機能、状態ではないのに
そこを的確に、障害と能力の把握ができない人たちが
とにかく「食べなさい」と叱咤激励したり。。。
無理矢理食べさせたり。。。

知識と技術がないから
できることがそれしかないのだろうとは思いますが
逆効果にしかならないことは
やめてほしいとすら、思ってしまいます。

ご本人は、ちゃんと食べにくさを感じているのだから
食べにくいのはわかる
でも、大丈夫
こうしたら食べやすくなる
という方法を具体的・現実的に探して提案できることが
私たち対人援助職の仕事だと考えています。

そういう私たちがすべき努力をしないで
「食べなさい」
「食べなきゃダメよ」と言うだけだったり
無理矢理食べさせたりするのは
あまりに安易だと思うし
そんなことをしても
単に食べられなくなるのを先延ばししてるだけだし
そんな介助を受け続けていると
誤介助による誤学習によって
どんどん食べられなくなってしまいます。

プラスがないだけなら、まだしも
マイナスになってしまうんです。
そのマイナスのつけをいったい誰が払うのか
次の施設や病院のスタッフとご本人が払うなんて
なんて不合理なんだろうと腹立たしく思うことすらあります。

でも、私がすべき仕事は腹を立てることではなくて
大変でしたね
でも大丈夫
もう一度がんばって
こうしたら食べやすくなりますから
という方法論をみつけて
具体的・現実的に実践して
食べやすくなるように援助すること

認知症のある方が
「あなたの介助では私は食べにくくてイヤ」
と言葉にしないからといって
そう感じていないわけではないのです。
そんな食べにくい介助でも
必死になって食べようと合わせてくれてるんです。
そんな報われない経過のあとですら
もう一度食べやすくなろうと挑戦しているんです。

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ブレてないこと:結果として起こることを求めない

ちょっと待った

結果として起こることの目的化
…って、案外多いんだなぁ
と感じています。

でも、これだって、最初から明確に意識化できていたわけじゃない。
ただ、方向性としては、最初から希求してたんだな
…って、後から思うだけで。

「ありがとう。と言われて嬉しくて」
という気持ちはわからなくはないけれど
それを求めるのは、どうかな?と思っちゃう。

その人が良くなっていく過程を恊働できるのは
とても嬉しい。
人間の能力の凄さの実感というのは
対人援助職として、すごく励まされます。

あ、良くなっていく。というのは、
目標達成に向かって変化している
という意味ですが

ただ、目標達成した時の笑顔が見たくて
とか、そういうのとはちょっと違うんだよなぁ。。。

笑顔で良かった…とは思いますが
笑顔を求めているのか…というと、それはちょっと違う。

もしも、そういう方向に舵を切ったとしたら
それは、すごく怖いことだと考えています。

こういうと
中には反感を感じる人がいるだろうなーというのも
よくわかります。

でも、逆に、そうなんだよ!って
心の中で「ひっそり」と同意してくださる人だって
きっといるだろうとも思っています。

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ブレてないこと:具体的に考える

我慢のしどころ

自分の中でブレてないんだ…と
後から思うことって、いくつかある。

最初は意識していたわけじゃないから
よくわかってはいなかったんだと思う。

でも、方向性としては今と変わらないんだ
…って、今はわかる (^^;

たとえば、具体的に考える。とか。
抽象化されたマジックワードは使わない。とか

QOLの向上って
今は殆ど聞かない言葉だけど
かつて、私が若い時には、よく使われていた言葉だった。

でも、私はそういう言葉を使わなかった。
正確に言うと、使えなかった。かな?

だって、よくわかんないんだもん。

私は本当に恵まれていた
ラッキーだったと思ってるけど
援助と使役について、よくよく考えさせられる機会が多かった。

だから、あんまり「良いことをしよう」とは思わない。
思えない。という方が正確かな。。。(^^;

悪いことをしないで済むように
できうるなら、具体的に現実的に困りごとが減るように。

そういうことを具体的に考えるようにすると
具体的に能力を見られるようになる。

たぶん、良いことをしようと思ってたら
具体的に能力を見られるようには
ならなかったんじゃないかと思ってる。

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(株)geneセミナー「認知症」行ってきました

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昨日、6月19日(日)に
東京の日本印刷会館にて開催された
(株)geneさん主催の
「リハスタッフのための認知症のある方への対応入門
〜評価のすすめ方〜」に行ってきました。

参加されたみなさま、おつかれさまでした。

準備から運営を担当して下さったOさん、ありがとうございました。

認知症のある方の
障害と能力と特性をどう評価していったらよいのか
多くの場合に、明確に言語化された説明はありません。

だから
認知症のある方を目の前にした時に
戸惑ってしまうリハスタッフが多いのではないかと思います。

これは
私からみなさまへのご提案です。

もしよろしかったら
こちらのセミナーもご検討ください。

7月17日(日)
「リハスタッフのための認知症のある方への
評価から対応まで 東京会場」
http://www.gene-llc.jp/seminar_info/?id=1458697576-118908

8月7日(日)
「認知症のある方の食べることへの対応 大阪会場」
http://www.gene-llc.jp/seminar_info/?id=1460074517-340536

実は、この日のセミナーは
私にとって感慨深いものがありました。
昨年、座骨神経痛であんまり身動きできなかった時期に
車いすで伺ってgeneさんのスタッフの方に
ご迷惑もご心配もたくさんおかけしてしまいました。
今日は、車いすを使わずに会場まで来られた。
一日ぶっ通しで立ってお話することもできた。
という体験ができてとっても嬉しかったんです。
途中、演台にもたれかかったり、イスに座ったりはありましたが。
たぶん大丈夫だろうな…とは思っていましたが
本当に大丈夫だった…という体験ができたことが
嬉しかった (^^)

来月はもっとラクに
演台にもたれたりしなくても一日立ってお話できるように
日々のストレッチをガンバリマス (^^)

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情報発信の機会

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日々、いろいろなことは起こるけれど
やっぱり私はすごくラッキーなんだと思う。

今、この時代に生まれて
さまざまな情報発信の機会をいただけている。
そのことにも深く感謝。

かつて、私は本当にもがいて、あがいて、いました。
でも、その時になかなか自分の助けとなるような
情報を得ることができなかった。

言ってることはわかるけど
目の前の方にやってみると、ズレを感じる。

なんか、違う。
いつもそう感じてきました。

結局のところ、遠回りでも
自分なりに勉強と実践を積み重ねるしかなかった。
それは、本当に孤独な過程でもありました。
(今、思えば。。。
でも当時は必死だったから、わからなかった。)

だけど、一番困っているのは
目の前にいる方なんです。

それなりの確かさをもって
根拠とともに、明確に言語化できるようになったからこそ
今もきっとどこかにいる、
かつての私と同じような困難を抱えている人に届けたい。

そういう機会に
私は恵まれています m(_ _)m

こちらの神奈川県の県士会サイト。
POSTさんのサイト
(インタビューと連載記事が掲載されています)
(株)geneさんのセミナー
(今年度は東京・大阪・名古屋で開催予定です)
これらは、誰でもいつでも閲覧・参加できます。

おかげさまで、
その他にもいろいろな職場や団体からお声かけいただき
日頃の実践と今後への提案について
お話する機会をいただいています。

本当にありがたいことです m(_ _)m

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症状を形成することもできない

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「症状を形成することもできない人」
ということを河合隼雄の本で読んだことがあります。

なるほど。。。と思いました。

それって心理面だけじゃないように感じています。

河合隼雄の例とは
ちょっと意味合いが違うとは思いますが。。。

認知症のある方で
お身体が少しずつ弱ってくると
いよいよというところまで
熱も出ないし、目立った症状が出てこない。
「客観的に」数値に現れるようになると
もうかなり具合の悪さが進行してしまっている。。。
そういうケースをたくさん見てきています。

でも
表情とか
活気とか
その人らしさとか

そういうところでは、ちゃんと変化が現れている。

そもそも
「病気」というのは、
「診断」された時から
「病気」になるのだから
逆に言えば
「病気状態」であっても
「診断」されなければ「病気が存在しない」のは
どこにいても、誰でも同じこと。

私は医師ではないので
診断が仕事ではない。
その人の暮らしの援助をするのが仕事だから
「客観的な数値」ではなくて
あ、言うまでもないけど
客観的な数値を軽んじているわけではないですよ。
でも、数値に変化がないからといって
ガシガシ、いろいろなことを提供したり、
食べていただいたり
そんなことはしません。

それだったら、ロボットで十分ですよね?

症状がない。のと
症状を形成することもできない。のとでは
表面的な見た目は同じように見えるかもしれないけれど
その実、状態像は全然違う。

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前の前の記事に関連して

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視点を変えて
あの番組を見てみると
老境を迎えた人間の在りようとも見える。

小笠原先生は
ずっと変わらずに自分を貫き通した。

大谷先生は
現役時代にはできなかった自分を悔いつつも
贖罪の気持ちも込めて「らい予防法廃止」に向けて奔走した。

もう1人は
文化勲章まで受けた。
その時にどんな思いを抱いていたのだろう。

かつての患者さんのご家族が
「死ぬ前にこういうこともあったって
誰かに聞いてもらってスッキリして死にたい」
って語っておられて
苦難の多かったろう人生を思わされた。

文化勲章を受けた人は
死の床にあって何を思ったのだろう。
それすらも抑圧したのだろうか?
その抑圧が贖罪の現れだったのだろうか?
それとも…?

私はもう既に立派なオバさんですが
年をとるって大変なことなんだと思いました。
こんな風にして、過去の自分の在りようと対峙させられるんだ
って、そんなことを感じました。

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