Tag: 評価

食具の工夫:介助

通常は普通のスプーンで介助しますが
場合によっては、全介助でも異なる食具を使うこともあります。

写真上の赤いスプーンのように
幅が狭くて浅いスプーンを使ったり
箸やシリンジで1ccずつ介助したこともあります。

認知症のある方や生活期にある方は
口腔内にちょっとした困難を抱えていることが多く
ちょっとした困難をちょっとした困難のまま
食べられるように維持していくことが大事だと考えています。

ところが、現実には、ちょっとした困難を観察・洞察できず
低栄養・脱水を回避するために結果として
「食べることの援助」ではなく「食べさせる」ことになりがちです。
そこから誤介助誤学習の悪循環に陥ってしまいがちです。

開口しない、ためこむ、抵抗するなど食べようとしなくなった場合に
単にスプーンでなんとか食べさせようと介助をすることは
ネガティブな体験の再認の強化になってしまい
食べることの再学習を阻害してしまいます。

誤介助誤学習の悪循環から抜け出すためには
まず、介助を変えることです。
その一つとして、スプーン、食具を変えます。


シリンジで液体の栄養補助食品を介助したり


液体の栄養補助食品をストローで摂取してもらったり


箸で栄養補助食品のゼリーやソフト食を介助します。

「ラクに食べられた」体験ができるということは
ポジティブな体験の再認の強化にもつながります。

重度の認知症のある方でも再認できる方は非常に多くいます。
ADLは体験を通して再認を促しやすい場面でもあり
特に「食べる」ことは究極の手続記憶ですから
毎回の食事介助が再認の促しの場面になっているとも言えます。

ここで気をつけていただきたいことは
再認はポジティブにもネガティブにもどちらにも働く
ということです。

現状では
善かれと思って
でも知識と技術が伴わない、観察と洞察が不十分な場合に
結果として毎回の食事介助でネガティブな再認の強化をしている
とも言えます。

この悪循環から抜け出すために
「ラクに食べられた」というポジティブな再認を促すために
食環境としての食具を変えます。

対応が適切であれば
そのうちに開口がスムーズになってきますから
その段階で通常のスプーンに切り替えていきます。

介入直後から食べ方の改善を実感できますが
どんな人にでも目に見えてわかるくらいに
食べ方が改善するには1〜2週間かかります。
その後通常の介助に移行できるまでに
もう2週間ほどかかることが多いです。

その間、ご本人が余分な苦労をすることになってしまうので
「予防にまさるものなし」
問題が表面化する前の段階で
(食事介助に困難も負担も感じていない段階から)
適切なスプーン操作
喉頭の完全挙上を必ず視覚的に確認しながら
食事介助してほしいと切に願っています。

「口を開けてくれない」
「ためこんで飲み込んでくれない」
「食べるのを嫌がる」
というのは、結果として表面的に起こっている事象に過ぎません。
ここだけ切り取って「さて、どうしたら?」と考えても答えは出ません。
まずは、それらに反映されている食べ方をきちんと観察することです。

摂食・嚥下5相にそって
食べ方を観察・洞察すれば
目の前にいる方に何が起こっていたのかがわかる。

だから、どうしたら良いのか
どのような食形態・食具・介助方法・場面設定をしたら良いのか
がわかる。

それらは自然と浮かび上がってくるものです。

考えることではないのです。

観察・洞察の結果
必然として導き出されるものなので
明確に浮かび上がってきます。

明確化できない時には考えてはいけません。

何が起こっていたのか、という観察・洞察が曖昧だから
明確化できないのですから
どうしたら良いのか考えるのではなくて
目の前に起こっていることをもう一度観察し直すことに
立ち戻れば良いのです。

 

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概念の明確な理解

認知症のある方の
生活障害やBPSDといった困りごとの改善や
能力と特性の発揮のためには
評価、アセスメント、状態把握ができることが重要です。

評価、アセスメント、状態把握とは
決して、検査やバッテリーをとることではありません。
その時その状況を事実に即して、観察・洞察できることを意味しています。

観察・洞察というと
客観的ではない、科学的ではない、根拠に乏しい
といった批判もあるようですが
批判されるべきは、未熟な観察・洞察であって
観察・洞察そのものではありません。

観察の解像度を上げるためには
知識の習得が必要です。

知識の習得とは
単に知っている。ということではありません。

概念を明確に理解することです。

曖昧な理解しかできないから観察し損ねている人がたくさんいます。
その代表例が、「短期記憶」です。
この言葉、概念の誤認と誤用については
「現場で役立つ認知症研修会ー観察力を磨く」において説明します。

他にも、遂行機能障害、構成障害という
認知症のある方の生活障害に大きく関わっている障害について
言葉は学校で聞いたことはあっても
意味を明確に説明できない人はたくさんいます。

「わかっちゃいるけど言葉にできない」
と言う人もたくさんいますが
本当にわかっていれば明確に言語化できます。

  明確な言語化を突き詰めた先に
  どうしても言葉にできない領域がありますが
  突き詰めてもいない人にはそこまで到達できません。

遂行機能障害や構成障害とは何ぞや
という言葉の意味を言語化できないから観察できないのです。
観察できないから、当然、障害も能力も洞察できない。
結果、検査やバッテリーを活用するのではなく
検査やバッテリーにすがるしかなくなってしまう。。。
そのような人には観察・洞察とはどういうことか見当もつかないことだから、
観察・洞察を批判する。。。
最も大きな瑕疵は、自身が観察し損なっていることの自覚がないことです。

  本当は無自覚に意識下では、気がついていると思う。
  でも自覚してしまうと困るのは自身だから
  困らないように自覚することを回避しているんじゃないかな。。。?

けれど
観察し損なっているという自覚さえ芽生えれば
観察できるようになるチャンスがある
ということでもあります。

答えは常に目の前にあります。

そのためには
概念を明確に理解することが最初の一歩です。

ピンチはチャンス

 

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どうしたら良いのか考えてはいけない

大声や帰宅要求、更衣困難などのBPSDや生活障害に対して
「どうしたら良いのか」考えたり話し合ったりする人は多いけど
そのような在り方が、
的確な評価、アセスメント、状態把握から
ますます遠ざかっていくと感じています。

もちろん、ご家族だけでなく、職員同士も
辛いことや悲しいことを語り合う場は必要だと思います。

でも
「〇〇という状態の方に、どのような対応が良いのか」
ということは、考えたり話し合うことではないと
強く感じ、また考えてもいます。

なぜなら
その時その場にいる人にしか
状態把握できるチャンスはないからです。

BPSDや生活障害に反映されている能力と障害を
的確に観察・洞察することができるのは
その時その場にいる人だけです。

認知症のある方にきちんと向き合ってきたなら
発揮される能力と障害が日によって時間帯によっても異なる
ということを実感する場面にたくさん遭遇しているのではないでしょうか?

能力や障害が異なれば
対応の工夫だって異なるはずです。

その場にいない、状態像を把握できない人が
「こうしてみたら?」
「ああしてみたら?」
と言うことができるということは
普段から、その時その場にいる人が
今、認知症のある方に起こっていることを観察・洞察した上で
即応しているわけではないということを暗に示しています。

Aさんに〇〇してみたら上手くいったから〇〇するのはどう?
Bさんに△△してみたらよかったから△△してみたら?

これでは、表面的なハウツーを当てはめているだけです。

どう対応したら良いのか
答えは、BPSDや生活障害という場面にこそあります。

大切なことは
どうしたら良いのかという
表面的なハウツーを増やしたり考えたりすることではなく
任意の場面での言動に反映されている能力や障害を
的確に観察・洞察できるようになること

観察・洞察ができれば
どうしたら困りごとを改善できるのかという
答えが自然と浮かび上がってきます。

浮かび上がってこない時は
観察・洞察できていないことがどこかにあるということ

  もちろん、能力によっては対応困難なことはあります。
  それは認知症ではなく、他の疾患や障害でも
  できること、できないことがあるのと全く同じです。

何よりも大切なことは
観察の解像度を上げること
だと考えています。

世にグループワークは花盛りです。
認知症の研修会で
「どうしたら良いのか」話合わせるような研修会も散見しますが
そのような場面設定をすることで
話し合いの結果だけではなくて
どうして良いかわからない時→人に聞く、話合う
というメタ認識をも誤認させてしまい
ますます、自身の観察力を磨くこと
そのために知識・概念を明確に認識することから遠ざかり
ますます、観察・洞察ができなくなり
ますます、人に聞いたり、話合うことに注力させ
ますます、今、その時その場に反映されている能力と障害に基づいた対応ができず
結果、「一生懸命やっているのに効果が得られない」
という状態の悪循環になってしまいます。

グループワークで
「悩んでいるのは自分だけじゃないとわかって安心した」
という感想を散見しますが
苦しさ・つらさを分かち合った後こそが大切
そこからどうするか?が問われています。

グループワークにはグループワークの良さがあります。
けれど知識と技術の伝授は然るべき人からきちんと伝授されるべきです。

 

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「現場で本当に役立つ認知症研修会」

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
この1年が皆様にとってますます良い年でありますように。。。

「事実の子たれよ。理論の奴隷たるなかれ。」(内村鑑三)

「書かれた医学は過去の医学である。
 目前に悩む患者の中に明日の医学の教科書の中身がある」(沖中重雄)

この二つの言葉は
私が臨床実践において大切にしている言葉でもあります。

臨床での蓄積をカタチにするために参考書的な立ち位置を目指して
2020年度に立ち上げたサイト
「OT佐藤良枝のDCゼミナール」
2021年度はコツコツと構築してきました。
2022年度はよりわかりやすく伝達するために
オンラインでの勉強会を計画しています。

その一端として
2021年3月9日(水)20:00〜20:40に
「現場で役立つ認知症研修会」をZoomにて開催します。

参加費無料
どなたでも参加できます。

「〇〇という時には△△する」
という表面的にハウツーを当てはめるような臨床思考は
「その人に寄り添ったケア」という理念と相反する在りようです。

理念は唱えているだけでは実現することはできません。

では
「その人に寄り添ったケア」という理念に沿った実践が
できるようになるためにはどうしたら良いのか

「関与しながらの観察」( Harry Stack Sullivan )
の実践によって可能となります。

まずは
認知症のある方に、その時何が起こっているのか
洞察できるようになることから始めます。

洞察できるためには
生活障害やBPSDを含めた表面的な事象に
反映されている能力と障害を観察できるようになることです。

観察できるようになるためには
知識が必要です。

第1回目の今回は
40分という限られた時間の中でも
知っていると役立つけれど、教えてもらえる機会が少ない知識について
 概念を明確化することによって観察することが可能となる
 ということをきちんとお伝えしたいと思います。
実際の現場ではどんな風に現れるのか
観察と洞察の具体例について
お伝えします。

残席わずかとなりました。
お申込をお考えの方はお早めに。

詳細・お申込・お問合せは
https://yoshiemon.info/2021/12/26/study/3565/
からどうぞ。

 

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観察と洞察のチカラを磨く3

観察と洞察のチカラを磨くためには
理論やある特定の方法論に依存してしまうと逆効果になってしまいます。

例えば
私はバリデーションワーカーの資格を取得し
実際の臨床でも実践することはありますが
バリデーションありき。とは考えていません。

バリデーションの創始者のナオミ・フェイル氏が
「バリデーションは万能ではない」と言っていますし
私も逆効果になってしまうこともあり得ると考えています。
(こう言うと、バリデーションを否定した、などと誤解する人がいますが
決して否定はしていません。適否の判断が必要なのです。)

詳細は、作業療法ジャーナルVOL.47 NO.7 2013の
「バリデーションの紹介−体験談を通して」をご参照いただけたらと思います。

バリデーションの適応を考えるためにも
また、バリデーションよりも優先することを実践できるようになるためにも
観察と洞察によって
今、認知症のある方に何が起こっているのか
認知症のある方は状況をどのように感受・認識しているのか
ということを評価・アセスメントできるようになることの方が
最も大事なのに、この部分が不十分なケースが圧倒的に多いと感じています。

以前にある医師に
「認知症には何が良いのか」というテーマで話をしてほしいと言われ
こういう考え方をしている人が多いんだな。。。
きっと回想法、学習療法、音楽療法、〇〇法、etc。。。ということを考えているんだろうな
と感じ、そうではないのだということを
もっと大切なことがあるということを伝えようと構成した講演をしました。
講演後にその医師から
「大変よくわかりました」と言われ、恐縮したものですが
きちんと伝えれば、わかってくれる人はわかってくれるんだと感じたものです。

回想法、学習療法、音楽療法。。。
それらが認知症に効果があるのではなくて
それらに向いている人がいる、あるいは効果的な時期がある
ということを意味しているのであって
認知症全般にエビデンスがあるというわけではないと考えています。

だからこそ
今、目の前にいるAさんに対しては、どのような対応が必要で効果的か
という評価・アセスメント・判断が求められている。

OTを含めたコメディカルの中にも
「塗り絵は、対象認識・色の判断など脳機能を賦活するので認知症に良い」
などと言う人がいますが
考え方としては、逆向きです。

方法論が最初ではない。
対象者が最初です。

「事実の子たれよ。
理論の奴隷たるなかれ。」

この言葉は、内村鑑三の言葉です。
詳細は、このブログにも「事実の子たれよ」という記事を書きましたので
ご参照ください。

〇〇法という理論よりも
認知症に関する知識を習得し
習得した知識を活用した観察ができるようになり
認知症のある方に何が起こっているのかを洞察できるようになることの方が
もっと切実に重要です。

その上で、〇〇法という理論を活用した実践の適否が検討されるものです。

私の講演後の感想で多いのが
「評価してるつもりだったけど、全然だとわかった」
「もっと観察が必要だということがよくわかった」
というものです。

きちんと伝えれば、わかる人は大勢いる。
伝えることの重要性を再確認しています。

一番の基礎である観察が広く深く行えるようになるためには
知識の習得が必要です。
知識というのは、単に聞いたことがあるというレベルではなくて
活用できるくらいに身についているという習得が必要です。

知識を基にした観察は、どのように行うのか
知識に基づかない観察とどのように異なっているのか
実践できている人には、その違いが明確にわかります。

 

 

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検討の順序

認知症のある方の大声や不穏や訴えには必然がある。
(理由や原因ではなくて)

その必然を認知症のある方が語れるように援助するのではなくて
表面的にしなくなるように。という意図のもとに
褒めたり優しくしたり笑わせたりするのは
適切なことなのでしょうか?
すごく失礼なことなのではないでしょうか?

もちろん、その時その場の状況によっては
優先順位というものがあると思いますが
(そして暮らしに密着した場面であればあるほど
暮らしを円滑に回すということが要請されると思いますが)
それは別の話です。

混同して検討するから援助する人も認知症のある方も混乱してしまう。
そうすると悪循環になってしまいます。

いったんは
状況とは別個に
認知症のある方自身の能力と困難と特性とを把握した上で
大声や不穏や訴えというカタチの表現があった状況との相互作用について検討する。

そうすると、
認知症のある方に何が起こっているのか、
どう対応したら
認知症のある方の能力を合理的に発揮する援助ができるか
ということが観えてきます。

状況が要請する優先順位と
認知症のある方の能力発揮との兼ね合いについては
それを終えてから検討すれば整理しやすくなります。

「一生懸命優しくして褒めているのに効果がない」
と困っている人はきっとたくさんいると思います。
(私にしたら、「!」だし、だからなのよと言いたい気持ちもあるけど)

それは
あなたの優しさが足りないわけではないし
褒め方が足りないわけでもない。
検討の方向性と順位と、そもそもの前提が違う方向を向いていた
(向かされていた)だけ

だとしたら、違う前提のもとで、違う検討と対応をすればいいだけ
そうしたら
同じ認知症のある方なのに、今までとは全然違う現実が観えてくる
それは信頼をベースにした現実

安易な道ではないから
今までとは別の苦しさ辛さもあるけど
選んだ人には、今までの方法論との違いが明確に認識できるようになる

 

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実習で思い知ったこと

もう何十年も前のことですけれど
私も実習に励む学生でした。

実習で学んだことは数あれど
思い知らされたことは、責任の重さでした。

対象者の方を評価する

今は指導者がいて
教えてくれる、フォローしてくれる、間違いを正してくれるけれど
いずれは(そう遠くないうちに)こんな私が自分一人で
対象者の方を評価してその評価に則って治療をしなくてはいけない
その責任の重さにとても怖くなりました。

だからこそ、学ばねば。
自分の不出来のせいで対象者の方に不利益があってはいけない。

本当に必死でした。。。
「OTとはなんぞや?」なんて考える暇もない。

自分が納得できる、本当に効果のある考え方とそれに基づいた方法論を
自分の中で整理して言語化できるようになったのは、もっとずっと後のこと。

皮肉なもので
「OTとはなんぞや?」なんて考えたこともない私が
今では「OTとは何か」を明確に言葉にできるようになりました。

ま、当たり前といえば当たり前ですよね。
だって私はOTとして養成され仕事をしてきたわけで
それ以外の何者にもなれなかったのだと
今はわかります(^^;

卒業してからしばらくは
よくわかりもしない、出来もしないくせに
とりあえずはその場を取り繕うようなことしかできなかったし言えなかったし
そういった自分を心底情けなく思っていたし
色々な本を読み、研修に出かけ、でも自分にとっての手応えがなくて
本当に辛い時期が続きました。

自分の求めていることと違うということはわかるけど
どうしたら良いかがわからない。。。

でも、そこで諦めなくて本当に良かったと思っています。

諦めていたら
事実を事実として認識できず
自分が困らないように、事実を事実のままに認識できる人を否定するようになっていたと思う。

対象者の方に対しても
周囲の人に対しても
自分自身に対しても
誠実では在り得なかったと思う。

心の片隅で、葛藤を覚えていても知らぬふりをして
日々の安寧を優先していたと思う。

対象者の方に信頼されなくても
対象者の方を信頼することができなくても
そんな自分で平気なふりをするしかなくても
何にも感じないように不安や葛藤を抑圧していたと思う。

うわー今こうやって書いていても本当にイヤ!
そんな自分にならなくて、本当に良かった。。。

長くて遠い回り道でしたけれど
時間もかかったけれど、
私にとっては意味のあることで必然だったと思うし
無駄になんてなっていないと思ってはいるけれど
これからの未来を担う人たちに同じ苦労はしてほしくない。
その分の時間とエネルギーをより建設的な方向で使ってほしいと願っています。

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原因と結果

原因と思っていたことが
実は、結果だったということも起こり得ます。

盲信してしまうのは本当に怖いと感じています。

正常より低下しているような状態を目の前にすると
どうしても、その低下が原因と判断してしまいがちですが
実は、結果だったということも起こり得ます。

例えば
食事場面において
喉頭挙上の動きが悪いという事実があったとして
その事実をどれだけ科学的に客観視できるように
テクノロジーが進歩するのはとても良いことだと思います。

けれど
「喉頭挙上の動きが悪い」という事実があるということと
「喉頭挙上の動きが悪い『から』上手に食べられない」という『原因』とは別の話であって
『事実』と『原因』と混同してはいけないと考えています。

もしかしたら
その『事実』は他の何らかの理由や必然があって『結果』として起こっているのかもしれません。

今まで視覚化できなかった『事実』を明確化できるようになったからといって
そして、その『事実』が通常とは異なるからといって
目の前の困難が『事実』によって引き起こされているとは限らない

他の理由や必然があって
『結果』として起こっている『事実』なのかもしれません。

その判断は私たち人間にしか、できない。

認知症のある方や生活期の方の食事介助においては顕著です。

不適切なスプーン操作を続けていると
認知症のある方が本来持っている準備期の能力低下をきたしてしまうので
結果として口腔期が乱れてしまい
次に咽頭期が低下してしまいます。

ところが、
適切なスプーン操作を続けると
認知症のある方が本来持っている準備期の能力発揮を促すので
口腔期の能力が戻り
咽頭期まで戻ってくる
ということも現実に起こっています。

認知症のある方の咽頭期の能力低下という『事実』は
『原因』と思われていたけれど
実は、不適切なスプーン操作の『結果』だった
ということが現実に起こっているのです。

だからこそ、変えられることもある。

そして
同じコトが食事介助以外の場面でも違うカタチで起こっている。

科学技術の進歩によって
今まで知ることができなかったことを平等に誰もが認識できるようになるのは
素晴らしいことだと思う。

でも
事実と原因と結果とは違う

原因と思われていたことが
実は結果だったということも起こり得る。

思考回路が因果関係論的なICIDHに染まっていると
どうしても新事実発見→原因発見→原因改善のように考えてしまいがちだけれども
相互関係論的なICFの思考回路を習得することによって
新たな知見を過大評価も過小評価もせずに
事実を事実として組み込んだ現状認識、評価、アセスメントに結びつくのだと考えています。

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